平成28年、新しく説明文がでました。これは新しいものです。なお「十千萬堂」は、この説明文では「とちまどう」となっていますが、やはり「とちまんどう」でしょう。ここだけは「とちまんどう」としています。
新宿区指定史跡
尾 崎 紅 葉 旧 居 跡
所 在 地 新宿区横寺町47番地
指定年月日 昭和60年3月1日
新宿区教育委員会
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平成28年、新しく説明文がでました。これは新しいものです。なお「十千萬堂」は、この説明文では「とちまどう」となっていますが、やはり「とちまんどう」でしょう。ここだけは「とちまんどう」としています。
新宿区指定史跡
尾 崎 紅 葉 旧 居 跡
所 在 地 新宿区横寺町47番地
指定年月日 昭和60年3月1日
新宿区教育委員会
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以来、特別に見ていなかったのですが、2019年6月、360°パノラマ写真の関係でもう一度見てみると…
絵が薄れ、コンクリートにひび割れがはいり、文字も読めない。「神楽坂・楽楽散歩」はまるで見えません。
しかし、令和2年(2020年)7月、再度新しい神楽坂・新楽楽散歩ができました。下図は大きく拡大できます。
さらに、以下の地図は、神楽坂地区まちづくりの会の「神楽坂・楽楽散歩」(新宿区都市整備部管理課、平成6年、1994年、新宿区図書館)でした。
結局、地図は3個ありました。1つは風雨にさらされ、読めない「神楽坂・楽楽散歩」。2つ目は「神楽坂・楽楽散歩」で、平成6年、神楽坂地区まちづくりの会が作成、新宿区図書館に寄贈したもの。3つ目は令和2年の「神楽坂・新楽楽散歩」です。
1つ目と2つ目は、よく似ているのですが、大胆にもまた微妙にも違っています(この写真は巨大に拡大することも可能)。だれか原図をもっていないでしょうか? 25年前のものなので、難しい? まあ、だからこそ、令和2年の「神楽坂・新楽楽散歩」になったのですね。
山下さんが描いた別の「楽楽散歩」も見つかりました。ですが、これも神楽坂地区まちづくりの会の「神楽坂・楽楽散歩」と同じものです。
2つ目の「神楽坂・楽楽散歩」の文章は次の通り。これも1つ目の地図とは少し違っている。
平成10年(1998年)『ここは牛込、神楽坂』第13号の特集「神楽坂を歩く」では
井上 じゃ、大久保通りをこちらに戻って、読売新聞の販売所がある横丁を通る。
カギ形だから『クランク坂』
坂崎 非常に入り組んだ地形でね。階段があったり、坂があったりして。
井上 ふつうの人はまず入ってこない。
林 カギ形に入り組んでいるから『クランク坂』。交差してないから卍坂とはいえないし。
坂崎 いいネーミングだなぁ。
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読売新聞の販売所 神楽坂5丁目38にあり、2017年からは「Le petit Bistro RACLER」に変わり、さらに焼き鳥屋「酉刻」に変わりました。
なお、クランク (crank、道路)とは「直角の狭いカーブが二つ交互に繋がっている道路のこと」(ウィキペディア)。カギ形(鉤形・鍵形)とは先端が直角に曲がった形。
この坂も微妙にS字に曲がっていますが、上の道路がクランク状に曲がっているからこの名前が付いたものでしょう。
途中で出てくる「神楽坂レトロなホテル」は2019年3月にできたものです。
松本泰生氏の「東京の階段」(日本文芸社、平成19年)では
神楽坂・小さなS字階段
所在地/新宿区神楽坂4-1
●規模:16段 ●幅員:1.4~1.9m ●高低差:2.5m ●長さ:約6m ●蹴上:14~16cm ●踏み面:35~38cm● 傾斜:22° 評価
●疲労感★☆☆☆☆ ●景 観★★★☆☆ ●スリル★☆☆☆☆ ●立 地★★★☆☆ 神楽坂の路地や料亭街がある地区の北側で、北向きに下りる小さな階段。以前は階段を下りると傍らに料亭があり、その先も木造家屋が建ち並ぶ路地空間だった。下から見ると料亭の玄関の奥に隠れるように階段があり、それが奥行き感のある小路のある神楽坂という街らしく、絵になる景色となっていた。だが90年代に木造家屋群は解体されて超高層マンションと小公園になり、さらに最近、階段下の料理屋もなくなって、ここは単なる小さなS字階段になってしまった。きれいにカーブしたコンクリート擁壁は、もちろん今でも印象的なのだが、以前の周辺景観が素晴らしかっただけに、現在の姿は残念である。
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ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。
は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。
まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁と椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……
さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。
東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……
きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?
さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。
正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。
真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。
これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。
2013/5/15→2019/6/21
明治時代は1本の道なのに毘沙門横丁を通って南に進むと、出羽様下、谷がはいり、若宮小路、庾嶺坂まで、毘沙門横丁を含めて、なんと道の名前は4本になりました(明治20年の神楽坂の地図)。
「鮨・酒・肴 杉玉」(以前は「あわや」)と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。神楽坂では最も狭い路地で、しかし、先の狭い路面には居酒屋も数軒あります。
正式にはこの路地の名前は付いていません。たとえば中村友香氏、梅崎修氏の「景観としての路地維持の可能性」(地域イノベーション第3号、法政大学地域研究センター、2010年)では「毘沙門向かいの細い路地」と書いてあります。
もちろん、何かあった方がいいと考える人もいて、たとえば、平松南氏の『神楽坂おとなの散歩マップ』(けやき舎、2007年)では
ごくぼその路地…神楽坂4丁目 神楽坂ではもっとも狭い路地。表通りから身を隠すのに便利。狭い路に面して居酒屋もあり、路地の多彩さを感じさせる。 |
牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年(1998年)夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」でした。
井上 で、この最後の難所で、しのび坂(註:現在は「兵庫横丁」が普通)と交わる伊勢藤の近くの、「みさか」のところを抜けて帰りたいが。あの、ほんの狭い小道を。
林 デブは通れないから『デブ止め小路』にとか(笑い)。逆に『細身小路』とか。
井上 「みさか」のママは秋田美人だが、細身とはいえないなあ。名もなきままの小路を一つぐらい残しておくのも愛敬。
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西側の店舗4軒がここ「ごくぼその路地」で開店し、2019年は酒ト壽、ちょい干してっ平、バー ソルト、シゲ テイです。一方、東側の店舗はどれも裏側でして、たとえば「ル・ブルターニュ」。これは東は酔石横丁に接して堂々と開き、一方、西は「ごくぼその路地」で、勝手口だけです。
しかし、戦後のしばらくの昭和27年、「ごくぼその路地」は酔石横丁よりも大きい時代がありました。(☞一番狭く細い路地)
この路地の神楽坂通りに出る南端はわずか91cm、四つ角にぶつかる北端は122cmでした。
見番横丁を見ておきたいと思います。下の写真では中央の灰色の道路が見番横丁です。その下の青い色の道路はここで登場する場所。さらに、右側に熱海湯階段があります。➀から⑫までは「見番横丁」で、㉑は「熱海湯階段」です。
当然、全てが上下左右に360度、動きます。矢印をたたくと、前に進みます。
写真は2019年6月2日です。この食堂たちは、5年後にどれだけが残っているのでしょうか。一応「食べログ」では「中むら」が最高点で4.07、次は「蕎楽亭」で3.88でした。
➁ 伏見火防稲荷神社、標柱
➂ 神楽坂組合(芸者の組合)、バル「hajimenoippo 2」、ビアバー「スリジエ」
➃ フレンチ「メゾン・ド・ラ・ブルゴーニュ」
➅ 神楽坂3丁目テラス(鉄板焼き「中むら」、イタリアン「コグスダイニング」、神楽坂鮨 りん、シマダカフェ)
➆ 串焼き「串 358」
⑩ 焼き鳥「文ちゃん」
⑫ 生ビール「ザロイヤルスコッツマン」、イタリアン「Ristorante FIORE」、和食「ほそ川」
⑬ 石臼挽き手打「蕎楽亭」