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三百人の作家②|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「鎌倉建長寺境内」です。

 間宮茂輔氏は小説家で、「不同調」の同人から「文芸戦線」、ナップに加わり、昭和8年に投獄され、10年、転向して出獄。12年から「人民文庫」に長編「あらがね」を連載し、第6回芥川龍之介賞候補に選出。戦後は民主主義文学運動や平和運動の推進に努めました。

 当時、相馬泰三は、牛込横寺町の、叢文閣書店の斜向いに新婚の夫人と住んでいた。才色兼備の夫人‥‥神垣とり子については後でふれる機会があるかもしれない。ともかくわたしは相馬家の常連みたいになって、そこの二階でいろんな作家たちに紹介された。
 或る日もわたしが遊びに行っていると、三人の作家が訪ねて来たが、頭髪のもじゃもじゃな背の低い醜男が菊池寛であり、おじさんみたような感じで顔に薄いの残つている人が加納作次郎であり、いちばん若い、五分刈の、紺ガスリを着た眼光のするどい人が広津和郎であった。三人は小説家協会という相互扶助の団体を創立するため相馬泰三を勧誘に来たのである。いうまでもなくこの小説家協会が発展して戦前の文芸家協会になり、戦争ちゅうはさらに変身して日本文芸報国会となったことはだれでも知っているが、その出発に当って菊池、広津、加納その他の人びとが、足をはこんで一人ずつ勧誘して歩いた努力は記憶されていいことだろう。
 「そう‥‥そんなものがあれば便利だろうし、べつに無くても差支えはないだろうね」
 と、相馬が一流の皮肉な答えかたをしたのをわたしはおぼえている。
 英訳ではあるが、チェーホフの飜訳紹介で功績のある秋葉俊彦にも同じ二階でひきあわされた。わたしなど新潮社版の秋葉訳でチェーホフに取りついたようなものである。有名な東海寺(品川)の住職でもあるこの人には、だれが考えたものか、アキーバ・トシヒコーフという巧い綽名があった。
 谷崎精二には神楽坂の路上で紹介された。すでに早大の講師か教授かであったこの作家は、兄の潤一郎とはちがい、見るから真面目そうであったが、駄じゃれの名人であり、矢来の奥から細身のステッキをついて現われ、神楽坂をよく散歩していた。しかし下町生れの東京児らしいところもないではなく、いつもぞろっとした風に和服を着流し中折れをちょいと横に被った長身が、何か役者のような印象であった。

叢文閣書店 大正7(1918)年から、この書店は神楽坂2-11にありました。それ以前にはよくわかりませんが、恐らく間違えています。横寺町にあった書店は文海堂(28番地、緑色)か聚英閣(43番地、青色)でした。
住んでいた 住所は横寺町36。右図で赤色。
神垣とり子 生年は1899年(明治32年)。貸座敷「住吉楼」の娘。相馬泰三氏の別れた妻。相馬氏が死亡する直前に再会し、亡くなるまで傍にいました。
紺ガスリ 紺絣。紺地に絣を白く染め抜いた模様か、その模様がある織物や染め物。耐久性があるので仕事着や普段着に普及。
小説家協会 1921年、発足。
文芸家協会 1926年、発足。小説家協会と劇作家協会が合併してできたもの。文学者の職能擁護団体。戦時中は日本文芸報国会で吸収。1945年、日本文芸家協会として再発足。
日本文芸報国会 1932年(昭和7年)内閣情報局の指導の下に結成。戦意高揚、国策宣伝が目的。45年、終戦直後に解散。
秋葉俊彦 詩人として文壇に。大正の初めから中頃までにチェーホフの諸短篇を訳し、名訳者と。
ぞろっと 羽織・袴をつけない着物だけの姿で
着流し 袴や羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり
中折れ 中折れ帽子。中折れ帽。山高帽の頂を前後にくぼませてかぶるフェルト製の紳士帽。

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神楽坂の今昔3|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家と随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、法政大学高等師範部を卒業しています。

