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神楽坂ぶらり散歩(1984年)

文学と神楽坂

 昭和59年(1984年)「東京みてあるき地図」(昭文社)のうち神楽坂です。昭和59年には、三浦和義のロス疑惑事件があり、アニメ映画「風の谷のナウシカ」が公開。国は新紙幣を発行して、1万円札が福澤諭吉、5千円札が新渡戸稲造、千円札が夏目漱石でした。

 神楽坂ぶらり散歩 

 国電飯田橋の神楽坂口を出ると、直線の坂が一本外堀通りをよぎってはるか彼方へとのびている。これが有名な神楽坂。坂下の右手にはカレーショップのボナ、あんみつのうまい紀の善がある。もう少し坂をのぽれば左手にうなぎの志満金、せんべいの福田家神楽家、右側にはパブのハッピージャック、純喫茶のクラウン、民芸陶器を売っている陶柿園などがつづく。ジョンブルは50種のコーヒーをお好みによって出す本格派で、2000円也のコーヒーもある。その上の酒亭万平はおでんやすき焼、荼めしなどがうまい。向いにはハンドバッグや財布を売っている助六なんていうシックな名の店もある。神楽坂はこのあたりが最高所で、あとは平坦だ。
 丸岡陶苑、水羊羹やくず桜のうまいしおをすぎると左手にようやく山手七福神の一つ毘沙門さまが見えてくる。本堂の下は毘沙門ホールで、ここで毎月五の日に毘沙門寄席がひらかれる。金馬いななく会だとか創作落語会などがあり、若手落語家がごきげんをうかがう。お堂に一礼してふと背後を見ればそこもまた毘沙門せんべいという店。その右わきの跡地に伊勢とうという通には知られた酒亭がある。繩ノレンをくぐると囲炉裏に自在カギから鉄瓶が下がっていて、すべてがシック調。石盤の跡地を先へ行くとよし川、幸本、和可菜といった料亭がつづく。粋な黒塀みこしの松とはこのことで、戦前の料亭街の面影をよく残している。
 毘沙門天よこの田原屋は明治の中頃からある菓物屋兼西洋料理の老舗で、島村抱月や夏目漱石、永井荷風ら多くの文人が訪れている。その前は嘉永5年(1852)創業という茶屋の大佐和、その先の神楽坂六丁目八の大〆は宮内庁御用の由緒ある店で、凝った大阪寿川を出す。洋風の落着いた店構えでクラシック音楽が流れてくるという異色篇。そしてこ。色だんごのうまい五十鈴、焼鳥の鮒忠、うなぎの大和田を過ぎると、神楽坂の色彩も次第にうすれていく。

1980年の住宅地図。

ボナ 紀の善 神楽坂一丁目です。ボナは現在は「カレーショップ ボナッ」
志満金 神楽坂二丁目です。
福田家 増田屋と書いてありますが、ほかの年度は福田家になっています。神楽坂二丁目。現在はおそらくボルタ神楽坂の1つになりました。
神楽家 ハッピージャック 神楽坂二丁目です。現在の神楽家はボルタ神楽坂に、ハッピージャックは第2カグラヒルズになりました。
 陶柿園 神楽坂二丁目です。以前は別々の家でしたが、その後、坂は陶柿園に吸収されます。
クラウン 店舗の位置は不明。
ジョンブル 万平 助六 丸岡陶苑 塩瀬 神楽坂三丁目です。ジョンブルは貝殻荘に、万平はクレール神楽坂に、塩瀬はドラッグストアスマイルになりました。
毘沙門寄席 神楽坂五丁目です。
毘沙門せんべい 福屋不動産と同じ場所です。神楽坂4丁目。
伊勢藤 神楽坂4丁目。
田原屋 神楽坂5丁目。現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」。
大佐和 現在は楽山と名前が変わっています。神楽坂4丁目。
大〆 おおじめ。神楽坂6丁目。2017年7月に閉店。蕎麦の「かね田 宝庵」が開店。
五十鈴 鮒忠 大和田 神楽坂5丁目。大和田はなくなり、薬の「セイジョー」になりました。

1984年の住宅地図。

神楽坂の今昔1|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
 なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 舗装のはしり
 大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。
 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物佐和屋あたりに、昔は段があった。
 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。

