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神楽坂|ル・ブルターニュ 高いけど

文学と神楽坂

 ル・ブルターニュの創業は平成8年(1996)です。ブルターニュ地方の伝統料理、そば粉のクレープ『ガレット』を提供します。このソバのクレープがブルターニュ地方の飢饉を何度も救い、ソバは何世紀もの間「主食」でした。場所はここ

 ちなみにイギリスではほとんどソバは使っていません。ソバはイギリス海峡を超えられなかったのです。

 しかし日本で食べるとほんとに高い。多分値段はフランスの数倍はする。でもソバのクレープは今まではなかったからなあ。
クレープ

伊勢藤福屋鳥茶屋大門湯[昔]

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2013年3月17日→2019年5月16日

牛込神楽坂之図

牛込神楽坂之図

牛込神楽坂之図

絵師は歌川広重。広重東都坂尽の一枚である『牛込神楽坂之図』が描かれています。天保11年(1840年)頃の作品。左側には武家屋敷、右側には町屋が並んでいます。『牛込神楽坂之図』のは2丁目に近く、神楽坂3丁目にあります。図の上でクリックすれば大きくなります。

伝統の店々|昭和30年 (3/4)

文学と神楽坂

 そばの春月永坂更科池端蓮玉と共に東都三老舗と謳われたのれんで、更科とやぶの中間を行くのが特徴とされている。また毘沙門天との間を横丁に入るとうなぎの橋本、神楽坂随一の繁栄と格を有する料亭松ケ枝がある。また表通りの毘沙門天安置する善国寺は始め麹町にあり、家康自ら鎮護山善国寺と命名したもので、代々将軍家および江戸市民の信仰篤く二百三十余年前此地に移ってより、その緑日の賑わいは一層名高く、神楽坂繁栄の一因をなしたことは人形町水天宮と好一対をなすものといえよう。その隣りが果物の田原屋。明治四十年頃創業、明治末年日本で始めてのフルーツパーラーを始めたものである。

永坂更科 子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」で竹内薫兵氏は
 私の一番いいのは、月並だが矢張り、麻布(あざぶ)永坂(ながさか)の「更科(さらしな)」で、あのうちの更科そばには何んともいえない風味がある。はじめは「並の盛り」といういわゆる駄そばばかりを食った。しかしこれを段々やっている中にあの白い細い更科の方がよろしくなる。駄そばの方もうまいにはうまいが、味が重いし、舌へ残る気持も、少しべとりッとする。更科は少しあっさりとしすぎる位に、淡々たるところがいいようである。
 子母沢寛氏の「寸刻の味」では
 永坂の「更科」も先生のおっしゃる通り。だがわたしは「さらしな」よりは、駄蕎麦の方が好きである。書生の頃十二銭の大盛、あれをよく食べた。一度に大盛三つを注文したら、女中さんに笑われた。「とても三つは無理ですから二つにしては」「いや、いいから持って来てくれ」、がやっぱり二つで閉口していると、その美しい女中さんがざる(、、)蕎麦につく「わさび」を持って来て「これを入れると食べられます」という。が、遂に駄目であった。駄蕎麦一筋で「さらしな」は余り淡泊すぎて、味をぬいた素麺をたべてるような、ただ、下地に何にかつけて食べてるというようなそんな感じで感心しなかった。この頃は「更科」へ行かないので、どんな事になっているか知らない。
 終戦後しばらくは営業をやっていますが、昭和30年には空き地になります。
池端蓮玉 子母沢寛氏の『味覚極楽』「竹内薫兵氏の話 そばの味落つ」の竹内薫兵氏は
下谷池の端の「蓮玉庵」もなかなかうまいもので、十四、五年前は、そば食いたちは東京第一の折紙をつけ、私なども毎日のように通ったが、これも今はいけない。そばそのものの味と下地の味とが、どうもぴったりと来ないようになったのである。
 子母沢寛氏の「寸刻の味」では
池の端の蓮玉庵の、蕎麦と下地の関係については、それからずいぶん長い間通ったが、いつ行っても行く度に先生の言柴を思い出して感心した。しかし考えて見ればこれが蓮玉庵というものの独自の「味」だったかも知れない。

東都三老舗 へー、そうなんだ。実は辞書で「東都三老舗」を調べてみても何もありません。現在の江戸そばの三老舗は普通、砂場、更科、薮です。
やぶ 藪蕎麦は醤油の味がつよい、塩からいそばつゆ。一方、更科蕎麦は蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦。中間というのは、そばつゆなのか、蕎麦粉なのか、あるいは両方なのか、全体なのか、どれをさすのかはっきりしません。

 都市製図社の「火災保険特殊地図」(昭和27年)で赤で囲んだ場所はここで出てきた場所です。蕎麦の春月、蒲焼の橋本、松ケ枝、毘沙門天、田原屋
橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では
◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。
 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。
橋本

現在は石かわ


松ケ枝 創業は明治38年。水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、
「松ヶ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」
松ケ枝

現在はマンション


毘沙門天 仏教で天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
安置 丁重に据え置くこと。特に、神仏の像などを据え祭ること
善国寺 新宿区神楽坂にある日蓮宗の寺院
麹町 千代田区の地名で、旧麹町区にあたる。
緑日 神仏との有縁(うえん)の日。この日に参詣(さんけい)すれば特に御利益があると信じられています
人形町 中央区の地名で、旧日本橋区にあたる

