菱屋」タグアーカイブ

神楽坂3丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13154~ID13157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13154、ID 13155、ID 13156、ID 13157は神楽坂3丁目から4~5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13154 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13155 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13156 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13157 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、一方、車道で坂の傾斜が急な部分はOリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、Oリングの位置は「万平」「龍公亭」あたりまででした。それ以上の車道舗装についてはここに。縁石は黄色と無彩色との2色で、意味は「駐車禁止」。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったのでしょう。
 電柱は左側だけで、その上に大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施中。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂3丁目→4、5丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. (レストラン)花菱
    ――見番横丁に
  2. 麻雀 一発
  3. ▶「違法駐車はレッカーで移動〇/牛込警察(署)」
  4. (最高速度)高中速度
  5. ▶電柱看板「外科 小児科 斉藤医院」「加(藤)産婦人科
  6. (菊)正宗 青柳寿司 ★サッポ(ロビール) し青柳寿
  7. (そ)ばところ 神楽坂 丸屋 生蕎麦
  8. 丸岡陶苑 DC UC
  9. (消火栓)丸岡陶苑
  10. タイヘイゴルフ
  11. ▶電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ」。
  12. (ヤマ)ダヤ
  13. フルーツ パーラー ジャウト(ー)ヤ
  14. 神楽坂通り/美観街
    ――三つ叉通り
  15. 宮坂金物店
  16. ▶電柱看板「 フクヤ」
  17. 三菱銀行
  18. 遠くに「協和銀行」
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 縞模様のテント(赤と黄色 神楽坂青果店)
  3. (消火栓)火災警報器
    ――芸者新道へ続く路地
  4. 鮨どころ(二葉
  5. カバーマーク(美容品)(ニューマヤ美容室)
  6. 積まれた布団(フトン関商店)
    (数店おいて)
  7. 清酒〇〇〇 鳥忠
  8. 日邦工〇(宮坂ビル)
    ――本多横丁へ
  9. 仐(近江屋履物店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1976年

神楽坂3丁目(写真)昭和28年 ID 9504-9505

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9504~9505は、昭和28年以降の神楽坂3丁目をねらっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9504 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9505 神楽坂

 車道は凹凸が目立ち始め、将来できるOリングはまだありません。歩道は正方形コンクリートの数列と縁石からつくられて、車道と縁石の段差はほとんどないようです。下水は縁石の側にはないと思います。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯で、向かって左側は歩道の端の縁石近くに、右側は逆に建屋の近くに立っています。右端に完成寸前の建物があります。見番横丁の角で、後に「レストラン花菱」として開業します。昭和28年(1953年)撮影のID 99では看板が出ているので、この写真はその少し前の撮影と思われます。
 ID 9505で右側の白い上下の女性は半袖ですが、他は長袖で、しかしコートを羽織るほどの寒さではありません。

神楽坂3丁目(昭和28年以降)
  1. のぼり旗「うし込神楽坂 呉服/〇 丸富呉服店」
  2. .店の前に土盛りと植木のような植物(菱屋)二階建て
  3. 吊り広告「鮨」(万平)平屋
  4. ピアノ。広告「ピアノ。オルガン」(福島ピアノ)二階建て
  5. 電柱広告「龍公亭」
  6. マツダ眞空管。Toshibaの丸い看板(竹谷電気工事)平屋
  7. パーマネント(マーサ美容室)二階建て
  8. 神楽坂仲通り
  9. 電柱看板「旅館 碧運」
  1. 建築中(後のレイトラン花菱)
  2. (わずかに見える岡田印房)
  3. 助六 二階建て
  4. 龍公亭 平屋
  5. (ビデパーマ)
  6. (山本薬局)
  7. (空地または建築中)
  8. 神楽坂仲坂
  9. せともの。太陽堂
  10. 牛豚肉(ますだ肉店
  11. 電柱看板。床屋のサインポール(管理髪館)

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂2丁目(写真)昭和48年 ID 8805, ID 8806

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805とID 8806は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂2丁目から坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂

 休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。一方、車道について、急勾配のコンクリート坂は滑り止めが必要ですが、これは道路表面に円形のオーリングを埋め込み、一定時間後にそれを取り除く方法をとっています。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があり、電柱看板も見られます。また遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えています。

神楽坂2丁目(昭和44年)
  1. 化粧品 おしゃれの店 十奈美 ブラバス・スタッフ/BR  KOJI/コージーアイラッシュ MG5
  2. 電柱の剥がされたビラ「ベトナム革(命)」
  3. おしゃれの(S)PO(T)T ESUTA(洋品店)
  4. とんかつ かん一(2階)
  5. (高い位置に マルマン)ガスライター メガネのオオカワ Nikon メガネレンズ
  6. 街灯看板「神楽坂通り」
  7. 電柱看板「歯 石川」「 大久保
  8. ヒデ美容室
  9. (音楽)長崎(五条ビル)
  10. 菊正宗 青柳寿司
  11. そばどころ 神楽坂 丸屋
  12. 三菱銀行
  1. ビクター音楽 リ(ード商会)(レコード店) 2階 (名)人荘 (麻雀店)
  2. 山田紙店 仮営業所(以前の亀井寿司)
  3. 資生堂化粧品 さわや  カネボウ化粧品
  4. 喫茶 馬
  5. マーサ美容室(窓からウインドウ型のエアコンが飛び出している。昭和40年(1965)頃の写真ID 15にはないもの。店舗の冷房が普及していった時期でしょう)
  6. アザミ
  7. ナショナル クレジット ナショナル カラーテレビ(竹谷電気工事)
  8. 小料理 万平
  9. 東洋紡カーテン(菱屋
  10. 東京電力(サービスステーション)
  11. 鮨どころ 二葉
  12. 酒酒 鳥忠
  13. 五十(番)

1973年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 8801~ID 8804

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801からID 8804は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂1丁目から坂上を撮ったものです。ID 8803はID 66と同じ写真です。休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8801 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8802 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8803 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8804 神楽坂

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)も左右に1本ずつできています。その一方は中華料理「信華園」がある歩道にできました。また遠くに同じ「神楽坂通り/美観街」が見えています。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があります。

神楽坂1~2丁目(昭和48年)
  1. 看板「中華料理 信華園」と6角形の竜形
  2. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  3. 電柱看板「川島歯科
  4. 小栗横丁への道
  5. 半分だけの標示「御料理 志満金
  6. 電柱看板の「 大久保
  7. 「靴 オザキヤ
  8. 「カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸」(大島糸店)
  1. 突き出し看板「喫茶室 軽い心」。一階で 洋酒とお食事 ハッピージャック
  2. 麻雀 桜(桜別館)
  3. 山一薬品(工事中)
  4. 看板「パチンコはマリーで」
  5. ニューイトウ(靴)
  6. 坂(喫茶)
  7. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  8. 喫茶  クラウン
  9. 「神楽坂ビル」。1969年2月完成。
  10. MAX FACTOR(化粧品)
  11. 資生堂化粧品(さわや
  12. 菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か
  13. 東京電力