東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗かこう岩や花崗閃緑せんりょく岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾りひもなど

 ◆ 残っている老舗
 久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。
 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。
 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金夏目写真館戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。

とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。

◆ 消えたなつかしい店
 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。
 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。
 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。
 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。
 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。
白十字  神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では

◇白十字――白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。

 1つは坂の上り口で、1つは毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。

三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。

私の東京地図|佐多稲子④

文学と神楽坂

 牛込見附の方へ降りかけの、助六という下駄屋で、姉妹が買物をしているのを見たことがある。お師匠さんが鼻緒を手にとっては、自分よりも背の高い君子に顔を仰向けてそれを見せ、また番頭に何か言い言いしている。君子はさすがに若い番頭の前なので、身体つきを甘ったれた風に(たな)にもたせかけていた。姉の背が(こぶ)を背負って自分よりも低いことなど意に介していない。不具の姉は、傍若無人に妹を甘えさせ、何かの喜びを感じている。

 坂の中途には、神楽坂倶楽部(くらぶ)などという貸席もあった。そのすぐ上てに、牛込会館という、あとでは白木屋が店を出した洋風の大きな建物があったが、ここで水谷八重子が翻訳劇をやったのもその頃である。「殴られる彼奴」の道化師には汐見洋(しおみよう)が、眼も埋まるほどまっ白に塗って、鼻の先と頬をまっ赤に紅で染めてピエロの服をきていた。八重子は獅子(しし)つかいの、傲慢(ごうまん)な娘に、そして東屋(あずまや)三郎座頭(ざがしら)で、派手な(しま)の服に長靴か何か履いていた。
 喫茶店の山本では、ドウナツが安くてうまい。今まで下町ばかりに住んでいた私は、山本で一杯のコーヒーをのむことに、幾分の文化の雰囲気を感じた。芳子は相変らずどこか冷めたく、上っつらな冗談ばかり言っている。屋敷町から神楽坂へ出るひっそりした坂道で朝毎に()う男が、喜劇俳優のバスター・キートンに似ているなどと言って、その男が曲り角から現われるのを見つけると、
「おッ、バスター・キートン!」
 と囁いて、言った自分はつんと澄ましている。
 その春、見合いをして決まった縁談に、私か(かた)づいていったのはこの杵屋与志次の家の、間借りの部屋からであった。次の年の正月に、私が夫の家を出て行方を知らせなかった時、この家へも搜索人が廻った。

姉妹 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性、妹は君子さん。
お師匠さん 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性
君子 妹の君子さん
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷やそれをする家。
芳子 丸善で同僚で、同じ杵屋与志次の家に間借りをしている女性。
バスター・キートン Buster Keaton。生年は1896年。没年は1966年。無声映画の米国の人気俳優。
杵屋与志次 長唄三味線のお師匠さん。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
次の年の正月 大正13(1924)年末、佐多稲子氏は家出し、正月あけに帰りました。

3丁目南側最東部

助六と龍公亭
3丁目南側最東部の歴史です。赤い色で書きました。この図の左側は北西部の坂上で、見番横丁に入っていく横丁があります。右側は南東部で坂下に行く中腹までを書いています。無名の坂が見えますが、反対側には名前もちゃんとついた「神楽坂仲通り」が見えます。この赤い部分を大正元年から現在まで見ていきます。
1912
では、この上の地図を見ましょう。大正元年で、羽生写真館がありました。今ではこの写真館はなく、いつ消えたのかわかりません。ここに助六と龍公亭もあったはずです。飯田公子氏の本『神楽坂龍公亭物語り』によれば龍公亭は明治31年に創業し、助六は明治43年に創業したので、店舗はあるはずですが、この地図には書いていません。(地図は東京市区調査会『東京市及接続郡地籍台帳』と『東京市及接続郡地籍地図』大正元年から)

次は大正7年です。地図は飯田公子氏の本『神楽坂龍公亭物語り』から取った「大正6年の神楽坂地図」です

P
実はこの上の地図は逆さまにしていますので、コンピュータで文字を反対側に変えてしまっています。(ごめんなさい)。当然、羽生写真館はなくなっています。「あやめ寿司」はのちの龍公亭です。田原屋果物店は有名な5丁目の田原屋の弟がやっていました。あと、越前屋はなにをやっていたのでしょうか、わかりません。

