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なぜ、小説家は昭和2年に洋行できたのか

文学と神楽坂

 はい、数年前から売れている小説家は豊かに、金持ちになっていったのです。巌谷大四氏が書いた「懐しき文士たち 昭和篇」(文藝春秋、1985年)では…

 大正15年10月19日、昭和改元の二ヵ月余前に、改造社が「現代日本文学全集」(全38巻)を大々的に発表した。三ヵ月遅れて新潮社が「世界文学全集」(全38巻)を、これまた大々的に発表した。どちらも定価一円ということで、円本合戦、円本時代という言葉が生れた。(中略)
 この二つの全集が口火となって、続々と全集が出はじめた。創業50年記念と銘うった春陽堂の「明治大正文学全集」(全50巻)、新潮社が「世界文学全集」に次いで打ち出した「現代長篇小説全集」(全24巻)、当時新興出版社であった平凡社の「現代大衆文学全集」(全40巻)(中略)といった具合に、次から次へと、全集が刊行され、漱石蘆花独歩啄木等の個人全集も続々刊行されて、まさに“円本全集黄金時代”を現出した。
 “円本時代”のもたらした印税の札束は、文壇に“洋行熱”を捲起した。昭和二年の末頃から、文士連が次々と憧れのソヴェート、ヨーロッパ、アメリカ、中国へ旅立って行った。

巌谷大四 いわやだいし。編集者、文芸評論家。巌谷小波の四男。早大卒。「戦後・日本文壇史」「波の跫音―巌谷小波伝」などを発表、平成3年「明治文壇外史」で大衆文学研究賞。生年は大正4年12月30日、没年は平成18年9月6日。享年は満90歳。
改造社 出版社。1919年(大正8年)、改造社を創立。総合雑誌『改造』を創刊。1944年(昭和19年)、軍部の圧力で解散。
新潮社 出版社。明治29年(1896)新声社を創立するも、失敗。明治37年(1904)、文芸出版社の新潮社を創業、『新潮』を創刊。大正3年(1914)、出版界初の廉価本(20銭)「新潮文庫」創刊。昭和2年(1927年)発刊の『世界文学全集』が大成功、現在に到る。
春陽堂 出版社。明治11年(1878年)創業。明治文壇の主要作家の作品を独占的に出版。しかし関東大震災に遭遇、日本橋の社屋全てを破壊される。昭和2年(1927)『明治大正文学全集』で成功し、社業を回復。戦後、春陽堂書店の社名で「春陽文庫」として大衆文学書を発行。
平凡社 出版社。大正3年(1914)小百科事典『や、此は便利だ』の刊行で創業。昭和2年(1927)「現代大衆文学全集」の成功で業界に進出、1931年『大百科事典』全28巻を刊行。1955年に『世界大百科事典』全32巻、同じく全34巻(2007)を刊行。
蘆花 徳冨蘆花。とくとみろか。小説家。小説「不如帰」、随筆「自然と人生」を発表。トルストイに心酔。生年は明治元年10月25日、没年は昭和2年9月18日死去。享年は満60歳。

 金力のため作家も欧米を訪ねることは簡単になりました。

 昭和2年10月13日の朝11時、秋田雨雀は一週間以上もかかったシベリア鉄道の旅を終って、夢にまで憧れたモスクワの駅に降り立った。うっすらと雪が積っていた。その日、モスクワは初雪であった。(中略)
 雨雀より二ヵ月遅れて、最初の夫と離別して心に傷を抱いていた中条百合子は、昭和2年11月30日東京を発ち、京都で湯浅芳子と落ち合って、12月2日、朝鮮―ハルビン経由でモスクワへ旅立った。
 百合子と湯浅芳子を乗せたシベリア鉄道は、ハルビンからバイカル湖畔をすぎ、はてしなく雪の降りしきるシベリアの礦野を七日間走りつづけて、12月15日の夕方、モスクワの北停車場に着いた。(中略)
 正宗白鳥久米正雄より一日遅れて、11月23日、これも夫人同伴で、横浜からアメリカへ旅立った。
 つむじまがりの正宗白鳥は、誰にも知らせず、こっそり旅立とうとしたが、事前にことがもれ、しぶしぶ白状したので、その日は横浜埠頭に、徳田秋声上司小剣近松秋江菊池寛山本有三中村吉蔵細田源吉小島政二郎岡田三郎ら30名余が見送った。
 白鳥はいつもの袴に白足袋といういでたちで、新聞社のマグネシウムをいやな顔をして、ぶつぶつ言っていたが、いざ出帆となると、下から投げられる赤、白、青、黄、さまざまのテープを迷惑そうにつかんでは、にこりともしなかった。
 船が出はじめると夫人の方は、流石に心ぼそくなったのか、べそをかきはじめ、顔をくちゃくちゃにして涙を流しっぱなしで、夢中で手を振ったが、白鳥は、一層しかめつらをして、ぶっとしたまま、それでも気がとがめたのか、大分はなれてから、やっと二度ほど手を振っただけだった。(中略)
 なおこの年は、その他、林不忘夫妻、三上於菟吉長谷川時雨夫妻、与謝野寛晶子夫妻、佐藤春夫中村星湖本間久雄木村毅らが、それぞれ、西欧、中国へ、世界漫遊へとにぎやかに旅立って行った。