神楽坂|椿屋 もう老舗に

文学と神楽坂

 さらに「神楽坂上」に向かって行きましょう。

 左側は「椿屋」です。お香と和雑貨の店。いつも香を焚いています。創業は平成14年(2002年)。なぜか老舗になってます。場所はここ

tubakiya

 以前は「宮坂金物店」でした。昭和5年ごろには「宮坂金物店」の前には縁日になると金魚すくいが出ていました(新宿区郷土研究会20周年記念号『神楽坂界隈』平成9年)。

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拝啓、父上様

文学と神楽坂

「拝啓、父上様」はウィキペディアによれば、2007年1月11日から3月22日までフジテレビ系列で毎週木曜22:00~22:54に放送されていたテレビドラマです。東京、神楽坂の老舗料亭「坂下」を舞台に、料亭に関わる人々と出来事を描きました。


 2000年頃になると神楽坂に来る人は数倍に増えましたが、「拝啓、父上様」が放送されるとすぐにまたまた増えたといいます。
 以前は「拝啓、父上様」は英語や韓国語の字幕付きで全巻YouTubeで簡単に出てきました。

拝啓、父上様



ひめ小判守|毘沙門天

文学と神楽坂

 まず「ひめ小判守」について。神楽坂アーカイブスチームの樋川豊氏は「かぐらむら」65号にこう書いています。

 江戸時代…百足は毘沙門天のお使いで、百の足で福をかきこみ、開運・招福のご利益をもたらすと信じられていました。…山の手随一の賑わいだった神楽坂の毘沙門天では、「ひめ小判守」という名の百足小判が評判で「新撰東京名所図会」にも小判を手にとる紳士が描かれています。「財布に入れると小銭に不自由しない」とされたのですが、寅の日の縁日がなくなるとともにひめ小判も姿を消します。
 昨年、私たち神楽坂アーカイブスチームは毘沙門天善国寺様を取材した際、「ひめ小判守」の事を知り残念に思っていましたが、先日、嶋田ご住職様から「ひめ小判守を復活する」というご連絡を頂きました。お聞きすると百年振りの復刻で、ご開帳の時限定でお配りするとか。

新撰東京名所図会」の絵にある善国寺毘沙門堂縁日の画(明治37年1月初寅の日)では
新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画

新撰東京名所図会 善国寺毘沙門堂縁日の画2

 ここで中央の男性はよく見ると 「小判を手にとる紳士」なのかなと、まあそうなのかなあ、と思えます。
 で、本物の現在のひめ小判守は、結構小さく、4cm x 2.5cmで、値段は1000円です。これで交通安全……ではなくって、開運・招福は大丈夫。寺務所で買うことができます。
ひめ小判守ひめ小判守2ひめ小判守3
 紅谷研究家 谷口典子さんに感謝します。ありがとうございました。

熱海湯|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

熱海湯

 熱海湯は千鳥破風造りの銭湯で、昭和29年に創業しました。今も薪で湯を焚いているそうです。

拝啓、父上様」で田原一平がよく利用する銭湯もコインランドリーもここ。「熱海湯」正面の階段で料亭「坂下」の大女将、坂下夢子がよく猫にエサをやっていた路地もここ。上から田原一平が朝やってくるのもここです。

 ただし、上に行っても有名なホテル「アグネスホテル」がでるくらいです。蔵のようなものがあったところなので日本路地・横丁学会の人たちは「お蔵坂」と呼ぶのはどうかと言っています。

 細かくはお蔵坂で。360°カメラもあります。

atamiyu1atamiyu2
神楽坂通り3丁目
小栗横丁 アグネスホテル

料亭「松ケ枝」(昔)|若宮町

文学と神楽坂

 今ではなくなってしまいましたが、若宮町に佇む大料亭「松ケ枝(まつがえ)」がありました。場所はここで、創業は明治38年。平成2年頃まで営業し、平成4年以前に駐車場になり、平成14年、マンション「クレアシティ神楽坂若宮町」になりました。地図・空中写真閲覧サービスのCKT893(平成1年、1989/10/20)では中央の⭕️ですが、CKT921(平成4年、1992/10/10)は駐車場になります。

松ヶ枝(平成元年と4年)

『ここは牛込、神楽坂』第8号で筆者(おそらく編集長の立壁正子氏)は「ありし日の料亭『松ヶ枝』のこと」を書き、

 設計したのは神楽坂六丁目の木村建築事務所の故木村兵吉氏。
「これが取り壊されたとき、昔を知る者としては涙が出る思いでしたよ。まさに強者(つわもの)どもが夢の跡という感じで」
 と、開口一番、事務長さん。
「この建物ができたのは、昭和二十八年で、その後二回ほど増改築して、二階に三十畳の広間ができたんです」
 それにしてもすごいスケール。広さは「駐車場も含めて四百坪」。幾つかの棟が廊下で結ばれているところなど、平安時代の寝殿造りを思わせるが……。(中略)
 この渡り廊下の床板が木琴のように横に何枚も敷かれていたというが「あれは作曲家の古賀政男氏のアイデア」だったとか。一方では、こんな有名人の遊びもあったのだ。
「庭には立派な池もあって、その池の中に張り出した釣殿つりどのみたいな座敷があってね。池には橋が架かっていて、鯉もいたけど、あれは確か……」
 と、ここで、今 は亡き元総理の名が…。
 恐らく田中角栄氏の名前が出たのでしょう。
 水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、
「松ケ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」
元松ケ枝のマンション

