タグ別アーカイブ: 宇野浩二

宇野浩二と神楽坂

文学と神楽坂

宇野浩二2
宇野(うの)浩二(こうじ)氏――生まれは1891年(明治24年)7月26日。没年は1961年(昭和36年)9月21日――は私小説が有名な作家ですが、他の文学作品の切れ味はすごく、芥川賞の審査員にもなっていました。また氏も神楽坂界隈に住んでいた時期があります。昭和17年8月、51歳のときに『文学の三十年』を書き、そこで、明治44年3月(数え年で21歳、満年齢では19歳)には、白銀町の()(づき)という下宿に住んだことを書いています。
雑司ヶ谷の茶畑の中の一軒家で、一人で自炊しながら、寒い冬を越して、翌年の三月頃、私は、牛込白銀(しろがね)の素人下宿に引っ越した。明治四十四年、私が二十一歳の年である。今の電車の道で云えば、築土八幡前の停留所を出て暫く行くと、肴町の方へ殆ど直角に曲る角がある。あの角を、電車の道の方へ曲らずに、赤城神社へ出る方へ行って、すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった。その素人下宿は、大きな家で、間取(まど)りもよく、部屋も大きく、部屋の中の造作(ぞうさく)も整っていた上に、中二階まであった。そうして、その中二階には三上於菟吉が陣取っていた。それから、母屋の二階には、竹田敏彦の同級の、今は「サンデー毎日」の編輯長で収まっている、大竹憲太郎や、泉鏡花の弟の泉斜汀夫婦や、えたいの知れない四十歳ぐらいの一人者などがいた。そうして、その風変りな素人下宿には、前の章に書いた、三富朽葉今井白楊浦田芳朗、(前の章では、大阪毎日新聞社の機械部艮、と書いたが、この快兼怪漢は、その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、今は、京都日日新聞社長になっている、)その他がしばしば現れた。
牛込白銀町 明治44年6月以前は「牛込白銀町」、以降は「白銀町」です。下の青く描いた多角形は「白銀町」です。この中に氏の下宿がありました。
下宿 かつての路面電車を停留場①「筑土八幡前」で降ると、そのまま進み、②道はY字に分かれます。左側に行くと停留場「肴町」に着き、右側を行くと赤城神社につながります。「赤城神社へ出る方へ行って、③すぐ左に曲った所に、その素人下宿があった」ので、おそらくこのどこかでしょう。
昭和5年の地図

昭和5年の「市区改正番地入 牛込区全図」の1部

造作 構造部以外で大工職が作る部分。木造建築では天井、床、階段、建具枠、床の間、押入れなど。
三上(みかみ)於菟吉(おときち) 1891(明治24)年2月4日-1944(昭和19)年2月7日。大正・昭和時代の小説家。流行作家で、文壇の寵児。代表作は『雪之丞変化』。活躍期には「日本のバルザック」とも。
竹田(たけだ)敏彦(としひこ) 1891(明治24)年7月15日 – 1961(昭和36)年11月15日。劇作家、小説家。早稲田大学英文科中退。「大阪毎日新聞」記者をへて、1924年新国劇に入り、文芸部長に。のちに小説家。1936年業績全般で直木賞候補。
大竹憲太郎 新しい情報はなく本文の通りで、当時は「サンデー毎日」の編輯長
(いずみ)鏡花(きょうか) 1873(明治6)年11月4日 – 1939(昭和14)年9月7日。明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家。尾崎紅葉に師事。『夜行巡査』『外科室』で評価を得、『高野聖』『婦系図』で人気作家に。怪奇趣味と特有のロマンティシズムで有名。また近代の幻想文学の先駆者としても評価。
斜汀(しゃてい) 1880(明治13)年1月31日~1933(昭和8)年3月30日。小説家。兄である泉鏡花の指導により尾崎紅葉の門下に。『監督喇叭』が処女作。下町小説、狭斜小説を持ち味とし、代表作に『木遣くづし』、『松葉家の娘』など。後にロシア文学に傾倒し『廃屋』などを発表。創造力が乏しく大成できず。
三富(みとみ)朽葉(きゅうよう) 1889(明治22)年8月14日 – 1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。自由詩社同人。自由詩風で認められ、またフランス文学批評も。犬吠埼君ヶ浜で溺れた今井白楊を助けようとしてそのまま水死。
今井(いまい)白楊(はくよう) 1889(明治22)年12月3日 – 1917(大正6)年8月2日。詩人。早稲田大学英文科卒業。1909年、自由詩社に参加。1917年、千葉県犬吠埼で遊泳中に親友三富朽葉とともに溺死。そのために単行本になった詩集はない。
浦田(うらた)芳朗(よしろう) 大正15年、『南米ブラジル渡航案内』の筆者(大阪毎日新聞社)。その後、大阪毎日新聞社名古屋総局長になり、この時は京都日日新聞の社長。