湯浅芳子 ゆあさよしこ。大正・昭和期の翻訳家、随筆家。早稲田大学露文科の聴講生だったが、中退後、雑誌・新聞記者となり、大正13年、中条(宮本)百合子と知り合い、一時、共同生活。昭和2年から3年間、2人でモスクワに留学。帰国後、プロレタリア文学に参加。22年「婦人民主新聞」編集長。生年は明治29年12月7日、没年は平成2年10月24日。享年は満93歳
中村吉蔵 なかむらきちぞう。劇作家。早大在学中、小説が新聞の懸賞に入選、卒業後、米国に留学,イプセンやショーの影響を受け、1909年、帰国後劇作家に転じた。1913年、芸術座に参加。社会劇「剃刀」や歴史劇「井伊大老の死」を執筆。生年は明治10年5月15日、没年は昭和16年12月24日。享年は満65歳
細田源吉 ほそだげんきち。プロレタリア作家。早大卒業後、春陽堂に入社。昭和7年検挙され転向する。以降は執筆はなく、府中刑務所の篤志面接委員を務めた。生年は明治24年6月1日、没年は昭和49年8月9日。享年は満83歳
小島政二郎 こじままさじろう。作家。慶応大学卒。通俗小説、大衆雑誌、婦人雑誌が主な活躍の舞台。講釈師の神田伯龍をモデルにした『一枚看板』で認められた。生年は明治27年1月31日、没年は平成6年3月24日。享年は満100歳
マグネシウム マグネシウムリボン発光器の意味。閃光粉ともいう。マグネシウムは空気中で強く熱すると閃光を放って燃える。1880年頃から使用。ところが、1929年ドイツで、昭和6年(1931年)日本で、危険性がより少ない閃光電球に変わった。
林不忘 はやしふぼう。小説家・翻訳家。初め谷譲次の名で渡米の経験をつづった『テキサス無宿』。その後、牧逸馬では海外探偵小説や、『地上の星座』など通俗小説を発表。林不忘では、時代物の『丹下左膳』を発表。小説を量産し「文壇のモンスター」との異名をもった。
三上於菟吉 みかみおときち。小説家。早大英文中退。長谷川時雨の夫。時代物の大衆小説を多く書いた。生年は明治24年2月4日、没年は昭和19年2月7日。享年は満54歳。
中村星湖 なかむらせいこ。小説家、翻訳家。早大英文卒。「少年行」が「早稲田文学」に一等当選。同誌の記者となり,島村抱月門下として自然主義を鼓吹した。戦後、山梨学院短大教授。生年は明治17年2月11日、没年は昭和49年4月13日。享年は満90歳。
本間久雄 ほんまひさお。評論家・英文学者。早大英文卒。「早稲田文学」同人、のち主宰者として活躍。英国留学後、早大文学部教授となる。関東大震災後から日本近代文学研究に専念。生年は明治19年10月11日、没年は昭和56年6月11日。享年は満94歳
木村毅 きむらき。小説家、評論家,文学史家。早大英文卒。明治文化研究会同人として、創作・翻訳・評論に幅広く活躍。日本労農党に参加、社会運動に関わる。著作に「ラグーザお玉」「小説研究十六講」など。生年は明治27年2月12日、没年は昭和54年9月18日。享年は満85歳。

