月別アーカイブ: 2024年12月

牛込城の興亡|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)「3 牛込の祖、大胡氏について」と「5 牛込城の廃城とその後について」です。もし牛込城がある場合、新しく城を建築したのは何年で、城を解体するのは何年なのかという問題です。つまり、城を維持する期間です。

3 牛込の祖、大胡氏について
(4)大永の乱と牛込の地の継承

 大永4年(1524)正月、小田原の北条氏綱は、江戸城の上杉朝興を攻め、これを攻略した。朝興は川越へ逃げ、北条氏は江戸城代遠山直景を置いた。この戦乱は上杉朝興側の江戸城代、太田資高道灌の孫)の北条氏への内通で結着がついてしまったのである。弁天町にいた大胡氏は、このような扇谷家の末期的様相を、案外、冷静に見極めていたのかも知れない。
 このとき、牛込は戦場となり、兵庫町の町屋や行元寺が破壊されたという(『江戸名所図会』、『江戸名所花暦の冬雪』)。
 戦乱が一段落すると、大胡重行は北条氏綱、氏康の親子に臣の礼をどり、袋町牛込城を築城する。そして、江戸城代、遠山家とも縁を結ぶ。後の徳川氏への随身もそうであるが、誠に素速い替り身は、これも生き延びてゆくための“戦国の論理”だったかも知れない。
 そして、牛込氏を名乗るようになる。大胡氏が公式に牛込姓を得たのは、勝行の代であったが、重行の代から通称では「牛込」で通していたと、云われている。

大永の乱 高輪原の戦い。高輪原合戦。大永4年1月13日に武蔵高輪原(港区)で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の合戦。
北条氏綱 ほうじょううじつな。戦国大名。後北条氏第2代当主。父早雲の後を継ぎ、江戸城に扇谷上杉氏を攻め、河越城を奪い武蔵に進出した。
上杉朝興 うえすぎともおき。戦国大名。扇谷上杉家当主。大永4年(1524年)1月、朝興は突如、山内上杉家の上杉憲房との和睦を結ぶ。同時に太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。
城代 じょうだい。城主が出陣して留守の場合,城を預かる家臣
遠山直景 とおやまなおかげ。戦国時代の武将。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤める。
太田資高 おおたすけたか。戦国時代の武将。太田道灌の孫。江戸城主上杉朝興につかえたが、離反して北条氏綱に属す。大永4年(1524)江戸城を攻めた。
道灌 太田道灌。おおたどうかん。室町中期の武将。名は資長すけなが。上杉定正の執事として江戸城を築城。
弁天町にいた 大胡氏が弁天町にいたとの明瞭な証拠はありません。
大胡氏 「寛政重修諸家譜」などからまとめると、足利成行の庶子重俊は足利から大胡に改称して大胡太郎と称し、上野国大胡(現在の前橋市大胡地域)を治めていた。以降、代々この地域に住んだが、重行の時に武蔵国牛込に移り住んで、その子の勝行は家号を牛込に改めた。勝正の時(1672年)にこの家系は断絶する。
扇谷家 扇谷上杉氏は室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕を遠祖とする家。大永4年(1524年)に上杉朝興(上杉朝良の甥で次の扇谷家当主)は江戸城から河越へ逃れるが、これは後北条氏は江戸城への侵攻を開始したためである。
兵庫町 現在の神楽坂五丁目。
江戸名所図会 えどめいしょずえ。江戸とその近郊の地誌。7巻20冊で、前半10冊は天保5年(1834年)に、後半10冊は天保7年に出版。神田雉子町の名主であった親子3代(斎藤幸雄・幸孝・幸成)が長谷川雪旦の絵師で作成。神社・仏閣・名所・旧跡の由来や故事などを説明。「巻之4 天権之部」(天保7年)に神楽坂など。行元寺の項では「大永の兵乱に堂塔破壊す」と書いてあります。
江戸名所はなごよみ 別名は江戸遊覧花暦。岡島きん編著、長谷川雪旦せったん画。文政10年(1827)のガイドブック。春、夏、秋、冬の四部構成(秋と冬は合冊)で、草木花の名所を紹介しました。ここでは「市ヶ谷八幡宮」について「大永年中の兵乱に破壊す」と書かれています。
大胡重行 「寛政重修諸家譜」では

重行しげゆき 彦次郎 宮內少輔 入道号宗参。上杉修理大夫朝興に属し、のち北條氏康が招に応じ、大胡を去て牛込にうつり住し、天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし、後代々葬地とす
氏康 北条氏康。ほうじょううじやす。後北条氏第3代目当主。
袋町 牛込城が袋町にあったという明瞭な証拠はありませんが「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では……

