牛込勧工場、文明館、神楽坂日活、武蔵野館、アカカンバン、スーパー「よしや」について、土地は同一でも、時間が違います。明治時代には牛込勧工場が建ち、大正時代になると文明館に変わり、戦前は神楽坂日活、戦後は武蔵野館、アカカンバン、1970年代からは現在まではスーパーの「よしや」が建っています。
アカカンバンからよしやまで裁判記録があり、東京地裁 昭和61年(ワ)4329号の判決をまとめると……
- アカカンバンが所有(店舗を営業)
- 昭和51年12月、グリーンスタンプに売却
- 昭和52年1月、よしやがグリーンスタンブから賃借
(スーパーよしや開業) - 昭和53年8月、よしやが買い取り
まず明治時代の牛込勧工場。ここは最も古く、岡崎弘氏は『ここは牛込神楽坂』第6号「第4回 街の宝もの」で
文明館って活動(写真)になる前は勧工場でうちも瀬戸物の店出していた。勧工場というのはまあ、各商店の出店でね。食品はなかったけど。私か遊びに行くとみんなが絵を描いてくれたり、おもちゃこさえてくれたり、勧工場の人がいろいろ遊んでくれたんだよ。 |
野口冨士男氏の『私のなかの東京』(「文学界」昭和53年、岩波現代文庫)では大正時代の文明館について
船橋屋からすこし先へ行ったところの反対側に、よしやというスーパーがある。二年ほど以前までは武蔵野館という東映系の映画館だったが、戦前には文明館といって、私は『あゝ松本訓導』などという映画ー当時の言葉でいえば活動写真をみている。麹町永田町小学校の松本虎雄という教員が、井之頭公園へ遠足にいって玉川上水に落ちた生徒を救おうとして溺死した美談を映画化したもので、大正八年十一月の事件だからむろん無声映画であったが、当時大流行していた琵琶の伴奏などが入って観客の紅涙をしばった。大正時代には新派悲劇をはじめ、泣かせる劇や映画が多くて、竹久夢二の人気にしろ今日の評価とは違って、お涙頂戴の延長線上にあるセンチメンタリズムの顕現として享受されていたようなところが多分にあったのだが、一方にはチャップリン、ロイド、キートンなどの短篇を集めたニコニコ大会などという興行もあって、文明館ではそういうものも私はみている。 |
酒井潔氏の『日本歓楽郷案内』(昭和6年、竹酔書房)で、昭和時代の神楽坂日活館を書き
歓楽郷としての神楽坂は花街の外に、牛込館、神楽坂日活館という二つの映画館があるだけで、数年前までは山手第一の高級映画館だつた牛込館も、現在では三流どころに叩き落されて了った。なお寄席の神楽坂演芸場だけが落語の一流どころを集めて人気を呼ぶが、これとて昔日のそれと比較すればお話しにならない。 |
『かぐらむら』の『記憶の中の神楽坂』「神楽坂6丁目辺り」では、終戦後の武蔵野館を書き
武蔵野館は現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。 |
なお、毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。
最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。
別の記事にもコメントしましたが、映画の武蔵野館の閉館後、牛込柳町にあった「アカカンバン」という安売り屋(スーパー)が神楽坂に進出しました。その会社が短期間で破たんし、店を引き継いだのが「よしや」です。