 データベース写真で見る新宿から神楽坂で引くと写真14(ID 76とID 11837とも同じ)がでます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11837 神楽坂5-37善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 76 裏道、寿司作前 昭和54年1月5日.j

 この青色の点(写真14の撮影の点)から「寿し作」を見ると、右側は松ヶ枝の壁で、「正面の大きな木の下の黒板壁が昔の駐車場になります」と地元の人。ちなみに、現在はマンション「クレアシティ神楽坂若宮町」です。築年月は2002年10月です。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 創業者はお(たけ)さんで、お(たけ)さんは民主党の代議士・三木武吉の妾さんです。神楽坂で一番の料亭だといわれていました。
 ちなみに三木武吉代議士では一番有名なものはwikipediaの語りによれば

戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。

 ただし、エピソードが違えばこの妾の数も違っています。

某日、演説中に「六人の妾はどうした!」と聴衆から野次られると、即座に「いや、六人ではなく正確には七人いるが、皆、キチンと面倒を見ているから御心配無用!」と切り返したというのは、あまりにも有名な逸話である。(浅川博忠『自民党ナンバー2の研究』(講談社文庫,2002年,p.185)

 元総理大臣田中角栄が芸者辻和子と逢っているのもここ料亭、松ヶ枝です。辻和子氏の「熱情―田中角栄をとりこにした芸者」(講談社、2004)では

 戦後、まっ先に復興したのは神楽坂でも有数の待合だった松ヶ枝まつがえですが、まだ桃山という屋号やごうで仮営業だった頃のことです。そこのお座敷に呼ばれたのがおとうさんとの最初の出会いだったのですが、なにしろ大方の芸者衆がまだ疎開先から帰ってきておりません。若い子といったら、わたしとなな子さんぐらいしかおりませんでしたから、わたしが呼ばれたのだと思います。
 でもそのときは、一対一ではなく、おとうさんが経営する建築会社で設計図を描いている中西さんという方とご一緒でした。なんでも、おとうさんが新潟から出てきてすぐの頃にお友だちになり、かつては鶯谷うぐいすだにに二人で一つ部屋を借りて住んでいたこともあったとか、そんな話をしていました。
「おれ、選挙に落ちちゃったんだ」
 おとうさんは、その年の四月に行われた戦後第一回目の総選挙に出身地の新潟のほうで立候補したけれど、あえなく落選してしまったと言っていました。でも、すでに戦後の土建ブームがはじまっていて景気がよかったせいか、おとうさんの顔からは暗いものがまるで感じられませんでした。
 そのときにはもう髭を生やしていて、おとうさんの髭はちょび髭と思われていますが、正確には横にびっしりと生えた立派なお髭でした。
おとうさん 田中角栄のこと

軽子坂|歌川広重団扇絵「どんどん」

文学と神楽坂

 軽子坂を別の向きで描いた絵があります。広重団扇絵で「どんどん」「どんどんノ図」や「牛込揚場丁」という題が付いています。版元は伊勢屋惣右衛門で、天保年間(1830-44)後期の作品です。

牛込揚場丁どんどん

広重『どんどんノ図』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1307354 (参照 2023-03-03)

 ちなみに江戸時代、飯田町と神田川にかかる船河原橋のすぐ下にも堰があり、常に水が流れ落ちる水音がしていました。これから船河原橋も「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」などと呼ばれていました。したがって背後も水音があったのです。
広重団扇絵|牛込揚場丁|どんどん3 左奥に見えるわたりやぐらは牛込御門で、その向かいの右は神楽坂です。牛込土橋は堀を渡す橋。
広重団扇絵|どんどん|牛込揚場丁2 目を近くにやると、茗荷屋という船宿から(赤い扇子を持った若旦那が芸者さん二人と船に乗り込む様子が見えます。船宿の奉公人たちが酒、肴を抱え、お客さんの乗り込むのを待っています。
広重団扇絵|どんどん|牛込揚場丁3 少し上を見ると左手には「自身番屋」が建ち、木戸もみえます。番屋と木戸のすぐ先は、見えませんが、右側に上る坂道があったはず。これが軽子坂です。その手前の右側一帯は揚場町で、荷を揚げたため。この神楽河岸があることが神楽坂が盛り場として発展していくために重要でした。
揚場町 自身番屋 地図では「軽子サカ」の左に黒の穴あき四角で書いたものが見えます。これが「自身番屋」です。町内警備を主な役割とてし町人が運営しました。自身番の使用した小屋は自身番屋・番屋などと呼ばれました。
自身番 写真では右側の家に「自身番」と書いていますね。自身番は火の番も重要な役割でした。(ワープステーション江戸のPRで)

 夏目漱石の『硝子戸の中』ではこの神楽河岸から浅草猿若町まで舟で出ていき、芝居を見たのを描いています。


神楽坂|河合陶器店…今日やってなかった

文学と神楽坂

 ついになくなってしまいました。山下漆器店と同様に、河合陶器店もなくなってしまいました。大久保通りを変更し、18メートルだった道路を総計30メートルに拡幅し、道路になるという流れは変えられず、閉店しました。詳しくは山下漆器店の項に。

都市計画道路。東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)から「都市計画情報」を選び、「新宿区」最下の「同意する」から「表示切替」で「都市計画道路」だけを選ぶとでてきます。

