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神楽坂上の風景(写真)昭和45年 ID 7430

文学と神楽坂

 地元の人から神楽坂上についてです。

 神楽坂はもともと坂の名前なので、外堀通りの「神楽坂下(牛込見附)」交差点から坂を見上げた写真が多い。大久保通りの「神楽坂上」交差点の写真は少ないです。新宿歴史博物館の昭和45年の写真(ID:7430、下図、拡大できます)は、貴重な一枚です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7430 神楽坂 坂上風景。昭和45年11月14日

 この交差点名は戦前は「肴町」だったそうです。町名が神楽坂になり、交差点名も「神楽坂上」に変わりました。当時は「神楽坂の出口」と認識されていました。それが最近では、地下鉄神楽坂駅や牛込神楽坂駅周辺まで、ひとくくりに神楽坂と呼ばれるようになりました。いずれは交差点名も、また変わるのかも知れませんね。

 交差点から向かって左側。「美観街」の大きな標識ポールは寺内に下っていくの角にありました。角店は見えていませんが、この時代は肉屋の恵比寿亭だと思います。ポールに隠れている黒地白文字の看板は、名称変更前の「日本勧業信用組合」本店の高い広告塔だと思います。手前の相馬屋越しに見えています。その左下、やはり読めない看板は酒屋の万長でしょう。

 寺内横丁です。
角店 かどみせ。道の曲がりかどにある店。

 手前の大きな看板は「中国料理 東花飯店」と読めます。ここは戦後、ビルが建ったのは早かったのですが、何度か商売替えをしていて、失礼ながら店としては安定していなかった印象があります。

 隣はタカミ洋品店。その隣の「東芝レコード」の看板は楽器・レコードのリード商会本店です。このリード商会は、間口が広くて奥行きがない、三角形の変則敷地の店でした。2丁目の「神楽坂ビル」に支店がありました。CDや電子配信の台頭とともに、相次いで閉店したように思います。

「割烹 うなぎ蒲焼」の看板は大和田。神楽坂には他にウナギ専門店として坂下の志満金、本多横丁のたつみやがあり、藁店の角の鮒忠もウナギが売りでした。当時の商店街としての密度の濃さを感じます。

 その先からが、大久保通りの拡幅計画で道路になってしまう土地です。新規にビルを建てることも出来ず、戦後すぐの古い建物に手を加えながら使っている店が大半でした。大和田の隣は、この当時は田口牛乳店。明治牛乳の配達から菓子店、弁当店など、時代の変化に合わせて商売替えしていたように記憶します。

 写真の一番左、見切れているのは菊岡三味線店です。ショーウインドウに三味線が下がっているのが、なんとなく分かります。今ではリード商会から左はすべて、新しいビルと道路になってしまいました。

三角形の変則敷地の店 リード商会はまさに三角形の地域でした。

1970年。住宅地図。

 向かって右側は、ほとんど商店が見えていません。この写真の頃の大和田の向かい、戦前に紅谷があったあたりには、タイヨウ時計と三菱銀行の仮店舗が並んでいたのではないかと思います。銀行には大きな金庫が必要だった時代で、仮店舗といえどもわざわざ新しいビルを建てたと聞きました。5丁目に移転しなかったのは3丁目の旧店舗の敷地の方が広いからか、あるいは土地の権利関係の問題があったのかも知れません。

 当時からタイヨウ時計は大久保通りを渡った左の角に支店があり、後にそちらに自社ビル(タイヨウビル、1987年12月竣工)を建てて店を集約。三菱銀行も3丁目に戻りました。今はどちらもこの場所にはありません。当時の銀行の仮店舗は、このブログの「神楽坂の今昔1」の記事中の写真で見られます。このビルは銀行の移転後、パチンコ店になったように記憶しています。

タイヨウ時計… 以前の益美屋からタイヨウ時計になり、紅谷(赤)は空地(赤)になりました。なお、水色は「東京靴下KK」ですが、しばらくして「薬ヒグチ」になりました。

仮店舗 三菱銀行の店舗は見えないですが、最初の写真をよく見ると、沢山の人が待っているようです。ある人は「その向こう、歩道に人が何人か見えるのが銀行っぽい」といっていました。
 住宅地図では昭和45年も昭和46年も空白でした。
 加藤嶺夫氏の「東京消えた街角」(河出書房新社、1999年)では、はっきり見えます。

 電柱広告の「東電のサービスステーション」は、3丁目の菱屋の隣にありました。

「薬」だけ見える看板は薬ヒグチで、「427店」に向けて積極出店していた頃です。後に1丁目と4丁目にも別店舗を出しましたが、今はすべて撤退しています。

 一番右、「DPEつくば」は不動産屋のつくば商事です。ここも大久保通りにとられる土地ですが、それを承知で店を出したそうです。道路拡張時には営業実績に応じた補償金がもらえます。

 小さいですが写真の右下隅の「歩行者天国11/15より 正午~六時」。初期のホコ天は、夏は20:00まで、冬は18:00までと季節で運用時間を変えていました。その告知です。今は通年で19:00までになりました。これも季節感が昔より希薄になったひとつの表れのように思います。

東電のサービスステーション ここです。

1970年。住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂(一部)

薬ヒグチ 1970年「東京靴下KK」のお隣で、つくば商事の一部が「ヒグチ薬局」になりました。


神楽坂2丁目(写真)昭和37-39年頃 ID 5, 12913

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 5とID 12913を見ていきましょう。ID 12903からID12914までは雨の日の神楽坂通りの写真で、昭和37~39年頃と思われます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 5 神楽坂途中から坂下方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12913 神楽坂

 撮影の方向は、神楽坂2丁目から坂下に向いています。雨は現在上がっています。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。車道に凸凹が目立ち、石敷いしじき、石だたみがあり、歩道の表面には文様があります。電柱は向かって右側だけで、電柱の上には大きな柱上変圧器があります。
 ニューイトウの前の車道には穴を補修したような跡が残っています。この部分は坂の上りはじめで、Oリング(でつくった窪み)の大部分は、坂が急になる神楽坂3丁目にあります。

神楽坂2丁目 (坂上→坂下)
  1. ニューイトウ(靴)
  2. 穴の跡
  3. 奥に「洋食レストラン 京屋」「神楽坂ビリヤード  
  4. パチンコはマリーで。マリー
  5. 志乃多寿し
  6. 街灯。掲示「神楽坂」
  1. 電柱看板「石川歯科  」「質 倉庫完備 大久保
  2. クスリ(神楽坂薬局)
  3. 夏目写真館
  4. 松本商店
  5. 神楽屋 センベイ
  6. 電柱看板「石川歯科」「質 倉庫完備 大久保
  7. ダイヤモンド毛糸 大島糸店 4階
  8. オザキヤ(靴)

「旅館 かぐら苑」は1964年(昭和39年)まで存在し、「旅館 かやの木」は1965年(昭和40年)から存在し「全航空住宅地図帳」では1973年(昭和48年)になくなっています。1962年に写真があったとすると、「かやの木」はありえません。「野乃木」は1963年には存在し、1973年になくなっています。なお、は「」の変体仮名でした。

住宅地図。1963年

全航空住宅地図帳、1965年