 ◆ 面白い口上とサクラ
 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。
 まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。
 戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの目は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」などと毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一篭十二貫入りが十篭も売れたものだ。
 万年筆売りの口上は、いつでも倒産の整理品か、火事の焼け残り品にきまっていた。店が倒産して、給料代わりにもらった品だから、二束三文で売るのだという。また万年筆にわざわざ泥をつけて、いかにも火事場から持ってきたように見せかけ、泣きを入れてお客の同情をそそった。
 毎晩同じセリフで商売になったのだから、悠長な時代でもあったし、同時にその品物が、それほどのゴマカシものではなかったわけだ。
 サクラ専門の男がいて、「おー、これは安い。三本もらおう」といって買って行くが、一時間もすると、再びやってきて、今度は五本も買う。
 彼は、万年筆屋専属でなく、カミソリ屋にも頼まれていて、「おや、これはドイツのゾリンゲンじゃないか。日本製と同じ値段だな」などといって買うのであった。
 ガマの油売りもいた。暗記術というのもあった。その他屋台では、すし、おでん、串カツ、それから熊公焼きというアンコ巻きもよく売れていた。カルメ焼き電気アメ、七色とうがらし、小間物、台所用品、ボタン、衣料、下駄などの日常必需品、植木、花、金魚、花火なんでもあった。

口上 口頭で事柄を伝達すること。俳優が観客に対して、舞台から述べる挨拶。
ゴマカシもの いんちきな品。にせもの
サクラ 露店商などの仲間で、客のふりをし、品物を褒めたり買ったりして客に買い気を起こさせる者。
ゾリンゲン Solingen. ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。刃物工業で有名
ガマの油売り 筑波山のガマガエルから油をとり、傷を治す軟膏を売る人
あんこ巻き 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子。
カルメ焼き 砂糖を煮つめて泡立たせ、軽石状に固まらせた菓子。語源はポルトガル語のcaramelo(砂糖菓子)から。
電気アメ 綿菓子のこと。

 ◆ 文士と芸者とたちんぼ
 大正から昭和へかけて、牛込界隈には多くの文士が住んでいた。また関東大震災で焼け残った情緒のある街神楽坂へ、遠くからやってくる文士もあった。それらの人たちが、うまいフランス料理を食べさせる田原屋へみんな集まったのであった。夏目漱石吉井勇菊池寛佐藤春夫永井荷風サトウハチロー今東光今日出海、その他、芸能人の顔も見られた。
 このうちの幾人かは、自分のウイスキー(ジョニ赤)を預けておき、料理を取って、それを飲むという習慣だったそうだ。いま流行しているキーボックス・システムのはしりといっていい。
 文士の皆さんも、田原屋だけでなく、神楽坂三丁目裏の待合でお遊びになったと思うが、当時は芸者が千五百人もいた。だから、夕方になると左褄(ひだりづま)をとった座敷着の芸者が、神楽坂を上ったり下ったりする姿が見られた。
 現在は、わずかに二百人である。しかも、ホステスともOLとも区別がつかぬ服装で、アパート住まいの芸者が出勤して来るのだから、風情も何もないのである。
 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋股引(ももひき)しるしばんてんという服装だった。
 八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場、あるいはほかの問屋から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、彼らは再び坂下に戻って、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。

ジョニ赤 スコッチウイスキーの銘柄ジョニー・ウォーカー・レッドラベルの日本での愛称
キーボックス・システム 現在はボトルキープと呼びます。酒場でウイスキーなどの酒を瓶で買って残った分を店で保管するシステム。
左褄を取る 芸者が左手で着物の褄を取って歩くところから、芸者になる。芸者勤めをする。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
ホステス hostess。バーやナイトクラブなどで、接客する女性。
OL 和製英語 office lady の略。女性の会社員、事務員。
たちんぼ 道端、特に坂の下などに立って待ち、通る荷車の後押しをして駄賃をもらう者。
地下足袋 じかに地面を歩く足袋。「地下」は当て字
股引 ズボン状の下半身に着用する下ばき。江戸末期から、半纏はんてん、腹掛けとともに職人の常用着。
しるしばんてん 印半纏。襟や背などに、家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から、職人などが着用した。
神楽坂だけのもの 昭和初期まで東京中で見られ、神楽坂だけではないようです。

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上り下りも世につれて…(昭和51年の読売新聞)