本文ではもう少し都築を紹介しています。

この素人下宿(()(づき)という名)の事を少しくだくだしく書いたのは、この都築には、前にも述べたことがあるが、当時、『別れた妻』に別れたばかりの、赤城神社の境内の下宿に住んでいた、近松秋江が毎日ほど現れたり、この都築にいた頃、三上が、その道の猛者になる下地を初めて作ったり、したからである。又、この都築にしばしば現れた、三富、今井、浦田、という、三人の、それぞれ形は違うが、颯爽とした青年の中で、三富と今井は、十九世紀のフランスの象徴派の詩人の故事を真似て、『薄命詩人会』と称する会を作り、「象徴」という雑誌まで創刊し有為な豊富な才能を持ちながら、その頃から十年も立たないうちに、大正六年八月二日、僅か二十九歳で、犬吠岬で水泳中に溺死する、という運命を持ち、私に、(ほの)かな恋愛小説を作って一世を風靡したことのある水野葉舟を紹介したり、レエルモントフの『現代の英雄』の英訳を貸してくれたり、しているうちに、いつの間にか政治運動に這入った、というような浦田が、浦田流の生活を押し切って、壮健に生きている、という、そういう私だけに悲しくも面白くもある事が都築と共に思い出されるからである。
近松(ちかまつ)秋江(しゅうこう) 1876(明治9)年5月4日 – 1944(昭和19)年4月23日。小説家、評論家。情痴作家。連作「別れた妻」が有名。
その道の猛者(もさ) 猛者とは「力のすぐれた勇猛な人。荒っぽい人」。「その道」ははっきりしないが、ウィキペディアでは「流行作家時代の三上は放蕩、浪費し、作品のほとんどを待合で書いた」としている。待合とは芸妓との遊興や飲食を目的とする風俗業態。
象徴派 1870年頃、自然主義などの反動としてフランスとベルギーの文学芸術運動。象徴派は事物を忠実には描かず、主観を強調し,外界の写実的描写よりも内面世界を表現する立場。サンボリスム。シンボリズム
水野葉舟(ようしゅう) 1883(明治16)年4月9日~1947(昭和22)年2月2日。詩人、歌人、小説家、心霊現象研究者。
レエルモントフ ミハイル・レールモントフ。Михаи́л Ю́рьевич Ле́рмонтов。1814年10月15日~41年7月27日。帝政ロシアの詩人、作家

島田清次郎3|昭和文壇側面史|浅見順

文学と神楽坂

巷間に伝わる噂話

 この聚英閣は、広津和郎氏の名著のほまれ高い処女評論集「作者の感想」や、宇野浩二の処女作集「蔵の中」なども出していたが、主人は海軍主計中佐あがりの禿げ頭のズブのしろうとであった。従って、出版も出たとこ勝負で、あまりもうかっていなかったようだった。そこで、島田清次郎が新潮社からつぎつぎと「地上」の続篇を出して人気の絶頂にあったとき、幾たびか足を運んで、やっと「早春」とかいう感想集の原稿にありつき、当時はそれを徳としていたのである。そんな因縁もあって、たまたまぼく達が聚英閣を訪れたとき、どういう風の吹きまわしか、たぶん聚英閣の細君が快活な気まぐれ屋だったからであろう、清次郎を座敷にあげていたのだ。
「地上」が出たのは、ぼくが早稲田に入った年である。それで、さっそく買って読んだが、当時のぼくにして、なんだか概念的で詰まらなかった。が、杉森氏の前記の長篇に、堺利彦が「地上」の発売と共に「時事新報」紙上に書いた推賞文が紹介されているが、一般の人気もまた、その感銘が堺利彦の指摘しているところと一致していたからだろう。
“著者の中学校生活、破れた初恋、母と共に娼家の裏座敷に住んだ経験、或る大実業家に助けられて東京に遊学した次第、其の実業家の妾との深い交りなど、悉く著者の「貧乏」という立場から書かれた、反抗と感激と発憤との記録である”
 ところで、島田清次郎の没落は、その線香花火的な早熟性とあいまって、変質者だったことが大きく影響していたように思われる。人気作家さなかの渡米船上での外交官夫人への接吻強要、徳富蘇峰紹介の逗子養神亭における帰朝直後の海軍少将令嬢監禁事件、新聞紙上に大きく叩かれたこれらの事件のほかにも、パリの街娼たちと遊んでは奇怪な振舞いに出、彼女たちから嘲笑を買っていたという話を、当時パリに行っていた岡田三郎だったか、洋画家の林倭衛だったかに聞いた覚えがある。
 また、のちに徳田秋声の「恋愛放浪」という中篇小説集を読むと、その中に、題名を忘れたが、地方新聞に連載したものらしい島田清次郎を取扱った作品があり、共に金沢出身という同郷関係で、秋声が前から何彼と清次郎の面倒を見てやっていたところ、有名になると急に対等的な横柄な口をききだしたことや(これは室生犀星も書いている)、秋声に見せた清次郎自身の書いた家の設計図に、得体の知れぬ密室があったことなどを挙げ、やはり清次郎の変質性を指摘していた。

