兵庫横丁」タグアーカイブ

「見返し横丁」に抜け道新設へ

文学と神楽坂

 地元の方から「見返し横丁」(か「見返り横丁」)に関する文章をいただきました。

 神楽坂4丁目、本多横丁から脇に入る通称「見返し横丁」は、ある時期まで「兵庫横丁」に出る抜け道がありました。現在はブロック塀でふさがれています。
 これとは別の「抜け道」を新設するプランが進行しています。
 新宿区は「神楽坂三・四・五丁目地区地区計画の都市計画変更原案」を策定し、令和5年1月13日の新宿区都市計画審議会に報告しました。
 注意点として、区の資料では一貫して該当する路地を「見返り横丁」と呼んでいます。「まちづくりキーワード集」(1977年)で図示した路地と違います。また雑誌「ここは牛込、神楽坂」でつけた愛称「見返し横丁」は採用していません。路地の名前が地元に定着していなかったことを示唆します。
 さて、区は審議会に次のように報告しました。
 見返り横丁につきましては、行き止まり道路になっているといったようなところがありますので、2方向避難の観点から、地区内の地権者のご協力を得て0.6m、60cmの避難経路を確保するといったところで、こちらの避難経路についても地区施設に位置づけるといったところです。

 資料の図を見ると、東京理科大学森戸記念館の脇のスペースを「見返し横丁」から「酔石横丁」へ通じる38メートルの避難路として活用するようです。現在は屏や植栽で通れなくしていますが、これを除去するのだと思います。避難路ですから常時、通れる形でしょう。

避難路「酔石横丁」側 黒い柵の内側

避難路「見返し横丁」側 黒い柵の内側

東京都市計画地区計画 神楽坂三・四・五丁目地区地区計画

 幅60センチは「ごくぼそ」よりはるかに狭く、新たな「路地」として名所になるかも知れません。同時に「見返り横丁」という名も、今後は定着するように思います。
 新宿区は令和5年10月の正式決定を予定しているとのことです。

「見返し」とは「1 書物の表紙と本文との間にあって、両者の接着を補強する2ページ大の紙。一方は表紙の内側に貼りつけ、もう一方は「遊び」といって、本文に接する。2 和装本で、表 (おもて) 表紙の裏にはる紙または布。著者名・書名・発行所などを印刷したものが多い。3 洋裁で、襟ぐりや打ち合わせ・袖ぐり・袖口などの縁の始末に用いる布。多く共切れを用いる」

「見返り」とは「1 ふりかえること。見返り美人。2 担保・保証またはお返しとして差し出すこと。その差し出したもの。見返り品」

 つまり「見返し」と「見返り」、あるいは「見返し横丁」と「見返り横丁」とは別々の意味でした。私もどちらがどちらなのか、よくわからないし、多分、新宿区の人もわかっていなかったのでしょう。しかし、インターネット、地図、津久戸小学校の「つくどがみてきたまちのふうけい」などは全て「見返し横丁」です。おそらく10月までに新宿区は間違えたと思って、正しく直っていると思いますが……。

兵庫横丁(写真)平成31年 ID 14052

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14052は、平成31年(2019)1月、兵庫横丁の北の入り口から南方を見て写真を撮ったものです。影が長いので夕方の撮影のようです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14052 神楽坂から南方面を望む

 前方の石畳が兵庫横丁、手前のアスファルトが公道で名前はありません。左側のゆるやかな上りは2番目の四つ角から下り坂になり、この坂は軽子坂です。右側の先、曲がり角からは和泉屋横町です。斜め後方は材木横丁。兵庫横丁と材木横丁の大部分は私有地です。

道路台帳平面図

 兵庫横丁の石畳には歩行者用の白線はなく、車を想定していません。ただ荷運びなどで例外的に車が入ることはあるようで、この写真でもバンが停まっています。
 石畳の中央部は扇形に並んでいますが、左右は少し違っています。これについて地元の人の解説は……

 石畳は路地の歴史を色濃く残します。この写真の右側には雨水を流す側溝があり、境石を挟んでモザイクのような石敷になっています。石畳とアスファルトの境に正方形の金属製プレートがあり、おそらく土地の境界標です。建物を建てる時に路地を広げて側溝を作ったと想像できます。
 左の家の前は、幅40センチくらいにわたって石畳が直線的に敷かれています。よく見ると赤い三角ポール(駐車禁止)の左側に窪みがあります。この窪みは別の写真で見ると排水溝です。昔はこの位置が路地の端で、今の建物を建てたときに後退して石畳を追加したことが分かります。
 私有地では、こうした側溝や上下水道は路地に面した家が費用を負担して整備します。おそらく下水管は路地の中央にあり、公道に出たところのマンホールにつながっています。
 工事で石畳を部分的に掘削した時は、そこを石畳に戻すのがルールです。従って時代を経るにつれて石畳は傷んでいきます。ちなみに神楽坂通りの歩道のインターロッキングは公道ですが、工事した店が掘削部分を同じ材料で復旧する義務を負っています。
 私有地である路地でも、住人が区に共同で申請すれば上下水道や石畳の整備に補助がもらえます。住人の意見がまとまらない場所では、徐々に石畳を維持できなくなっていくようです。
境石 きょうせき。境界石。きょうかいせき。隣の敷地や道路との境界ライン。素材はコンクリート、金属、プラスチック、鋲など。境界標と同じ
石敷 平たい石を敷き詰めて舗装した所。ピンコロ石より大きい。
境界標 目に見えない境界点を現地で示す標識

https://to-ki.jp/center/useful/kiso010.asp

 左の家1軒目はイタリア料理店ラストリカート(意味は石畳)で、2軒目は「おいしんぼ」です。中央部には旅館「和可菜」があります。ここで終わりに見えても右側に小路があり、さらに奥にはいっています。上の絵(ID 14052)も電柱があり、やはり奥にはいけないという幻想があります。ここから心理的には昭和初期、ちょっと怖くて、わくわくする世界が始まります。

兵庫横丁 住宅地図 2017年

 遠景のビルは左は島田ビル(地上6階、1階はワヰン酒場)、右はオザワビル(地上7階と地下1階、1階は郵便局とカフェ・ベローチェ)です。どちらも神楽坂通りに接しますが、縦横高さの大きさでもオザワビルのほうが巨大です。

和可菜|新宿歴史博物館

文学と神楽坂

 旅館「和可菜わかな」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き旅館」として有名でした。2015年末に一時閉店、隈研吾設計事務所の手を借りて、2022年、再出発、営業再開予定ですが、22年7月。再開はまだのようです。
 和可菜は路地の小さなクランクに印象的な看板を出しています。ここは曲がり角というより、兵庫横丁が狭くなっている場所です。
 路地の石畳は水道工事などで部分的に掘り返すことがあります。ID 13350の左下の石畳が少し新しく見えるのは、そうした工事のせいかもしれません。
 ここでは新宿歴史博物館がカメラで撮った写真を4枚(2008年、2010年、2014年、2017年)収録します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13350 旅館和可菜 平成20年(2008)3月

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13691 旅館 和可菜 平成22年(2010)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13255 旅館 和可菜 平成26年(2014)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13984 旅館和可菜 平成29年(2017)