文学と神楽坂

昭和51年(1976年)8月16日の読売新聞「都民版」から
読売新聞。

読売新聞。昭和51年8月16日

読見出し 読売新聞のイラスト 読おっとり 読巻き返し 読きら星 読メモ

 町は時代とともに変わる。大正年間の歓楽境・神楽坂も、今は一見平凡な商店街。裏通りにひしめく料亭が、わずかに昔日の〝栄華〟をしのばせる。「このまま〝下り坂〟はごめんだ」と町の誰もが考えるが、具体的な巻き返し策は暗中模索中。かつてのファンならずとも〝坂〟の針路は大いに気にかかる。

おっとり 商い模様    坂と待合

国電飯田橋駅の西口を出て右に坂を下ると外堀通り。この通りを渡れば、もう神楽坂の登り口だ。
 現在、神楽坂の地名は1~6丁目まで。大久保通りをはさんで約八百メートル続くが、本来の神楽坂は、登り口から約三百メートルの傾斜部分。登り切ってからの〝平地〟部分は、昭和二十六年の町名変更まで上宮比(かみみやび)(さかな)通寺町などの地名がついていたが、付近一帯に料亭、商店、映画館が発達してにぎわったため、〝神楽坂〟と〝総称〟していた。
 現在の神楽坂通りの道幅は、歩道も含めて十二メートル弱。これは神楽坂が最も繁栄した大正、昭和初期のころと変わっていない。
 神楽坂の登り口のすぐ右角にある小さなシャツ屋。関東大震災前は足袋(たび)を売っていた。少し上の文房具店は、文士相手の紙屋。その上のおしるこ屋の前身はすし屋。それと小路をはさんで向かい側の理髪店、斜め向かい側のくつ店なども大震災前からの老舗(しにせ)――というように、神楽坂1~5丁目まで、通りに面した百十三軒の店舗のうち三十余軒が、明治、大正年間から生き残っている。これは、付近一帯の地盤が固く、関東大震災の被害も、比較的軽かったためだ。
 かもじ屋、車屋、小間物屋、スダレ屋、筆屋、(あめ)屋、メイセン屋半えり屋、三味線屋……。大正時代の神楽坂の地図には懐かしい職種がズラリと載っているが、時代の流れで現在は消えた商売も多い。
 神楽坂通りを歩いて抜けるのに十分とかからない。現在、通りの両側には、レストラン、パチンコ店、銀行、文具店、呉服店、洋品店、洒店、書店、雑貨店、食料品店と、店舗はひと通りそろっている。いずれの店も、間口は小さく、ほとんど二階建て止まり。
 それでも、ホッとした気分になるのは、万事オットリしたふんい気だからだろう。一方通行で車が少ないこと、アーケードがないからゴテゴテした飾りつけがないこと、デパート、スーパーがなく高級専門店が多いこと――などが原因だ。「東京の真ん中にこんな静かな所があったんですかって、よそから来たお客様がよく言われます」――創業百三十年の洒店「万長」の社長、馬場敏夫さん(四八)。

約三百メートル 約300mは「神楽坂下」交差点から毘沙門まで。「神楽坂下」交差点から最高地点の丸岡陶苑は約200m
上宮比町 肴町 通寺町 それぞれ神楽坂4丁目、5丁目、6丁目です。
シャツ屋 外堀通りの赤井商店です。現在はありません。
文房具店 山田紙店のこと。平成28(2016)年9月に閉店しました。
おしるこ屋 紀の善のこと。
理髪店 バーバーBankokukanや理容バンコックなどでしょう。しかしこの理容店はどうも新しくここにできたもののようです。神楽坂の他の場所からきたのでしょうか。
くつ店 オザキヤのこと
かもじ屋 入れ髪の店舗。かもじとは、日本髪を結うときに、地髪が短くて結い上げられない場合に使用する添え髪のこと。
小間物屋 日用品・化粧品・装身具・袋物・飾り紐ひもなどを売る店。
メイセン屋 銘仙屋。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物を売る店。
半えり屋 半衿屋。襦袢(じゅばん)(えり)にかぶせる布を売る店