次は大正11年ごろの、関東大震災が始まる直前です。印屋はなくなりました。竹村アメヤは「菓子屋」になっています。山田レストランは「カフェー山田」に変わりました。あとは変わりません。(新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)から)

1927
次は昭和5年頃です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」からで、上半分が昭和5年頃です。下半分は1996年の地図です。一番左の越前屋は榎本文具店に変わっています。また「菓子屋」は天壽堂飴店になっています。カフェ山田は同じ場所で変化はなく、河合洋品屋は山本茶店に変わりました。あやめ寿司は龍公亭飯店に変わりました。しかし、経営陣は同じです。住吉メリンスも「呉服・住吉屋」と同じでしょう。山本漬物店は「山本骨董店」になりました。これも同じ山本になっているので、同じ経営陣なのでしょう。
1930&19961937年(昭和12年)では最後の戦前の地図です。ビヤホールは「カフェ山田」でしょう。スシヤはあやめ寿司を指しています。その右手の無名の店は助六です。田原屋果物店が続き、「山本骨董店」ではなく「丸山薬局」になっています。(都市製図社の『火災保険特殊地図』昭和12年)

1937

1952年(昭和27年)は戦後になります。榎本文具店は「金井敏雄」になり、飴店は岡田印章にかわりました。これは6番地です。一方、5番地では助六が左に、龍公亭は右に変わっています。また「田原屋」はなくなり、ヒデパーマにかわっています。4番地は山本薬局になっています。上の「丸山薬局」はやはり間違いで山本薬局のままの方が考えやすいと思います。(都市製図社の『火災保険特殊地図』昭和27年)
1952

1960年頃、『神楽坂まちの手帖』第12号の「神楽坂30年代地図」です。左は「花菱」で、初めてのフランス料理がでてきました。岡田印章は岡田印房にかわりました。助六と龍公亭が続き、蘇家成に変わっています。ヒデ・パーマと山本でおしまいです。
1960年CCF20130523_00096

同じ1960年の地図を出しておきます。すこしあとにでたのでしょうか、蘇家成は空き家になりました。(住宅地図は新宿区西部[1960]住宅協会から。国立国会図書館で調べています)1960年
1962年は全く変わっていません。(住宅地図は新宿区西部[1962]住宅協会)
1962年
下の1970年は国立図書館のコピーが悪く読めない場所もありますが、空想力を使って「西洋料理花菱」「岡田印房」「はきもの助六」「龍公亭飯店」「コーヒー5番」「ヒデ美容室」「山本薬局」と変わっているはずです。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区西部[1962]住宅協会 新宿区1970年度版 渋谷逸雄」から)
1970年1980年は「ハナビシ」「岡田印房」「助六 3F」「龍公亭」「五条ビル 5F」「ヒデ美容室」「山本薬局」です。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区1980年度版 日本住宅地図出版」)

1980
1985年は下の地図で「(名前はわからず)」、「岡田印房」、「助六」、「龍公亭」、おそらく「五条ビル」の「B1コーヒーハウス」、「ヒデ美容室」、「山本薬局」です。(神楽坂青年会の『神楽坂まっぷ』(1985)から)
1985

1990年は「神田印刷仮営業所」「岡田印房」「助六」「龍公亭飯店」「五条ビル」「ヒデ美容室」「山本薬局」です。「五条ビル」は大きくなって平面的にヒデ美容室のほぼ1.5ぐらいは大きくなっています。(住宅地図は国立国会図書館の「新宿区1990 ゼンリン」から)

1990

1996年は上から4番目の地図と同じ地図です。上は昭和5年頃、下は1996年の地図です。「携帯電話専門店HIT SHOP」「岡田印房」「助六履物」「龍公亭飯店」「タゴール」「ヒデ美容室」「芳進堂3丁目店」があります。1930&1996

2001年は「HITショップ神楽坂店」「岡田印房」「助六」「龍公亭飯店」「五条ビル」「ヒデ美容室」「神楽坂山本ビル」です。(住宅地図はGrand Map グランマップ Version 1.01という地図のプログラムから取りました)