 しかし、文士の洋行は長続きしません。まず、昭和4年、米国ニューヨーク市から世界恐慌が始まり、日本にも波及、空前の不況に襲われました。また、日本では言論弾圧が強まり、昭和8年、プロレタリア文学の小説家、小林多喜二氏は拷問死します。さらに昭和11年2月26日、クーデター未遂である2・26事件が起こり、昭和12年、日中戦争が始まり、ついに昭和14年、欧州で第2次世界大戦になり、昭和16年、日本では、米国ハワイで真珠湾攻撃が起こりました。

高島屋10銭20銭ストア(写真)

文学と神楽坂

 「三井住友トラスト不動産」の「四谷・牛込」で「戦前期の四谷・牛込」「神楽坂にあった均一ストア」(https://smtrc.jp/town-archives/city/yotsuya/p06.html)を見てみます。

高島屋

百貨店の『高島屋』は1927(昭和2)年より店内に均一商品の売場を設け好評を得ていた。1931(昭和6)年、10銭均一の『高島屋10銭ストア』を大阪で開業。その後、20銭均一の商品も加えて『高島屋10銭20銭ストア』として全国でチェーン展開。「昭和恐慌」の時勢ということもあり、翌年には51店舗まで成長した。1935(昭和10)年の資料では、陶磁器、菓子、玩具、家庭・雑貨用品など、10銭均一の商品として2,000種以上、20銭均一の商品として400種以上を取り扱っていた。現在の100円ショップの原型といえるものであった。写真は1932(昭和7)年に開店した『高島屋10銭20銭ストア 神楽坂店』で、1933(昭和8)年頃の撮影

 では、早速、国立国会図書館で東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)のコピーを依頼しました。でてくると、写真はこれだけ。巨大な地図の一部なのでした。

 では文章は? はい、これだけです。

10銭20銭ストア

 あとは全部「三井住友トラスト不動産」が作った説明だったのです。最後に「三井住友トラスト不動産」では

1938(昭和13)年には別会社の「丸高均一店」として独立、最盛期となる1941(昭和16)年に106店舗となったが、その後、戦時下になると均一での販売は困難となり、戦局の激化に伴い次々と閉店に追い込まれた。

「てくてく牛込神楽坂」の「三角堂と買取り店」では神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)からの引用を行い、

相川さん (中略)そこへ十銭ストアができた。
山下さん 「高島屋」が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいっちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。
相川さん 飯田商事というのが高島屋をやっていた。
馬場さん 一時期、高島屋と論争してね。「丸高ストア」と名乗ったときも記憶がある。高島屋さんというのも飯田さんの系統だから。なんかあったんだと思う。

 高島屋10銭ストアは「時代」が「震災後」の所にあります。

時代←北西南東→
震災前洋服・都築機山閣玩具店松葉塩物神楽坂せんべい
震災後菊岡三味線山岡書店三角堂メガネ
昭和5年頃
(1930)
高島屋十銭ストア
(昭和7年以降)
ナトリ理容室岡沢菓子店
1952(空き)雑貨パチンコ楽器レコード
リード商店
1955明治牛乳関口商店うなぎ大和田
1963(空き)
1980Fance
1999菱屋弁当たぐち(建)
2010五十番キッチンママセイジョー
2018チカリシャス買い取り店
2020全て閉店
2021将来の道路神楽坂5丁目ビル

すずらん通り(写真)本多横丁 ID 5092

文学と神楽坂

 本多横丁はかつて「すずらん通り」といっていました。記憶に頼ると、巨大なアーチ看板もあったと思います。しかし、写真はない。本当にない。そこで新宿歴史博物館に聞いてました。なんと「すずらん通り」がはいった写真は1枚だけで…

昭和20年代。新宿歴史博物館蔵

しかもピンボケ。でも電柱2本に「すゞらん」と書いてある。

すゞらん通り(拡大図)

 ちなみに、下水はこの時点で汲み取りのおかげで、きれいでした。

 新宿歴史博物館はもうひとつ写真を貸してくれました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5092 神楽坂 本多横丁

 こちらは2階建ての家が少ないことから、時代は少し早く、まだ「すゞらん」と書いていません(と思う)。また、昭和20年代の本多横丁の街灯は、昭和30年代に神楽坂通りで見た街灯(↓)とは少し違っています。