沈滞続きの〝真空地帯〟  目下は未来像模索    巻き返し

「ドーナツ現象とは良く言ったもんですなァ」――創業三百年以上の文房具店(むかしは紙屋)「相馬屋」店主、長妻靖和さん(42)は頭をかく。山手線の()円の中心にあるのが国電飯田橋駅と神楽坂。山手線の中心なら東京の中心ということになる。でも、山手線上にある新宿、渋谷、池袋、有楽町・銀座、上野などが、広い通り、高層ビル、大型店舗で際限なくふくれ上がっているのに比べ、盛り場として大先輩の神楽坂は、ごく普通の商店街の域を出ない。周辺に厚みがついて真ん中に空洞現象が起きている、と長妻さんはいうのだ。
 なぜ〝後輩〟に後れをとったのか。遠くからの客をひきつける劇場、デパート、公園がない。通りの周辺は住宅地で人口密度が低いから客層が薄い。それに商店のほとんどは自分の土地で商売しているから、借地、借家の商店のようにガツガツもうける必要がない。それに大型店舗が進出したくても、地主が細分化され過ぎているから買収しにくい。言い換えれば、われわれ自身が町を改造したくとも身動きがとれない」と、長妻さんは指摘ずる。
 このままではジリ貧――という不安が、現在の商店街全体を覆っている。「でも、どうすれば良いのか、確たる目標が定まらない。毘沙門(びしゃもん)様と花柳界が神楽坂の特色だから、この二つを活用して何とかなりませんかね」(馬場さん)。
 大正時代、神楽坂発展の刺激となったのは、市電など交通網の発達。それ以降、たいした刺激を受けなかった神楽坂の周辺に大きな変化が起こりつつある。都営地下鉄十二号線(豊島園-新宿-六本木-両国-春日町-新宿)営団地下鉄七号線(目黒-赤羽)の建設予定の地下鉄二新線が神楽坂にとまるほか、坂下の神楽河岸には、都の飯田堀開発事業として、十五、二十階建ての二つの高層ピルが建設される。「今後三、四年のうちに神楽坂には大きな変化が来る」とだんな衆は期待している。

花柳界 かりゅうかい。芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
都営地下鉄十二号線 大江戸線です。平成3年(1991年)12月に開業。
営団地下鉄七号線 南北線です。平成3年11月に開業。
飯田堀開発事業 昭和40年代半ば、水の汚濁が顕著となり、飯田堀を埋め立てしようと、市街地再開発事業の対象に。昭和53年、事業に着手。昭和59年(1984年)、建築工事が完了。昭和61年(1986年)、街路整備工事も完了。
高層ピル 飯田橋ラムラです。昭和59年に完成。

☆〝きら星〟ワンサと ☆   文士の町

神楽坂の最盛期は、大正年間から昭和初期まで。通りの両端=神楽坂下と肴町(現在の神楽坂五丁目)=に市電が発着して、商業地域へ発展した。南に陸軍士官学校(現在の陸上自衛隊市ヶ谷駐とん部)、西に早稲田大学があって、軍人、学生が年中遊びに来たが、一番の特徴は、文士、画家、俳優など有名、無名の芸術家のたまり場だったこと。
 菊池寛早稲田南町に住み、毎晩、夕涼みがてら神楽坂に現れた。「いつも女連れで、しかも毎日、相手が違っていた。商売柄すごいもんだ、とこっちは感心してながめてましたよ」=神楽坂通り商店会・石井健之会長(六三)=。
 「芸者が丸帯を(ねこ)じゃらしにしめた姿をみて、菊池寛が〝(ねえ)さん、ほどけてますよ〟と注意したところ、〝いけ好かない野暮天〟とどなりつけられた」(新宿区立図書館編さん「神楽坂界隈の変遷」より)……など、菊池寛にまつわるエピソードは多い。
 ご当地ソングのはしりみたいな「東京行進曲」を作詞した西条八十は、払方町住人だった。「最初、あの歌が発表されたとき、どうしたわけか神楽坂が抜けていた。商店会の副会長だったうちのオヤジが、〝すぐそばに住んでいるくせに、神楽坂を無視するなんてひどいじゃないですか〟と文句を言いに行ったら、八十は〝すまん、忘れてた〟といって、三番の歌詞に神楽坂をつけ加えてくれた」(石井さん)。
 与謝野鉄幹、晶子夫妻は五番町から散歩に来て、夜店で植木を貿って行った。また、現在も善国寺毘沙門天わきで開店しているレストラン「田原屋」の常連は、夏目漱石(早稲田南町)、長田秀雄吉井勇菊池寛水谷八重子佐藤春夫サトウハチロー永井荷風(余丁町)、今東光(白銀町)、今日出海らだった。
 このほか、大正年間、神楽坂と周辺の牛込、早稲田地区に住んでいた文士たちは枚挙にいとまがない。カッコ内は現在の地名。
▽井伏鱒二=早稲田鶴巻町▽宇野浩二=袋町▽小川未明=早稲田南、矢来町など転々▽小栗風葉=矢来町▽押川春浪=矢来町、横寺町▽尾崎紅葉=横寺町▽片岡鉄兵=神楽町(神楽坂)▽金子光晴=赤城元町▽加能作次郎=南榎町、早稲田鶴巻町▽川上眉山=矢来町▽川路柳虹=新小川町▽北原白秋=神楽町(神楽坂)▽窪田空穂=榎町▽島村抱月=横寺町▽相馬泰三=横寺町▽高浜虚子=市谷船河原町▽坪内逍遥=余丁町▽長田幹彦=神楽町(神楽坂)▽野口雨情=若松町▽広津和郎=神楽町(神楽坂)▽堀江朔=喜久井町▽正岡容=戸山町▽正宗白鳥=矢来町▽真山青果=払方町▽三上於莵吉=赤城下町▽三木露風=袋町▽山本有三=市谷台町▽若山牧水=原町、若松町など。

