日別アーカイブ: 2023年5月13日

神楽坂に歩行者天国とランチタイム天国

文学と神楽坂

 自動車を締め出し,歩行者の自由を認める制度や場所を歩行者天国と呼んでいます。
 東京では1887年(明治20年)頃、神楽坂の縁日で初めて実施しました。
 また、1966年、用語「歩行者天国」は既に朝日新聞で使用されているようです。
 戦後は1970年(昭和45年)8月2日(日曜日)午前10時から午後5時まで銀座・新宿・池袋・浅草の4地区で初めて実施しました。

昭和45年、東京・銀座の歩行者天国。銀座、新宿、池袋、浅草で歩行者天国がスタートした(1970年08月02日) 【時事通信社】

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7374 歩行者天国が始まった日 通りを行く人びと

 さらに同じ年の11月15日、神楽坂でも歩行者天国を行います。

神楽坂にも天国

 牛込の神楽坂にも、歩行者天国が、あす15日(昭和45年11月15日)の日曜日から各日曜、祝日ごとに実施される。
 地元商店の要望により牛込署が行なうもので、初日の15日午後1時から津久戸小の鼓笛隊パレード、小学校の写生大会、マンガ入り風船のプレセント、宝さがしなど“むかし恋しい神楽坂”に、景気を呼ぼうと、各種の催しものを準備している。
 なお、天国の区域は国電飯田橋駅近くの神楽坂1丁目の交差点から同五丁目の交差点まで。
(読売新聞 昭和45年=1970.11.14)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805 神楽坂 昭和48年

 地元の人もこんなことを教えてくれます。

ID 7430は実施の前日なんですね。つくば商事の小さな看板が納得できました。坂下の写真だって、ありそうなものですけどね。

 さらに4年後、「ランチタイム天国」という言葉(正しくは「ランチタイム・プロムナード」)も出てきました。昼休みも歩行者天国にするというもの。

ランチタイム天国   ノンビリ歩こう昼休み 今日から23か所で

 昼休みのひととき、東京都内の盛り場から車を一時シャットアウトする警視庁の「ランチタイム・プロムナード」交通規制が、きょう1日(昭和49年10月1日)の「都民の日」から、23地域51路線(総延長13280メートル)でスタートする。
 規制時間は各地域ともウイークデーの正午から午後1時までの1時間だが、ヤングの町・新宿西口地域だけは、午前11時半から午後1時半までの2時間。(中略)
 一日スタートの主な盛り場は、新宿のほか銀座3、4丁目通り、神楽坂商店街通り、中野追分通り、国電御徒町駅西側、荻窪駅南口仲通りなど(略)
(読売新聞 昭和49年=1974.10.1)

 下図では中央やや左に標識「ランチタイム・プロムナード」があり、スプーンとフォーク、ティーカップが書かれています。この言葉「ランチタイム・プロムナード」はいつしか忘れて行きましたが、行動は覚えています。神楽坂は2つとも実施中です。

『気まぐれ本格派』32話

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年

飯田橋駅(写真)千代田区側 ID 9810 昭和50年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9810は昭和50年頃、飯田橋駅前や牛込橋を外堀通りから撮影したものです。ID 9780も昭和50年頃、同じ画角の遠景です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9810 飯田橋駅前と牛込見附

 また田口重久氏の「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14も、ほぼ同時期の写真です(下図)。

田口重久「歩いて見ました東京の町」05-14-40-1「神楽坂下交差点から牛込見附を」 1975-08-14

 最も手前は外堀通りで、自動車が2台、並走しています。ガードレールの向こうは牛込濠です。柵の角柱の間から水面が光っているようです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)「水面が光っている」

 濠の向こうに電車が走っていて、水道橋方面の1番線ホームに入線しています。よく見ると行き先幕は「千葉」と読めます。電車の屋根には丸いベンチレーターしかなく、まだ冷房化されていません。
 左端の三角屋根は飯田橋駅西口駅舎で、軒上には「飯田橋駅」の看板があります。その前の牛込橋の自動車は左から右へ走っています。この時期には逆転式一方通行が牛込橋側に延長されていたので、撮影が午前中だったことが分かります。
 下の部分拡大図ではAの電灯は背が高く、主に道路を照らすものでしょう。Bの電灯は背が低く、歩行者を照らし、千代田区のものでしょう。
 2つあるCは渡櫓わたりやぐらでした。Dの建物は日本歯科大学体育館で、Eは日本歯科大学別館でした。

 写真の中央やや左の「林不動産」の看板と、その左右の建物は線路際の土手にあった商店でした。この商店は飯田橋駅の駅舎整備で2010年頃に撤去されました。

1975年 住宅地図 矢印は「林不動産」

飯田橋西口の土手沿いの店舗(2009年 ストリートビュー)

逆転式一方通行の延長・補遺

文学と神楽坂

地元の方からです

 神楽坂通りの逆転式一方通行が、千代田区側に延長された時期について、新たな発見がありました。
 以前の記事では昭和52年(1977)には千代田区側に延長になっていると考察しましたが、その後の写真資料から、さらに時期を絞り込めました。
 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 52と53では、昭和36年(1961)4月、牛込橋側の車道にセンターラインが引かれ、車とバイクが対面で走っています。
 昭和37年(1962)頃のID 55と56もセンターラインがあります。昭和37年3月発行「新宿区15年のあゆみ」の写真も同じです。
 しかし田口重久氏の「歩いて見ました東京の町」の05-14-37-1から-3(昭和42年2月)の写真はセンターラインがなくなり、自動車は牛込橋いっぱいに広がって走っています。
 以上から昭和37年〜42年の間に、牛込橋で逆転式一方通行が実施されたことが分かります。

通行時期ウィキメディア
=東京新聞
朝日新聞渡辺功一氏
歩道(2色、高い縁石)昭和29年
対面通行昭和31年以前
陶器店での交通事故昭和31年。他にも事故が多発
一方通行昭和31年不明不明
逆転式一方通行を発令昭和33年昭和36年
昭和36年5月
不明
逆転式一方通行(神楽坂通り)実施中昭和34年頃(ID 7002ID 31)、昭和35年頃(ID 5510
逆転式一方通行(牛込橋)昭和37年から42年までに実施中
歩行者天国の発令(神楽坂通り)
昭和45年11月15日
歩行者天国の実施中昭和47年秋?(ID13152)昭和48年2月(ID 8805)昭和51年頃(ID 11482
逆転式一方通行の範囲拡大不明昭和54年