 なお、平成29年のID 13984では前半分が他の建物です。

和可菜 住宅地図 2017年

 では現在の和可菜の写真です。少し化粧直しをして看板を新しくした以外は、変わっていないようです。

和可菜 2022/7/8

和可菜 2022/7/8

料亭「喜久川」(昔) 神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 地元の人の話です。松川二郎氏の「全国花街めぐ里」(誠文堂、1929年) によれば、喜久川きくがわと読むようです。

神楽坂を代表する大料亭と言えば「松ヶ枝」と「喜久川」。自分で入ったことはなくとも、地元ではそれが常識でした。

政財界の要人に愛された松ヶ枝が多くの人の記憶に残るのは当然でしょう。しかし喜久川が、このブログの記事にほとんど出てこないのは残念なように思います。

喜久川の場所は4丁目の北西部、5丁目との境です。入り口は北側(白銀町側)。松ヶ枝同様に戦前から店を構え、戦後に大きくなったことが各種の地図で分かります。花街らしい風情と風格を兼ね備えた立派な門構えでした。廃業後、跡地は「神楽坂プラザビル」というオフィスビルになりました。ビルの完成は1992年11月です。

喜久川がビルになって、玄関前の道(注・和泉屋横町)の風情がなくなりました。それで、再開発されなかった近くの「兵庫横丁」が注目されるようになったと思います。神楽坂の路地ブームは、おおよそ1990年以降です。例えば昭和51年(1976年)の読売新聞の特集のイラストや記事は、路地に興味を示していません。

さて、写真は知りませんが、今に残る痕跡はあります。3丁目の見番手前の伏見火防稲荷神社玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です。両者が奉加帳のトップとして、最も多額の寄進をしたことが分かります。

戦前から店を構え、戦後に大きくなった 実際に大きくなりました。1937年の地図では「御木(待)」と一緒になっています。

1937年火災保険特殊地図から1984年の住宅地図。

玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です 写真を参照。「㐂」は「喜」の異体字。

松ヶ枝と喜久川。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では「全国花街めぐ里」を引用して……

○旧券 芸妓屋121軒。芸妓数446名。内小妓52名。料理店11軒。待合97軒。
 主なる待合は由多加、梅林、玉の井(神楽町)、肴町の重の井、宮比町の喜久川、もみぢ、福仙、若宮町のおかめ、津久戸の中村家、その他かぐら,梅村などが名の通っている待合。
○新券の方はというと、
 芸妓屋45軒、芸妓数173名、内小妓15名、料理店4軒、待合32軒。
 主なる待合。若宮町の松ケ枝を代表として之に次ぐもの小松、住の江。幸楽、萬琴、あけぼの。

 松川二郎氏の別の本「三都花街めぐり」(誠文堂文庫、1932年)にも喜久川がでてきます。

 主なる待合 由多加、梅林、玉の井、楓月(以上神樂町)松ケ枝(若宮町)重の井(肴町)喜久川、もみぢ、福仙(以上宮比町)御歌女(若宮町)中村家(津久土町)。その他小松、住の江、幸樂、かぐら、梅村など。


兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

360度VRカメラ(2)

かくれんぼ横丁


兵庫横丁

見返り横丁

見返し横丁

浅田宗伯医院跡

酔石横丁

島村抱月の終焉

尾崎紅葉と十千万堂

石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

石畳|神楽坂|酔石横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。


『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

     石畳が美しい『酔石すいせき横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林  そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。

 神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はここここ)と書かれています。

 それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。

酔石2

 ここについては毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。

毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは、「むかしはいい下駄ほどすぐに割れちゃったらしいし、いまでも台車が通るとガタガタうるさい。母親を車椅子に乗せてたころも、通りづらくて困ったよ」といい、石畳なんてべつに好きじゃない、といいきる。実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。下水管工事のため、石畳をぜんぶはがさなくてはいけなかったからだ。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻したその時にすごくきれいになったよね。それまでは、あっちこっち掘ったりしてボコボコだったけどさ」と当時を振り返る福井さんはうれしそうだ。


石畳とマンホール

石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21

石畳1

石畳

神楽小路横 かくれんぼ 毘沙門横丁 紅小路 見返し横丁 兵庫横丁 クランク 寺内公園 酔石横丁

 明治時代は1本の道なのに毘沙門横丁を通って南に進むと、出羽様下、谷がはいり、若宮小路庾嶺坂まで、毘沙門横丁を含めて、なんと道の名前は4本になりました(明治20年の神楽坂の地図)。

復興土地住宅協会著 東京都市計画図

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。




2013年5月2日→2019年4月27日

石畳|神楽坂|駒坂(360°パノラマVRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

 駒坂は『ここは牛込、神楽坂』で

井上  それから。おまけでページがあったら入れたいということで、消防署の前の大久保通りを渡って、『ひょうたん坂』を越えて白銀公園の方へゆく。そこから有名な「大〆」のところを通ってすぐのところを、左に曲がって『玉の湯』の方に下りる道。
坂崎  あそこは『駒坂』。となりのひょうたん坂と対で、ひょうたんから駒、ということで。
井上  あの階段のあるところですね。

 ほかに玉の湯階段という名前も付いています。

 一応、地図で同じことを見ておきます。小さな小さな赤点は石畳がある駒坂です。長くて赤い路地も区道です。地図では立派に見えますが、う~ん噓です。
駒坂3

 これが駒坂です。区道です。
石畳|駒坂1

  この階段は小さくて、2.7メートル。この石畳は1.96メートルでした。

石畳|駒坂2石畳|駒坂3

 下から見るとこうなっています。

石畳|駒坂4

 ちなみにもうひとつ、区道?を上げておきます。前の右側に書いてあったところです。東側はここで、幅はたったの91センチ。

区道東

 西側はここで、幅は1.55cm。

区道西

 幅1メートルもないので、これは本当に区道でしょうか。



伝統の店々|昭和30年(2/4)

文学と神楽坂

「中小企業情報」の「商店街めぐり 神楽坂」『伝統の店々』(昭和30年)で、まず助六、丸岡、塩瀬、柏屋、サムライ堂です。

その向いは履物の助六、その名のごとく江戸趣味豊かな粋な履物で有名な店である。大正三年創業で昔の不粋なさつま下駄を改め歯を薄く背を低くした粋な下駄を創案して履物界に大いなる改革を与え、花柳界は勿論、高松宮山階宮の愛顧をうけ、また吉右衛門玉堂菊池寛等と文士著名人の愛用も多かつたといわれている。

さつま下駄 薩摩(さつま)下駄(げた)。駒下駄に似た形で、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多く杉材で作る。ちなみに、(こま)下駄(げた)は台も歯も1枚の板からくりぬいて作ったもの。雨天だけではなく晴天にも履ける。17世紀末期に登場し、広く男女の平装として用いられた。明治以前におけるもっとも一般的な下駄。日和(ひより)下駄(げた)は歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。雨天にも爪皮(つまかわ)をつけて用いる。
高松宮 かつて存在した日本の皇室の宮家。1913年(大正2年)7月6日創設。
山階宮 山階(やましなの)(みや)。江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、(あきら)親王が創設した宮家。なお、山階芳麿氏は山階鳥類研究所を創設し所長に
吉右衛門 中村(なかむら)吉右衛門(きちえもん)。初代。生まれは1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。若宮町31~2番地に住みました。若宮会と若宮町自治会が書いた『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)です。吉右衛門と川合玉堂が道を接して住んでいました。なお、新坂はここで若宮町