猫じゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの
野暮天 きわめて野暮な人。
東京行進曲 昭和4年に作曲。一番は銀座、二番は丸ビル、三番は浅草、四番は新宿を歌います。一番は「昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの 涙雨」

陸軍士官学校、早稲田大学
早稲田と防衛省

早稲田と防衛省


下図を。陸軍士官学校は南に、早稲田大学は西にあり、現在も同じです。神楽坂までは明治初期は徒歩で、明治の終わりからは市電(都電)を使ってやって来ました。
早稲田南町
榎町

榎町


菊池寛氏は早稲田南町ではなく、大正7年3月から9月までの間、(えのき)町に住んでいました。新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)によれば「早稲田南町の漱石旧宅から一町とは離れていない榎町の陋巷にあった」といいます。一町は約110m。陋巷とは「ろうこう。狭くむさくるしい町」。弁天町交差点のすぐ近くに住んでいたのでしょう。
☞芸者が…
猫じゃらし

猫じゃらし。男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの


実際には新宿区立図書館編纂の「神楽坂界隈の変遷」には、前にもう1つエピソードがあります。「菊池寛がだらしのないかっこうをしてがほどけて地べたにぶら下っていたので『帯がほどけていますよ』と注意された。翌年のお正月に芸者が出の着物に丸帯を猫ぢゃらし*にしめた姿をみて菊池寛が『姐さん、帯がほどけていますよ』と注意して『いけ好かない野暮天』とどなりつけられたエピソードもこの頃のことだ」というものです。
払方町
払方町

払方町


払方町は新宿区北東部に位置し、北東部は若宮町と、東部は市谷砂土原町と、南部は市谷鷹匠町と、西部は納戸町と、北西部は南町と接し、牛込中央通りが通過する。
三番の歌詞… どうも間違いのようです。現在の三番は浅草で、歌詞は「ひろい東京 恋ゆえ狭い 粋な浅草 忍び逢い あなた地下鉄 わたしはバスよ 恋のストップ ままならぬ」で、神楽坂は入っていません。B面は「紅屋の娘」で、紅谷の娘をモデルに使ったといいます。
メモ
地名のいわれ
 「坂の上に高田穴八幡社があり、祭礼の時、みこしが来て神楽を奏した」(新撰東京名所図絵)、「市谷八幡が祭礼のとき、みこしが牛込御門の橋の上にとまって神楽を奏した」(江戸砂子)――など諸説があるが、はっきりしない。
毘沙門天
 神楽坂通りの〝へそ〟。正式には日蓮宗鎮護山善国寺。毎月「五の日」(五、十五、二十五日)に縁日として夜店が出てにぎわう。四十六年十一月に本堂を新築したが、寄付をしたのが児玉誉士夫。寺の門柱に麗々しく児玉の名が刻まれており、「どうも弱りました」とだんな衆はニガ笑い。
阿波踊り
 五年前から夏の恒例行事。今年は先月二十三、四日に計三万人以上を集めた。本来は地下鉄十二号線の駅誘致のため、都庁向けに行ったデモンストレーションだったが、予想外の好評のため、定着してしまった。
花柳界
 江戸時代の神楽坂は私娼(ししょう)が多く、花柳界としては明治初めから盛んになった。大震災で神楽坂だけは無事だったため、客が殺到、昭和初期から戦争直前までが最盛期で、芸者約七百人。現在は百六十人。

