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誓閑寺|喜久井町

文学と神楽坂

 新宿区喜久井町の誓閑寺せいかんじの文化財としては2つあります。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)
新宿区指定有形文化財 工芸品
誓閑寺(せいかんじ梵鐘(ぼんしょう)
所 在 地  新宿区喜久井町六十一番地
指定年月日  昭和五十九年十二月七日
天和二年(1682)に近在の住民の寄進により鋳造された区内最古の梵鐘である。
総高一三八センチ、口径七九センチ、周囲二三六センチで、形状は比較的古い様式を残している。
(いけ)()(銘文等を刻む空間)は四つに区画され、全面に銘文が刻まれており、特に銘文中の「武州荏原(えばら)(ぐん)」の記載は、当時すでに豊島郡になっていたこのあたりが、古い郡名で呼ばれていた例を示す史料となっている
なお、鐘楼は昭和四十九年四月に、千葉県木更津市の選擇寺より移築されたものである。
      平成八年三月
東京都新宿区教育委員会

実際、鐘楼の下には

浄土宗 開宗八百年記念 昭和四十九年四月

と書いてあります。

文化財愛護シンボルマーク(文化財愛護シンボルマーク)半跏像
新宿区登録有形文化財 彫刻
銅造(どうぞう地蔵(じぞう)菩薩(ぼさつ)半跏(はんか)(ぞう)
所 在 地 新宿区喜久井町六一
指定年月日  平成一三年二月一四日
文政元年(一八一六)誓閑寺第十世住職進誉求道の時に鋳造された像で、神田の鋳物師太田駿河守藤原政義の作である。
総高一三六センチメートル。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ半跏像で肉身部には鍍金が施されている。
台座正面には「百万遍議中」と刻まれており、「市ヶ谷大奥中」以下一八〇名あまりの人名が刻まれている。「市ヶ谷大奥中」とは市ヶ谷に上屋敷を構えていた尾張徳川家に関連するものと考えている。江戸時代、この近くには尾張徳川家の下屋敷(戸山山荘)もあり、誓閑寺には同家の奥女中らが葬られるなど関わりが深かった。
          平成一三年九月
東京都新宿区教育委員会
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東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町、原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町など 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。(ただし、田山花袋の生年月日は新宿区では明治14年12月13日になっていますが、正しくは明治4年12月13日です)
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした
牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。
毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店
中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。
瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす
納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。
納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。

明治28年

繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。 250px-Satin_weave_in_silk
こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。
やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力。意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、()()みえ以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること

文学と神楽坂

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田山花袋|転居

『神楽坂界隈』「神楽坂と文学」で飯野二朗氏はこう書いています。

花袋は牛込で二十年間を過ごした。明治十九年、十六歳で上京してから貧困時代、苦学時代、尾崎紅葉を訪ねて文学修業を積む習作時代を経て、自然主義文学の金字塔を建てる「蒲団」完成の前年三九年まで、十一回の転居を牛込区内でくり返した。そして牛込を異常になつかしく思い浮かべて「東京の三十年――山の手の空気」を書いている。「」内は原文。 「その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに来た。永井荷風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到るところにあった」
 (明治十九年に)上京し①牛込区市谷冨久町120番地に住んだ。次に②納戸町12③甲良町12④内藤町1⑤喜久井町20⑥納戸町40⑦原町2-68⑧若松町137⑨市谷薬王寺町55⑩弁天町42⑪北山伏町38番地と移り、明治39年12月8日に渋谷村代々木山谷132番地に新居を建て、昭和5年5月13日59歳の生涯を終えた作家である。
 日本文学史の一時代を面する自然主義文学は、本当の意味では花袋が出発点である。そして、独歩藤村秋声白鳥、そして岩野治明真山青果小杉天外中村星湖も、その上に島村抱月長谷川天渓片上伸ら早稲田文学の人々が自然主義の理論的バックアップをして一世を風靡したといわれる。

岩野治明。正しくは岩野泡嗚でしょう。また本名は美衛(よしえ)でした。

では、牛込区のどこに転居したのでしょうか。④の内藤町以外は1つの地図に落とせます。牛込区といってもかなり転居したんだと思います。

明治28年②

明治39年12月8日、渋谷村代々木山谷132番地に新居を建てたことについては、中村武羅夫氏は『明治大正の文学者』(留女書房1949年、ITmedia名作文庫2014年)にこう書いています。