頼戸物の丸岡は、創業六十年、三代目。和菓子の塩瀬は、明治四十四年塩頼総本家の神楽坂支店としてこの地にできたものである。呉服の柏屋の主人山浦岩男氏は神楽坂振興会々長として、戦後の神楽坂振興のために多大の尽力貢献をした人で神楽坂一丁目から六丁目までの統合から軍用道路徹回や車留制夜店の復活請願等老齢にもかかわらず昔の神楽坂の繁栄を呼びもどさんと積極果敢な活躍をつづけている。向いの洋品のサムライ堂は明治四十年創業で、今三代目「御値切お断り申上候」の正札主義で看板に偽りなし、武士道精神を商道に生かすものとして当時は乃木大将お気に入りの洋品店で、良品堅実な店という評判が高い。
3丁目1

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

丸岡 丸岡陶苑。創業明治24~25年。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」と書いてあります。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」
丸岡
塩瀬 雑誌『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では
「築地の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎やおかきのような庶民的なものもおいしかった」
 久保たかし氏の『坂・神楽坂』(平成2年)では「和菓子の老舗「塩瀬」がつい最近まであったが、今は無い」塩瀬
柏屋 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第5号「本多横丁」によれば創業は大正7(1918)年。振袖、訪問着、染帯、染額の作品を展示。現在は「芸者新路」にありますが、『ここは牛込、神楽坂』第5号の平成7(1995)年には、本多横丁に。さらに昔の昭和30年には「向いの洋品のサムライ堂」となっています。つまり、この時代、柏屋とサムライ堂とは神楽坂通りの対面、では言い過ぎで、斜向かいになり、柏屋は神楽坂3丁目のタバコ中西屋と菓子塩瀬の間に入りました。

1960年、3丁目北側最西部の歴史

1960年。住宅地図

軍用道路 軍隊の移動,補給など軍事上の目的によりつくられた道路。戦略的には国防道路で、平時の軍隊の高速移動、補給、軍事施設への通行のため、直線、立体交差を原則としました。形、幅、勾配、カーブ、路面、路床を、機械化部隊の連続移動に耐えうるよう頑強につくります。日本にも第二次大戦前は軍港や要塞への軍用道路がありました。しかし、神楽坂通りは戦後の進駐軍の専用道路でした。
『まちの想い出をたどって』第4集の岡崎公一氏は「神楽坂の夜店」を書き

 戦後は、神楽坂に闇市が出なかった。それは、神楽坂下のたもとに神楽坂瞥察署があり、また神楽坂の通りが進駐軍の専用道路(立川方面)となったためでもある。ただ、昭和二十四年十月十五日発行の露店商の縁日暦(非売品)によれば、神社、佛閣の境内などに縁日が出ていた。神楽坂でも、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社などにも毎月、日によって出ていた。
神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私が振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家があり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一家)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた

車留制夜店 くるまどめ。車を禁止し、夜店を出すこと。
サムライ堂 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では

 洋品店のサムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

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 また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『サムライ堂』の創業は明治年間(岩動景爾『東京風物名物誌』によると明治四〇年)、創業者は伊賀上野出身の英二郎氏である。はじめは神楽坂の検番近くで娘二人とともに西洋料理店を営業していたが、その後当地に唐物(輸入品)を扱う店を開いた。そのころ乃木希典が当店の軍足を愛用し、店名を『サムライ堂』と命名したと伝えられる。
 店で扱った商品は、シルクハツト・麦わら帽子・パナマ帽・カンカン帽などの他、ステッキやゴルフ用のニッカボッカなどであった。伊勢丹にない物がここにはある、とお洒落なお客さんが多くやってきた。下着も上等品を置き、ラクダの上下などにはサムライ堂で独自に作ったタグを付けて売っていた。店員は男女あわせて12~3人ほどいた。ほとんどが縁故採用で、店員はみんな店の上階にあった店員用の部屋に住み込んでいた。店員は字を書く機会が多いので、暇なときはいつも習字の練習をしていたという。店員たちの娯楽は、仕事が終わってから銭湯へ行くことであった。
 関東大震災の直後、朝方に店を開けると下着やシャツを求める人々が並んで待っていた。店には在庫が沢山あったので、仕入れに困るということもなく、このような需要にも応えることができた。
 サムライ堂の看板は青銅製で、馬に乗った武士を描いていた。戦時下に金属を供出することになり、これを出版クラブの所まで運んで行った。戦争が始まってから店員もだんだん少なくなってゆき、終戦の時点では二人が残っていた。
 四代目の店主が平成三年に亡くなり洋品店は閉店したが、五代目の当主が平成九年にインポートショップ「woods」を開店した。

 これは平成10年の「ゼンリン住宅地図」ではサムライ堂ビルになります。これは、2014年か15年に建て替えし、現在、このビルにはWorld Wine Barなどがはいっています。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂11|カッフエ其他

文学と神楽坂

 加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)です。

  カッフェ其他
 カッフェ其他これに類する食べ物屋や飲み物屋の数も実に多い。殊に震災後著しくふえて、どうかすると表通りだけでも殆ど門並だというような気がする。そしてそれらは皆それぞれのちがった特長を有し、それぞれちがった好みのひいき客によって栄えているので、一概にどこがいゝとか悪いとかいうよりなことはいえない。けれども大体において、今のところ神楽坂のカッフェといえば田原屋とその向うのオザワとの二軒が代表的なものと見なされているようだ。

カッフェ コーヒーなどを飲ませる飲食店。大正・昭和初期には飲食店もありますが、女給が酌をする洋風の酒場のことにも使いました。
震災後 関東大震災は大正12年(1923年)9月1日に起こりました。神楽坂の被害はほとんど何もありませんでした。
門並 かどなみ。その一つ一つのすべて。一軒一軒。軒なみ。何軒もの家が並び続いている。以上は辞書の訳ですが、どれももうひとつはっきりしません。
オザワ 一階は女給がいるカフェ、二階は食堂です。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

 下の図は加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』の挿絵です。古い「田原屋」の絵がでています。 田原屋の絵

(左)牛込區全圖 市區改正番地入 三井乙藏 著 三英社大正10年2月(右)牛込区名鑑. 大正15年版 小林徳十郎 編 自治めざまし新報社 大正14年

 田原屋とオザワとは、単にその位置が真正面に向き合っているというばかりでなく、すべての点で両々相対しているような形になっている。年順でいうと田原屋の方が四、五年の先輩で料理がうまいというのが評判だ。下町あたりから態〻食事に来るものも多いそうだ。いつも食べるよりも飲む方が専門の私には、料理のことなど余り分らないが、私の知っている文士や画家や音楽家などの芸術家連中も、牛込へ来れば多くはこゝで飲んだり食べたりするようだ。五、六年前、いつもそこで顔を合せる定連たちの間で田原屋会なるものを発起して、料亭常盤で懇親会を開いたことなどあったが、元来が果物屋だけに、季節々々の新鮮な果物が食べられるというのも、一つの有利の条件だ。だがその方面の客は多くは坂上の本店のフルーツ・パーラーの方へ行くらしい。
 薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。少し遅れてその筋向いにカッフェ・スターが出来、一頃は田原屋と三軒鼎立の姿をなしていたが、間もなくスターが廃業して今の牛肉屋恵比寿に変った。早いもので、オザワが出来てからもう今年で満十年になるそうだ。田原屋とはまたおのずから異なった特色を有し、二階の食堂には、時々文壇関係やその他の宴会が催されるが、去年の暮あたりから階下の方に女給を置くようになり、そのためだかどうだか知らぬが、近頃は又一段と繁昌しているようだ。田原屋の小ぢんまりとしているに反して、やゝ散漫の感じがないではないが、それだけ気楽は気楽だ。

