日別アーカイブ: 2025年3月16日

寒泉精舎跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 37.名代官の学習塾、寒泉精舎跡」についてです。

代官の学習塾、寒泉精舎
      (下宮比町揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通り飯田橋に向う。津久戸小学校厚生年金病院中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。
 寒泉は、柴野栗山尾藤二州とともに寛政の三博士といわれた人で、元文5年(1740)11月4日、ここから北方の新小川町8番地に生まれた。出生地に冷泉がわき出るので、それに因んで寒泉と号した
 寛政元年(1789)9月、幕府に召し出されて昌平校の教授となり、柴野栗山とともに経書を講義し、のちに奥侍講となった。
 寛政2年(1790)8月19日、ここに邸宅と私塾の地を幕府から与えられたので、そこを寒泉精舎とよび、子弟の教育に当ったのである。
 寛政6年12月、常陸国の代官に命ぜられ、14年間勤めて大きな功績をあげ、村民からは岡田大明神とあがめられた。
 そのうち健康がすぐれなくなったので、文化9年(1812)に辞職し、ここにもどって子弟のため授読講義を続けていた。
 文化12年、病気のために塾をやめたが、私塾のあった土地は私用すべきでないとして、塾をこわして返上したという。寒泉はその翌年8月9日、77才の時横山町の屋敷において死去した。
〔参考〕岡田寒泉伝  新宿郷土研究第二号  同第四号  江戸幕府の代官

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
寒泉精舎 「冷水ひやみずの井戸」(漢文で「寒泉坊」)が家の近くにあった。「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」。ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味も。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
下宮比町揚場町筑土八幡大久保通り飯田橋津久戸小学校厚生年金病院 地図で。厚生年金病院は現在のJCHO東京新宿メディカルセンターに変更。

冷水の井は新小川町2丁目1番地。岡田寒泉の出生地は新小川町2丁目20番地。寒泉精舎は主に揚場町4番地に。

寒泉精舎跡 重田定一氏の「岡田寒泉伝」(有成館、大正5年)

中間あたり 岡田寒泉の邸宅「宅址」と私塾の「寒泉精舎址」の地図を緑色で示します。寒泉精舎は主に牛込揚場町19番地、邸宅は主に下宮比町4番地
儒者 じゅしゃ。儒学を修めた人。儒学を講じる人。儒学者。
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の三博士 寛政かんせい三助さんすけ。江戸中期、寛政期の代表的な朱子学者、古賀弥助(精里)、尾藤良佐(二洲)、岡田寒泉、後に柴野彦輔(栗山)の4人。
新小川町8番地に生まれた 大正5年の「岡田寒泉伝」では新小川町2丁目20番地に生まれました。(上の写真。赤色)。新宿郷土会「新宿郷土研究第2号」(昭和40年)で「自分の生まれた牛込新小川町8番地に冷泉があったのでそれに因んだもの」という間違いをそのまま使ったためでしょう。
冷泉がわき出る 「冷水ひやみずの井」といっていました(上の写真)。「岡田寒泉伝」によると、場所は新小川町2丁目1番地でした。
号する 学者・文人・画家などの本名以外の雅名。現在はペンネームや筆名を使う方が普通
昌平校 昌平黌。昌平坂学問所。昌平学校。こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
奥侍講 将軍に奉仕して、学問の講義をする人。
常陸国 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

大きな功績 前述の「岡田寒泉伝」では「寒泉が代官としての事蹟は、余の最も知らんことを欲する所なれども、憾くは(「うらむらく」と読み、「望みどおりにならず、残念に思う」)資料甚だ乏し。今新たに発見せられたる文書によりて推究すれば、(一)風俗の粛清、(二)荒地の開墾、(三)こう貯蓄(凶作や飢饉に備えて米穀や金銭を貯蔵する)の奨励、(四)人口繁殖の奨励等、すべてしんじゅつ(「救済する」)を旨としてはい(「復興する」)を策したりしものゝ如し」
授読講義 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
横山町 日本橋区横山町。現在は東京都中央区日本橋横山町。