日別アーカイブ: 2022年9月18日

下宮比町(飯田橋)交差点

文学と神楽坂


地元の方です

 目白通りと外堀通り、そして大久保通りが交わる五叉路を、地元では「下宮比町の交差点」と呼ぶことが多かったと記憶します。
 しかし戦後の地図を見ると、一貫して「飯田橋」と書かれています。この理由を考察しました。
 交差点は全域が外堀の外で、新宿区内になります。隣接する千代田区の地名「飯田橋」は不適当とも言えます。しかしながら、かつては都電の結節点として交差点を取り囲むように飯田橋停留所があったことから、飯田橋と呼ぶことに抵抗は少なかったはずです。

住宅地図。飯田橋交差点 1962

 ひとつの可能性は信号機に交差点名が表示されていなかったことでしょう。単に「下宮比町のあたり」と呼ばれていたことはありそうです。
 もうひとつは、この交差点に1970年代に設置された「飯田橋歩道橋」の住所表示です。田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の写真には大きく地名が書かれています。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-1 船河原橋西詰から 1976-12-02

 実は信号機の交差点名の表示も始まっています。よほど目立たなかったのでしょう。

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」06-09-57-2 船河原橋南詰から 1976-12-02 赤囲みが交差点名

 現在でも同様な表示はあるのですが、いくぶん文字を小さするなど誤解を避ける工夫をしているようです。


四谷・市ヶ谷見附の桝形撤却[明治の市区改正](明治32年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 旧江戸城の城門のうち、内郭(内堀より内側)は皇居なので、古い姿をよく残しています。これに対して外郭(外堀沿い)の門は交通の障害になるとして順次、取り壊されました。
 そのうち四谷見附と市ヶ谷見附の桝形の「撤却」資料があります。両案とも明治32年(1899年)8月14日開催の東京市区改正委員会159号会議で異議なく決定しました。

拡大図。青線は撤却を決めた石垣

 両者とも石垣すべてではなく、道路にかかる部分を選んで取り壊します。ただ市ヶ谷見附が旧見附橋の部分に新しい橋をかけるのに対し、四谷見附は旧橋の脇に新たな橋をかける計画でした。つまり門によって橋の位置は昔と違うのです。
 明治37年(1904年)、両門のすぐ外の橋の下に甲武鉄道(現・中央線)が開通します。参考までに市ヶ谷門の図面を回転し、現在の地図と並べてみると、中央線も靖国通りも当時は計画すらなかったことが分かります。

市ヶ谷見附 比較図

 牛込門の桝形撤却は両門より少し後で、残念ながら資料は公開されていません。
 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
靖国通り 両国橋から皇居の北の丸公園、靖国神社、防衛省等を通り、新宿駅北の大ガードまでの延長8kmの道路。この路線は東京中央部を南北に分ける。