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飯田橋駅東口2(写真)ID 480, 11455, 494, 11469 昭和51年

文学と神楽坂

 新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の写真ID 480とID 494は、昭和51年8月に飯田橋駅東口と飯田橋交差点を撮った写真です。
・飯田橋駅東口(写真)ID 481~483
・失われた新宿区(写真)ID 484
の撮影で、おそらく再開発前の同地区の様子を記録したものでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 480 揚場町、飯田橋駅前

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11455 飯田橋交差点、飯田橋駅ホーム

 ID 480とID 11455は、飯田橋交差点の西側からを東側を狙っています。左右方向が外堀通り。手前の横断歩道は大久保通り。左側の高架の下が目白通りです。
 歩道橋の右、日除けテントの古い建物はこの当時、新宿区に属していました。後に区境変更で千代田区になります。
 その右は取り壊されて空地になり、フェンスで囲まれています。フェンス越しに見えているのは外堀の向こう岸にある飯田橋駅駅舎の2階部分。その上にはホームの屋根が左右に続いています。駅舎の手前、右の平屋は東京燃料林産の建物でした。一番奥の数棟のビルも千代田区です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 494 飯田橋駅ガード下

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11469 飯田橋駅高架下 目白通り

 ID 490とID 11469は、ID 480の左側の歩道橋の上から飯田橋駅の高架ホームを撮影しています。JRの発足は1987年(昭和62年)4月なので、撮影当時は「国電」でした。高架橋の案内看板には「JNR(日本国有鉄道) 飯田橋駅→」と書かれています。駅前のタクシー乗り場は、今も同じ場所にあります。
 飯田橋駅のホームは、この写真の右側に200メートルほど移転し、2020年7月12日に新しく開業しました。今も高架橋は変わっていませんが、すでに写真の部分はホームとしては使われていません。
 撮影位置は新宿区の最も外れで、写っているのはすべて千代田区です。
 なお、現在の飯田橋駅の出入口は、始めの一か所から、変遷の末、北東の出入口と南西の出入口になりました。北東の出入口を東口、南西は西口と呼び、さらに現在は無数の改札があります。

飯田橋駅の東口と西口

  1. 立て看板「サービス オール早〇」
  2. 道路標識(最高速度40)大型貨物自動車等通行止め(大型貨物自動車等通行止め)
  3. 陸橋。道路標識「大型最徐行」
  4. JRのプラットホーム。中央線 JNR 飯田橋駅
  5. タクシーのりば
  6. 新聞売り場
  7. チラシ「催眠療法。赤面対人恐怖どもり」
  8. 歩道橋。当時は「エ」の形をしていた。
  9. 交差点。名前は「飯田橋」。縦に並んだ信号機があるが、理由は不明。
  10. 店舗。シームレス(後ろ中央に縫い目のない婦人用長靴下)を販売。
  11. 店舗。立喰いそば 富士
  12. 空地、
  13. 立て看板「〇くださ(い)/ゴミをすてて(は)/いけません/〇〇)
  14. 飯田橋駅駅舎(二階建ての家)
  15. 歩行者用信号機
  16. 東京燃料林産(一階建ての家)

豊来亭?|大正時代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「新宿風景Ⅱ」(新宿歴史博物館、平成31年)に「関東大震災前の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」と「震災後の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」がでています。個人が提供したものです。なお、関東大震災は大正12年9月に起こりました。

 これについて地元の方は……

「豊来亭」の名は「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」をはじめ各種資料では見かけません。また、この写真では場所を特定できません。ただ26の右ののれんの上の横書き看板は、無理に読むと「洋食屋/豊来亭」のようにも見えます。

 国立国会図書館デジタルコレクションで公開している「職業別電話名簿 東京・横浜」の大正11年版で調べてみました。西洋料理業の項に「寶来軒」があります。新字体なら「宝来軒」ですが、旧字の「寶」は「豊」と誤読しやすいです。

職業別電話名簿 東京・横浜。大正11年

 この店の所在地は「牛、矢来26」-すなわち牛込区矢来町26番地です。現在の地下鉄神楽坂駅あたりですが、ここに「寶来軒」がありました。ただし大正11年の地図では、このあたりは非常に細かく区画されていて、26番地は角地でもないようです。複数の区画に建つ人気店だったかも知れません。

東京市牛込区。大正11年。(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)ただし


 では27はどうでしょうか。

「震災後に再建した店の様子」と説明がありますが、そもそも神楽坂は関東大震災では被災せず、それが戦前の繁栄につながりました。
 26が左右に出入り口を持つ角店なのに対して、27は間口が狭く、同じ場所には見えません。27の店名看板は「西洋料理 御〇」「御国洋食部」、正面電柱の左側の看板も「御国洋食部」と読めます。
 さらに店名の左右には「電話本所 五九九一番」と書いてあります。つまり27は本所区(現・墨田区)にあった洋食店で、神楽坂ではありません。本所は関東大震災で大きな被害を受けた地区なので「再建」もしっくりきます。
 なぜ、これらの写真が「豊来亭」になったのでしょう。実は職業別電話名簿の「寶来軒」の隣に「寶来亭」が掲載されています。所在地は「本所、中ノ郷八軒23」-本所区中ノ郷八軒町23番です。
「寶来軒」と「寶来亭」の間にのれん分けなどの関係があったのか、「寶来軒」の料理人が震災後に「御国洋食部」に転職したのか。それとも単純ミスか。真相は分かりません。
 なお関東大震災後の「職業別電話名簿」大正15年版にも「寶来軒」「寶来亭」は両方とも掲載されています。

 矢来町26番地について。昭和初期に矢来町だけが番地の分配や再分配を行いました。もともとは明治35年の「夜の矢来」の訳では「君はどちらから来たのですかと他人に問われて、矢来ですと答えると、その人が二の句を発し、矢來は広い所ですねえと必ずいう。でも、そんなに広い所ではないのです。ただ本鄕の西片町と同様で、一か所、番地のなかは中々広い、家が数百ケ戸もある番地があります」。つまり、旧酒井若狭守の下屋敷です。
 明治時代には下屋敷は巨大で過疎地域になり、逆に庶民は小さな平屋に住んでいました。昭和12年になると、この庶民の町は小さな家屋や店舗が一杯に並んだ地域となり、新しい番地が告示され、下の地図も登場します。矢来町26番地はおそらく矢来町126番地になったのでしょう。しかし厳密にいえば、矢来町26番地はどこにあったのか分からない時代になります。しかし、写真26はどう見ても26番地とは違うと感じます。

矢来町。都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年