2000

2010年は「ルーシー飯田」「岡田印房」「助六」「龍公亭ビル」「神楽坂センタービル」「神楽坂山本ビル」で、ヒデ美容室がなくなり、五条ビルと合わせて「神楽坂センタービル」に変わりました。(住宅地図は「新宿区201010 ゼンリン」)

2010

2015年は「ルーヒーローゼ」。次は名前を調べると「TheRoom」でした。「助六」「龍公亭」「神楽坂センタービル」「神楽坂山本ビル」に変わりました。「TheRoom」が一番新しく2013年10月にできました。これも縦たっだ文字を勝手に横に変えています(地図は神楽坂通り商店会編の『神楽坂マップ』)

2015

ほとんどは大きなビルに代わっていますが、小さな店もあります。つまり、大企業やビルのオーナーと、小さな店舗です。本当は、小さな店舗も大企業並に変えたいと思っているのでしょうね。あるいは、顔が見える店舗と、顔を見せない企業とに分けることもできます。顔が見える店舗がある間は、みんなの街、庶民の町なのです。

盛り場文壇盛衰記|川崎備寛

文学と神楽坂

 川崎備寛氏が書いた「盛り場文壇盛衰記」(小説新潮。1957年、11巻9号)です。「山の手の銀座」は関東大震災から2、3年の間、神楽坂を指して使いました。神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりとを書いています。

 たしか漱石の「坊つちやん」の中に、毘沙門さまの縁日に金魚を釣る話がでていたとおもうが、後半ぼくが神樂坂に下宿するようになつた頃でも毘沙門天の縁日は神樂坂の風物詩として残つていて、その日になるとあちらの横町、こちらの路地から、藝者たちが着飾つた姿でお詣りに来たものである。その毘沙門天と花柳街とを中心とした商店街、それが盛り場としての神樂坂だつたのだが、山ノ手ローカル・カラーというのであろうか、何となく「近代」とは縁遠い一郭を成している感じで、表通りはもちろんのこと、横町にはいってもどことなく明治時代からの匂いが漂つているようであつた。銀座のような派手な色彩や、刺戟的な空氣はどこにも見られなかつた。

 と一歩遅れた神楽坂の光景が出てきます。神楽坂が「山の手の銀座」になるのは、まだまだ先のことです。

坊っちゃん 夏目漱石の小説。 1906年『ホトトギス』に発表。歯切れのよい文体とわかりやすい筋立て。現在でも多くの読者がいます。
毘沙門 善国(ぜんこく)()は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
風物詩 その季節の感じをよく表しているもの
藝者 宴席に招かれ、歌や踊りで客をもてなす者
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
盛り場 人が寄り集まるにぎやかな場所。繁華街<
山ノ手 市街地のうち高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西のこと。四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりです。
ローカル・カラー その地方に特有の言語・人情・風習・自然など。地方色。郷土色
一郭 同じものがまとまっている地域

 ところが、少し大袈裟だがこの街に突如として新しい文化的な空気が(誇張的にいえば)押し寄せるという事件がおこつた。それは大正十二年の関東大震災だつた。銀座が焼けたので、いわゆる文化人がどつとこの街に集まつて來たからである。文壇的にいえば震災前までは、神樂坂の住人といえばわずかに袋町都館という下宿に宇野浩二氏がおり、赤城神社の裏に三上於莵吉氏が長谷川時雨さんと一戸をもつているほかは、神樂館という下宿に廣津和郎氏や片岡鐡兵氏などがいた程度だつたが、震災を契機に、それまでは銀座を唯一の散歩または憩いの場所としていた常連は一時に神樂坂へ河岸を替えることになつたのだ。しかし何といつても銀座に比べると神樂坂は地域が狭い。だから表通りを散歩していると、きつと誰か彼かに出会う。立話しているとそこへまた誰かが來合わせて一緒にお茶でものむか一杯やろうということになる。そんなことはしよつちゆうあつた。郊外に住んでいるものも、午後から夕方にかけて足がしぜんと神樂坂に向くといつた工合で、言って見れば神樂坂はにわかに銀座の文化をすっかり奪つたかたちだつたのだ。