 これは以前の話ですが……、河合陶器店は、昔も今も「角のせともの屋」だったのです。陶磁器食器、金魚鉢、園芸用土、植木鉢、香取線香のぶた、招き猫、福助、狸の置物などを販売していました。下は昔の写真です。

河合

 将来は大久保通りの拡張があり、ここは道路になります。それでなくなったわけです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。

 神楽坂アーカイブズチーム編の「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では……。なお、「相川さん」は大正二年生まれの棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務。「山下さん」は山下漆器店店主で、昭和十年に福井県から上京。

相川さん それから河合(陶器店)さんですね。
馬場さん あれはまったく変わらないね。
山下さん 大きな樽かなんかを飾ってあったのを思い出すね。角のところへね。
相川さん 二階のベランダにずっと瀬戸物を飾ってあった。
山下さん そのときは天利さんが長屋を建てていたんだね。
相川さん そうそう。
山下さん だから、うちで家を建てるときに、河合さんが、あれは三階だったんかね、うちの上まで使っていたらしい。そのことをちょっと言われたことがあったんですよ。


神楽坂通り
神楽坂の通りと坂

神楽坂|相馬屋 大きなぬいぐるみがいっぱい

文学と神楽坂

 相馬屋。創業は万治2年(1659年)。店舗はここに

G

 360°カメラでは

 手漉き和紙の問屋、宮内省御用達の紙屋。相馬屋製の原稿用紙が人気を呼び、看板商品になりました。

ここは牛込、神楽坂』でご主人の長妻靖和氏は「森鴎外さんがいまの国立医療センター、昔の陸軍第一病院の院長さんをやっていた頃、よくお見えになったと聞いています。買い物のときはご自分でお金を出さず、奥様がみんな払っていらしたとか」と話しています。
 以下の2枚は昭和20年代の相馬屋です。

佐藤嘉尚「新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡」生活情報センター、2006年

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 24

 なお、『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷(江戸期から大正期まで)』「古老談話・あれこれ」の「古い番頭氏が語る神楽坂の相馬屋」では

神武天皇の獅噛のバックル

獅噛のバックル

先輩の話に、昔この先の藁店に蜀山人が住んでいて、毎日のように相馬屋の店先へ来てはなくなった大旦那とよもやま話をしていたそうです。真鍮の獅噛み火鉢へ突込んでおいてはお燗をして飲んでいたんですって。蜀山人の書いたものでいわば悪戯書(いたずらがき)とてもいうんですかね、ちゃんとした軸になったもんぢゃないんですけど、そばに鼻紙や、半紙なんかあると、ちょっと筆をとってサラサラ書きおろしたものが15枚もありました。


 なお、獅噛(しか)火鉢(ひばち)とは獅噛み(獅子の頭部を模様化したもの)を脚などに施した、金属製の丸火鉢。上図は神武天皇の獅噛のバックルです。

 おなじく「古い番頭氏が語る神楽坂の相馬屋」では

 忙しかったのは日露戦争(明治37~8年)の頃でしたね。手始めは慰問袋、恤兵品(じゅっぺいひん)なんてもいってましたがね。筆、墨、紙、それに仕入れの手ぬぐいなんかを一袋にしまして20銭か30銭で売り出したんです。売れましてね、飛ぶ様に売れました。そのうちほうぼうの紙屋さんでも売り出したんですがうちのが一番いいってんで、当時は町会なんてものは無かったんでせうがそういった団体、それも全国から相馬屋の慰問袋っていって註文が毎日どの位い来たかわかりません。それが囗火になったんですが、今度は軍隊に出入りする様になりました。そん時の忙しいの何のって目が回るようでした。紙ばかりぢゃないんです、筆といわず墨といわず、ローソクといわず、何でもかんでもでした。その代りこっちも大変です。きめられた時間にちゃんとその品物を納めなきゃならないんですから。品物を集めるのにはその苦労は大変なもんでした。
 その次は大震災、何しろ下町の紙屋さんは皆んな焼けちまったでしよ、品物の在庫のあるのは相馬屋だけでしたからね。警視庁といわず、その他の役所といわず、10円札を束にして持ってきて店の中のものをあらいざらい皆んな持って行っちまったんです。

 恤兵(じゅっぺい)は、軍隊や軍人に対する献金や寄付、または送ること。戦地に直接届けられるものとしては慰問袋が有名でした。

 また『拝啓、父上様』の第6話では

 り「街には早くもクリスマスの音楽が流れ出し、神楽坂は師走の活気に溢れていた」


相馬屋

 また、店には実際に使った原稿用紙もあります。

漱石の原稿

漱石の原稿

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)