 新宿歴史博物館の『新宿区の民俗』「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」を見ると震災前

態〻 わざわざ。特にそのために。故意に。「〻」は二の字点、ゆすり点で、訓読みを繰り返す場合に使う踊り字です。大抵「々」に置き換えらます。
料亭常盤 昭和25年に竣工した本多横丁の常盤家ではありません。当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」では、常盤と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。
上宮比町
薬屋の尾沢 尾沢薬局からカフェー・オザワが出てきました。神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
 カッフェ・スター 牛肉屋恵比寿に変わりました。カッフェ・スターというのはグランド・カフェーと同じではないでしょうか?別々の名前とも採れますが。
恵比寿亭 現在山せみに代わりました。場所はここ。
散漫 まとまりのない。集中力に欠ける。

 この外牛込会館下のグランドや、山田カフエーなどが知られているが、私はあまり行ったことがないのでよくその内容を知らない。又坂の中途に最近白十字堂という純粋のいい喫茶店が出来ている。それから神楽坂における喫茶店の元祖としてパウリスタ風の安いコーヒーを飲ませる毘沙門前の山本のあることを忘れてはなるまい。

グランド 新宿区郷土研究会の20周年記念号『神楽坂界隈』の中の「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエーグランド」は牛込会館の下か右、あるいは地下にあったようです。現在はサークルK神楽坂三丁目店です。
山田カフエー 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「カフエ山田」は現在の助六履物の一部にありました。
白十字堂 「神楽坂と縁日市」によれば昭和初期に「白十字喫茶」は以前の大升寿司にありました。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
パウリスタ風 明治44年12月、東京銀座にカフェーパウリスタが誕生しました。この店はその後の喫茶店の原型となりますが、これは「一杯五銭、当時としては破格値だったため、カフェーパウリスタは開店と同時に誰もが気軽に入れる喫茶店として親しまれるようになりました」(銀座カフェーパウリスタのPR)からです。なお、パウリスタ(Paulista)の意味はサンパウロっ子のこと。
山本 『かぐらむら』の「今月の特集」「記憶の中の神楽坂」で、「『山本コーヒー』は楽山の場所に昭和初期にあった。よく職人さんに連れていってもらった」と書いてありました。同じことは「神楽坂通りの図 古老の記録による震災前の形」でみられます。詳しくはここで
 震災後通寺町の小横町にプランタンの支店が出来たことは吾々にとって好個の快適な一隅を提供して呉れた様なものだったが、間もなく閉店したのは惜しいことだった。いつぞや新潮社があの跡を買取って吾々文壇の人達の倶楽部クラブとして文芸家協会に寄附するとの噂があったが、どうやらそれは沙汰止みとなったらしい。今は何とかいう婦人科の医者の看板が掛かっている。あすこはずっと以前明進軒という洋食屋だった。今ならカッフエというところで、近くの横寺町に住んでいた尾崎紅葉その外硯友社けんゆうしゃ一派の人々や、早稲田の文科の人達がよく行ったものだそうだ。私が学校に通っていた時分にも、まだその看板が掛かっていた。今その当時の明進軒の息子(といってもすでに五十過ぎの親爺さんだが)は、岩戸町の電車通りに勇幸というお座敷天ぷら屋を出している。紅葉山人に俳句を教わったとかで幽郊という号なんか持っているが、発句よりも天ぷらの方がうまそうだ。泉鏡花さんや鏑木かぶらぎ清方さんなどは今でも贔屓ひいきにしておられるそうで、鏡花の句、清方の絵、両氏合作の暖簾のれんが室内屋台の上に吊るされている。

プランタン、婦人科医、明進軒 渡辺功一氏著の『神楽坂がまるごとわかる本』では以下の説明が出てきます。

「歴史資料の中にある明治の古老による関東大震災まえの神楽坂地図を調べていくうちに「明進軒」と記載された場所を見つけることができた。明治三十六年に創業した神楽坂六丁目の木村屋、現スーパーキムラヤから横丁に入って、五、六軒先の左側にあったのだ。この朝日坂という通りを二百メートルほど先に行くと左手に尾崎紅葉邸跡がある。
 明治の文豪尾崎紅葉がよく通った「明進軒」は、当時牛込区内で唯一の西洋料理店であった。ここの創業は肴町寺内で日本家屋造りの二階屋で西洋料理をはしめた。めずらしさもあって料理の評刊も上々であった。ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われた洒落た洋館風建物で、その西洋料理は憧れの的であったという。この明進軒は、神楽坂のレストラン田原屋ができる前の神楽坂を代表する洋食店であった。現存するプランタンの資料から、この洋館風建物を改装してカフェープランタンを開業したのではないかと思われる。
 泉鏡花が横寺町の尾崎紅葉家から大橋家に移り仕むとき、紅葉は彼を明進軒に連れていって送別の意味で西洋料理をおごってやった。かぞえ二十三歳の鏡花はこのとき初めて紅葉からナイフとフォークの使い方を教わったが酒は飲ませてもらえなかったという。当時、硯友社、尾崎紅葉、泉鏡花、梶川半古、早稲田系文士などが常連であった」

 しかし、困ったことにこの資料の名前は何なのか、わからないことです。この文献は何というのでしょうか。 この位置は最初は明進軒、次にプランタン、それから婦人科の医者というように名前が変わりました。また、明進軒は「通寺町の小横町」に建っていました。これは「横寺町」なのでしょうか。実際には「通寺町の横丁」ではないのでしょうか。あるいは「通寺町のそばの横丁」ではないのでしょうか。
 渡辺功一氏の半ページほど前に笠原伸夫氏の『評伝泉鏡花』(白地杜)の引用があり、

 その料理店は明進軒といった。紅葉宅のある横寺町に近いという関係もあって、ここは硯友社の文士たちがよく利用した。紅葉の亡くなったときも徹夜あけのひとびとがここで朝食をとっている。〈通寺町小横丁の明進軒〉と書く人もいるが、正しくは牛込岩戸町ニ十四番地にあり、小路のむかい側が通寺町であった。今の神楽坂五丁目の坂を下りて大久保通りを渡り、最初の小路を左へ折れてすぐ、現在帝都信用金庫の建物のあるあたりである。

と言っています。昭和12年の「火災保険特殊地図」で岩戸町24番地はここです。
明進軒
 また別の地図(『ここは牛込、神楽坂』第18号「寺内から」の「神楽坂昔がたり」で岡崎弘氏と河合慶子氏が「遊び場だった「寺内」)でも同じような場所を示しています。
肴町
 さらに1970年の新宿区立図書館著の「神楽坂界隈の変遷」でも