昭和34年。坂下から坂上を見る。『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)

 一方、この本多横丁の戦前(ID 96)と戦後の街灯がよく似ています。ただし、電灯の形は違っているようです。

 では地図を見ておきます。これは昭和27年の地図です。中央は本多横丁で、一番下は神楽坂通り。

本多横丁(火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年)

 その次は昭和35年の住宅地図しかありません。これは左に神楽坂通りがあり、真ん中が本多横丁です。

住宅地図。昭和35年

 神楽坂通りに近い場所から写真を撮ったものです。

本多横丁(年は不明)
  1. 「うなぎ」で、「たつみや」
  2. 「中村屋本店」。戦前からある染め物と洗い張り屋。京染(きょうぞめ)とは京都で染めた、また京都風の染め物の総称。
  3. 「めん類食堂 海老屋」
  4. 「松月パン」。この時代は明月堂ではなかった
  5. 「ニン」
  6. 「コーヒー」
  1. 「神楽坂グリル←」
  2. 「飯田橋 犬猫の診療所」。場所は不明
  3. 「パーマネント(みすず)」
  4. すのこの下に「神楽坂」「53部」
  5. おでん
  6. 「神楽坂グリル」
  7. 「㐂らく寿司」。現在もあります。
  8. 電柱看板「パーマネント 大(場)」

20/12/10→21/11/6

神楽坂4丁目(360°カメラ)

文学と神楽坂

 神楽坂4丁目は明治時代にはかみ宮比(みやび)(ちょう)と呼ばれていました。江戸時代では武家地で岡野、奥津、中村、東條他二、三軒の武家が住んでいましたが、明治2年、土地の開放があり、町屋が出来て市街地となりました(明治20年の地図)。宮比神社があったので、宮比町になりました。

礫川牛込小日向絵図。当時の上宮比町(将来の神楽坂四丁目)は青色の部分。

 上下2つの宮比町があり、この上宮比町と下宮比町との間には牛込神楽町三丁目や津久戸町が介在していて上下のつながりはありません。

明治12年「東京実測図」

 昭和26年5月1日、ようやく上宮比町は神楽坂4丁目と名前を変更しました。通りの北側だけが神楽坂4丁目です。 下の写真は矢印をたたくと左右に進み、黄色の∧はその道路の名前です。

紅小路

 ここで「楽山」から奥に行く小さな路地があります。楽山(前方)とみずほ銀行(後方)の間です。この路地をあでやかに「紅小路」と呼びます。なんで? 通りに面するビル、昔の楽山とみずほ銀行がどちらも赤いビルの壁になっているから。これは今の楽山に変わる前で、今ではそうでもないようですが。


 ではまた元の通りに戻りましょう。
鳥茶屋せんべい福屋の間に大きな路地が見えます。これは賞を取ったことで「まちなみ景観賞の路地」、千鳥足で歩きたいことで「酔石横丁」と呼ばれています。酔石

 奥には右側の古い居酒屋「伊勢(いせ)(とう)」と左側のクレープ屋「ル・ブルターニュ 」が対でならんでいます。この奥に、兵庫横丁が出てきます。

 ではもう一度元に戻って、3軒先に進みます。細身

「AWAYA」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」と呼んでいます。神楽坂で最も狭い路地です。

 しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」


ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持ってこの路地を抜け毘沙門天で待つ中川時夫に会う

2013年2月21日→2020年12月6日


360度カメラ(5)

5
神楽坂1丁目


神楽坂三丁目

神楽坂四丁目

神楽坂五丁目

高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのか

文学と神楽坂


 特定非営利活動法人「粋なまちづくり倶楽部」の神楽坂を良く知る教科書では…
(6) 三年坂
本多横丁を含み、筑土八幡神社へ至る緩やかな坂である。堀部安兵衛が高田馬場の決闘に向かった際、ここを駆け抜けたとも言われる。