1973年。住宅地図。

神楽坂1丁目(写真)昭和48年 ID 8799とID 8800

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8799とID 8800は、昭和48年(1973年)2月、「牛込見附」(現、神楽坂下)交差点近くから神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8800はID 65と同じです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8799 神楽坂入口

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8800 神楽坂入口

 有楽町線「飯田橋駅」が開通する予定で、そのため道路を開削し、上に鉄板を置いています。埋め戻しは開業後です。
 大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に標識「神楽坂通り」がいくつもあります。電柱の上には大きな柱上変圧器があり、また標識「神楽坂通り/美観街」(カラー写真)が左右に1本ずつできています。休日の歩行者天国(ホコテン)も始まり、バリケード看板「歩行者道路 日曜祝日の12~18 牛込警察署」があります。警官が写っていて「ひょっとするとホコテンのスタート時の写真かも」と地元の方。

神楽坂1~2丁目(昭和48年)
  1. 牛込見附。(車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 日曜祝日の12-18。
  2. 電柱看板「斉藤医院
  3. パチンコ ニューバリー。「新装開店/73年最新型/第一号登場/ゆっくり打って(牛年)/大きく取ろう。出たら/どうにも止らない機械!!」
  4. ニューバリー屋上に「ウル」と矢印がある。これはイーグルボウルで、ID 68に詳しい。
  5. フルーツパーラー 田原屋
  6. 電柱看板「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)。
  7. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  8. 中華料理 信華園
  1. (一方通行)。(車両通行止め)。歩行者専用道路 自転車を除く 12-18。
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. (白十字医院)
  5. 地下鉄入口の建築中のためこの時点では山田紙店はなくなっている。
  6. (消火栓)
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  8. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  9. 突き出し看板「あんみつ 紀の善」切妻の屋根
  10. 白く光るのは理容バンコックのサインポール
  11. 上で「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
    一階で ハッピージャック
  12. 山一薬品
  13.  看板「パチンコはマリー(で)」
  14. ニューイトウ(靴)
  15. 坂(喫茶)
  16. 陶柿園がビルに。1年前の昭和47年(1972年)3月に完成した。
  17. 喫茶  クラウン
  18. ルナ美容室」は「神楽坂ビル」に。1969年2月完成。
  19. 「菱屋」も高層ビルに。竣工は昭和42年か

神楽坂、坂と路地の変化40年(1)|三沢浩

文学と神楽坂

 建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。また、茶色のコメントは地元の方のものです。

外堀通りの桜は今年で30年目
 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。
 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。
 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。
ライオンズクラブ 東京飯田橋ライオンズクラブ。場所は不明。
張り出し はりだし。建物などの外側へ出っ張らせてつくること、またはその部分。
一間 いっけん。ひとま。尺貫法の長さの単位で、1.81818m
水面に降りられた 実はお堀の柵は低かったのです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)

土手公園 現在は外濠そとぼり公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。

東京逓信病院

警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。

住宅地図。1978年

理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す

歩行者天国の日曜日、神楽坂通りさわや前 1971年5月 筆者撮影

坂のすべり止めは一升瓶の底だったか
 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。
 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。
 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。
 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。
牛込見附 以下の通り。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(「牛込警察署の歩み」牛込警察署、1976年から)

マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。

田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02 昭和59年1984-10-02

UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。

神楽坂3丁目(写真)夕景 昭和43年 ID 8020

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8020を見ましょう。撮影は神楽坂3丁目から坂上をねらっています。車道はゴム製リング(オーリング)でつけた滑り止めのドーナツ状の窪みがあります。〇リングが終える時、つまり、ここでは小料理の万平が終わる時に、坂も終わります。歩道はややサイズの大きい平らな正方形のブロックです。また、街灯は丸い巨大蛍光灯です。
 新宿歴史博物館ではこの写真は昭和30年代だといいますが、右手の背の高い所にある提灯をよく見て下さい。5文字があり、ID 8019と同じ「神楽坂百年」なのです。したがって、昭和43年だと思います。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8020 30年代

 

神楽坂3丁目(昭和43年)
  1. (ヒデ美容)室
  2. SUNTORY BAR 五条
  3. 龍公亭 飯店
  4. 街灯に逆三角の飾り旗。「本日 五(の日)」
  5. はきもの 助六 仐
  6. 印章・ゴム印(岡田印房)
  7. 西洋料理花菱
  1. 地図によれば福島ピアノ
  2. 小料理 万平
  3. 菱屋呉服総本店 セルコン カーテン
  4. 東京電力サービスステーション

1970年。住宅地図。

神楽坂3丁目(写真)店舗 昭和27年 ID 4792~94

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4792~4794は、昭和27年(1952年)に神楽坂3丁目などを撮ったものです。ほぼ同時期の写真としては、神楽坂2丁目のID 28、ID 29、ID 30神楽坂5丁目のID 24-27があります。
 ただID 30に見える「火の用心」の横幕がID 4792~4794にはありません。またメトロ映画の手前に建築中の建物があり、これは他の写真と照合すると1丁目の「志乃多寿し」と思われます。この場所はID 28とID 30では平屋です。わずかにID 4792~4794の方が新しいと写真と思われます。
 メトロ映画の開場は昭和27年(1952年)1月元日、パチンコマリーの開店は昭和28年(1953年)です。どちらもその間の撮影ですが、わずかにID 4792~4794の方が後(新しい)と思われます。
 まん丸の街灯は電笠もなく、1本につき一つだけで、簡素です。翌年の昭和28年には鈴蘭灯の時代が始まり、さらに昭和36(1961)年には巨大蛍光灯がでてきます。柱上変圧器もありますが、いかにもほっそりとして、電線も少ないようです。車道は普通で、Oリングはなく、地面に凸凹もありません。歩道板横3枚ぐらいの歩道は車道と高さがほとんど同じです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4792 神楽坂通り マスダヤ前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4793 神楽坂通り マスダヤ前

 ID 4793 では、中央の電気店(マツダの看板)の前あたりで歩道が車道側に大きく傾斜しているのが見て取れます。これは神楽坂通りの急坂を緩くするため、車道を削った戦前の工事のなごりです。こうした建物は、建て替え時に車道にあわせて路盤を掘り下げるようです。長い時間をかけて、坂をなだらかにしているのです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4794 神楽坂通り 助六前