地下鉄十二号線 大江戸線です。
私娼 ししょう。公の許可がない売春婦
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の巷

新撰東京名所図絵 雑誌「風俗画報」の臨時増刊として、明治29年(1896)9月25日から明治42年3月20日にかけて、東京の東陽堂から刊行。上野公園から深川区まで全64編、近郊名所17編。明治時代の東京の地誌が記されており、地名由来をはじめ、地域の名所としての寺社などが図版や写真入りで記載。神楽坂は第41編(明治37年、1904)に登場
江戸砂子 正しくは「江戸砂子すなご温故名跡誌」。菊岡沾涼が著した江戸地誌で、享保一七(1732)年に刊行。武蔵国の説明に始まり、江戸城外堀内の説明、さらに当時の地誌によく見られる江戸城を中心として方角ごと(東、北東、北西、南および隅田川以東)にわけてその地域の寺社や名所旧跡などを説明。
児玉誉士夫 昭和時代の右翼運動家。外務省や参謀本部の嘱託として中国で活動。16年、海軍航空本部の依頼で「児玉機関」を上海につくり物資調達に。20年、A級戦犯。釈放後、政財界の黒幕となり、51年ロッキード事件では脱税容疑で起訴。病気で判決は無期延期。公訴は棄却。生年は明治44年2月18日。没年は昭和59年1月17日で、死亡は72歳。
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田原屋[昔]|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。場所はここです。2002年2月に閉店。

昔の田原屋、田原屋跡田原屋ロゴ

 夏目漱石菊池寛佐藤春夫永井荷風らが通いました。メニューにはなんとも懐かしい「田原屋」のレタリング。

 田原屋は最初はおいしかったと思います。しかし後半はこのメニューのように、新しいものも新鮮なものもなく、あるのは旧弊だけとなり、うーん、どうもなあ、でした。

 新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)の注として

毘沙門の隣の静岡という魚やが、土地付で家を売りたいというので4000円で30坪、家付で買って、これで今の田原屋のめばえとなったのです。開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には、 観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門、六代目、先々代歌右ヱ門、松永和風、水谷八重子サトー・ハチロー、加藤ムラオ、永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生は京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅田清吉氏の“手紙”から)

 加藤ムラオという名前はないので、野口冨士男氏は註として「加藤武雄と中村武羅夫?」と書いています(『私のなかの東京』 文藝春秋)。2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。

夏目純一氏は『父の横顔』でこう書いています。父は夏目漱石です。

やはり、小学一、二年の頃だったと思う。父は私達をつれてよく散歩に行った。当時新宿はまだ今のように発展してはいなかったが、神楽坂はとてもにぎやかで、夏の夜なぞ、夕方から団扇(うちわ)をもった浴衣がけの人達が、夜店をひやかしたり、往来の金魚屋をのぞいたりして仲々風情があったものだ。そんな通りをぶらつきながら、毘沙門さまのあたりまで来ると田原屋という料理屋があった。表は果実屋だが中に入ると洋食を食べられるようになっていて、それが仲々美昧かった。父は私達をよく、この田原屋へつれて行ってくれたのだが、前にすわっていて、いちいち、がちゃがちゃ音を立ててはいかん、他所(よそ)見をしないで前を向いて食べろとか、口にほうばってべちゃべちゃ喋るなと、そのやかましい事といったら、何々するな、何しちゃいかんの連続で、せっかくの御馳走もさっぱり食べたような気がしなかった。後で考えるといちいちもっともな事ばかりなのだが、その時はおいしい物もいいが、こういちいち何か言われたんでは、田原屋も願いさげにしたいなと思った。父は父で、せっかく連れて行ってやった小供達が自分の顔色を見たり、何か自分を敬遠したりする私達を感じて、淋しい気がした時もあったろうと思う。

現在は「玄品ふぐ神楽坂の関」です。ふぐ

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