 本当に堀部安兵衛が自分の住居から三年坂を通り、決闘した高田馬場跡に向かったのでしょうか。講談「安兵衛 高田馬場駆け付け」では、自宅は京橋八丁堀・岡崎町にあり、八丁堀から高田馬場へと向かったといいます。しかし、本当の自宅は牛込納戸町のほうがよかったといいます。
 郷土史家の鈴木貞夫氏の『新宿歴史よもやま話』(公益社団法人新宿法人会、平成13年)「高田馬場と安兵衛の助太刀」では… なお、ここでの括弧つきのひらがなはルビに変えています。
 ここで、安兵衛が「何処から高田馬場に駆けつけたのか」について考えてみよう。
 まず、安兵衛は事件後、堀部家の養子に入るについて『父子契約の顛末てんまつ』として事情を書留めるとともに「2月11日高田馬場出合喧嘩之事」を自ら認めた手記が熊本の細川家に伝えられている。これによると、
 元禄元年(1688)越後新発田しばたから江戸に出、牛込元天竜寺竹町(新宿区納戸町)に住んだ。やがて前記の菅野六郎左衛門(区内若葉に住む)を名目上の叔父として親類書を作り、納戸町に屋敷をもつ徒頭かちがしら稲生いのう七郎右衛門の家来速見重右衛門の口入れで稲生家の中小姓になり、元禄七年に高田馬場の助太刀に及んだ、というのである。
 これを根拠付ける、元禄4年の安兵衛自筆の従弟宛手紙が現存し、これに「去春(元禄3年)より唯今に牢人ろうにんにて、住所は牛込元天龍寺竹町と申す所に罷り有り候」と書かれている。また、幕府が作成した元禄期の地図に稲生七郎右衛門屋敷が現在の区立牛込三中の道を隔てた東側角地に記されている。七郎右衛門は1500石の旗本で延宝8年(1680)から元禄10年まで御徒頭を勤めており、時期的にもうまく符合する。
 稲生屋敷から高田馬場まで、2.2キロメートルと意外に近い。安兵衛が高田馬場に駆けつけるのに不可能な距離ではない。
 以上、納戸町の旗本稲生家から高田馬場に赴いた、と考えてよいのではなかろうか。

牛込元天竜寺 図の左上の天龍寺は天和3年(1683年)、火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越ししました。その後、天竜寺前は代地でしたが、町並名主付にしたいと願い出、元禄九年(1696)町奉行支配となり、御納戸町と名付けられました。また、払方町の地域も合わせて「元天龍寺前」とも呼ばれていました。

地図➀ 地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

竹町 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「中御徒町通南側は竹町といわれている。これは寛永12年(1635)に天龍寺が召し上げられた跡に、竹薮があったからといわれる」
御徒頭 江戸幕府の職名。若年寄わかどしよりの支配に属し、御徒組おかちぐみを率い、江戸城および将軍の警固に任じた。

地図➁ 現在の地図

中小姓 ちゅうこしょう。小姓は武将の身辺に仕え、諸々の雑用を請け負う職種。中小姓は徒歩で随従する歩行小姓
牢人 主人を失い秩禄のなくなった武士。
稲生七郎右衛門屋敷 「地図➀」では橙色で、「➁現在の地図」では赤色で囲んだ家は稲生七郎右衛門の家です。
意外に近い 稲生屋敷から高田馬場までは徒歩で27分でした。駆け足の速度はほぼ2倍、約14分です。
 最後に両者の人数を書いています。

 また、高田馬場の決闘に、村上は弟二人、浪人村上三郎右衛門と中津川祐範に助太刀を頼み五人、菅野は安兵衛、若党角田左次兵衛、草履取ぞうりとり七助の四人。安兵衛の手記は、決闘の場所を馬場の西部としている。

村上 この決闘の一方は伊予西条藩の村上庄左衛門の軍団6~7人。
菅野 他方は伊予西条藩の菅野六郎左衛門の軍団4人。
若党 わかとう。江戸時代、武家で足軽よりも上位にあった身分が低い従者。
草履取 武家などに仕えて、主人の草履を持って供をした下僕。

 なお、決闘前に自宅にいたという根拠も、全くどこにもありません。たとえば、池波正太郎氏の『堀部安兵衛』では、決闘前日は近くの林光寺に外泊したと書いています。同じ作者の『決闘高田の馬場』では、天竜寺の長屋から決闘に行ったと書かれています。住所でも外泊でも三年坂や本多横丁は全く出てきません。つまり、高田馬場の決闘で安兵衛は三年坂を通ったのは、ほぼ間違いなのです。