作者の感想 1920年(大正9年)に書いた広津和郎氏の第一評論集
蔵の中 1919年(大正8年)に出し宇野浩二氏のた処女作集で、「近松秋江論(序に代へて)」、「蔵の中」、「屋根裏の法学士」、「転々」、「長い恋仲」をまとめたもの。
主人 発行者は後藤誠雄です。小田 光雄氏が書いた『日本古書通信』の「古本屋散策(54)。聚英閣と聚芳閣」では「聚英閣の本は三冊持っているが、一冊は勝峯晋風編の『其角全集』で菊判箱入り、千ページをこえる大冊であり、刊行は大正十五年、発行者は後藤誠雄となっている。(中略)(後藤誠雄の)出版物はとても「ズブのしろうと」の企画とは考えられず、優れた編集者が存在したのであろう。それでなければ、国文学、近代文学、社会科学といった多岐にわたる企画はたてられなかっただろう。」と書かれています。私もそうだと思います。
早春 1920年、島田清次郎氏の18歳~20歳の断章や詩をあつめたもの。
時事新報 福沢諭吉が1882年3月1日に創刊した日刊紙。「独立不羈、官民調和」を旗印とする中立新聞として読者の支持を集め、大正の中期まで日本の代表的新聞でした。
早熟性 肉体や精神の発育が普通より早いこと
変質者 異常で病的な性質や性格
渡米 島田清次郎は1922年(大正11年)、新潮社の薦めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発しました。
外交官夫人 風野春樹氏が書いた「島田清次郎 誰にも愛されなかった男」(本の雑誌社、2013年)によれば、相手は23歳の森島鷹子氏。夫は森島守人氏で、東京帝国大学を出たエリート外交官。朝日新聞は「渡米文士の失敗」という見出しで、キスを強要し、事務長から譴責をうけたと報じています。
逗子養神亭 徳富蘆花や国木田独歩など、当時の文人が利用した海岸沿いの高級旅館
令嬢監禁事件 大正12年、島田清次郎氏が海軍少将令嬢舟木芳江と逗子の旅館に宿泊。その後、島田氏は令嬢を脅迫監禁し、金品を強奪したという容疑が持ち上がり、警察は島田氏を拘引、事情聴取を行った。舟木家は監禁事件として訴えたが、令嬢の手紙が決め手となり、二人は以前から親しい関係にあったことがわかり、告訴は取り下げ。この女性スキャンダルは新聞や女性誌に大きく取り上げられ、理想主義を旗印にしてきた島田清次郎は凋落した。
中篇小説集 「恋愛放浪」、「無駄道」、「解嘲」の3篇が入っています。
作品 前の2篇が無関係なので、「解嘲」でしょう。ここで、解嘲の意味は「かいちょう」、または「かいとう」で、人のあざけりに対して弁解することです。
対等的 「解嘲」にはありません。「横柄な口」の例として、室生犀星は、《後に「地上」が出版され、新潮社で会ったが彼は挨拶をしないで傲岸に頭をタテに振るのであった。自分は不用意な気持であり鳥渡(ちょっと)(あき)れたか其後明かに彼とは口を利かなかった》と書いています。
密室 徳田秋声氏の「解嘲」によると「彼自身の創意になった一二の密室が用意されてあることであった。彼は自分の声名を慕ってくる女の群を想像してゐた。そして其の女達の特殊なものを引見する場所が、その密室であった。
「こゝへは誰も入れないんだ。どんな親友でも入れないやうにしておくんだ。」彼はさう言って少し赤い顔をして微笑してゐた。」と書かれています。

盛り場文壇盛衰記|川崎備寛

文学と神楽坂

 川崎備寛氏が書いた「盛り場文壇盛衰記」(小説新潮。1957年、11巻9号)です。「山の手の銀座」は関東大震災から2、3年の間、神楽坂を指して使いました。神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりとを書いています。

 たしか漱石の「坊つちやん」の中に、毘沙門さまの縁日に金魚を釣る話がでていたとおもうが、後半ぼくが神樂坂に下宿するようになつた頃でも毘沙門天の縁日は神樂坂の風物詩として残つていて、その日になるとあちらの横町、こちらの路地から、藝者たちが着飾つた姿でお詣りに来たものである。その毘沙門天と花柳街とを中心とした商店街、それが盛り場としての神樂坂だつたのだが、山ノ手ローカル・カラーというのであろうか、何となく「近代」とは縁遠い一郭を成している感じで、表通りはもちろんのこと、横町にはいってもどことなく明治時代からの匂いが漂つているようであつた。銀座のような派手な色彩や、刺戟的な空氣はどこにも見られなかつた。

 と一歩遅れた神楽坂の光景が出てきます。神楽坂が「山の手の銀座」になるのは、まだまだ先のことです。

坊っちゃん 夏目漱石の小説。 1906年『ホトトギス』に発表。歯切れのよい文体とわかりやすい筋立て。現在でも多くの読者がいます。
毘沙門 善国(ぜんこく)()は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
風物詩 その季節の感じをよく表しているもの
藝者 宴席に招かれ、歌や踊りで客をもてなす者
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
盛り場 人が寄り集まるにぎやかな場所。繁華街<
山ノ手 市街地のうち高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西のこと。四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりです。
ローカル・カラー その地方に特有の言語・人情・風習・自然など。地方色。郷土色
一郭 同じものがまとまっている地域

 ところが、少し大袈裟だがこの街に突如として新しい文化的な空気が(誇張的にいえば)押し寄せるという事件がおこつた。それは大正十二年の関東大震災だつた。銀座が焼けたので、いわゆる文化人がどつとこの街に集まつて來たからである。文壇的にいえば震災前までは、神樂坂の住人といえばわずかに袋町都館という下宿に宇野浩二氏がおり、赤城神社の裏に三上於莵吉氏が長谷川時雨さんと一戸をもつているほかは、神樂館という下宿に廣津和郎氏や片岡鐡兵氏などがいた程度だつたが、震災を契機に、それまでは銀座を唯一の散歩または憩いの場所としていた常連は一時に神樂坂へ河岸を替えることになつたのだ。しかし何といつても銀座に比べると神樂坂は地域が狭い。だから表通りを散歩していると、きつと誰か彼かに出会う。立話しているとそこへまた誰かが來合わせて一緒にお茶でものむか一杯やろうということになる。そんなことはしよつちゆうあつた。郊外に住んでいるものも、午後から夕方にかけて足がしぜんと神樂坂に向くといつた工合で、言って見れば神樂坂はにわかに銀座の文化をすっかり奪つたかたちだつたのだ。

 つまり「山の手の銀座」はここででてくるのです。「山の手の銀座」は関東大震災の直後に生まれたのですが、繁栄の中心地は2~3年後には新宿になっていきます。

三上於莵吉 『区内に在住した文学者たち』では、大正8年に赤城下町4。大正8年~大正10年は矢来町3山里21号。大正12年は中町24。昭和2年~昭和6年3月は市谷左内町31です。下の図では一番上の赤い図は赤城下町4、左の巨大な赤い場所は矢来町3番地字山里、一番下の赤が中町24です。