神楽坂でホットコーヒーの値段…100円から525円まで

文学と神楽坂

 1杯のホットコーヒーの値段を調べました。いろいろあります。

店舗名値段ひとこと喫煙本来は
これは美味しくて安いコーヒーです。安くても十分飲めます
マクドナルド100円紙製コップ。安い。遜色なくおいしい。少しにがい禁煙ハンバーガー
ベローチェ180円本当のカップ。最新鋭の機械ではないが、まあ苦はなく飲める。禁煙コーヒー
これは普通のコーヒーです。大きな会社がやっている
モスバーガー220円本当のカップ分煙ハンバーガー
ドトール250円不二家の二階分煙コーヒー
スターバック
300円ネルドリップで入れる分煙コーヒー
ブロンクス330円サイフォンでいれる。レトロな感じ。喫煙食事
上島珈琲店340円昔ながらのネルドリップを使う分煙コーヒー
雰囲気などが違う。茶寮とPaulはチェーン店。そうでない場合、昔の長くいても全くいい喫茶店と同じ
カフェ・ルトゥール500円ネルドリップで。喫煙コーヒー
カフェアンガトー450円普通なのになぜか人が一杯。元芸者さんがやっています。喫煙コーヒー
カフェアンガトー500円かくれんぼ横丁でやっている。あとはまったく同じ。禁煙コーヒー
カナルカフェ500円朝から行っても人でいっぱい禁煙イタリアン
茶寮520円遠くから見ています禁煙和風カフェ
Paul525円巨大なカップ、軽くにごりもない。最新鋭の機械で豆からいれる禁煙パン
椿屋珈琲店980円東和フードサービス株式会社分煙和風で高価

 実際に1杯500円以上のコーヒーがあるんですね。コーヒーにそれほど違いはなく、それ以外の理由があるのに違いない。しかも何人も待っているところもある。すこし不思議。

歴史と地理に戻る場合

神楽坂|伊勢藤 大好きな人もいるけど

文学と神楽坂

アサヒグラフ。昭和63年6月3日号。朝日新聞社。

 伊勢(いせ)とうの創業は昭和12年。しかし創業店は戦災で焼け、昭和23年に再度建築。町屋造りの酒亭です。場所はここ


 一代目はいい話だけでしか聞こえてきません。

 二代目のモットーは…一、大声禁止。二、笑い声は微笑まで。三、ビールも焼酎もなく酒は燗酒のみ。四、女性の一人酒はご法度。五、感謝の気持ちで飲む。

 現在は三代目。三代目はそこまでは厳しくないようですが、座敷から下品な笑い声があがるとやはり注意するそうです。

伊勢藤

 籐と藤。伊勢(いせ)(とう)ではないか、という考えがあります。「たてかんむり」の籐 【トウ】はヤシ科のつる植物の総称。茎は強靭で、籐細工に使用。主に熱帯アジアやオーストラリア北部に分布。「くさかんむり」の藤【フジ】はつる性の落葉高木で、日本人には万葉の時代からなじみのある植物。しかし、どう考えても店の立て看板は伊勢藤だし、インターネットもほとんど全部伊勢藤と書いて「いせとう」とふりがながついています。藤という文字も「かずら(つる性植物の総称)」、「とう(木の名前)」という読み方もあります。

籐と藤

ル・ブルターニュ福屋鳥茶屋大門湯[昔]

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石畳について
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神楽坂|せんべい 福屋 結構いける

文学と神楽坂

「毘沙門せんべい 福屋」の創業は昭和23年。

 歌舞伎の名優、17代目中村勘三郎丈は「勘三郎せんべい」を好んだといいます。ほかに「山椒せんべい」や「げんこつ」など。「勘三郎せんべい」を除くとあとは結構おいしい。場所はここせんべい

 東京平版株式会社のBLOGで「第1回 毘沙門せんべい福屋」(2017/5/31)では

ー花街の印象が強いからか、敷居が高いとか、一見さんは入れないお店だらけなんじゃないか?など、神楽坂にはちょっと手強いイメージを持つ方も多いようなのですがいかがでしょうか?
〈福井さん〉確かにちょっと特殊な街ではありますよね。あちこちに人間国宝級の方が住んでいますし、長唄や鼓や琴などの伝統芸能のお師匠さんたちがたくさん生活していますからね。神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。
真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形 芸術座の劇場は360°見下ろせる形ではないようです。コの字に見えます。

神楽坂|鳥茶屋 

文学と神楽坂

「鳥茶屋」は「うどんすき」で有名。ほかにもやきとりや、あれこれ。
 昭和30年代後半に創業しました。1984年には軽子坂、それが1990年は神楽坂4丁目に来ています。2020年10月末、本店は閉店しました。
 場所はここtorityaya 一方、「鳥茶屋別亭」は熱海湯階段(フランス坂、芸者小路)の中にあります。『拝啓、父上様』1話で、一平が働く料亭「坂下」の勝手口は実は鳥茶屋別亭の玄関でした。

神楽坂|楽山

文学と神楽坂

「楽山」はお茶の店です。場所はここ。昭和34年、牛込北町の牛込中央通りに茶海苔コーヒーの「斉藤園」を開店。昭和43年、神楽坂4丁目に移転し、「大佐和商店」として営業を開始しました。なお、住宅地図では間違えて「大佐秋」となっていますが、正しいのは「大佐和商店」です。

 昭和52年に神楽坂銘茶の「楽山」に変えます。ほかには「抹茶アイス」もあります。『4丁目最東部北側の歴史』では細かく調べています。

『まちの手帖第11号』には楽山のこれまでの歴史があります。

昭和39年のお茶審査競技会で5種5煎というきき茶部門で優勝。「その後何度も入賞したから、トロフィーや賞状がトラックいっぱいになったよ(笑)」

楽山

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ヤマダヤ|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「神楽坂上」に向かって左側のヤマダヤは洋傘と帽子の店。4代目。明治10年(1877年)創業しました。場所はここ
ヤマダヤ

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丸岡陶苑|神楽坂3丁目 人形が可愛い

文学と神楽坂

「神楽坂上」に向かって左側の「丸岡陶苑」は和陶器を売る店です。

 創業は明治24~25年(1891~92年)。場所はここ

 渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年、和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」とあります。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には…