紅葉が三日にあげず来客やら弟子と共に行った西洋料理の明進軒は、岩戸町24番地で電車通りを越してすぐ左の小路を入ったところ(今の帝都信用金庫のうしろ)にあった。

 さらに『東京名所図会』を引用し

 明進軒は岩戸町二十四番地に在り。西洋料理,営業主野村定七。神楽坂の青陽楼と併び称せらる。以前区内の西洋料理店は,唯明進軒にのみ限られたりしかば、日本造二階家(其当時は肴町行元寺地内)の微々たりし頃より顧客の引立を得て後ち今の地に転ず。其地内にあるの日、文士屡次(しばしば)こゝに会合し、当年の逸話また少からずといふ。

 結論としては明進軒は岩戸町二十四番地でしょう。
硯友社 けんゆうしゃ。明治中期の文学結社。1885年(明治18)2月、東京大学予備門在学中の尾崎紅葉、山田美妙(びみよう)、石橋思案(1867‐1927)らが創立。同年5月から機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を創刊し、小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)など、さまざまな作品を採用。紅葉、美妙が筆写した回覧雑誌、のちに印刷しさらに公売。
勇幸 場所は上の地図を見て下さい。この場所は今でも料理屋さんがたくさん入っています。鏑木清方の随筆「こしかたの記」では

ひいき客のあと押しもあって新店舗に移転した。赤いレンガ塀で囲われ明進軒は紅葉一門が行きつけの洋食店で、半古先生も門人などをつれてよく行れた。後年私が牛込の矢来に住んで、この明進軒の忰だったのが、勇幸という座敷天ぷらの店を旧地の近くに開いて居るのに邂逅(めぐりあ)って、いにしえの二人の先生に代わって私が贔負(ひいき)にするようになったのも奇縁というべきであった。泉君(鏡花)も昔の(よしみ)があるので、主人の需めるままに私と寄せがきをして、天ぷら屋台の前に掛ける麻の暖簾(のれん)を贈った。それから彼は旧知新知の文墨の士の間を廻ってのれんの寄進をねだり、かわるがわる掛けては自慢にしていた。武州金沢に在った私の別荘に来て、漁り立ての魚のピチピチ跳ねる材料を揚げて食べさしてくれた。気稟(きっぷ)のいい男であったが、戦前あっけなく病んで死んだ。

なお、「旧地の近くに」と書いてあり、これは「明進軒の近くに」あったと読めます。


和可菜|兵庫横丁

文学と神楽坂

 旅館「()()()」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き」として有名でした。
 粋なまちづくり倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』(2013年、東洋書店)では和可菜旅館について

霧除けを帯びた入母屋造りの瓦屋根に下見板張りの外観は、玄関脇の植栽とともに閉静な路地に彩りを添えている。板塀にしつらえられた引違いの格子木戸は、動線を屈曲させてアプローチに「引き」を作る。玄関は洗い出し土間に自然石を沓脱ぎとして配し、台形の無垢板の式台ナグリ吹寄せ 竿縁の天井をしつらえるなど手の込んだ意匠が残る。腰には丸太を縦張りし高窓のガラス戸桟を人字型に加工するなど、旅館建築ならではの自由なデザインも見られる。

そう、建物として本当に何かが上品で流麗なのです。
 なお、ここで出てくる設計用語については

霧除け 霧や雨が入り込まないよう、出入り口や窓などの上部に設ける小さなひさし。
入母屋造り 上部で切妻造(前後2方向に勾配をもつ)、下部で寄棟造(前後左右四方向に勾配)となる構造。
下見板張り 外壁で板を横に並べるとき、板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること。
格子木戸 碁盤の目の木の戸。
洗い出し たたきや壁などで、表面が乾かないうちに水洗いして、小石を浮き出させたもの。
沓脱ぎ 履物を脱ぐ所。
式台 玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置する板。
ナグリ 舞台玄能。
吹寄せ 竿を2本ずつ寄せて入れるもの。
竿縁(さおぶち) 一般的和室天井張り形式。
縦と横1縦張り 縦に羽目板などを張ったもの。
戸桟 裏に桟を取り付けた、頑丈な戸。

外から見た旅館・和可奈

 明治大学教授の黒川鍾信氏の本『神楽坂ホン書き旅館』は02年に出版されました。
 NHK出版でそのPRを読むと『今井正、内田吐夢、田坂具隆、山田洋次、石堂淑朗、市川森一、竹山洋、野坂昭如、結城昌治、色川武大、伊集院静、村松友視。日本を代表する映画監督、脚本家、作家たちを、神楽坂の一角で四十八年間にわたって支えてきた「ホン書き旅館」の女将が語る執筆現場の秘話』だそうです。
 本当に「秘話」はちょっと大げさですが、でも「へー」という話が一杯入っています。たとえば、山田洋次氏が寅さんシリーズ第35作で初めてここにやってきた時の話。阿佐田哲也氏のマージャン大会の話。伊集院静氏が宿をここに置いた、その理由など。
 また黒川氏は05~06年、『神楽坂まちの手帖』第9号から第15号にかけて「ホン書き旅館の帳場から」を書いています。
 さらに小田島雅和氏が『神楽坂まちの手帖』15年第1号から第3号にかけて「和可菜通信」を書いています。中身は俳句の「くちなし句会」について。 「くちなし句会」は作家結城昌治氏を中心として俳句の句会のことです。昭和52年(1977年)から開始し、第4回句会以来は「和可菜」で行い、途中で中断がありますが、平成19年(07年)以上、25年以上も続いています。今もやっているのかどうかは、はっきり言ってわかりません。やっていると思いたいです。
 伊集院静氏は11年に『いねむり先生』を書きます。そこで、筆者2人がいるけど実は同一人物だと教わります。伊集院氏がその筆者を連れて

 神楽坂の通りを毘沙門天の向いから路地に入り、くねくねと曲がった石畳の階段を段だらに降りて行くと、黒塀に囲まれたその宿はあった。

 これは和可菜です。「段だら」とはいくつにも段になっているもの。その宿の庭については

 ボクたちはその宿の庭に面した濡縁(ぬれえん)に並んで座っていた。(略)
 ちいさな庭の中央に古びた池があり、手入れかされてないのか、水は涸れてしまっている池の真ん中に一匹の黒猫が吹き溜った枯葉とじっとしていた。(略)
 庭といっても数歩歩けば表に出てしまう箱庭で、時折、塀のむこうの坂道を通る人の足音かすぐ近くに聞こえた。

 濡縁とは雨風を防ぐ雨戸などの外壁はない縁側だそうです。
 しかし、『神楽坂まちの手帖』そのものは第18号になって消えていきます。以来、「和可菜」は沈黙し、声は聞こえてはきません。本当に今も外国人が多いのでしょうか? だれかインターネットを使ってくれるとよく分かるのに。
 06年の『神楽坂まちの手帖』第15号、「ホン書き旅館の帳場から」で黒川鍾信氏は和可菜を取り上げて寿命はもう「風前の灯」だといいます。

「昭和ニ十九年~現在 ここで三千本を超える映画・テレビドラマの脚本と数百編の小説が書かれた」と刻まれるだろう。
 「~現在」が「~平成○○年」に代わる日がくるのは、さほど先のことではない。いや、すでに半分は“休館”の状態である。

 ところが、07年のTVドラマ『拝啓、父上様』はまた大きく変わります。「和可菜」は架空の料亭『坂下』のすぐ隣りになり、第3話の架空の作家・津山冬彦(奥田瑛二)の写真もここで撮影しました。