神楽坂3丁目(昭和27年)
  1. こちらを見る男性の背後に4字
  2. 「クラボウ スキー毛糸 販売店」(菱屋
  3. 吊り広告「寿し」(万平)
  4. 電柱広告「キネフチ」
  5. ピアノ。広告「ピアノ。オルガン」(福島ピアノ)
  6. マツダ眞空管。〇〇電気工事。(竹谷電気工事)
  7. パーマネント(マーサ美容室)
  8. 神楽坂仲通り
  9. 電柱看板「旅館 碧運」
  10. 数軒おいて(凸型の建物)(ニューイトウ靴店)
  11. (建築中)(パチンコマリー)
  1. 山田屋洋傘
  2. MASUDAYA。マスダヤ独特の月末奉仕 大価價市 半額
  3. (せともの)(丸岡陶苑)
  4. 高橋商店(かばん)
  5. 🐘おもちゃ
  6. 土地と家屋➥
  7. パチ(ンコ)
  8. 路地(見番横丁
  9. 電柱広告「産婦人科 加藤医院」「久我犬猫病院」
  10. 空地(後の「レストラン花菱」)。「麻雀」「とんかつ」
  11. 印章 ゴム印 愛信堂 岡田印房 山桜名刺(戦前、愛信堂は上宮比町=現・神楽坂4丁目でした)
  12. 助六
  13. 龍公亭
  14. (建築中)
  15. パー(マ)(正面に「〇 Beauty Salon」。ビデパーマ)
  16. 薬局(消炎鎮痛薬「サロメチール」)(山本薬局)
  17. 神楽坂仲坂
  18. せともの。太陽堂。6字。
  19. 看板「みや」
  20. 電柱広告「 買入 大久保」「床屋のサインポール(管理髪館)」
  21. 牛(豚)肉(ますだ肉店)
  22. 仁丹(薬局)
  23. 〔✇に似たマーク〕
  24. 看板〔温泉マーク〕玉

私説東京繁盛記(写真)

文学と神楽坂

 小林信彦氏と荒木経惟氏の「私説東京繁盛記」(筑摩書房、2002年)は「新版私説東京繁盛記」(筑摩書房、1992年)の文庫版です。この中で神楽坂の写真が5枚撮っています。

 神楽坂にあるという「パーマ 那美の店」は実際どこにあるのか、まったくわかりません。ただし、本来の神楽坂ではないと思っています。

神楽坂の裏手(1983年)私説東京繁盛記

 ここは神楽小路が軽子坂に出る出口です。看板などは「シ□マサロンくらら」「3時間で全部を御覧になれます」「上映中」「変態レイプ大全 3本立 女高生集団レイプ 人妻変態レイプ 少女密室レイプ」

神楽坂の路地(1983年)私説東京繁盛記

 これは赤城下町の山中商店でしょう。

神楽坂の裏通り(1983年)私説東京繁盛記

 津久戸町の神楽坂浴場はなくなりました。再開発されて「神楽坂AKビル」が建ったのは1995年9月。右手には「世界人類の平和でありますように」と書いています。

神楽坂の公衆浴場(1983年)私説東京繁盛記

 はじめて本来の神楽坂にでました。左からで、すこし顔が出ている菱屋、真ん中の酒場の万平、右のコーヒーのジョンブルです。万平もジョンブルもなくなりましたが、しかし、明治以来の菱屋はなくなっていません。Oリングは万平に接する道路の下にありますが、菱屋の下にはありません。右手の丸い道路標識はおそらく「駐停車禁止」ではないかと思います。万平の看板などは「小座敷 すきやき おでん 茶めし」「酒場」。ジョンブルの2階は「ジョンブル」、1階は「コーヒー豆・コーヒー器具 」「お食事のできるコ」「珈琲豆 John Bull UCCコーヒー」「ピザ」「コーヒー豆」「週末 の」「珈琲 ンブル」「珈琲専門店」「(2行)コーヒー」「珈琲豆」

神楽坂(1983年)私説東京繁盛記

神楽坂1丁目(写真)昭和49年 田口重久氏

文学と神楽坂

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」第五章 新宿区 補-10 (11/15) 05-10-32-1 牛込見附交差点からは昭和49年(1974年)12月21日(土)に撮ったものでした。大きな左向きの矢印はロール式の標識で、坂下から坂上までの一方通行を示し、時間によって進入禁止の表示と入れ替わります。夜間には照明も。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、電柱の上には柱上変圧器があります。また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつ立っています。横断歩道はごく普通のもので、地下鉄の駅(飯田橋駅)が新たに出現しました。外堀通りにはまた鉄板が覆っています。

1974-12-21 牛込見附交差点から。田口重久氏「歩いて見ました東京の街」

神楽坂1丁目(昭和49年)
  1. 有楽町線「飯田橋駅」。道路を開削、上に鉄板。埋め戻しは開業後。
  2. 看板「車両通行止め12~18 牛込警察署 新宿区」
  1.  牛込見附  (歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20。スプーン・フォーク・スープの標識
  2. ニューバリーパチンコ。Pachinko。上の看板イーグルボウル下宮比町に。
  3. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)と(質)大久保
  4. TAWARAYA。黒い看板と白の球。(フルーツパーラー 田原屋)
  5. 元祖 貸衣装 清水本店
  6. 生そば(翁庵)。は「楚」のくずしかな、は漢文で主語を表す助詞「は」の「者」をくずし、濁点をつけたもの。
  7. 中華料理 信華園
  8. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  9. 小栗横丁にいく通り
  10. 志満金。ビルではない
  11. 靴(オザキヤ
  12. 大島糸店2階が大島歯科
  13. 話し方教室。五条ビル(ヒデ美容室の隣で)
  1. (一方通行入口)自転車を除く。(歩行者専用道路) 自転車を除く 12-13。歩行者道路。日曜休日の12-20
  2. 足袋・Yシャツ「赤井商店
  3. 「カレーショップ ボナ」
  4. 白十字医院
  5. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田紙店
  6. 地下鉄 飯田橋駅
  7. FUJIYA 不二家洋菓子。不二家 コーヒーショップ。
  8. あんみつ。紀の善。切妻の屋根
  9. 「神楽坂通り/美観街」の標識
  10. 上でビル「喫茶 軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
  11. 陶柿園がビルに。昭和47年(1972年)3月に完成
  12. 「菱屋」が遠くに見える

 神楽坂仲通りの△は横断歩道の標識。その奥は「神楽坂通り/美観街」です。

神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID 64, ID 8317

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64とID 8317は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8317のほうが画角は大きくなっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8317 神楽坂入口

 大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、信号機にはゼブラ柄の背面板があります。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識と、藤の形の造花がたくさんあります。電柱の上には柱上変圧器があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできました。横断歩道はここでは2本の直線だけですが、工事で一時的に消されていて、上の1本は自動車の停止線です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64 神楽坂入口から坂上方向