 つまり「山の手の銀座」はここででてくるのです。「山の手の銀座」は関東大震災の直後に生まれたのですが、繁栄の中心地は2~3年後には新宿になっていきます。

三上於莵吉 『区内に在住した文学者たち』では、大正8年に赤城下町4。大正8年~大正10年は矢来町3山里21号。大正12年は中町24。昭和2年~昭和6年3月は市谷左内町31です。下の図では一番上の赤い図は赤城下町4、左の巨大な赤い場所は矢来町3番地字山里、一番下の赤が中町24です。

赤城下町

関東大震災 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模(さがみ)湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。
銀座 東京都中央区の地名。京橋の南から新橋の北に至る中央通りの東西に沿う地域で、日本を代表する繁華街
文化人 文化的教養を身につけている人
袋町 行き止まりで通り抜けできない町。昔はそうだが、今では通り抜けできる。
都館 みやこかん。宇野浩二氏が大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「都館」から撤去し、上野桜木町に家を、本郷区菊坂町に仕事場を設けました。いつ「神楽館」から「都館」に変わったのは不明です。関東大震災になったときに宇野浩二氏はこの辺りにはいませんでした。
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。上野国赤城山の赤城神社の分霊を早稲田弦巻町の森中に勧請、寛正元年(1461)牛込へ遷座。「赤城大明神」として総鎮守。昭和二十年四月の大空襲により焼失。
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。転じて飲食や遊びをする場所<

 もっと話を聞きたい。残念ながらこれ以上は神楽坂は出てきません。話は宇野浩二氏になっていきます。ここであとは簡単に。

 ぼくは震災前は鎌倉に住んでいたが、その頃でも一週間に一度や二度は上京していた。葛西善藏氏は建長寺にいたので、葛西氏に誘われて上京したり、自分の用事で上京したりした。葛西氏の上京はたいてい原稿ができたときか、または前借の用事のことだつたようだ。そういう上京のあるとき、葛西氏が用事をすました後、宇野浩二氏を訪問しようというので、ぼくがついて行つたことがある。それは前に書いた袋町の都館である。宇野氏はその頃すでに處女作「藏の中」以後「苦の世界」など一連の作品で文壇的に押しも押されもせぬ流行作家になつていたので、畏敬に似た氣持をもつて訪ねたのは言うまでもなかつた。行つて見ると、ありふれた古い安普請の下宿で、宇野氏の部屋は二階の隅つこにあつたが、六疉の典型的な下宿の一室であるに過ぎず、これが一代の流行作家の住居であるかと一種の感慨に打たれたことであつた。しかもその部屋には机もなく、たしか座蒲團もなくて、ただ壁の隅つこに一梃の三味線が立てかけてあるだけであつた。葛西氏はそれでもなんら奇異の念ももたないらしく暫らくのあいだ二人でポソポソと話をしていたが、傍で聞いていたとこでは、何でもその日は宇野氏の新夫人が長野縣から到着する日だとかで、新夫人というのは宇野氏の小説に夢子という名前で出ている諏訪の人だということを、後で葛西氏から聞いたが、そのとき見た一梃の三味線が、いまでもはっきりとぼくの印象に残つている。

建長寺 鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。葛西氏は大正8年から4年間塔頭宝珠院の庫裏の一室に寄宿し、『おせい』などの代表作を書きました。
安普請 あまり金をかけずに家を建てること。そうして建てた上等でない家。
新夫人 大正9(1920)年、芸者である小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて宇野浩二氏と結婚しました。
夢子 大正8(1919)年、上諏訪で知り合った田舎芸者の原とみを指しています。無口で小さい声で唄を歌い、幽霊のようにすっと帰っていきました。夢子と新夫人とは違った人です。