かくれんぼ横丁(「和可菜」前)
  石畳に並んで立つ津山冬彦と芸者真由美。
  スチールをとっているカメラマン。
カメラ「あ、いいな!  いいですよ! 目線一寸上。ア! いいなァ!」
  その時、撮っている先方の角から和服の男が現われる。
カメラ「ア」
  一瞬ためらい、シャッターを切る。
  和服の男――ルオーさんである。


「和可奈」の前にたたずむ作家、津山冬彦。「拝啓、父上様」で出ました。

 今では和可奈は閉鎖しても閉められない場所になってきたのです。まるで遊園地、観光名所になったようです。いまでは休みの日には人人人です。

 2015年末に一時閉店しましたが、隈研吾設計事務所の手を借りて、2021年、再出発するようです。





神楽坂の通りと坂に戻る

路地|一番狭く細い路地は

文学と神楽坂

 路地は家と家との間の狭い通路です。では一番狭い路地はどこなのでしょうか? 「ごくぼそ」の路地で、これはよくわかっています。では2番目、3番目の狭い路地は? 幅2メートルより狭い路地はどれほどあるのでしょう。

① 1番狭い路地は、ご存知、毘沙門向かいの細い路地、「ごくぼそ」の路地で、幅91cmです。地図で見てみましょう。上宮比町は将来の神楽坂4丁目になるところです。明治28年の町には何もありませんが、明治29年、ここに路地がでてきます。(新宿区『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』)

 神楽坂の夜店は明治20年代に始まっているのでこれと相まってでてきたのでしょうか。大正12年(1923)関東大震災が起きます。日中戦争が始まった昭和12年には、現在とほぼ同じ大きさになります。下の左側です。昭和27年、まだ第2次世界大戦の影響が残っているのでしょうか、1つの建物が消え、路地は巨大になります。(新宿歴史博物館『新宿区の民俗』平成13年)

 現在、「ごくぼそ」の路地も石畳なのですが、大きな板製の石畳になり、扇の文様ではありません。ビルのあいだなのですが、ちゃんと居酒屋もあります。
ちなみにストックホルム旧市街のMårten Trotzigs Gränd (モーテン・トロッツィグス・グレンド)という最小の路地は幅70cmです。

 神楽坂通りから見た路地とその反対側は…

ごくぼそ
距離5

 なお、ここではBosch(ボッシュ)のレーザー距離計GLM50 Professionalを計測では使っています。

 ② では2番目の路地はどこ? ふくねこ堂の横の「紅小路」で、最小で141cmです。石畳は扇の文様です。しかし、どちらも路地は小さすぎる感じがします。もう少し大きい路地のほうがよくはないでしょうか。


G

距離4

 ③ 毘沙門横丁と三つ叉横丁を結ぶ路地は名前はないのですが、狭いところで、148cmです。扇の文様です。人間はそんなに多くはいない場所なので、特に148cmでは多くはなく、下の石畳を眺めていると、かなり気分がいい場所なのです。
距離8

 ④ 別亭鳥茶屋横の階段「熱海湯の階段」は最小160cmで、この階段の上は石畳ですが、扇の文様ではありません。階段はコンクリート製です。和食やバーがあります。

 面白いのは坂の両端は2メートル以下ですが、階段がある場所はむしろ横幅は大きくなっていることです。258cmもある所です。事故があるとやはり小さくはできないということでしょうか。

距離9
距離7

 ⑤ 兵庫横丁の和可菜前173cm、料理幸本前は172cmです。北から来ると、路地は曲がり、それまでは大きな路地が急に先が見えなくなります。この先はどうなっているのか、興味深々です。でもなかにはなにもありません。先が見えない路地はこことかくれんぼ横丁だけです。

 以上、幅2メートル以下の路地でした。


石畳と化粧マンホールふた

文学と神楽坂

 神楽坂の石畳とマンホールをまとめて見ました。マンホールで人間が入れない枡や側溝もまとめています。場所は石畳の地図に書いてあります。

 見返し横丁が一番マンホールらしくはないもの。化粧蓋(化粧マンホールふた)を使うところはここだけです。クランク坂上はもっとも昔のもので、別の意味でマンホールらしくないものです。酔石横丁はマンホールらしくないものを狙ってマンホールらしいマンホールになりました。

化粧蓋とは景観を損なう事なく、周囲と全く同じ材料や舗装材を使って充填できるものです。

紅小路 マンホールの形をそのまま出しています。まあ、なにもしていないわけです。 石畳とマンホールと紅小路石畳とマンホールと紅小路2

見返し横丁 石畳とマンホールの蓋を比べてみると、見返し横丁だけがあらゆる点で似ています。正確に石畳の形をとってそれをマンホールの上に載せたものでしょうか。こんな蓋を化粧蓋(化粧マンホールふた)とよんでいます。石畳とマンホールと見返し横丁3

かくれんぼ横丁 やはりいろいろな形になっています。❤の石畳があります。

石畳とマンホールとかくれんぼ石畳とマンホールとかくれんぼ

兵庫横丁 最初は和可奈の前で、おれはおれだと自己主張していもの、もう1つはひっそりと他のものとそっくりなもの。
石畳とマンホールと兵庫横丁石畳とマンホールと兵庫2

クランク坂上 これはほかのマンホールと全く違います。大きな石板自身がマンホールの上蓋になっています。一番昔のものでしょうか。石畳とマンホールとクランク坂

酔石横丁 さまざまな大きさのマンホールがありますが、形は全部この形です。一番安い化粧蓋なのでしょうか。似合わないなあ。もうすこしいいものを買った方がよかった。石畳とマンホールと酔石横丁

毘沙門横丁 2つのマンホールが出ています。手前は普通のマンホールの蓋、奥も普通の円盤状のマンホールです。石畳とマンホールと毘沙門横丁

寺内公園 公園の中身にはありませんが、外の2つがマンホールです。ここはそのうち1つです。たぶん側溝(ます)でしょうか? 石畳とマンホールと寺内

石畳[昔]|赤城神社|赤城坂

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。
 ここでは北側のひとつを見てみましょう。場所は赤城神社の下、赤城坂の傍です。赤城神社からはあっという間もなく着いてしまいます。
 しかし、13年5月では石畳はちゃんとあったのですが、13年8月にはなくなってしました。

赤城坂の石畳

 今はなくなっています。ここは区のものですから、仕方がないといえばそうなのですが。

赤城神社[昔]

 これを上に上がると赤城神社です。

赤城坂の石畳2


石畳|神楽坂|寺内公園

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 ここは神楽坂通りの北側の石畳のうち「寺内(じない)公園」です。

 この公園は3種類の石畳からできています。1つは鱗張り(扇の文様)舗装です。もう1つは大きな板を置いた舗装。最後はアスファルトで覆った舗装です。

石畳 寺内公園

 一番前の舗装は鱗張り(扇の文様)です。右には赤茶けた石の舗装が貼っています。さらに遠くにはアスファルト・コンクリートで覆っています。ここでは手前が赤茶けた石の舗装、奥がピンコロ石畳です。

石畳 寺内公園

 ここでは手前がピンコロ石畳で、奥がアスファルト・コンクリートです。

石畳 寺内公園 アスファルト

 2019年の寺内公園です。土はなくなり、芝生になっています。

 この名前については平松南氏がインターネットの「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」2004年03月01日「神楽坂学を成立させることができるか(2月27日)」にこう書いています。