「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」

丸岡

 右側のショーウインドウは、陶器でつくった人形がテーマになっています。例えば、2月はお花祭りでした。これは12月です。価格は決して高くはありません。小さい人形は1000円から3000円までです。丸岡陶苑

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二葉[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「上島珈琲館」から「神楽坂上」に向かって右側に少し奥に入ると、「二葉」になりました。ここは初めて「ばらちらし」が誕生した店です。昭和6年創業。地図はここ

「二葉」の「ばらちらし」は、江戸前のちらし寿司はすし飯のうえにもみ海苔をふって魚を並べたもの。それに比べるとネタが細かくきざまれています。呉服商の依頼で、着物に醤油がとばないようにしたようです。ばらちらしは昼は1500円のみ、夜は2500円から。残念ながら、2015年に廃業しました。新しい店舗は2016年6月22日に開業した居酒屋「こんぶや」です。

二葉

 あるブログには

奥で食券買ってくださいと、お帳場で。おばあちゃんから黄色い札をもらって着席すると、やがて、ばらちらしが運ばれてきます。ランチ時にはこの単品メニューだけなのに、なぜこういうシステムなのか? あらま、不思議

と書いてありました。

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神楽坂木村屋(昔)

文学と神楽坂

 神楽坂3丁目にある「上島珈琲店」は以前は「神楽坂木村屋」でした。

「神楽坂木村屋」は酒種あんぱんなどのパンを作っていました。創業は明治39年(1906)。終戦では下記の如し。平成17年(2005)になり、閉店しました。銀座木村屋の唯一の分家でした。場所はここ

 やはりコーヒーが一番うまい店はこの「上島珈琲店」か神楽坂6丁目の「珈琲館」だと思います。まあ、高いけど。上島珈琲店はパンも心持ち美味しい。ちなみにパンが一番うまい店はメゾンカイザー(場所は箪笥町)です。メゾンカイザーの普通のコーヒーです。

助六|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 助六は神楽坂3丁目にある履物の店です。明治40年(1907年)、場所はここ。履物博覧会で1等賞を取り、創業は明治43年(1910年)です。

 助六の前に若松亭という浪花節の定席があったようです。

 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第1号で『お店の履歴書 履物の老舗「助六」さん』では

 先代である今は亡き父上の要氏は、若い頃、横山町の下駄屋さんで働いていた。でもその界隈で商売するだけでは埒があかないと、東京中の花柳界を回るように。
「それまでの駒下駄はもっと歯が厚かったんです。でもそれじゃ花柳界では不粋だからって、親父は歯を薄くして。いまのような駒下駄にしたわけです」
 先代が考案した小粋な下駄が世に広まる契機となったのが、明治四十年、東京で開かれた履物博覧会だった。
「ええ、いいあんばいに一等賞をいただいて」

助六

 また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『助六』の創業は明治四三年、創業者は石井要氏である……
 当店は創業の頃から傘と下駄を扱ってきた。出来合いの傘だけではなく、注文に応じた品も作らせていた。下駄のサイズは一つしかなく、鼻緒のすげ方で二一cmから二五cmまで対応する。鼻緒をお客さんの足に合うように挿げるのは一番大切な仕事で、足を見ただけで文数がわかるようにならなければだめだ、と言われた。顧客のなかには与謝野晶子宮城道雄菊地寛西条八十川合玉堂などもいて、自宅に注文をとりに行き納品することもあった……
 草履にはふつう畳表をはるが、要氏が皮張りの草履を考案した。昭和の初め頃には、様々な色を使ったエナメルの草履なども作っていた。その頃、有楽町宝塚劇場のサロンのウィンドウに商品の見本を出せることになり、それを見て買いに来るお客さんが増えたこともある。また昭和二九年から昭和五六年頃まで、新宿伊勢丹の「さつき会」という催事(母の日を含む1ヵ月間)の際に出店していた。デパートの売り場の中でとてもよい場所とされる一階に店を出し、実際にたいへんよく売れた。
 花柳界が近く、また一般のお客さんも多いため、現在の店には様々な好みに合わせられる珍しい希少商品や、オリジナル商品を置いている。


龍公亭|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

龍公亭

 龍公亭は中華料理で四代目がやっています。創業は明治31年(1898年)。創業当時は「あやめ寿司」という寿司屋でした。大正13年の改装を機に2階で中華料理店「龍公亭」をスタート。初代の中華のシェフは楊澤林氏。本格的な中華料理店は山の手で初めての開店だといいます。じきに中華のみの営業に変わりました。かき氷の「あずきアイス」はここで生まれました。

 開店時の看板メニュー、ラーメンの「あやめそば」や初代シェフが娘さんの名前を取って名付けた「桂春麺」もあります。

 4代目のオーナーシェフは周富徳氏が料理長を務める赤坂璃宮で3年修業をしてきました。全面的な改装を行い、外がよく見えるようになっています。1代目から初めてのオーナーシェフです。

 今からうん年前、3代目のシェフのときに食べに行き、2回ほど行き、うううんと。それからは行きませんでした。4代目のシェフになって、初めて行き、うまい。どれも古典的な中華ですが、ひとくち、いい点がある。なんとまあ。名前は同じでも中身はまったく違うものもある。デザートもちょっと違っています。絵葉書や本も売っています。すぐに人で一杯になるのもわかります。場所はここで。

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菱屋|神楽坂3丁目 昔は糸を扱う店 今は…不動産です

文学と神楽坂

 このひしも歴史があります。創業は明治5年(1872)。場所はここ

菱屋

「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。店がよく栄えたのは二代目。肴町(現在の5丁目)では大家になっています。

 現在は天利義一さんが社長。そして「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか?