 後は省略し、最後の結末を書いておきます。

 いずれにしても、すべては遠い昔の想い出として今に残る。『不同調』の廢刊と前後して、廣津氏の藝術社も解散していたが、廣津氏は武者小路全集の負債だけを背負つて間もなく大森に移つて行つた。もうその頃は佐佐木茂索氏もふさ子さんとの結婚生活にはいって矢来から上野の音樂學校の裏のあたりに新居を構えていたし、都館のぬしのように思われていた宇野浩二氏も、とうの昔に神樂坂から足を洗って上野櫻木町の家に引越してしまつていた。有り觸れた言葉でいえば「一人去り、二人去り」したのである。こうして神樂坂は再び、明治以来の神樂坂にかえつたのであつたが、それが今回の戦災で跡方も無くなろうとは、その當時誰が豫想し得たであろうか。
 先日ほくは久しぶりに神樂坂をとおつてみたが、田原屋は僅かに街の果物やとして残り、足袋の「みのや」、下駄の「助六」、「龜井鮓」、おしるこの「紀の善」、尾澤藥局、またぼくたちがよく原稿用紙を買った相馬屋山田屋など懷しい老舗が、今もなお神樂坂の土地にしがみついて、飽くまで「現代」のケバケバしい騷音に抵抗しているのを見たのである。
(了)
田原屋など

昔からの店舗が出ています。一応その地図です。赤い場所です。クリックすると大きくなりますが、あまり大きくはなりません。右からは山田屋、紀の善、亀井(すし)、助六、尾沢薬局、田原屋、相馬屋、みのやです。地図は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)です。

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不同調 大正14年7月に創刊。新潮社系の文学雑誌で、「文藝春秋」に対抗しました。中村武羅夫、尾崎士郎、岡田三郎、間宮茂輔、青野季吉、嘉村磯多、井伏鱒二らが参加。嘉村の出世作『業苦』や、間宮の『坂の上』などが掲載。昭和4年終刊。
藝術社 1923年(大正12年)32歳。広津和郎氏は上村益郎らと出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版。しかし極端に凝った造本で採算が合わなくなり、また上村益郎は使い込みをして大穴を開け、出版は失敗。借金を抱えましたが、円本ブームの波に乗り、無事返済。
武者小路全集 武者小路実篤全集は第1-12巻 (1923年、大正十二年)で、箱入天金革装、装丁は岸田劉生、刊行の奥付には「非売品」で予約会員制出版でした。
戦災 戦争による災害。第2次世界大戦の後です。

文学と神楽坂

伝統の店々|昭和30年(2/4)

文学と神楽坂

伝統の店々(昭和30年)で、まず助六、丸岡、塩瀬、柏屋、サムライ堂です。

その向いは履物の助六、その名のごとく江戸趣味豊かな粋な履物で有名な店である。大正三年創業で昔の不粋なさつま下駄を改め歯を薄く背を低くした粋な下駄を創案して履物界に大いなる改革を与え、花柳界は勿論、高松宮山階宮の愛顧をうけ、また吉右衛門玉堂菊池寛等と文士著名人の愛用も多かつたといわれている。

さつま下駄 薩摩(さつま)下駄(げた)。駒下駄に似た形で、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多く杉材で作る。ちなみに、(こま)下駄(げた)は台も歯も1枚の板からくりぬいて作ったもの。雨天だけではなく晴天にも履ける。17世紀末期に登場し、広く男女の平装として用いられた。明治以前におけるもっとも一般的な下駄。日和(ひより)下駄(げた)は歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。雨天にも爪皮(つまかわ)をつけて用いる。
高松宮 かつて存在した日本の皇室の宮家。1913年(大正2年)7月6日創設。
山階宮 山階(やましなの)(みや)。江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、(あきら)親王が創設した宮家。なお、山階芳麿氏は山階鳥類研究所を創設し所長に
吉右衛門 中村(なかむら)吉右衛門(きちえもん)。初代。生まれは1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。若宮町31~2番地に住みました。若宮会と若宮町自治会が書いた『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)です。吉右衛門と川合玉堂が道を接して住んでいました。なお、新坂はここで若宮町

頼戸物の丸岡は、創業六十年、三代目。和菓子の塩瀬は、明治四十四年塩頼総本家の神楽坂支店としてこの地にできたものである。呉服の柏屋の主人山浦岩男氏は神楽坂振興会々長として、戦後の神楽坂振興のために多大の尽力貢献をした人で神楽坂一丁目から六丁目までの統合から軍用道路徹回や車留制夜店の復活請願等老齢にもかかわらず昔の神楽坂の繁栄を呼びもどさんと積極果敢な活躍をつづけている。向いの洋品のサムライ堂は明治四十年創業で、今三代目「御値切お断り申上候」の正札主義で看板に偽りなし、武士道精神を商道に生かすものとして当時は乃木大将お気に入りの洋品店で、良品堅実な店という評判が高い。