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

牛込城を築城 上の「天文の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといへり」で、天文は1532年から1555年まで。
勝行 「寛政重修諸家譜」では

勝行かつゆき 助五郎 宮内少輔 入道号清雲。北條氏康につかえ、弘治元年〔1555年、川中島合戦〕正月6日大胡をあらためて牛込を移す。このときにあたりて勝行牛込、今井、桜田、日尾屋ひびや、下総国堀切、千葉等の地を領し、牛込に居住。天正15年〔1587年、豊臣秀吉の時代〕7月29日死す。年85。法名清雲

5 牛込城の廃城とその後
(1)牛込城の廃城

 天正18年(1590)7月5日、小田原城は豊臣秀吉の攻厳で落城し、5代100年にわたって関東に君臨した後北条氏は亡んだ。小田原城に先立って、その支城もつぎつぎに攻略され、江戸城も4月22日、徳川家康の臣、戸田忠次に明け渡された。
牛込家文書』に、天正18年牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城をその頃廃城したと思われる。
 この宛名が武蔵国えはらの都えとの内うしこめ七村とあるので、当時は荏原郡に所属していたことがわかる。なお、近世は豊島郡に所属していた。
(2)牛込氏、徳川氏への帰順
 遠山氏をはじめ江戸衆は解体し、その多くは投降した。牛込氏も家康に降伏し恭順の意を表した。伝承によれば家康江戸城へ入城にあたり、牛込村民は川崎まで出迎えたという。
 おそらく牛込氏が先頭になって村々の代表を連れて、出迎えたと思われる。大胡氏が上州から牛込に入って約100年で牛込城は亡んだ。天正18年8月徳川家康は江戸城に入城し(江戸打ち入り)、地方武士の所領を安堵し、治安を図った。牛込氏もいち早く家康に従い、天正19年(1591)、牛込勝重は家康にお目見えを許され、1,100石取りの家人(旗本)となった。

攻厳 こうげん。厳しく攻める。
戸田忠次 とだただつぐ。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。戸田忠次の配した内通者の働きで江戸城は落城
禁制の写し 禁制とは、幕府や大名などの支配者が寺社や村落に対してその統制や保護を目的に発給した文書。この禁制は豊臣秀吉が北条氏の本拠地である小田原へ侵攻するにあたり、武蔵国牛込7村に宛てて発給したもの。
荏原郡 えばらぐん。品川区、目黒区、大田区、世田谷区の一部、川崎市川崎区など。近世までは千代田区、港区の一部を含む
豊島郡 千代田区、中央区、港区、台東区、文京区、新宿区、渋谷区、豊島区、荒川区、北区、板橋区、墨田区の南部分、練馬区の大部分。
遠山氏 遠山直景。後北条氏の家臣。江戸城代を代々勤めた。
江戸衆 支城には衆と呼ばれる家臣団が配されました。北条家臣団は、小田原衆を筆頭に14の衆から成ります。江戸城には「江戸衆」が属しました。
牛込村民は川崎まで出迎えた 徳川家康は駿河から、天正18年(1590)8月1日、江戸城に入城し、牛込七ヵ村の住民は武蔵国川崎村までお迎えに出向いたと「牛込町方書上」。

牛込町方書上 肴町

約100年で牛込城は亡んだ 以下に説明しています。
安堵 封建時代に、権力者から土地所有権を確認されること。以前のぎょう地をそのまま賜ること。

 牛込城は「天文(1532ー1555)の頃、牛込宮内少輔勝行この地に住みたりし城塁の跡なりといえり」(江戸名所図会)から、築城日は遅くても1532ー1555年。廃城は「天正18年(1590)牛込の村々に出した禁制の写しが残っているので、牛込城もその頃廃城した」(上記)から1590年ごろ。約100年の期間だから、築城日は1490年ごろになる。
 大胡氏が前橋市大胡から牛込に移住した時期について少なくとも4通りの考え方があり、1つ目は天文6年(1537)前後で、その時に大胡重行が牛込に移り住み(寛政重修諸家譜、日本城郭全集)、2つ目は少し早く大胡重泰(江戸名所図会)や重行の父重治(赤城神社、南向茶話、東京案内)の時で、3つ目はもっと早く、室町時代初期(応永期~嘉吉期、1394~1443)にはもう牛込に住んでいる場合で(芳賀善次郎氏)、4つ目は逆に遅くなって、勝行(新宿歴史博物館 常設展示解説シート)の時です。
 一世代が約20年と考えると、この2つ目の考え方を使う場合、1510〜20年に移住したとなります。濠がすでに相当あり、丘城だったので、あっという間に城ができたと思います。
 実際には約100年の期間は長すぎるでしょう。最短時期は35年間ですが、これは短すぎる期間です。