 「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業です。天利海によれば賃貸物件は

  • 東京都新宿区神楽坂 3-2
  • 東京都新宿区神楽坂 5-12(7ヶ所)
  • 東京都新宿区矢来町 125(3ヶ所)※
  • 東京都新宿区原町 1-59
  • 東京都豊島区高田南町 1-25(2ヶ所)

たとえば大久保通り角のビルもこの不動産の物件になっています。

神楽坂|ファミリーマート 昔は牛込會館

文学と神楽坂


サークルK

 1階は「ファミリーマート」、2階は「ロイヤルホスト」、それ以上はマンションです。

 この範囲は江戸時代では土塁で囲まれた本多屋敷がありました。その後「温泉山」という地域の銭湯「イソベ温泉」や歯医者になり、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の少し前には貸し座敷「牛込會館」に変わります。

 同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。

 その後、牛込会館は白木屋デパートが営業しましたがほとんど客が入らず廃業になりました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

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神楽坂|太陽堂 ブリキは仮の姿かな

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目の「太陽堂」も本来は陶器店ですが、ブリキなどレトロなものを置いています。これは中国産のものが大半です。場所は左端のここ
 これも50年は古そうですが、よくはわかりません。
 1952年の「火災保険特殊地図」(昭和27年)は加藤陶磁店と出ています。1960年頃の「神楽坂三十年代地図」(『まちの手帖』第12号)では「瀬戸物 太陽堂」です。加藤陶磁店と太陽堂とは同じ経営陣ではないかと思います。違う場合もありますが。
 さらに昔に行き、1937年(昭和12年)の「火災保険特殊地図」は名前は書いていません。
 昭和5年(1930年)は「甲斐屋布団」になっています(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」)。おそらく太陽堂は終戦後にできたものではないでしょうか。

taiyodo

昭和5年頃平成8年令和2年
甲斐屋布団太陽堂陶器
大川時計店増田屋食肉
八幡小間物松屋 牛丼
村田煙草店
山岸玩具店安曇野食堂ポルタ神楽坂
伊沢袴店
盛光堂煎餅十奈美化粧
酒場ユリカ
三好屋玩具喫茶パウワウ
カフェ神養軒
三好質屋バーゲン場


神楽坂|肉のますだや すごく客が一杯の店

文学と神楽坂

 神楽坂2丁目の「肉のますだや」は、戦後同じ場所で、ここに。味も価格も昔ながらのものを売って、店ですき焼き、牛鍋、しゃぶしゃぶを食べることもできます。少し安くて、少しおいしくって、人がいつも一杯の店です。50年は古そうで、戦後すぐにできたものだと思います。

ますだや

昭和5年頃平成8年令和2年
甲斐屋布団太陽堂陶器
大川時計店増田屋食肉
八幡小間物松屋 牛丼
村田煙草店
山岸玩具店安曇野食堂ポルタ神楽坂
伊沢袴店
盛光堂煎餅十奈美化粧
酒場ユリカ
三好屋玩具喫茶パウワウ
カフェ神養軒
三好質屋バーゲン場


神楽坂|陶柿園、写真館、さわや

文学と神楽坂

 最初は陶柿園とうしえんです。陶磁器をおいています。昭和23年、開業しました。1階は手頃なもの、2階は高級品を選んでいるようです。陶磁器以外にガラス製品も売れています。場所はここ

 昭和31年、陶柿園に車が突っ込む交通事故が発生し、ここから逆転式一方通行になりました。

 この3階は「神楽坂写真館」、つまり「旧夏目写真館」で、場所はここ。やはり1世紀以上続く写真館です。昔、この写真館は反対側のここでした。もっと昔は陶柿園が現在いる場所にでています。

 つまり、坂上を上に見ると、最初は夏目写真館は右で、第2次世界大戦後では左に、そのあと、2011年、「ポルタ神楽坂」ができると、また右に移ります。

tousien

さわやは資生堂の一店舗として化粧品を置いています。しかし、創業はなんと大正2年。本来はかんざし、櫛、かもじを扱う店でした。場所はここ
さわや


梅花亭|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

「神楽坂 梅花亭」の創業は1935年(昭和10年)ですが、でも、いいですか、ここで始まっているわけではありません。場所は池袋です。もちろんみんなに聞けばちゃーんと教えてくれます。

 神楽坂の出店は08年。11年にポルタ神楽坂店を開店。池袋などは閉店し、現在は神楽坂の2店舗のみになりました。場所はここです。もちろん和菓子です。けっこうおいしい。

梅花亭


千年こうじや|神楽坂 うぃっと

文学と神楽坂

「千年こうじや」は新潟県魚沼の地酒「八海山」の酒蔵・八海醸造の子会社です。場所はここ

「千年こうじや」は12年3月3日に麻布十番、10月20日に神楽坂にオープンしました。

 八海醸造の創業は1922年(大正11年)です。清酒以外では発酵食品企業として『米・麹・発酵』をコンセプトにしています。

 酒のアイスクリームはおいしい。うぃっと、酔いました。でもうまい。

 ほかの店は神楽坂通りを前にしてしますが、「千年こうじや」は裏通りの小栗横丁を前にしています。

こうじや


神楽坂|二丁目食堂トレド なんでもやったる

文学と神楽坂

「二丁目食堂トレド」は創業は昭和47年(1972年)です。場所はここ

 ここ神楽坂で始まり、まえのビルがないと消え、新しい建物ができると戻ってきました。

 以前も裏通りで、今度も裏通りです。「継ぎ足しカレー」で有名です。

トレド


神楽坂|紀の善 おいしいけど難点はたかい(閉店)