赤城下町

関東大震災 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模(さがみ)湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。
銀座 東京都中央区の地名。京橋の南から新橋の北に至る中央通りの東西に沿う地域で、日本を代表する繁華街
文化人 文化的教養を身につけている人
袋町 行き止まりで通り抜けできない町。昔はそうだが、今では通り抜けできる。
都館 みやこかん。宇野浩二氏が大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「都館」から撤去し、上野桜木町に家を、本郷区菊坂町に仕事場を設けました。いつ「神楽館」から「都館」に変わったのは不明です。関東大震災になったときに宇野浩二氏はこの辺りにはいませんでした。
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。上野国赤城山の赤城神社の分霊を早稲田弦巻町の森中に勧請、寛正元年(1461)牛込へ遷座。「赤城大明神」として総鎮守。昭和二十年四月の大空襲により焼失。
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。転じて飲食や遊びをする場所<

 もっと話を聞きたい。残念ながらこれ以上は神楽坂は出てきません。話は宇野浩二氏になっていきます。ここであとは簡単に。

 ぼくは震災前は鎌倉に住んでいたが、その頃でも一週間に一度や二度は上京していた。葛西善藏氏は建長寺にいたので、葛西氏に誘われて上京したり、自分の用事で上京したりした。葛西氏の上京はたいてい原稿ができたときか、または前借の用事のことだつたようだ。そういう上京のあるとき、葛西氏が用事をすました後、宇野浩二氏を訪問しようというので、ぼくがついて行つたことがある。それは前に書いた袋町の都館である。宇野氏はその頃すでに處女作「藏の中」以後「苦の世界」など一連の作品で文壇的に押しも押されもせぬ流行作家になつていたので、畏敬に似た氣持をもつて訪ねたのは言うまでもなかつた。行つて見ると、ありふれた古い安普請の下宿で、宇野氏の部屋は二階の隅つこにあつたが、六疉の典型的な下宿の一室であるに過ぎず、これが一代の流行作家の住居であるかと一種の感慨に打たれたことであつた。しかもその部屋には机もなく、たしか座蒲團もなくて、ただ壁の隅つこに一梃の三味線が立てかけてあるだけであつた。葛西氏はそれでもなんら奇異の念ももたないらしく暫らくのあいだ二人でポソポソと話をしていたが、傍で聞いていたとこでは、何でもその日は宇野氏の新夫人が長野縣から到着する日だとかで、新夫人というのは宇野氏の小説に夢子という名前で出ている諏訪の人だということを、後で葛西氏から聞いたが、そのとき見た一梃の三味線が、いまでもはっきりとぼくの印象に残つている。

建長寺 鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。葛西氏は大正8年から4年間塔頭宝珠院の庫裏の一室に寄宿し、『おせい』などの代表作を書きました。
安普請 あまり金をかけずに家を建てること。そうして建てた上等でない家。
新夫人 大正9(1920)年、芸者である小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて宇野浩二氏と結婚しました。
夢子 大正8(1919)年、上諏訪で知り合った田舎芸者の原とみを指しています。無口で小さい声で唄を歌い、幽霊のようにすっと帰っていきました。夢子と新夫人とは違った人です。

 後は省略し、最後の結末を書いておきます。

 いずれにしても、すべては遠い昔の想い出として今に残る。『不同調』の廢刊と前後して、廣津氏の藝術社も解散していたが、廣津氏は武者小路全集の負債だけを背負つて間もなく大森に移つて行つた。もうその頃は佐佐木茂索氏もふさ子さんとの結婚生活にはいって矢来から上野の音樂學校の裏のあたりに新居を構えていたし、都館のぬしのように思われていた宇野浩二氏も、とうの昔に神樂坂から足を洗って上野櫻木町の家に引越してしまつていた。有り觸れた言葉でいえば「一人去り、二人去り」したのである。こうして神樂坂は再び、明治以来の神樂坂にかえつたのであつたが、それが今回の戦災で跡方も無くなろうとは、その當時誰が豫想し得たであろうか。
 先日ほくは久しぶりに神樂坂をとおつてみたが、田原屋は僅かに街の果物やとして残り、足袋の「みのや」、下駄の「助六」、「龜井鮓」、おしるこの「紀の善」、尾澤藥局、またぼくたちがよく原稿用紙を買った相馬屋山田屋など懷しい老舗が、今もなお神樂坂の土地にしがみついて、飽くまで「現代」のケバケバしい騷音に抵抗しているのを見たのである。
(了)
田原屋など

昔からの店舗が出ています。一応その地図です。赤い場所です。クリックすると大きくなりますが、あまり大きくはなりません。右からは山田屋、紀の善、亀井(すし)、助六、尾沢薬局、田原屋、相馬屋、みのやです。地図は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)です。

P

不同調 大正14年7月に創刊。新潮社系の文学雑誌で、「文藝春秋」に対抗しました。中村武羅夫、尾崎士郎、岡田三郎、間宮茂輔、青野季吉、嘉村磯多、井伏鱒二らが参加。嘉村の出世作『業苦』や、間宮の『坂の上』などが掲載。昭和4年終刊。
藝術社 1923年(大正12年)32歳。広津和郎氏は上村益郎らと出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版。しかし極端に凝った造本で採算が合わなくなり、また上村益郎は使い込みをして大穴を開け、出版は失敗。借金を抱えましたが、円本ブームの波に乗り、無事返済。
武者小路全集 武者小路実篤全集は第1-12巻 (1923年、大正十二年)で、箱入天金革装、装丁は岸田劉生、刊行の奥付には「非売品」で予約会員制出版でした。
戦災 戦争による災害。第2次世界大戦の後です。