田山花袋が「蒲団」を書いて大いに人気を得たその少し後で、代々木に住宅を建てたり、柳川春葉が「生さぬ仲」(大正二年―三年)という通俗小説で大いに当てて、夫人の郷里の宇都宮に借家を二戸とか建てた時など、両方ともずいぶん評判で、ゴシップをにぎわしたものである。文士が家を建てるくらいのことは、今では当たり前のことでも、大正の初めのころまでは文壇ゴシップで騒がれるほど、とにかく希有のことだったのだ。

「蒲団」は「新小説」明治40年(1907年)9月号に掲載されました。つまり、実際には「蒲団」よりも早く、明治39年12月に新居を建てていたのです。これについては同じく『明治大正の文学者』では

すなわち文学者としての稼ぎによって建ったものではなく、「蒲団」のモデルとして取り扱った女弟子の実家が金持ちで、そこから借金して建てた家であるというのが、ウルさいゴシップに対する田山花袋の弁解であり、抗議であった。
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漱石と『硝子戸の中』23

文学と神楽坂

二十三

今私の住んでいる近所に喜久井町きくいちょうという町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々漂浪ひょうろうして帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来ねごろの方まで延びていた。
 私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出すなつかしい響を私に与えてくれない。しかし書斎にひとり坐って、頬杖ほおづえを突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想れんそうが、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく彽徊(ていかい)し始める事がある。
喜久井町 東京都新宿区の町名。新宿区ではかなり大きな町で、早稲田から柳町に行く場所のほぼ半分を占めています。昭和22年の地図で見れば、右下は「市谷柳町」で、それから左上に行くと、「原町」の「1丁目」、「辨天町」(現在は弁天町)があり、その上に「喜久井町」、夏目坂を通り、「馬場下町」、それから「高田町」に行きます。なお、現在は「高田町」はありません。

喜久井町

根来 江戸時代には弁天町と原町1丁目の代わりに根来町があり、そこには根来組という先手組屋敷があり幕府の鉄砲隊の1つでした。現在は新宿区弁天町と原町1丁目の一部で、南東部にあります。これは江戸末期の牛込弁財町絵図です。

根来町

この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっとのちになってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父がこしらえたものに相違ないのである。
 私の家の定紋じょうもん井桁いげたに菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものからおすわったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主なぬしがなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由もいたかも知れないが、それをほこりにした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、いやな心持はくに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。
 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。
井桁に菊 井桁に菊
夏目坂 坂の下は早稲田通りと交わる点です。早稲田通りは都道なので、区道はそこで終わりです。

夏目坂通り

  では、坂の上は? まず区はどういっているのでしょうか。残念ながら区は「夏目坂通り」についてしかいっておらず、「夏目坂」についてはなにもいっていません。ちなみに「夏目坂通り」はここから南の若松町交差点にいたる坂道をいっています。しかし、昔の「夏目坂通り」を見ると通りの幅は狭く、途中で90度も曲がっています。

M18-20s

  結局、石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』の図が最もいいのでしょう。これは、夏目坂通りが南に流れを変えるその地点、三叉点までを夏目坂とするものです。はい。
しかし、まあ、夏目坂の上をはっきり言うなんて困難なのです。坂は正確にどこで、どうやって終わるのか、わかりません。

 なお、夏目坂について標柱があり、説明もあります。

夏目坂 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名付けて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ、地図にものるようになった。
私が早稲田わせだに帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住居すまいに移る前、うちを探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古瓦ふるがわらが少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。
 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表からのぞくと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板がかかっていた。私は昔の早稲田田圃たんぼが見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来ねごろ茶畠ちゃばたけ竹藪たけやぶ一目ひとめ眺めたかった。しかしその痕迹こんせきはどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当けんとうは、当っているのか、はずれているのか、それさえ不明であった。
早稲田田圃 この写真は早稲田の田圃と東京専門学校(のちの早稲田大学)の校舎です。

早稲田の田圃

私は茫然ぼうぜんとして佇立ちょりつした。なぜ私の家だけが過去の残骸ざんがいのごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれがくずれてしまえば好いのにと思った。
「時」は力であった。去年私は高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗きれいに取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。そのそばには質屋もできていた。質屋の前にまばらなかこいをして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児きけいじのようになっていたが、どこか見覚みおぼえのあるような心持を私に起させた。むかし「(かげ)参差しんし松三本の月夜かな」とうたったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。
三本の松