ツルと牧場の語源|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)の「牛込の祖、大胡氏について」3「移住の一考察」です。ここでは「ツル」の語源と牧場に関係する語彙について扱います。

 赤城山南麓は古代から馬牧の地で、大胡氏も馬に関係があったに違いない。移住は管領命令だとすると、それは領地替えである。そして、最初の移住地が弁天町であれば、直ぐ近くに牛込地域の牧場地である鶴巻町があった。鶴巻町の町名由来は、「鶴の放し飼い云々」と、いう説があるが、後世の俗説である。「ツルマキ」の本義は世田谷区の弦巻等も同様で、その語源は、古代の牛馬改良について、優秀な牛馬の牝牡を交尾(ツルマセル)させる専用の牧場名称で、けして、同じ牧柵に入れて雑交させたのではなく、計画的に蕃殖を行っていた(一瀬幸三大宝律令・厩牧令より)。
 薬王寺を源泉とする加仁川柳町の谷を経て北流し、馬場下を流れていた金川との間、鶴巻町あたりが地形的にも、牧場になる。附近にくぬぎ(山吹町、中里町)、こめ(牧場地)、そりまち(牧場後の未耕地)、駒とめ橋(神田川)など、牧場と関係深い地名がある。
 この牧場を大胡氏は南の高台、弁天町居館を構え、牧場管理をしていたのであろう。
 正平21年(1366)に上野と信濃の国境いあき郷(軽井沢地方)という牧場地帯から、吉良治家が管領上杉氏の命で世田谷郷上馬引沢、下馬引沢(上馬、下馬)、弦巻へ領地替えをしている(遠藤周作著『埋れた古城』、荻野三七彦編『吉良氏の研究』)。
 当時の馬は、最も重要な兵器であった。上記二氏を南武蔵に招いた管領上杉氏は、ときの推移を考え、軍馬養成に関する遠謀があったのではなかろうか。
赤城山 赤城山は群馬県のほぼ中央に位置する二重式火山で、中央にカルデラ湖、周囲を1200〜1800mの峰々、その外側には高原台地。
大胡氏 鎌倉時代から室町時代にかけて上野国赤城山南麓で勢力を持った武士の一族。一族の大胡重行が後北条氏の北条氏康の招きを受け、大胡城から武蔵国牛込に移住した。
鶴の放し飼い 東京名所図会(四谷区・牛込区之部)では
 新編武蔵風土記稿に云、元禄の頃、小石川村の田圃中を鶴を放ち飼せられしことあり、其鶴常に小石川と早稲田の二所におりし由、其頃当村にも鶴番人ありしこと或書に見ゆ、鶴巻の名は恐らく是より起りしならむ。
交尾(ツルマセル) 「ツルマセル」の意味は私はわかりませんでした。
 一般に「つる」「鶴」には数種の由来があり得ます。第1番目は鶴の飛来地で「早稲田鶴巻町は、元禄の頃、小石川村の田圃で鶴の放ち飼いをしていて、早稲田村にも鶴番人を置いた」(新編武蔵風土記稿
 2番目は水流で「(ツルは)実は『水流』に由来している。『ツル』という所は、川が鶴の首のように細長く流れている場所を指している。言い換えれば川が増水すればすぐ洪水に見舞われる湿地帯を意味しているという。(中略)ここを流れていた蟹川が「ツル」のようであったことに由来するとも言われる」(「川」や「沼」がなくても安心できない。プレジデントオンライン)「(ツルは)盆地の上下をくくるところの急湍きゅうたんの地」(柳田国男「地名の研究」)。なお、急湍とは流れのはやい浅瀬の意味。「古代人は『水路のある平地』をさしてツルと呼んでいたようです」(第23話 地名の話 秦野市鶴巻について
 3番目は「荒地のことを、古言で「つる」、朝鮮語でもTeurツル(曠野)、——富士山爆発の結果、火山岩落下のため、荒蕪地となった一帯の地を、甲州で都留郡というように——といっていたから、『つるまき』は『曠野ツルまき』という意味、新宿区早稲田鶴巻町も同じである」(日本地名学研究
 さらに4番目は「古代の牛馬改良について、優秀な牛馬の牝牡を交尾させる専用の牧場」(上記)。
蕃殖 はんしょく。繁殖。動物・植物がどんどん新しく生まれ出てふえていくこと
『大宝律令・厩牧令』 国立図書館ではこの文書は不明でした。もくりょうは大宝元年(701)に牛馬の飼養、駅馬、伝馬などを規定した法令。これ以降、東北や関東を中心に馬牧が増えていきます。
加仁川 加二川。水源地は牛込柳町。北流して、金川と合流する。下図では「市谷柳町の支流」。
金川 下図では「蟹川」。水源地は西部新宿駅付近の戸山公園の池。現在は暗渠化。歌舞伎町の東端、大久保通りの地下、大江戸線東新宿付近、東戸山小学校、戸山公園、早稲田大学文学部、大隈講堂付近、鶴巻小学校付近を流れ、山吹高校付近で加二川と合流し、文京区関口を経て江戸川に注ぐ。