 神楽坂はじめての超高層26階建てマンションは、新宿区の区道付け替えで区長が住民から訴訟を起こされたが、区道と交換に60坪ほどの小さな「提供公園」がデベロッパー側から区に差しだされた。
 公園には名前がなかった。新宿区は名前がないことをとくに気にする様子もなかったが、わたしたちは「寺内公園」の名前を提案した。江戸時代ここは行元寺があり、「寺内」とよばれるようになった。新宿区の公園担当部局は、みどりや歴史のことはあまり関心がなく、わたしたちの要望はそのまま受け入れられた。
「寺内公園」では、新住民にはなにがなんだか分からなかろうということで、公園周辺の歴史や名前の由来を説明する看板をつくることになった。寺内の花柳界を昭和12年に浮世絵版画に仕立てたフランス人ノエル・ヌエットの絵も載せることにした。提供してくれたのは麹町のフランス人収集家クリスチャン・ポラックさんである。
 2月初旬にそのゲラがでてきた。私は掲載直前の文章の校閲を担当した。

 この文章の看板は「寺内公園」の案内板に書いてあります。

 この奥、先にはまた階段です。この先は前に玄関があって、行っても行き止まりだと思うのは間違いです。クランク坂上につながるのです。

クランク坂

 しかし、2016年1月に行くとこの場所はレストランが数軒集まったビルになっていました。

寺内公園20160117

石畳



石畳|神楽坂|見返し横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。

本多横丁」の1つ、見返し横丁です。

見返し2

石畳と見返し横丁2

 見返し横丁の後ろから本多横丁を見たものです。右手に見えるものが東京理科大学の施設です。右をよく見てみると、新しい路地の表面が東京理科大に添ってあるですが、しかし一見しただけでは昔から全く変わっていないようにつくっています。


石畳と見返し

 また下水道があるのですが、この上はまったく外と違っていません。「みなし道路」を作る場合にもっとも綺麗な道路です。どうしてここは外と違って綺麗なのか? 不思議ですが、右の建物が理科大なので、そこが違うのでしょうか。

 2016年、法政大学デザインエ学部建築学科岡本哲志研究室の「東京のストリート景観と路地空間」(発行は法政大学エコ地域デザイン研究所)では……。

 1945年3月と5月にあった東京大空襲では、残念ながら神楽坂一帯は焦土と化してしまう。先に検証した花街の立地変化を視野に路地を見ていくと、幾つかの路地が失われ、あるいは新たに誕生する変化を確認することができる。注目したい路地は、見返し横丁と呼ばれる路地である。この路地は現在袋小路の行き止まり路地である。先に述べた花街の変化によって、路地も変化した。

 最後部はブロックで行き止まりになっていますが、本当は兵庫横丁につながっていたのです。

 1978年には、つながっていますが

見返し横丁(1978年)

 1980年には、なくなりました。

見返し横丁(1980年)

見返し横丁(1980年)

 行き止まりになり、その後「見返し横丁」という名前もできてきました。



石畳|神楽坂|かくれんぼ横丁(360°カメラ)

文学と神楽坂

 石畳を使った(うろこ)張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。 ここは「かくれんぼ横丁」です。


 は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」『今も花柳界の黒塀が残るかくれんぼ横丁』で渡辺功一氏が発言したものの一部です。は私の説明です。また図の上下左右360度で動き、を叩くと地図は奥に進みます。

 残念ながら、家のすぐ傍の土地を覆う石畳は中央を流れる石畳と流れは違っています。左側は扇の文様ですが、右側は一直線です。

石畳とかくれんぼ

 これは「みなし道路」のためですね。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物建物は後ろに下げて作るのです。が、このセットバックで、路地は破壊してします。

石畳とかくれんぼ2

 しかし、左の流れは一見すると中央の流れと同じように見えますが、ここも違うようで、後から来た人が丹念に前と同じようにピンコロを填めていったのでしょう。残念ながマンホールは違います。

わかまつについて

 今はない「わかまつ」です。2007年3月19日、火災で焼失。「神楽坂まちの手帖」第17号(けやき舎、2007年)では……

「かくれんぼ横丁」の情緒の復活を願う神楽坂の人々

持田晃(神楽坂三丁目・かくれんぼ横丁在住)

 3月19目、午後12時50分ごろ、神楽坂3丁目の通称「かくれんぼ横丁」で火災が発生。火元となった「わかまつ」は、昭和30年代に建てられた古い木造家屋だったため、火はまたたく間に右隣の料亭「志の田」、左隣の馳走「紺屋」へと燃え広がりました。(中略)
 一年前に閉店した旅荘「駒」が、外観の雰囲気を保つたまま「神楽坂しなり」に変わったのでほっとしていたら、この1月には、料亭「高藤」の閉店と早早の取り壊し。せっかくの横丁に、吏地がぽっかりと口をあけたところへ、今回の火災です。路地の持つ「ゆったり」とした零囲気が、あっという間に火われてしまい、住民の1人として残念としか言いようがありません。
 復興がどのような経路をたどるか私にはわかりませんが、50年間保たれてきた路地らしい情緒も残ってくれることを、切に願っております。

 下の地図は2000年頃。「わかまつ」は赤い四角です。

「神楽坂まちの手帖」第15号の「『最深版』神楽坂の路地・その魅力のすべて」(けやき舎、2007年)のイラストでは

 神楽坂地区まちづくりの会「まちづくりキーワード集」(神楽坂地区まちづくりの会、1997年)では

わかまつ

「神楽坂の夜と昼」(アサヒグラフ、昭和63年6月3日、朝日新聞)では

 花街の路地にひっそりとある店。「先代は芸者置屋をやっていまして、養女のわたしも芸者で出たことがありますが、先代が亡くなったあと、昭和44年におにぎり屋になりました」と諸橋佐起子さん。下谷生まれのシャキシャキしたおばさんだ。作るものは焼きおにぎり(1個300円)ただ1種。「使っているお米も調味料も秘密よ」。カウンターは7~8人も座ればいっぱい。歌舞伎座や近所の料亭などへも出前している。香ばしい、なかなかおいしいおにぎりである。営業19~23時。日曜祝日休み。

* ピンコロ石とはこぶし大の立方体に整形された石材のこと。鱗張り舗装とは基本的にピンコロを鱗のように並べたもの。



神楽坂|兵庫横丁はどこから来たの

文学と神楽坂

 みんな兵庫横丁はどれぐらいから知っていますか? やはり2008年からでしょうか。それより前にはごく少量の人は知っていましたが、他の人は誰も知らなかったのです。

 たとえば……
 料亭幸本の若女将、寺田歩さんは2007年『神楽坂まちの手帖』第15号では

そういえば、この辺りを兵庫横丁っていうそうですね。住んでる人間は知らないもので、「へえ、名前が付いてるんだ」って驚きました。

といっています。

 もっと古く平成10年(1998年)夏号の『ここは牛込、神楽坂』では

井上 ここは神楽坂で、もっともきれいだといわれるところ。決定打がほしい。黒塀があったりして『しのび坂』はどうか。猫の通り道なので「猫坂」でもいい。
  “おしのび”という感じでいい。あのあたりは昔は確か本多横丁からも抜けられた。