神楽坂1丁目(昭和45年)
  1. Pachinco ニューバリーパチンコ。角のガラス部分は景品の交換所でした。タバコらしきものが見えます。
  2. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)「質」
  3. テント上の高い位置にTA〇〇RAYA(フルーツパーラー 田原屋)
  4. 清水本店(貸衣裳店)
  5. 生そば(翁庵
  6. 中華料理 信華園
  7. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  8. パール。ビリヤード。小栗横丁にありました。
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店。吊り看板の「公衆電話」とその下に2台の電話。さらに右に「赤井商」店と佳作座の映画広告「チキ(チキ)バ(ンバン)」
  2. (津田印店)看板を外しているので閉店?
  3. 皮膚泌尿科、婦人科、外科、内科(白十字病院)
  4. 原稿用紙 事務用品 山田紙店
  5. FUJIYA 不二家洋菓子 歩道におそらく山積みの不二家の商品
  6. 消火栓標識と消火栓広告「(ふ)とんのひしや(菱屋)」
  7. 紀の善)突き出し看板はあるが、今回は見えない。
  8. Frère WADAYA(メンズウェアー)
  9. ビル「軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
    ピージャック

1971年。住宅地図。

アルバム 東京文学散歩(写真) 昭和27年

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の「アルバム 東京文学散歩」(創元社、1954年)の一部で、神楽坂3丁目を扱っています。撮影の方向は、坂上から坂下。街灯は簡素な電灯で、昭和28年頃から始まった、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯ではありません。
 写真ではベストの人がいますので、夏ではなく、春か秋でしょう。
 歩道と車道の高さはほぼ同じようにみえます。

「アルバム 東京文学散歩」の元は毎日新聞で、氏は昭和27年に「東京文学散歩」を連載し、同時に初めてカメラを扱ったと書いています。おそらくこの写真も昭和27年に撮ったものでしょう。

神楽坂3丁目(坂上→坂下)
  1. 菱屋の庇だけが見える
  2. 万平のみや。吊り看板の「鮨」
  3. 「ピアノ」。福島ピアノ
  4. 都市製図社「火災保険特殊地図」(昭和27年)では「毛糸S」
  5. 巨大な半円の「パーマネント」。マーサー美容院。新宿歴史博物館ID 30(昭和27年頃)にも見られるが、同じID 10(昭和36-39年)では消えている。
  6. 神楽坂仲通り
  1. 龍公亭(黒い建物)
  2. 店舗。看板「松〇〇」
  3. 上に「パー」。正面に「〇 Beauty Salon」。ビデパーマ
  4. 山本薬局(消炎鎮痛薬「サロメチール」)
  5. 神楽坂仲坂
  6. 太陽堂だと思う。新宿歴史博物館のID 30では太陽堂だと大きく書いている。

 地元の方にはまだ何点か、気がついていました。

 左から……

  1. ピアノの看板の向こうに「マツタ●」の看板が見えます。地図の「毛糸S」は後の「あざみ」と思いますが、軒を貸すような形で「竹谷電気」があったのでは。
  2. 電柱広告で、黒地に白文字の「龍公亭」かも。
  3. 電柱広告「大久保」。仲通りです。
  4. 飯田橋駅西口の屋根が電柱看板で隠れています。しかし電柱の反対側にも、屋根を遮るものがある。これは「メトロ映画」ですね。S27開業。

  1. 看板「■仁丹」。言われれば分かります。
  2. 建屋の側面にうっすらと「○○もの」。「せともの」太陽堂です。
  • 本当にID:30とそっくりですが、この写真の方が少し早そうですね。

 「仁丹」は新宿歴史博物館のID 30の拡大図でもっとよく出てきます。

ID 30の拡大図

都市製図社「火災保険特殊地図」(昭和27年)

神楽坂3丁目(写真)昭和42年 ID 6とID 12905、ID 7とID 12903、ID 12904

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 6とID 12905、ID 7とID 12903、ID 12904を見ていきましょう。ともに今は雨は降り、撮影の方向は神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は鈴蘭灯とは違い、円盤形の大型1個だけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。円盤形の下には標識「神楽坂」もあります。車道では横断歩道を越えて、菱屋の前まで、Oリングのくぼみがあり、歩道は滑り止めのついた四角いブロックで舗装しています。

新宿歴史博物館 ID 6

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12905 神楽坂

新宿歴史博物館 ID 7

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12903 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12904 神楽坂

神楽坂3丁目(昭和42年)坂下→坂上
  1. 亀井鮨
  2. (資)生堂化粧品 さわや
  3. 神楽坂仲通りに入る。これから3丁目に。数軒はいり…
  4. 歩道に電気製品?(竹谷電気)
  5. 横断歩道。
  6. 柳の木が見える(万平
  7. ブリヂストン エバーソフト(菱屋)。エバーソフトは商標名で、ゴムや合成樹脂を加工し、柔らかく弾力性のあるようにしたもの。マットレス、クッション、座布団などに使う。
  1. ✚クスリ(神楽坂薬局)
  2. (洋装生地)林屋
  3. 電柱看板「質 大久保
  4. (ID 9によれば)プラ(チナ万年筆)(大川時計店)
  5. 牛豚鶏 増田屋
  6. 太陽堂
  7. 神楽坂仲坂に。これから3丁目に
  8. パンビタン 山本薬店。看板「抗生物質製剤 クロロマイセチン」
  9. ヒデ美容室
  10. 工事中
  11. 電柱看板「東京電力サービス(ステーション)」
  12. 廣東料理 龍公亭

 右手の工事中については、1967年(昭和42年)までは「きらく会館」で、70年(昭和45年)になると「コーヒー5番」になります。また「ブリヂストン エバーソフト」は「菱屋」です。
 また、菱屋の写真がわずかに出ていますが、これは古い店舗です。新しいビルにかわるのは昭和42年以降でした。

昭和38年/42年 vs 45年

 一方、昭和42年2月8日の田口重久氏の写真があり「2月8日までに『Club 軽い心』の向こうで、菱屋のビルが完成しています。つまり新しいビルに変わるのは昭和42年(または前年末)でした」と地元の人。

05-14-37-1

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を 1967-02-08(昭和42年)

 これから地元の人はこう考えます。

 右手の龍公亭とヒデ美容室の間に空地があります。ID 4794(昭和27年)は、ここに建物が建築中(または改装中)でした。かなり見づらいですが、ID 9504-9505(昭和28年以降)では、少し奥まった店らしきものが見えます。ID 4943(昭和32年)でも右端のヒデ美容室の隣に店があることが確認できます。
 しかし、この店はその後、短期間で取り壊されたと見られます。1962年-63年(昭和37-38年)の住宅地図では下図のように空地になっています。隣家の壁面が煤けているので火事だったかも知れません。ID 14-15(昭和37年以降)でも、このID 6-7などと同様に空地です。
 空地は1964年(昭和39年)の地図以降は「きらく会館」、1970年(昭和45年)になると「コーヒー5番」になります。
 これらを総合すると、撮影時期は「きらく会館」が建つ前の1963年(昭和38年)ごろと思われます。