文学と神楽坂

 ぜんは「令和4年9月30日をもちまして店舗を閉店させて頂きました」。理由は「店主の高齢化や諸般の事情」のためでした。あーあ… 閉店は「紀の善の閉店」で。

 新しい店舗は「しんぱち食堂」。前書きに「炭火焼干物定食」。和食ファーストフードチェーンです。別に書くとして、今日は紀の善についてです。

「紀の善」は東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋でした。場所はここです。
 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では……

「文久・慶応年間(1861-1868年)「紀ノ善」創業。口入業

 口入業とは職業周旋業者のこと。これと違って創業の年は嘉永年間(1848-1854)だとするもあります。

創業の幕を開けたのはおおよそ七十余年前(「食行脚 東京の巻」協文館、大正14年

 大正14年(1925年)から70余年前は嘉永年間(1848-1854)です。しかし、どちらも引用文献はなく、正確にはわかりません。
 冨田冨江氏の「私が生まれ育つたまち」(「ここは牛込、神楽坂」第16号、平成12年)では……

 戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。

 同じく「紀の善と牡丹屋敷」(「ここは牛込、神楽坂」第17号、平成12年)では……

 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは三十人頼むとか、きょうは雨だから五人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂で代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。
 その後、牡丹屋敷は町屋になりますが、ずっと牡丹屋敷と呼ばれていたようです。で、紀の善はご維新後、寿司屋に転向しましたが、そのときはこの絵柄から、花蝶寿司といっていました」

 明治維新後は「紀の善・花蝶寿司」。それまで牛込壕端沿いに住んでいたのですが、大地主升本喜兵衛に薦められ、現在の場所に移りました。

 宮内省の御用達になると、「御膳寿司紀の善」に変更。

 なお新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」の「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」(昭和45年)によれば、関東大震災前の当時、大正11(1922)年頃は「神楽小路」のことを「紀ノ善横丁」と呼んだそうです。

kinozen

 明治41年1月、北原白秋吉井勇木下杢太郎など七人はこの2階で新詩社の脱退を決めました。かわって『パンの会』を作ります。これは長田幹彦氏の「わが青春の記」に書いてあります

 また出口競氏が書いた『学者町学生町』(実業之日本社、大正6年)では

 紀の善の店(さき)には印絆纒(かんはん)を着た下足番が床几に腰かけて路行(みちゆ)く人を眺めてゐる、上框(あがりかまち)には山の手式の書生下駄が四五(そく)珠數繋(じゆずつなぎ)にされてゐて、拭きこんだ板間(いたま)に梯子段が見える。田舎者で(とほ)つた早稲田の(がく)(せい)も此處のやすけが戀しくなれば()づ江戸つ子の()としたもの

印絆纒 シルシバンテン。襟や背などに屋号・家紋などを染め抜いた半纏
床几 しょうぎ。細長い板に脚を付けた簡単な腰掛け
上框 うわがまち。戸・障子などの建具の上辺の横木
書生下駄 たかげたとも。10センチ以上視線が高くなります
珠數繋 数珠(じゅず)は穴が貫通した多くの珠に糸の束を通し輪にした法具。じゅずつなぎは、糸でつないだ数珠玉のように、多くの人や物をひとつなぎにすること
板間 いたま。板敷の部屋。板の間。
やすけ 「義経千本桜」に登場する鮨屋の名は弥助やすけでした。以来、鮨の異称として使いました。紀の善は戦前は寿司屋でした
 それぞれの部分。「これで君も江戸っ子だね」といったところでしょうか

 西村和夫氏の『雑学神楽坂』では昭和11年2月26日、2・26事件の時に「神楽坂が鎮圧部隊の駐屯地にされた時、紀の善が鎮圧部隊の司令部になった」と書かれています。戒厳司令部は軍人会館(現九段会館)なので別で、あくまでも「鎮圧部隊」の司令部でしょう。

 建物は戦争で焼失し先々代の女将が中心となって今の甘味処「紀の善」に変わりました。刺青から甘味処に変わったのです。(内緒にしようっと。)最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。

 赤井儀平氏の『神楽坂界隈の変遷』「古老談話・あれこれ」(新宿区立図書館、1970年)では

 昔は早稲田の運動会は向島でやったものです。その時は学生達は思い思いのふん裝で会場へ乗り込むのですが、四十七士もいれば児島高徳を気取って鎧の上から蓑を着て来る学生もいました。弁当は学校から出るんですが、「紀の善」で一手にひき受けていたらしく、何でも3,000人分くらいだそうで洗い方煮方炊さ方詰め方と分業で手分けをして徹夜で戦争のような騒ぎでした。こんな騒ぎは大正の末頃まで続きました。今では近くにも大きな大学が沢山できましたが、昔の早大と神楽坂の様なつながりを持った学校は一つもありません。

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)

紀の善(中村武志『神楽坂の今昔』毎日新聞社、昭和46年)