文学と神楽坂

手帳|同時代の作家たち

文学と神楽坂

広津和郎氏が書いた『同時代の作家たち』(岩波書店)の「手帳」(昭和25年)です。

が小説を書いて文壇に出るようになったのは大正六年であるが、たしかその翌年の初夏の頃であったと思うが、或日新潮社をたずねると、当時の同社社長の佐藤義亮(ぎりょう)氏との間に近松秋江の話が出、氏の口から秋江の逸話を幾つか聞かされた。秋江はなかなかあれで自分の肉体美が自慢で、丁度神楽坂毘沙門前の本多横丁の角に、後にヤマモトという珈琲を飲ませる店になったが、昔そこに汁粉屋があり、その汁粉屋のおかみさんがちょっとイキな女だったので秋江はそれに興味を持ち、自分の肉体美をそのおかみさんに見せたくなり、その家の裏側に風呂屋があったので、秋江は赤城神社の境内の下宿屋からわざわざそこまで風呂に入りに行き、しかも風呂に入る前にその汁粉屋に寄って、そこでおかみさんの前で浴衣に著更(きが)えて自分の肉体美をおかみさんに見せようとしたというのである。
広津和郎広津和郎。ひろつ かずお。生まれは1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。文芸評論家、小説家、翻訳家です。
新潮社 新潮社文芸書を初めとした大手出版社。1896年に新聲社として創立
本多横丁 「神楽坂最大の横丁」で、飲食店をなど50軒以上の店舗があります。この名前は、江戸中期から明治の初期まで、この通りの東側全域が本多家の屋敷であり、 「本多修理屋敷脇横町通り」と呼ばれていたことに由来します。
ヤマモト 本多横丁戦前『ここは牛込、神楽坂』第5号の「戦前の本多横丁」にでていた松永もうこ氏の絵です。サトウハチローとドーナツについてはここに
風呂屋 この近くの風呂屋は「第2大門湯」だけです。青で書いてあります。下の山本コーヒーの想像図は赤で書いています。現在の大門湯は理科大の森戸記念館の一部になりました。なお地図は都市製図社製の『火災保険特殊地図』( 昭和12年)です。大門湯
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。
下宿屋 清風亭1この矢印は昔の「清風亭」の場所で、赤丸で囲んだ清風亭とは違っています。近松秋江は赤い矢印のここに住んでいました。
それから秋江はまた非常に著物(きもの)が好きで、季節季節には新しく著物を作るが、貧乏なので直ぐそれを質屋に持って行ってしまう。それで次にその季節が来たらその著物を出して著れば好いのに、そうはしないでまた新たに著物を作る、しかし直ぐまたそれも質屋にはこんでしまう、そんな風にして質屋に預けた著物がいっぱい溜ってしまったが、虫干頃になると秋江は質屋の番頭がどんな虫干の仕方をするかとそれが信用が出来ずに、自分で質屋に出かけて行き、自分で質屋の蔵の中に細引を引きまわして自分の質物を懸けつらね、その下にそれも彼が入質した蒲団を敷いてその上に横たわり、自分の著物を頭上に眺めながら悠々と昼寝をして来るというのである。……そんな話を義亮氏の口から聞きながら、私は通寺町の路地の洋食屋で、秋江が芸妓に電話をかけて、「この間は散財した、あれだけあれば米琉が出来るんだのに」といっていた例の電話を思い出した。あの時にはあれがやりきれなく厭味に感じられたが、しかしこんな話を聞きながら今になって思い出すと、いかにも秋江の秋江らしさとして頬笑まれて来るのである。そしてその時佐藤義亮氏から聞いた話を、「これは面白い。これは小説になる。しかし自分に向く材料ではない。多分これは宇野浩二なら書けるだろう」と考えたものであった。
 宇野はその時はまだ文壇に出ていなかったが、私は彼にその話をして、「君なら書けるだろう」というと、「うん、僕なら書ける」と彼は答えた。それから一、二ヶ月後に宇野は実際にそれを小説に書いた。それが宇野の文壇的処女作となった「蔵の中」であるが、その事については私は以前「蔵の中物語」という文章に詳しく書いた事がある。
著物 着物のこと。この時代には「著物」と書いたんですね。
質屋 品物を担保(質草)として預かり、代わって品物の価値にみあう金銭を融資する商売
虫干 日光に当て,風を通して湿りけやかび,虫の害を防ぐこと。日本で6~7月のつゆ明けの天気のよい日に行います。
番頭 商店などの使用人の長。主人に代わり店の一切のことを取りしきる者
細引 ほそびき。麻などをより合わせてつくった細目の縄。
通寺町 現在は神楽坂6丁目のこと
洋食屋 上から下に神楽坂を下って左側にある洋食屋はわかりません。
米琉 よねりゅう。米琉(つむぎ)、正確には米沢(よねざわ)琉球(りゅうきゅう)(がすり)(つむぎ)。山形県米沢地方で生産される紬織物。米沢紬の中で、琉球絣に似た柄のもの
蔵の中物語 これは同じ本『同時代の作家たち』で「『蔵の中』物語――宇野浩二の処女作」という1章になって出ています。

文学と神楽坂

サトウハチロー|木々高太郞など

文学と神楽坂

 サトウハチロー著『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)の一節です。右端は神楽坂上から左端は早稲田(神楽坂)通りと牛込中央通りの交差点までにあった店や友人の話です。推理小説の大家、木々高太郞もこのどこかに住んでいたようです。まずサトウハチローの話を聞きましょう。