1962年 龍公亭付近

神楽坂1丁目(写真)昭和20年代後半 ID 21, 23

文学と神楽坂

 昭和20年代後半の神楽坂1丁目で写真3枚を見ていきます。どれも新宿歴史博物館にあり、牛込橋からの写真です。なお、地元の方に多大な助言をもらいました。この半分以上は地元の方の言葉です。

[A]新宿区史。新宿区役所。昭和29年

新宿区史・昭和30年

[A]新宿區史(昭和30年)

 最初の[A]の1枚は、「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)に出ていますが、何年に撮影したのかはこれではわかりません。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年です。この写真は「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。一応、これは昭和29年ごろだとしましょう。ちなみにメトロ映画は現在はドラッグストア「マツモトキヨシ」にかわっています。なお、街灯は鈴蘭灯で、信号機はゼブラ柄の背面板があります。


[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]については、神楽坂の左側の大きな「神楽坂」の標識ポールがあります。街灯は上にひとつ、下に2つの電球があり、鈴蘭灯です。メトロ映画の「肉体の冠」の日本の公開は昭和28年。併映はおそらく「奇襲作戦命令」で、日本の公開は昭和26年。これから昭和28年には鈴蘭灯があったと考えます。右端に電柱看板があり、拡大しないとわかりませんが、5丁目の「リード商会」の広告があります。リード商会の場所は道路拡幅のため多くはなくなり、一部はセブンイレブンになりました。神楽坂の右側の壁に「茶」と書いてあり、これは昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では「東京圓茶」(新字体では「東京円茶」)になっています(現在は不二家)。現在のモスバーガーの場所には「清水衣裳店」(現在の千代田区の「清水衣裳店」)がでています。なお、IDは新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID(identification、証明番号)です。


[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]同じく神楽坂入口から坂上を見ています。標識ポールは同じですが、信号機はありません。おそらく[B]よりさらに昔の時代でしょう。ポールの下に『塵に咲く花』の広告が見えます。昭和26年11月、日本公開です。右側の電柱広告「ナカノ」は坂上の中野ボタン店(現・ブロンクス)。この広告の下に電球ひとつの簡素な街灯が見えます。左側の看板は「あなたは/右側を/通って下さい」「この道路は歩行者の/模範右側交通路/であ〇〇〇/交通事故を〇〇〇/皆様の御協力を願います」

神楽坂上の風景(写真)昭和45年 ID 7430

文学と神楽坂

 地元の人から神楽坂上についてです。

 神楽坂はもともと坂の名前なので、外堀通りの「神楽坂下(牛込見附)」交差点から坂を見上げた写真が多い。大久保通りの「神楽坂上」交差点の写真は少ないです。新宿歴史博物館の昭和45年の写真(ID:7430、下図、拡大できます)は、貴重な一枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7430 神楽坂 坂上風景。昭和45年11月14日

 この交差点名は戦前は「肴町」だったそうです。町名が神楽坂になり、交差点名も「神楽坂上」に変わりました。当時は「神楽坂の出口」と認識されていました。それが最近では、地下鉄神楽坂駅や牛込神楽坂駅周辺まで、ひとくくりに神楽坂と呼ばれるようになりました。いずれは交差点名も、また変わるのかも知れませんね。

 交差点から向かって左側。「美観街」の大きな標識ポールは寺内に下っていくの角にありました。角店は見えていませんが、この時代は肉屋の恵比寿亭だと思います。ポールに隠れている黒地白文字の看板は、名称変更前の「日本勧業信用組合」本店の高い広告塔だと思います。手前の相馬屋越しに見えています。その左下、やはり読めない看板は酒屋の万長でしょう。

 寺内横丁です。
角店 かどみせ。道の曲がりかどにある店。

 手前の大きな看板は「中国料理 東花飯店」と読めます。ここは戦後、ビルが建ったのは早かったのですが、何度か商売替えをしていて、失礼ながら店としては安定していなかった印象があります。

 隣はタカミ洋品店。その隣の「東芝レコード」の看板は楽器・レコードのリード商会本店です。このリード商会は、間口が広くて奥行きがない、三角形の変則敷地の店でした。2丁目の「神楽坂ビル」に支店がありました。CDや電子配信の台頭とともに、相次いで閉店したように思います。

「割烹 うなぎ蒲焼」の看板は大和田。神楽坂には他にウナギ専門店として坂下の志満金、本多横丁のたつみやがあり、藁店の角の鮒忠もウナギが売りでした。当時の商店街としての密度の濃さを感じます。

 その先からが、大久保通りの拡幅計画で道路になってしまう土地です。新規にビルを建てることも出来ず、戦後すぐの古い建物に手を加えながら使っている店が大半でした。大和田の隣は、この当時は田口牛乳店。明治牛乳の配達から菓子店、弁当店など、時代の変化に合わせて商売替えしていたように記憶します。

 写真の一番左、見切れているのは菊岡三味線店です。ショーウインドウに三味線が下がっているのが、なんとなく分かります。今ではリード商会から左はすべて、新しいビルと道路になってしまいました。

三角形の変則敷地の店 リード商会はまさに三角形の地域でした。

1970年。住宅地図。

 向かって右側は、ほとんど商店が見えていません。この写真の頃の大和田の向かい、戦前に紅谷があったあたりには、タイヨウ時計と三菱銀行の仮店舗が並んでいたのではないかと思います。銀行には大きな金庫が必要だった時代で、仮店舗といえどもわざわざ新しいビルを建てたと聞きました。5丁目に移転しなかったのは3丁目の旧店舗の敷地の方が広いからか、あるいは土地の権利関係の問題があったのかも知れません。

 当時からタイヨウ時計は大久保通りを渡った左の角に支店があり、後にそちらに自社ビル(タイヨウビル、1987年12月竣工)を建てて店を集約。三菱銀行も3丁目に戻りました。今はどちらもこの場所にはありません。当時の銀行の仮店舗は、このブログの「神楽坂の今昔1」の記事中の写真で見られます。このビルは銀行の移転後、パチンコ店になったように記憶しています。

タイヨウ時計… 以前の益美屋からタイヨウ時計になり、紅谷(赤)は空地(赤)になりました。なお、水色は「東京靴下KK」ですが、しばらくして「薬ヒグチ」になりました。