3丁目1

丸岡 丸岡陶苑。創業明治24~25年。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」と書いてあります。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」

丸岡

塩瀬 雑誌『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では塩瀬
「築地の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎やおかきのような庶民的なものもおいしかった」
久保たかし氏の『坂・神楽坂』(平成2年)では
「和菓子の老舗「塩瀬」がつい最近まであったが、今は無い」
柏屋 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第5号「本多横丁」によれば創業は大正7(1918)年。振袖、訪問着、染帯、染額の作品を展示。現在は「芸者新路」にありますが、『ここは牛込、神楽坂』第5号の平成7(1995)年には、本多横丁に。さらに昔の昭和30年には「向いの洋品のサムライ堂」となっています。つまり、この時代、柏屋とサムライ堂とは神楽坂通りの対面になっていたのです。サムライ堂の対面は生花なので、生花かその右手の土地を借りて柏屋を開いていたのでしょう。
軍用道路 軍隊の移動,補給など軍事上の目的によりつくられた道路。戦略的には国防道路で、平時の軍隊の高速移動、補給、軍事施設への通行のため、直線、立体交差を原則としました。形、幅、勾配、カーブ、路面、路床を、機械化部隊の連続移動に耐えうるよう頑強につくります。日本にも第二次大戦前は軍港や要塞への軍用道路がありました。しかし、神楽坂通りは戦後の進駐軍の専用道路でした。
『まちの想い出をたどって』第4集の岡崎公一氏は「神楽坂の夜店」を書き

 戦後は、神楽坂に闇市が出なかった。それは、神楽坂下のたもとに神楽坂瞥察署があり、また神楽坂の通りが進駐軍の専用道路(立川方面)となったためでもある。ただ、昭和二十四年十月十五日発行の露店商の縁日暦(非売品)によれば、神社、佛閣の境内などに縁日が出ていた。神楽坂でも、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社などにも毎月、日によって出ていた。
 神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私が振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家があり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一家)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた
車留制夜店 くるまどめ。車を禁止し、夜店を出すこと。
サムライ堂

野口冨士男氏の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では

 洋品店のサムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

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また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『サムライ堂』の創業は明治年間(岩動景爾『東京風物名物誌』によると明治四〇年)、創業者は伊賀上野出身の英二郎氏である。はじめは神楽坂の検番近くで娘二人とともに西洋料理店を営業していたが、その後当地に唐物(輸入品)を扱う店を開いた。そのころ乃木希典が当店の軍足を愛用し、店名を『サムライ堂』と命名したと伝えられる。
 店で扱った商品は、シルクハツト・麦わら帽子・パナマ帽・カンカン帽などの他、ステッキやゴルフ用のニッカボッカなどであった。…下着も上等品を置き、ラクダの上下などにはサムライ堂で独自に作ったタグを付けて売っていた。…
 関東大震災の直後、朝方に店を開けると下着やシャツを求める人々が並んで待っていた。店には在庫が沢山あったので、仕入れに困るということもなく、このような需要にも応えることができた。
 サムライ堂の看板は青銅製で、馬に乗った武士を描いていた。戦時下に金属を供出することになり、これを出版クラブの所まで運んで行った。…
 四代目の店主が平成三年に亡くなり洋品店は閉店したが、五代目の当主が平成九年にインポートショップ「woods」を開店した。

これは平成10年の「ゼンリン住宅地図」ではサムライ堂ビルになります。これは、2014年か15年に建て替えし、現在、このビルにはWorld Wine Barなどがはいっています。

神楽坂|助六

文学と神楽坂

助六は履物の店です。明治40年(1907年)、場所はここ。履物博覧会で1等賞を取り、創業は明治43年(1910年)。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第1号で『お店の履歴書 履物の老舗「助六」さん』では