(さかな)(まち)電車通りを越して、ロシア菓子ヴィクトリア(よこ)(ちょう)を入ったところに昔は大弓場だいきゅうじょうがあった。新潮社の大支配人、中根駒十郎大人(たいじん)が、よくこゝで引いていた。僕も少しその道の心得があるので弓で仲良くなって詩集でも出してもらおうかと、よく一緒に()()をしぼった。弓はうまくなったが詩集は出してもらえなかッた。ロシア菓子の前に東電(とうでん)がある。神楽(かぐら)(ざか)の東電と書いてある、お手のものゝイルミネーションが、家の前面(ぜんめん)いっぱいについている。その(うち)で電球のないところが七ヶ所ある。かぞえてみる()()もないだろうが、何となくさびしいから、おとりつけ下さいまし。郵便局を右に見てずッと行く。教会がある。その先に、ちと古めかしき(あゝものは言いようですぞ)洋館、林病院とある。院長林熊男とある。僕はこゝで林熊男氏の話をするつもりではない。その息子さん林(たかし)こと木々(きぎ)(たか)()(ろう)の話をするつもりである。この病院の表側の真ン中の部屋に、その昔の木々高太郎はいたのである。ケイオーの医科の学生だった、万巻の書を(ぞう)していた。僕たちは金が必要になると彼のところへ出かけて行ってなるべく高そうな画集を借りた。レムブラントも、ブレークも、セザンヌもゴヤも、こうして彼の本箱から消えて行った。人のよい木々博士(はかせ)は(そのころは博士じゃない、また博士になるとも思っていなかった)その画集が、どういう運命をたどるかは知っていながら、ニコニコとして渡してくれた。僕たちは(なぜ複数で言うか、いくらか傷む心持ちが楽だからである)それをかついで岩戸(いわと)(まち)竹中書店へ行った。

肴町 現在、肴町は神楽坂5丁目に変わりました。
電車通り 昔は市電(都電)が通っていました。現在の大久保通り。
岩戸町 現在も同じ岩戸町です。

ロシア菓子
ヴィクトリア

 どこにあったのか、不明です。
 岡崎弘と河合慶子が書いた『ここは牛込、神楽坂』第18号の「神楽坂昔がたり 遊び場だった『寺内』」は下図までつくってあり、明治時代の非常に良く出来たガイドなのですが、これをよく読んでもわかりません。本文で出てくる「ロシア菓子ヴィクトリアの横町」は「成金横町」でしょう。成金横町の入り口は向かって左の明治時代はタビヤ(足袋屋か)、現在は和菓子の「菓匠清閑院」、右の現在はポストカードなどを売る「神楽坂志葉」です。
 また、『ここは牛込、神楽坂』第3号の西田照見氏が書いた「小日向台、神楽坂界隈の思い出」では

洋菓子は(パン屋にあるカステラ程度のもの以外では)神楽坂の『ヴィクトリア』(東西線を少し東へ下ったあたりの南側)まで行かねばなりませんでした。小日向台へ配達もしてくれました。『ヴィクトリア』の並びに、三越本店の写真部に勤めていたヴェテランがはじめた「松兼」という、気のきいた写真屋がありましたが、いずれも戦災で姿を消しました

 松兼はタビヤ(足袋屋なのでしょう)とカンコーバ(勧工場でしょう)の間の「シャシン」でしょうか。
 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集(2009年)「肴町よもやま話③」では

山下さん 六丁目の本屋っていうのは、やっぱり白十字か何かなかったですか? あのへんに何か。
馬場さん あそこには「ビクトリア」っていうロシア菓子屋があった。

 この六丁目の本屋さんは「文悠」(神楽坂6丁目8、「よしや」の東)です。これがロシア菓子ヴィクトリアだったのでしょうか。下の地図では「カンコーバ(文明館)」(現在は「よしや」)と「シャシン」(現在は「とんかつ大野」)との間に「ロシア菓子ヴィクトリア」が入ることになります。

  神楽坂6丁目
大弓場 この『ここは牛込、神楽坂』第18号で大弓場は出てきます。ただし、簡単に
岡崎氏:成金横丁の白銀町の出口に大弓場があったね。
だけです。しかしこの上図には絵がついているのでよくわかります。
東電 東京電力。どこにあるのか、消えてしまって、不明です。本文の「ロシア菓子の前に東電がある」からすると、東京電力はおそらく神楽坂通りの南側で、向かって左は布団などを売る「うらしま」、右は美容室「イグレッグパリ」です。
郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば
「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」
となっています。郵便局の記号は丸印の中に〒です。下の地図「昭和16年の矢来町」ではさらに赤い丸で囲んであります。
昭和16年の矢来町

昭和16年の矢来町

教会 教会の場所は上の地図では青緑の四角で示しています。「牛込誓欽会」と書いているのでしょうか。
林病院

昭和12年の「火災保険特殊地図」で「林医院」がありました。林医院は矢来町124番(赤い四角でした。別の地図を書いておきます。東西に延びる「矢来の通り」と南に延びる「牛込中央通り」に接し、現在では「マクドナルド 神楽坂駅前店」などができています。

林医院

昭和5年「牛込区全図」

林医院

昭和12年「火災保険特殊地図」

木々高太郞

現在の「マクドナルド 神楽坂駅前店」。左手の先は地下鉄「神楽坂駅」

木々高太郞 推理小説家です。大正13年、慶応医学部を卒業。昭和4年、慶応医学部助教授となり、7年、条件反射で有名なパブロフのもとに留学。9年、最初の探偵小説『網膜脈視症』を「新青年」に発表。10年、日本大学専門部の生理学の教授になり、さらに、11年、最初の長編『人生の阿呆』を連載し、昭和12年2月、これで第4回直木賞を受賞。昭和21年、慶応医学部教授になります。
竹中書店 これも『ここは牛込、神楽坂』第18号に出ています。地図は一番上の図、つまり、大弓場と同じ地図に出ています。また『神楽坂まちの手帖』第14号「大正12年版 神楽坂出版社全四十四社の活躍」では「竹中書店。岩戸町3。『音楽年鑑』のほか、詩集などを発行」と書いてあります。