仮店舗 三菱銀行の店舗は見えないですが、最初の写真をよく見ると、沢山の人が待っているようです。ある人は「その向こう、歩道に人が何人か見えるのが銀行っぽい」といっていました。
 住宅地図では昭和45年も昭和46年も空白でした。
 加藤嶺夫氏の「東京消えた街角」(河出書房新社、1999年)では、はっきり見えます。

 電柱広告の「東電のサービスステーション」は、3丁目の菱屋の隣にありました。

「薬」だけ見える看板は薬ヒグチで、「427店」に向けて積極出店していた頃です。後に1丁目と4丁目にも別店舗を出しましたが、今はすべて撤退しています。

 一番右、「DPEつくば」は不動産屋のつくば商事です。ここも大久保通りにとられる土地ですが、それを承知で店を出したそうです。道路拡張時には営業実績に応じた補償金がもらえます。

 小さいですが写真の右下隅の「歩行者天国11/15より 正午~六時」。初期のホコ天は、夏は20:00まで、冬は18:00までと季節で運用時間を変えていました。その告知です。今は通年で19:00までになりました。これも季節感が昔より希薄になったひとつの表れのように思います。

東電のサービスステーション ここです。

1970年。住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂(一部)

薬ヒグチ 1970年「東京靴下KK」のお隣で、つくば商事の一部が「ヒグチ薬局」になりました。


昭和40年代の神楽坂(写真)

文学と神楽坂

神楽坂 加藤倉吉氏作の銅版画『神楽坂』(昭和47年)(植村峻氏『日本紙幣肖像の凹版彫刻者たち』、2010年)

  1. 看板「神楽坂通り」
  2. 街灯の途中から斜めに筒が出ていて、季節ごとに飾りや旗を差し込む。この時期は餅花みたいなものを飾っている。そこからぶら下がった提灯が割れてしまったように見える。
  3. 「山田」紙店
  4. 街灯
  5. FUJIYA 不二家洋菓子
  6. FUJIYA コーヒーショップ
  7. 不二家洋菓子
  8. おしるこ 紀の善
  9. 床屋のサインポール。2階が理容バンコック
  10. 1階がテーラー和田屋。
  11. 軽い心
  12. 神楽坂通り
  13. 美観街
  14. 文字のない飾り
  15. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  16. 軽い心
  17. 山一薬品
  18. 街路灯に看板の「神楽坂通り」
  19. 陶柿園
  20. パチンコマリー
  21. 菱屋
  22. MAXFACTOR(さわや)
  23. ニューイトウ(靴)
  24. 柱上変圧器
  25. (カネ)ボウ毛糸(ダイヤ)モンド毛糸 特約(店)。大島糸店
  26. うなぎ/割烹 志満金

神楽坂入口から坂上方向 新宿歴史博物館 ID 65

昭和48年2月。神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 65 から

  1. 赤井商店
  2. カレーショップ ボナ
  3. ここと4の間に山田紙店があるはずだが、この時は地下鉄出口の建設中。
  4. 不二家洋菓子。ウロコ張りの洋館風。店の横が見えている
  5. 紀の善。切妻の屋根
  6. 理容バンコックのサインポール
  7. 3F 麻雀 桜。2F 喫茶室 軽い心。1F パブ ハッピージャック
  8. 神楽坂通り。美観街。文字のない飾り。
  9. 牛込見附
  10. 昔は段差が見えた
  11. 質。大久保質屋。神楽坂仲通りにあった質屋
  12. 斉藤医院。小栗横丁と見番横丁、神楽坂通りで囲んだ医院(下図)。なお、神楽坂4丁目8番地の斉藤医院は戦前にはありましたが、戦後はなくなっています。

    1970年 住宅地図

  13. パチンコ ニューパリー
  14. 将来の有楽町線「飯田橋」。道路を開削し、上に鉄板。埋め戻しは開業後。





神楽坂1ー2丁目(写真)坂のある街 昭和41年

坂のある街
 1966(昭和41)年、メトロアーカイブの「坂のある街」(インターネット)から
 年代:1966(昭和41)年 路線:東西線 駅: 神楽坂 カテゴリ:街の様子 坂と小路の街、神楽坂。写真の神楽坂通りは日本でも珍しい「逆転式一方通行」(進行方向が午前と午後で逆転する)が実施されている。

  1. パチンコマリーの前の歩道が濡れている。昔は自分の店の前にほこりが立たないようジョーロで水まきしました。
  2. オー(Ο)リング。スベリ止めコンクリート
  3. 歩道が30センチ角くらいの石で舗装。この後、神楽坂はアスファルト舗装を経てカラーブロック舗装に。
  4. パチンコマリー
  5. レストラン京屋(右側にはいっていく)
  6. ニューイトウ(靴)
  7. 坂(コーヒー)
  8. 陶柿園
  9. クラウン(喫茶)
  10. カネボウ化粧品(さわや)
  11. レコード
  12. 菱屋(寝具・インテリア)
  13. さわや(化粧品)
  14. 柱上変圧器
  15. 石川歯科
  16. 夏目写真館
  17. 街路灯に看板「神楽坂」
  18. カネボウ毛糸 ダイヤモンド毛糸 特約店 大島糸店(のちに大島歯科)
  19. 大島糸店
  20. 食品まつはち
  21. 果実田金
  22. オザキヤ(靴)
  23. 質屋(大久保)。神楽坂仲通りの質屋

参考。神楽坂の今昔1

神楽坂の今昔1|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年、1971年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
 なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 舗装のはしり

 大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。
 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物佐和屋あたりに、昔は段があった。
 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。

 神楽坂通り(昭和46年)

神楽坂通り(昭和46年)

紀の善(昭和46年)

紀の善(昭和46年)

東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗かこう岩や花崗閃緑せんりょく岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾りひもなど

 ◆ 残っている老舗

 久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。
 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。
 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金夏目写真館戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。



とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。

◆ 消えたなつかしい店

 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。
 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。
 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。
 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。
 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。


白十字 神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では
◇白十字――白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。

1つは坂の上り口で、1つは毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。
三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱UFJ銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。
 なお、写真の説明としては下の三菱銀行は正しいと言われました。加藤さんが書いていたものを再度引用すると「あと気になったのは「神楽坂の今昔1」で、毎日新聞掲載の三菱銀行の写真がありますが、これは現店舗の建て直し中の仮店舗です。現在の福太郎のある場所ですから、当時の記事は間違っていません」と『4丁目北側最東部の歴史』(http://kagurazaka.yamamogura.com/歴史2/)の欄外に書かれています。
 国会図書館の「住宅地図」には1970年と1773年の2つしかありません。わかりませんでした。もっといろいろ教えてください。ありがとうございました。

神楽坂|大東京案内(3/7)