『草枕』の第七章にでてきます。

 小供の時分、門前に万屋よろずやと云う酒屋があって、そこに御倉おくらさんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚おさらいをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前にひかえて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松はまわり一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好かっこうを形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠かなどうろうが名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺かたくなじじいのようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、こけ深き地をいて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、ひとり匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかにひざるるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠をにらめて、この草のいで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
影参差… 漱石自身の俳句です。明治28年の作。
参差 長短・高低入り混じり、ふぞろいな様子

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喜久井町|夏目漱石

文学と神楽坂

 明治20年の喜久井町の地図を見ていきましょう。相当に広く、しかも原っぱなども多くなっています。番地は1番地から36番地までが右側で、下に行くほどその番号は大きくなり、それから、道の反対側に行き、上って、37番地から67番地まで行きます。

 この番号は少なくとも東京ではありふれた付け方です。アメリカでも同じような順番です。

 喜久井町の名主は夏目家です。夏目家は1番地に住んでいました。この地図で1番地はピンクで書いてあります。
喜久井町

『まちの手帳』17号の「生家跡在住 加藤利雄さんに聞く。早稲田・喜久井町と夏目家」で谷口典子氏はこう書いています。

明治三十年に漱石の父が亡くなると、兄直矩(なおかた)は家作百五十坪を、永田町に住む天谷(あまや)永孝氏に八千二百五十円あまりで売却、神楽坂の寺内に移り住み、喜久井町と夏目家の関わりはここで途絶えた。その後、旧夏目家の母屋は下宿屋(明月館)となった。大正初年頃、その母屋が取り壊され、下宿が建て替えられつつあるのを偶然目にした漱石は、夏目家の三本の松が、変な形に刈り込まれていることに気がつき、感慨を深くしている。(中略)
 昭和二十一年、国語の先生から喜久井町のどこかに漱石の生家があったことを教わり探索をはじめたのが、現在生家跡に住み、地域と漱石の絆を深める活動を続けておられる加藤利雄さんである。当時早稲田中学四年だった加藤少年は、同じ町内の友人とその場所を探すうちに、加藤家のはす向かいで代々大工を営む大倉(だいくら)老人と知りあい、「それは、今、あんたんちがある場所だよ」と教わる。
「あんたんちの裏にレンガ造りの壁があるだろう。あれは、夏目さんちの土蔵跡だよ。夏目さんの後に住んだ人が住居に改造して使っていたんだ。金之助(漱石)さんは私より五~六歳年上だったが、子供の頃よく遊んでもらったもんだ。大変ハイカラな人で、またガキ大将で近所の子供を集めては当時、珍しかった野球道具をそろえて戸山ケ原で野球をやったもんだ。白絣に紺の袴、高下駄をはいて本郷の帝大まで歩いて通っていたのが今でも目に浮かぶ。絵が得意だったようで、よく写生なんかしていたが、帝大に通っていたころ私を描いてくれた肖像画を大事に保存していたが、この戦災で焼いてしまったよ」(中略)
 夏目坂に沿って1軒ずつ割り振ってつけた番地がいまも使われている。千坪のお屋敷跡に、五十軒近くの家が建てられているのだから、漱石は知ったら「気が利かぬ」と笑うことだろう。昭和四十一年、喜久井町1番地、すなわち「漱石生家跡」の1画を加藤氏が提供、そこに新宿区による石碑が建てられ、除幕式には漱石の長男次男夫婦と弟子の安部能成が出席した。

 江戸時代、喜久井町の屋敷には松平越後守が住み、また、普通の町もありました。明治になると、屋敷は野原に変わりましたが、普通のお店や酒店は江戸時代同様栄えていきます。

 一方、漱石は1907年(明治40年)の『僕の昔』で……

ちょうど、今、あの交番――喜久井町きくいちょうを降りてきた所に――の向かいに小倉屋おぐらやという…酒屋があるだろう。そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家いえがあった。もう今は無くなったかもしれぬ。

 この「そこから坂のほうへ二三軒行くと古道具屋がある。そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家があった」というのは、1番地ではない感じです。何か違っているような気がしますが、しかし、これ以上なにもいえません。

 また、『夏目漱石博物館』(石崎等・中山繁信、彰国社、昭和60年)では、実際の地図が出ていますが、あくまでも想像図でしょう。やはり『僕の昔』とは違っています。右下の地図には「同馬場下横丁」と出ているだけです。

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夏目漱石