 木々高太郞全集6「随筆・詩・戯曲ほか」(朝日新聞社)の作品解説で詩人の金子光晴氏は

僕の住んでいた赤城元町十一番地、(新宿区牛込)と林君の家とは、ほんの一またぎだった。おなじ「楽園」(同人雑誌)の仲間でしげしげとゆききをしたのは林君だったのも、その家が近いという理由が大きかった。それにしても、一日二日と顔を合せないと、落しものがあるように淋しかった。そのくせ、僕と林君とは、意見やその他のことが一つというわけではなかった。「楽園」の責任者は僕だったが、もともとは、福士幸次郎のはじめた雑誌だった。福士の友人が、義理で後援者ということになっていた。広津和郎や、宇野浩二斎藤寛加藤武雄などいろいろ居たが、いちばん近いところに増田篤夫がいた。増田と福士はもともと、三富火の鳥のグループにいた。「楽園」の若い同人たちは、福士派と増田派と、どちらにも親しい人とがいたが、林君は屈託のない人で、そのどちらにも親しい人に属していた。しかし、今度、林君の詩の韻律についての克明な仕事をみて、同人中で福士幸次郎にうちこんで、その仕事の熱心な祖述者であった人は、林君ともう一人佐藤一英君ぐらいであることを知って、いまさらのように僕はおどろいている。
赤城元町
11番地
この場所は上図(相当上の図です)の「昭和16年の矢来町」の青紫の四角で書きました。確かに「ほんの一またぎ」で来ます。
斎藤寛 さいとう ひろし(あるいは、かん、ゆたか)。雅号は斎藤青雨。詳細は不明。
加藤武雄 かとう たけお。1888年(明治21年)5月3日~1956年9月1日。小説家
増田篤夫 ますだ あつお。1891(明治24年)年4月9日~1936年2月26日。詩集を遺さなかった詩人。
佐藤一英 さとう いちえい。1899年(明治32年)10月13日~1979年(昭和54年)8月24日。詩人

文学と神楽坂

神楽館|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 神楽館とはどれでしょう。下図の左側には昭和12年の地図がありますが、ここの赤い4角が神楽館でした。まず神楽坂通りで神楽坂2丁目と3丁目が分かれる場所を北東に向かう「神楽坂仲通り」ではなく、反対側の南側に向かっていくと、下に行く坂になります。最初の4つ角は、左右は小栗横町ですが、ここはまっすぐ上に進み、上がったところが現在の駐車場で、ここを曲がると見えてきます。神楽館は広津和郎氏、宇野浩二氏、片岡鐵兵氏、横溝正史氏などの下宿でした。

神楽館

神楽館。火災保険特殊地図(昭和12年)と現在のGoogle

文学と神楽坂

宇野浩二|大正8年3月~9年4月

 宇野浩二氏は大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「(みやこ)館」から撤去します。これは「宇野浩二全集 第十二巻 年譜」でそう書かれています。つまり

大正八年(一九一九) 三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿
 大正九年(一九二〇) 四月、牛込袋町の都館を去って、江口渙の紹介で、彼の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町一七番地に一軒の家を構えた。

 わずか1年で、下宿は2軒になるわけです。では「神楽館」から「都館」に移った時間関係はどうなるのでしょう。水上勉氏の書かれた『宇野浩二伝 上』によると、浩二は五月に「都館」に引越ししたと書き、また新宿区の「区内に在住した文学者たち」では 、大正8年3月~同年4月に神楽町【神楽館】、大正8年5月~大正9年4月に袋町【都館】としています。正しいのでしょうか。水上勉氏著の『宇野浩二伝 上』を横に置いて見てみましょう。

七年の末から八年はじめまで、浩二は「蔵の中」が発表されるまで、このような仕事をして待機していたわけだが、その金で三月末、牛込神楽坂の「神楽館」の部屋を借りて、赤坂にいた母を呼び寄せていた。浩二は母のために、今度は一と部屋を別にとった。それは来客が多かったせいもあるが、いくばくかの収入があったからでもあろう。ところが間もなく、この下宿へ広津和郎氏がやってきた。広津氏もまた転々していたのである。浩二の母は、浩二と広津氏の下着をいつもいっしょに洗濯した。二人は、お互いの褌をあべこべに使ったりした。(『宇野浩二伝 上』244頁)
蔵の中 大正8(1919)年、28歳で宇野浩二氏は『蔵の中』を書きました。質屋の蔵で着物の虫干しをした男が書いた女たちの思い出です。これは近松秋江の実話をもとに作った小説でした。
このような仕事 翻訳で下訳すること。下訳者が最初の翻訳を行い、それから翻訳者に渡って、チェックして必要があれば書き直します。
神楽館 神楽坂2丁目にある下宿
広津和郎 ひろつかずお。生年は1891年(明治24年)12月5日。没年は1968年(昭和43年)9月21日。小説家、文芸評論家、翻訳家。晩年は松川事件で無罪に。

 これで「三月末、牛込神楽坂の神楽館に、母と二人で下宿」したんだとわかります。さらに12月に、水上勉氏はこう書いています。

浩二はこの十二月、まだ牛込の「神楽館」にいた。キョウも別室にいた。広津氏も同宿していた。すでにきみ子の自殺(浩二はそのようにいう)が材料になっているので、この作品は死の報が入った後書かれたことが明らかである。浩二にとってきみ子は、ヒステリイ女で重荷ではあったが、物心両面に援けを受けた相手である。(中略)そのきみ子が、別れて二年たつかたたぬまに死んだのだ。しかも自殺である。浩二にとってこれは悲痛な事件である。すくなくとも、大和高田での祖母の死にあれほどの衝撃を受けている浩二にとっては、きみ子の死は他人の死とは思えようはずもない。(『宇野浩二伝 上』251頁)
この十二月 この十二月は大正8年の12月しかありません。大正7年はまだ神楽坂に来ていませんし、大正9年では下谷区にでています。大正8年12月には、依然「神楽館」にいたというのです。
キョウ 宇野浩二の母。
きみ子 伊沢きみ子。宇野浩二氏を悩ましますが、横浜で西洋人の家の小間使をしていたが、猫イラズ入りの団子を食べて死んでいます。