 この座談会に登場する3人とも「兵庫横丁」という用語は全く知りません。

 さらに新宿区の『新宿区60年史ー新宿時物語』(新宿区、平成19年、2007年)では、なんと芸者新道という、別の場所の名前が正々堂々と付いていました。

新宿時物語

新宿時物語

 ところが平成22年(10年)の「神楽坂粋なまちなみルール」(案)では正々堂々と兵庫横丁が出てきます。

 実は水野正雄氏が『神楽坂界隈』「中世の神楽坂とその周辺」で「平成7年、神楽坂街づくりの会のフォーラムの際、ここの横丁名を「兵庫横丁を名付けるよう私から提案をしておいた」と、書いています。その際、やはり1説だと書けばよかったのに…。

提言「兵庫横丁」の命名を。
神楽坂まちづくりの会新宿区郷土史会 水野正雄。
 この周辺の横丁や路地に“かくれんぼ横丁”“見返り横丁”とかなんらかの名前がついているのですが、この横丁だけは名前がありません。なんとか名前をつけてみたいと考えています。今流で言えば「総理大臣首きり横丁」といったところですが、中世の町兵庫まちにちなんで「兵庫横丁」としたらいかがでしょう。そうすれば中世の記憶も残ります。
 兵庫まちにちなむことを是非提案いたします。
神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」平成7年

 まあこのあたり、歴史的な云々は別として、以前にはなかった場所、江戸時代ではまったくなかった路地だと、知っておきたいところです。江戸時代と現在では場所も違います。もう正しいことになったのでまあ仕方がない…としておきましょう。でも、兵庫横丁という用語はいい言葉です、うん。

兵庫7



神楽坂|兵庫横丁 と 兵庫町…想像図なんです

文学と神楽坂

 兵庫はひょうごだと兵庫県でいいのですが、へいこ、ひょうご、つわものぐらだと兵器を納めておく倉、兵器庫になります。では兵庫横丁と兵庫町は? 新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では……

神楽坂五丁目

 神楽坂三・四丁目の西側、大久保通りまでの地域で、神楽坂の両側に広がる。江戸時代は武家地の他、神楽坂の両側および現大久保通りに面した横町の計五か所に分かれて牛込うしごめ肴町さかなまちが、神楽坂の北側に行元ぎょうがん門前もんぜんおよび寺地があった。

牛込肴町 家康の関東入国以前からの町屋で、はじめ兵庫ひょうごといったがその起立は不明。古くは豊島郡野方領牛込村内にあった村が、その後町屋になつたという。家康江戸入りの際には既に兵庫町と唱え、当時から肴屋が多く住む町屋だった。三代将車掌光の時代 家光御成のたびごとに肴を献上したため、今後は肴町と改めるよう酒井出居から仰せ渡され 町名を肴町とした(町方書上)。兵庫町という名称は、牛込城下にあることから、武器倉庫や武器職人があったためではないかという説がある。(町名誌)

肴町が5つの町に

安政4年(1857)『市谷牛込絵図』(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年)から

 つまり、兵庫町から肴町に変わり、だから神楽坂五丁目なんだ、でまあ、いいと思います。

 ところが、兵庫横丁は、神楽坂五丁目ではなく、神楽坂四丁目なのです。四丁目なのに、どうして? はっきりいって、わかりません。だって、長いこと住んでいた人も「ここは兵庫横丁というんだ」と初めて知った人もいます。いまでは相当の人が知っていますが……

 ただひとつ、下図が頭に張り付いているのでしょう。でも、これは想像図ですよ。大手門も兵庫町もここでは空想で、いわば嘘です。しかも、神楽坂四丁目は江戸の昔は大きな家が建っていて、道路はありませんでした。江戸より前はまったくわかりません。

 想像図は楽しいので、おおいに出るといいと思います。しかし、区がわからないという場合、わからないのでしょう。でも、でも、ここは私道です。想像図も大歓迎です。

 ただし、想像だとはっきりいったほうがいいとは思います。また、兵庫町=肴町も正しい。でも、下図の「兵庫町」は正しいこともありえますが、現段階では空想の1つです。なお、原図は新宿区郷土研究会の「牛込氏と牛込城」(新宿区郷土研究会、1987年)で、新宿区の図書館や国立国会図書館から借りることができます。牛込城の想像図

文学と神楽坂

 兵庫横丁は軽子坂(厳密には違いますが)と神楽坂通りをつなぐ路地。昔は本多横丁ともつながっていました。

兵庫

 野口冨士夫『私のなかの東京』では

 読者には本多横丁や大久保通りや軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯を逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

 石畳・黒塀・見越しの松と、もっとも神楽坂らしい一角です。元は路地の幅は3尺程度でした。この石畳・黒塀・見越しの松の3つについて見てみましょう。

 まず石畳ですが、西村和夫氏の『雑学 神楽坂』では

 坂下の石畳は…下駄履きの女性には敬遠された。下りは危険がともなった。その石畳が、戦後、アスファルトで改修されたとき、地域の要望で石畳は花柳街の路地に移され、黒塀と共に花街に風情をあたえることになった

と書いています。

 特に夜に賑わう花柳界では暗い中での足元を確保するという意味合いもありました。今のアスファルトによる舗装技術を持たなかった時代の名残りです。

 見越しの松は、塀ぎわで庭の背景をつくり、前面の景を引き立て、道路から見えるように塀の上まで伸ばした状態です。外からも見えるようになる役割があります。

「黒塀」とは柿渋に灰や炭を溶いたものが塗布した塀のことで、防虫・防腐効果がある液剤をコーティングし、奥深い黒になり、建物の化粧としても有効です。日本家屋は昔から木造でした。黒い液剤を塗ったものが粋でお洒落な風情を醸し出します。

「死んだ筈だよ お富さん」が有名ですが、その前に「お富さん」はこう歌います。
♪ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪
やはり妾さんでしょうか?

 さらにすぐに先が見えなくなる路地も効果的です。「和可菜」の家は見えるけれど、それから先は何もわからない。実際には戦後すぐには本多横丁と数箇所でつながっていました。本多横丁で袋小路があったのを覚えていますか? 昔はそこは道で、通れたのです。それが家のため見えなくなり、かえって路地は横に曲がってしまうのです。

 また格子戸、打ち水、盛り塩もいい感じを出しています。

 格子戸は格子状の引き戸や扉で、採光や通風を得ることができます。()ち水は夏の季語で、ほこりをしずめたり,涼をとるために水をまくこと。()り塩は料理屋・寄席などで,掃き清めた門口に縁起を祝って塩を小さく盛ること。格子戸、打ち水や盛り塩はいずれも奈良・平安時代から続いていました。

 関係ないのですが、『村上のまちづくり』 案内人:吉川真嗣『黒塀プロジェクト』というのがあります。

 簡易工法ではありますが、ブロック塀を黒塀に変えるだけで町の景観を変えることができます。平成24年には約390mの黒塀が作られ、今後も延長予定です。また「安善小路と周辺地区の景観に関する住民協定」が締結され、電線の地中化や道路の石畳化を目指して活動が行なわれています。

kurobeip02

 黒塀、見越しの松、石畳をすべて使ってます。この地域はすごい。あっというまもなく、いい景観ができる。神楽坂などはこれに簡単に負けそう。


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