 先代である今は亡き父上の要氏は、若い頃、横山町の下駄屋さんで働いていた。でもその界隈で商売するだけでは埒があかないと、東京中の花柳界を回るように。
「それまでの駒下駄はもっと歯が厚かったんです。でもそれじゃ花柳界では不粋だからって、親父は歯を薄くして。いまのような駒下駄にしたわけです」
 先代が考案した小粋な下駄が世に広まる契機となったのが、明治四十年、東京で開かれた履物博覧会だった。
「ええ、いいあんばいに一等賞をいただいて」

助六
また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『助六』の創業は明治四三年、創業者は石井要氏である……
 当店は創業の頃から傘と下駄を扱ってきた。出来合いの傘だけではなく、注文に応じた品も作らせていた。下駄のサイズは一つしかなく、鼻緒のすげ方で二一cmから二五cmまで対応する。鼻緒をお客さんの足に合うように挿げるのは一番大切な仕事で、足を見ただけで文数がわかるようにならなければだめだ、と言われた。顧客のなかには与謝野晶子宮城道雄菊地寛西条八十川合玉堂などもいて、自宅に注文をとりに行き納品することもあった……
 草履にはふつう畳表をはるが、要氏が皮張りの草履を考案した。昭和の初め頃には、様々な色を使ったエナメルの草履なども作っていた。その頃、有楽町宝塚劇場のサロンのウィンドウに商品の見本を出せることになり、それを見て買いに来るお客さんが増えたこともある。また昭和二九年から昭和五六年頃まで、新宿伊勢丹の「さつき会」という催事(母の日を含む1ヵ月間)の際に出店していた。デパートの売り場の中でとてもよい場所とされる一階に店を出し、実際にたいへんよく売れた。
 花柳界が近く、また一般のお客さんも多いため、現在の店には様々な好みに合わせられる珍しい希少商品や、オリジナル商品を置いている。

神楽坂3丁目に戻る場合
神楽坂の通りと坂に戻る場合は

神楽坂 長~い3丁目

文学と神楽坂

 昔は神楽坂は坂ではなく、階段でしたが、明治初期になくなりました。明治20年、神楽()三丁目はここ

 現在、3丁目は菱屋龍公亭助六丸岡陶苑ヤマダヤ椿屋五十番(五十番は2016年から4丁目になりました)などがあります。

 2丁目から3丁目に入った場所で、神楽坂通りの上を向いて右側の歩道で、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。

 また、昔の木村屋(今は上島珈琲店)、二葉神楽坂演芸場があったところです。

 神楽坂通りで丸岡陶苑のあたりが最大の高さです。これから神楽坂上に行っても下がることになります。三沢浩氏の『神楽坂まちの手帖』「神楽坂、坂と路地の変化40年④」によれば

外堀通りの角、元「アカイ」前の道端を0mとすると、坂上の「丸岡陶苑」と向かいの「ナカノ洋裁」が12m230の最高所。毘沙門天から大久保通りへ向こうに連れて6m余りも下がる。

と書かれています。

 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では

 最高点から神楽坂下を見たところは…

最高点

最高点。神楽坂下を見たところ

 最高点から神楽坂上を見たところは…

最高点上

最高点。神楽坂上を見たところ

 左にはいると見番横丁です。

 すこし先に行くとまた左側に行く三叉路があります。ここを左側に曲がって、10mぐらい歩くと左手に駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しましたが、寄席の1つで、柳家金語楼きんごろうなどが有名でした。

駐車場

この駐車場は神楽坂演芸場でした

 では三叉路に戻りましょう。すこし上に歩くと、右側に「本多横丁」が顔を出してきました。ここを超えると神楽坂通りの4丁目です。ちなみに神楽坂通りの左側は3丁目から直接5丁目になってしまいます。4丁目は一番歴史も雰囲気もいっぱいある、そんな土地です。

本多横丁

本多横丁です

 なお、5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間には「毘沙門横丁」と呼ぶ小さな路地が出てきます。このあたりは芸妓が沢山いた場所です。今はそんなことは絶対に全くありえません。

本多横丁はここを
善國寺はここを
毘沙門横丁はここを
神楽坂通りの4丁目はここを

さらにもとの神楽坂の通りと坂に戻る場合は