江沢隆志「地形を楽しむ東京『暗渠』散歩」(洋泉社、2012)。市谷柳町の支流が加二川に

椚田 椚は神木のクヌギの木から。椚元は早稲田鶴巻町東部の大字おおあざ名。山吹町の旧あざ名。大字は江戸時代「村」を継承した地域名称で、字は大字より小さい集落の地名。大字、字、小字の3つがあり、これを市区町村の後、番地の前につく。東京名所図会(四谷区・牛込区之部)は早稲田の小名として「くぬぎもと 段町 金田 向田 石井後 籠 鶴卷」をあげる。
籠田 放牧地に対して一か所に集めて検査したりする所。新編武蔵風土記は中里町の小名として「椚元 ソリ町 殿ノ下 山下 道上 道下 谷ノ中 籠田 金田」をあげる。
反町 中里町の字名。ソリ町。早稲田鶴巻町の東南部。「畑を焼くことでは無くして耕地を廃した後の状態の名」(柳田国男
駒とめ橋 馬が先には行けないという意味
牧場と関係深い地名 新宿区教育委員会編「新宿区町名誌:地名の由来と変遷」(東京都新宿区教育委員会、1976)の「牛込北部(旧牛込村北部低地)」では……

 早稲田鶴巻町の北、文京区の神田川に駒塚橋がある。昔は丸太橋で、駒留橋といった。放牧された馬は、ここまで来ても先に行けないので名づけたというが、この橋名もここの牧場に関係あるのであろう。早稲田通り八幡坂下の蟹川を渡る橋も駒留橋(今なし)といった。ここの牧場は、古代牛込にあったと思われる神崎牛牧と関係あるかどうかは不明である。
 この地の、江戸時代の字名に、段田とこめがあった。この字名も、牧場に関係ありそうである。段田の段は、広さを表わす語ではなく、反町(そりまち)と同じものと思われる。隣の中里町の宇名に、「ソリ町」のあることでも分かろう。ソリとは、草里・楚里とも書く地名用語で、反田・曲畑(そりはた)・曾利・反目などの地名として、特に関東以北にこの種の地名が多い。
 ソリは、焼畑関係の語で、休耕している意味といわれるが、柳田国男は「地名の研究」で、「畑を焼くことでは無くして耕地を廃した後の状態の名」としている。マチは区別の意味で、市店の意味ではないから、ソリマチとは何にも使われていない土地ということであろう。そこで、前述の鶴巻と合わせて考察すると、はじめ牧場だったが、その後放任されている土地ということではなかろうか。なお、その場所は次の籠といっしょに考える。
 こめは、その読み方はもちろん、場所も由来も不明である。しかし、隣の中里町の宇名に、こめがあったので、この籠も籠田と同じ意味であろう。つまり、鶴巻の牧場と関係があり、馬を集める(おし込める)所の名残りで、放牧地に対して一か所に集めて検査したりする所ではなかろうか。そこで、山吹町の宇名のソリ町・籠田とともに考察すると、ソリ田・段田は榎町に近い早稲田鶴巻町の東南部、籠と籠田は弁天町に近い地域と推定される。
 そのほか、早稲田鶴巻町東部中央の大字名にくぬぎもとがあった。同町185番地は、椚元の小字椚元で、明治初期は中里村の飛地だった。そこは、赤城元町の赤城神社の旧地で小祠があり、そこには神木のクヌギの木があったので、この地一帯の字名となった。この地名も、隣の山吹町の旧字名にあるから、その方まで広がっていた古い字名と思われる。
居館 弁天町の宗参寺の周辺に居館を構えたと新宿区郷土研究会は考えているようですが、支持する文献も反論する文献もありません。
遠藤周作 えんどうしゅうさく。小説家。芥川賞は「白い人」で。キリスト教の「海と毒薬」「沈黙」、ユーモア小説「狐狸庵先生」など。生年は大正12年3月27日。没年は平成8年9月29日。73歳。
埋れた古城 古城巡り12篇を収める。世田谷城、高天神城、清洲城、備中・高松城、箕輪城、日之枝城、小浜城など。
荻野三七彦 オギノミナヒコ。古文書学者。東京帝国大学文学部史料編纂所嘱託。早稲田大学教授。生年は明治37年3月18日。没年は平成4年8月12日。88歳。
吉良氏の研究 1975年、関東武士研究叢書第4巻(名著出版)として刊行。