文学と神楽坂


 通りで目貫(めぬ)の大店は、酒屋の万長(まんちよう)、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢(おざわ)、糸屋の菱屋(ひしや)、それらの老舗(しにせ)の間に割り込んで日蓮宗(にちれんしう)辻説法でその店(うた)はれるカグラ屋メリンス店。山の手一流の菓子屋紅谷は、今では楼上を喫茶部、家族づれの人達の上りいゝ店として評判が高い。

目貫き めぬき。目抜き。目立つこと。中心的。市街で最も人通りの多い、中心的な通り。
尾沢 尾沢薬局。現在は喫茶店の「Veloce神楽坂店」
菱屋 創業は明治3年(1870)。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが並んでいます。現在も営業中。
辻説法 道ばたに立ち、通行人を相手に説法すること。カグラ屋メリンス店については、インターネットの「西村和夫の神楽坂」(15)「田原屋そして紅屋の娘」はこう書いています。

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実」を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

 実はこの元がありました。大宅壮一氏が書いた「神楽坂通り」でした。なお、モスリンとは「唐縮緬とうちりめん」です。

カグラ屋メリンス店 5丁目で、神楽屋とも。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。メリンス店とは「メリノ種の羊毛で織ったところから薄く柔らかい毛織物」
楼上 階上。紅谷の場合、1階は菓子屋、2階は喫茶店。大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホールでしたが、大震災後は喫茶店に。

4丁目と5丁目2

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年

 明治製菓白十字船橋屋はりまや等から、よく売り込んだ()(よし)()()鹿()()半玉(はんぎよく)(ねえ)さんなどになくてならない店。今は店がかりもみすぼらしい山本もこゝでの喫茶店の草分(くさわ)けだ。
 カフエ・オザワ、それから牛込演芸館下のグランド女給のゐるカフエの大どころ。田原屋は果実店の(かたは)らレストランをやつてゐるが、七面鳥とマカロニを名物に一流の洋食を喰はせるので通人間(つうじんかん)に響いてゐる。

明治製菓 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

明治製菓の神楽坂分店で相當に大きい構へです

と書いてありました。「明治食堂」の場所は5丁目の白十字の左隣で、現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」、さらには椿屋珈琲店になりました。
白十字 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で大正11年頃から昭和8年は5丁目にあったようです。「大東京うまいもの食べある記」では

白十字の神楽坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同様喫茶、菓子、輕い食事等

と出ています。現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和12年頃は2丁目でした。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
船橋屋 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。

今は「神楽坂FNビル」に変わりました。
はりまや 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば2丁目にあった喫茶店です。10年ぐらい前には「はりまや」のあった場所には「夏目写真館」でした。しかし夏目写真館も引っ越し、現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
緋鹿ノ子 ひがのこ。真っ赤な鹿()()絞り。鹿の子とは模様が子鹿の斑点に似ているところから来た言葉
緋鹿ノ子
山本 4丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

春月の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です。

現在は「魚さん」。楽山ビルを正面に向かって右隣りです。
カフエ・オザワ 4丁目。一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

牛込演芸館 現在は神楽坂3丁目のコンビニの「サークルK」に。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の頃は貸し座敷「牛込會館」に。同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。
グランド 3丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

野球おでんを看板のグランド

と書いています。現在はコンビニの「サークルK」に。
女給 カフェやバーなどの飲食店で客の接待や給仕をする女性

 日本料理では芸者の入る末よし吉新吉熊橋本常盤指折(ゆびを)りの家。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金など、なかなかの老舗(しにせ)で芸者も入る。さうでないのは鳥料理(とりれうり)川鉄、家族づれの客にはうつてつけの心持のいゝ家。

末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左のイラストで。地図は現在の地図。

吉新 よしん
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧銀(注)のところまでつながっているとこだ。
 (注) この勧銀は現在の百円パーキング

 百円パーキングは今ではなく、PAUL神楽坂店などに変わりました。

吉熊 「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では

箪笥町三十五番吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

 箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。

橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。

橋本

 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。

常盤 当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」で、常磐と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。上宮比町
紀の善 東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋。
島金 現在は志満金。昔は島金。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

次は大東京案内(4/7)です。

伝統の店々|昭和30年 (1/4)

文学と神楽坂

『中小企業情報』に書かれていた『商店街めぐり-神楽坂』(中小企業情報編集部、1955年、昭和30年)を読んでみます。

伝統の店々

 以上は、戦後における神楽坂の現況を示したものであるが、この街は既述したとおり、明治、大正の時代より極めて古き歴史をもった街だけに、また伝統ある古いのれんをもつ店々もまことに多く、これらの店々がこの街に多くの人々を呼び入れる一つの魅力ともなっている。
 この神楽坂の坂をのぼりつつ昔からの老舗をたずねてみると、まず坂の入口にある山田紙店は、明治二十二年創業でいま二代目、江戸時代は木版師ついで絵草紙屋であった。

山田紙店 現在はスーベニアショップ「のレン」に変わりました。創業は明治22年だそうですが、そうでしょうか。まずこの『商店街めぐり-神楽坂』(1955年)では明治22年。新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)でも「右角から二三軒行ったところに今でもある山田紙店(1丁目12番地)が明治22年頃からの創業であった。主人は関西の人とかいう事である」。渡辺功一氏が書いた『神楽坂がまるごとわかる本』では「明治二十三年『山田紙店』創業。初代山田栄吉。江戸時代は木版師、絵草紙屋。文具は物理学校(東京理科大)の学生御用達、作家の原稿用紙でも有名」と書いています。より古くが正しいとすると明治二十二年創業でしょう。他の点についてはここで

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年

 紀の善は戦後汁粉屋になっているが、もとは、すしやで著名な店であった。幕末頃の創業で大名邸へ出入りしていたすし屋で、初代紀国屋善兵衛といわれている。すし屋は、しのだすし亀井すしの支店が次にならんでいる。メトロ映画劇場は二十七年一月元日を期して開場。次に山本薬局は文化五年創業以来この坂の中腹で連綿のれんを掲げている老舗で、今六代目、また向側のコーヒーの七福は元割烹の末吉、明治中頃の創業で今三代目、糸の菱屋は昔通りの貫録を示して繁昌している、明治三年創業。

紀の善 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)では

その一軒おいた隣に紀の善 ここも今は甘い物やになっているが,明治の30年代は料亭であった。幕末頃はすしやであったという(当時から1丁目12番地)

 渡辺功一氏が書いた『神楽坂がまるごとわかる本』(2007年)では

文久・慶応年間(一八六一~六八)『紀ノ善』創業。口入業、紀州出身の初代紀ノ国屋善兵衛、維新後には、『紀の善 花蝶寿司』、戦後は汁粉屋、いまの甘味処『紀の善』

 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』(角川学芸出版、平成22年)では

天皇機関説の美濃部達吉は寿司屋紀の善を愛して度々来店した。達吉には四六時中警察の尾行がついて、店を出るとすぐあとに警官が来て『誰と会っていた』『何を話していた』など根掘り葉掘り聞いて帰った