 水上勉氏は正月過ぎにこう書いています。

正月過ぎに東京の「神楽館」へ差出人不明の投書がきて、「ゆめ子はお蔭様にて大評判に候」などとあった。浩二はその下諏訪かららしい投書をみると、また仕事を持って出かけて行くのである。ところが鮎子に会いたし会いにくしといった気持から、いつか鮎子に紹介され、演芸会でも会って話した小竹を呼ぶ。そして小竹が鮎子と違い看板持ちの自由な芸者であることも手つだって、急速に二人の仲は進展してしまうのだ。(『宇野浩二伝 上』274頁)
正月過ぎ これは9年1月です。9年1月にも「神楽館」に連絡したわけです。どこに住んでいるかはわかりません。
ゆめ子 小説ではゆめ子。実生活では鮎子。宇野浩二氏の「山恋ひ」から引用すると『私は原稿を書き疲れると、土地の芸者なぞを呼んでにやにやしてゐたものだつた。その中の一人に、ゆめ子といふ、今年21歳になる、芸者屋の娘兼主人で、養母といふ実の叔母に当る者が別に一軒芸者屋を出してゐて、自分は自分で三人の抱へ子と一人のお酌とを就いて、そして自分も芸者をしてゐるといふ女だつた。何といふことなく私はその女が気に入つたのであつた』
鮎子 本名は原とみ。大正八年九月、浩二は下諏訪の芸者鮎子と初めて会っています。水上勉『宇野浩二伝 上』によれば「当時21歳で、芸妓屋の娘であった。しかし、娘といっても、実の母の妹にあたる叔母の養女となって芸者に出ていた。この芸妓屋には三人の抱え妓がいた。鮎子は当時旦那持で、当歳の子を叔母に預け、芸者はそう好きでもなかったのに座敷へ出なければならない事情にあった。容貌はさして美人というのではないが、かわいらしい受け唇のしゃくれた、小づくりな顔立ちでで、気立てのいい妓だったが、客の前へ出ても自分から喋るというようなことのない無口な性質だった」と書いています。
小竹 本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者。28歳。年齢は鮎子より7歳も上になっています。
看板持ち 芸者として置屋から独立して営業すること。置屋の看板を持つ事から俗称「看板持ち」といいました。「自前になる」

 5月、水上勉氏はこう書いています。5月は大正8年5月でしょうか? それとも9年5月でしょうか。残念ながら、9年5月は新しい場所に引っ越ししていますから8年5月しか残りません。

この何度目かの諏訪旅行から浩二が帰って半月目の五月初旬、突然小竹は東京へ来る。浩二は小竹に押し切られて結婚してしまう。鮎子という恋人がありながら、その姐芸者と勢いにまかて結婚してしまう経緯は、「一と踊」(「中央公論」大正十年五月号)に詳しい。

(略)五月、―――彼女は、彼女の家財道具をひきまとめて、彼女は、もと東京の者であつたが、十年(かん)その町に住んでゐたのである、彼女にとって、十年間の浮世の町、私は今日かぎりさらりと身をあらふのだ、さらば、さよなら、と、惜し気もなくその町をひきあげてきたのである。されば、その秋におこなはれた国の国勢調査の日、彼女は、けろりとした顏をして、生まれた時から私につれそうてゐたやうな顔をして、調査員にむかつて、戸籍にもありますとほり、私はなにがしの妻でございます、としやあしやあとして述べたことにちがひない。彼女は、私の家にきて以来、あんな山の中の町、鬼にくはれてしまへ、と思つて、更にふりむかないのである。

村田キヌが東京へ押しかけてきた先は、牛込袋町の「都館」であった。浩二は神楽坂の「神楽館」からここへ越した矢先で、もちろん母のキョウもいっしょにいた。そこへ小竹は押しかけた。浩二は、それをまったく予測できなかったわけはない。下諏訪で、東京へ行ってもいいかと押されて許諾したか、それとも、押しかければ迎え入れそうな返事をしたかどちらかと判断される。小竹は袋町の下宿へ来て、そこに浩二の母がいるのを見て困ったにちがいない。浩二は、さっそく家さがしに廻る。江口渙氏の紹介で、氏の家の真裏にあたる下谷区上野桜木町十七番地の一軒へ越していくのである。(『宇野浩二伝 上』277頁)

5月初旬 五月初旬は今度は大正8年5月です。しかし、下谷区上野桜木町十七番地に移転するのは大正9年4月です。あわてて探したのに11か月も探している。どこか何かがおかしいと思いませんか。
彼女 小竹のこと。
その町 下諏訪のこと
村田キヌ 小竹の本名は村田キヌで、鮎子の姐芸者にあたる。
牛込袋町の都館 牛込袋町は別名藁店わなだな。神楽坂5丁目から南に行くと袋町に行く。図を参照
牛込館と都館支店

左は昭和12年の牛込館と都館支店。右は現在で、牛込館と都館支店はなくなっています。

江口渙 えぐちかん。本名は渙(きよし)。生年は明治20(1887)年7月20日、没年は昭和50(1975)年1月18日。87歳。東京帝大中退。大正、昭和時代の小説家、評論家。夏目漱石門にはいり、「労働者誘拐」で注目。マルクス主義に接近、日本プロレタリア作家同盟中央委員長。戦後は新日本文学会、日本民主主義文学同盟に参加した。

結局、いつから神楽館から都館に入ったのか、私には正確ににわかりません。