 牛込倶楽部が発行する『ここは牛込、神楽坂』平成11年第16号の富田冨江氏の『私が生まれ育ったまち』では

 うちがお汁粉やるようになった、戦後の話ですけどね。そう、戦前うちはお寿司屋だったの。それも宮内省の御用で、立ち食い寿司でなくて御用御膳寿司といっていた。そもそもうちの祖先は、紀国屋善兵衛といって、紀州の吉宗が江戸に出てくるとき一緒についてきたんです。いまの職安みたいな仕事で、若い男の人を六十人くらい連れて。だから「紀の善」なんですけど

 ほかにここで

しのだすし 昭和27年の『火災保険特殊地図』(都市製図社)では「メトロ映画劇場」の西側に「しのだすし」と出ています。
 また、山本祥三氏の『東京風物画集』(雪華社、昭和38年、下図)で「志乃寿司」も同じものでしょう。地図を見ると、「しのだすし」は1970年にはありますが、73年にはなくなっています。場所はここで。
 東京風物画集(雪華社、昭和38年)東京風物画集

亀井すし 昭和27年の『火災保険特殊地図』の左側に「(料)かほる」と「小間物 さ和屋」で挟まれて「亀すし」があります。ここでしょうか。時代が少し代わって、別の住宅地図(1960年、昭和30年)を見ると「寿司亀井」と書いてあります。
 1970年「亀井寿司」は確かにありましたが、「さわや」に買い取られて、1973年以降の住宅地図や、1985年の「神楽坂まっぷ」ではこの寿司はなくなっています。1990年11月、新しい6階建てのさわやビルの竣工を行いました。

山本薬局 昭和27年の『火災保険特殊地図』では「しのだすし」の左側の「山本」がありますが、これは新宿区郷土研究会が書いた『神楽坂界隈』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」では「山本油店」のようです。したがって違います。また上の1962年の写真で「山一薬品」も違います。
 直上の写真ではわかりませんが、昭和27年の『火災保険特殊地図』(一番上の絵)では、ちょうど「美容院マーサ-」の対面に「山本薬品」がでています。
 久保たかし氏が書いた『坂・神楽坂』(平成2年)では

山本薬局、もとは漬物やさんで、文化5年の創業というから相当なもの。ここには女の子が二人居た。中学の頃には女学校の上級生で、二人並んで、きれいなおべべを着て、しゃなりしゃなり歩いていた。はでであったので良く人眼をひいた。私も、又歩いてやがると思いながらも眼はその姿を追っていた。きれいで華やかだとデモであっても見ていて楽しい。

 現在は神楽坂山本ビルで、神楽坂会計やデンタルクリニック神楽坂などが店舗をだしています。

七福 雑誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」の「神楽坂1丁目~二丁目辺り」で「七福」は仲通りの地図にはでています(中央の図)。しかし文章はありません。また、「七福ビル」というビルの名前は現在の地図(左図)でも出ています。

七福2七福


 しかし、「向側のコーヒーの七福」とは合いません。国会図書館の新宿区の地図1960年によればかなり位置が違い、写真では神楽坂通りに近い場所、美容室マーサの隣りにあったようです。

七福1

菱屋 菱屋も歴史があります。創業はこの本の『商店街めぐり』によれば明治3年(1870年)。新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)によれば明治四年、創業者は天利吉夫氏。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。『新宿区の民俗(5)』で「店がよく栄えたのは大正・昭和初年頃で、二代目の庄次郎氏のころだった。関東大震災のときは米の買い出しに行き、近所に分けたこともあったという。震災後は神楽坂が最もにぎやかな時代で、道を横切れないほどの人出があった」

菱屋1

 上図も同じで、右側に大きく菱屋が取り上げられています。
「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか? 「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業が主になりました。

菱屋|神楽坂3丁目 昔は糸を扱う店 今は…不動産です

文学と神楽坂

 このひしも歴史があります。創業は明治5年(1872)。場所はここ

菱屋

「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。店がよく栄えたのは二代目。肴町(現在の5丁目)では大家になっています。

 現在は天利義一さんが社長。そして「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが何かを狙って並んでいます。本当に利益が出るのだろうか?

 「菱屋糸屋」は現在不動産の賃貸業です。天利海によれば賃貸物件は

  • 東京都新宿区神楽坂 3-2
  • 東京都新宿区神楽坂 5-12(7ヶ所)
  • 東京都新宿区矢来町 125(3ヶ所)※
  • 東京都新宿区原町 1-59
  • 東京都豊島区高田南町 1-25(2ヶ所)

たとえば大久保通り角のビルもこの不動産の物件になっています。

神楽坂 長~い3丁目

文学と神楽坂

 昔は神楽坂は坂ではなく、階段でしたが、明治初期になくなりました。明治20年の神楽()三丁目はここ


 現在、3丁目は菱屋龍公亭助六丸岡陶苑ヤマダヤ椿屋五十番(五十番は2016年から4丁目になりました)などがあります。

 2丁目から3丁目に入った場所で、神楽坂通りの上を向いて右側の歩道で、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。

 また、昔の木村屋(今は上島珈琲店)、二葉神楽坂演芸場があったところです。

 神楽坂通りで丸岡陶苑のあたりが最大の高さです。これから神楽坂上に行っても下がることになります。三沢浩氏の『神楽坂まちの手帖』「神楽坂、坂と路地の変化40年④」によれば

外堀通りの角、元「アカイ」前の道端を0mとすると、坂上の「丸岡陶苑」と向かいの「ナカノ洋裁」が12m230の最高所。毘沙門天から大久保通りへ向こうに連れて6m余りも下がる。

と書かれています。

 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では

 最高点から神楽坂下を見たところは…

最高点 最高点。神楽坂下を見たところ

 最高点から神楽坂上を見たところは…

最高点上 最高点。神楽坂上を見たところ

 左にはいると見番横丁です。

 すこし先に行くとまた左側に行く三叉路があります。ここを左側に曲がって、10mぐらい歩くと左手に駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しましたが、寄席の1つで、柳家金語楼きんごろうなどが有名でした。

駐車場

 では三叉路に戻りましょう。すこし上に歩くと、右側に「本多横丁」が顔を出してきました。ここを超えると神楽坂通りの4丁目です。ちなみに神楽坂通りの左側は3丁目から直接5丁目になってしまいます。4丁目は一番歴史も雰囲気もいっぱいある、そんな土地です。

 本多横丁です。

本多横丁

 なお、5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱東京UFJ銀行の間には「毘沙門横丁」と呼ぶ小さな路地が出てきます。このあたりは芸妓が沢山いた場所です。今はそんなことは絶対に全くありえません。