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オーシャニアクルーズ。第2日。アクロポリスー身障者の外国旅行

アテネとアクロポリス

 2018年10月24日(水)早朝、ホテルで朝食を取り、アクロポリスに。アクロポリスの開場は8時からで、8時半にはアクロポリスの下についた。入場料を払う。

 普通の人は10分もあれば、ここからアクロポリスの上まで到着するが、右半身麻痺の私はそうはいかない。急峻な階段では妻が私の左側につき、まず妻が1段上に登る。そのあと、私は右足を一歩、前に出して、段差を上に登る。このとき、数回だけ、ふらついた。そんなとき、妻は全力を挙げて、倒れないようにする。最後は楽な左足で、失敗はない。右足と左足が1歩ずつ上につくと、また、次の1歩が始まる。結局、1回も転倒も転落もしなかった。30分弱がかかったが、午前9時なので、まだ人は増えていなかった。

 また、最後の段差にはすべて手すりがあった。ほっとする。しかし、予約があれば、身障者用のリフトで上に行くこともできたという。知らないものなあ。Disabled Access at the Acropolisを見ておけばよかった。

アテナ・ニケ神殿などを帰りに撮った写真。手すりがあるので楽。人が多くなっている

 アクロポリスの上は➀プロピレア(前門)とアテナ・ニケ神殿などの群、➁パルテノン神殿、➂乙女6人の像が有名なエレクティオン神殿、の3種しかない。40年前、見たことがある私は上に立てただけでもOKで、妻はぐるりと回る。エレクティオン神殿だけは遠くから見ることになる。

アクロポリス

アクロポリス

エレクティオン神殿

エレクティオン神殿

 これらをつくる大理石は、岩石学的には「結晶質石灰岩」といい、石灰岩がマグマの熱を受けて再結晶したもの。地中海の山はほとんどが石灰岩(limestone)でできている。なお、岩がない「石灰」も英語ではlimestoneを使います。

 説明板のいくつかについて、翻訳をやってみた。パルテノン神殿の修復プロピレアで、絵をダブルクリックしても出てくる。しかし、説明板の文字はなんとも細かく、普通は読まない。つまり、誰も読まない英語とギリシャ語で書いてある。

パルテノン神殿

パルテノン神殿の修復の解説

プロピレアの解説

プロピレアの解説


 帰る途中で、大量の観光客が下からやってきた。この前に私たちの観光は終わったの で、ほっとする。同じく慎重に慎重に足を進め、10時を超えて、下の売店に入った。「アクロポリス」という本(▼)を買った。

アクロポリス復元

日本語版「アクロポリス」から

 いったんタクシーでホテルに戻り、チェックアウト。荷物はホテルに置いておき、ブラカ地区で昼食。ホテルに戻り、タクシーでピレウス港に向かう。

 午後2時ごろ、オーシャニアクルーズのリビエラに乗船。

オーシャニアクルーズ。第2日と第3日。乗船と海上ー身障者の外国旅行

 10月24日(水)午後2時ごろ、オーシャニアクルーズのリビエラに乗船。

https://www.ytk.jp/cruise/ship/oceania_riviera/

 部屋にはいるとシャンパンとカナッペ4個があった。

 ペントハウス以上の乗客でないと、掃除が終わる3時以降まで船室に入れない。甲板にいる人も多い。

 1715、全員が避難訓練を行った。しかし、我が家は車椅子がないと訓練は無理で、家の避難訓練は翌日に。

 1800、ピレウスから出港。1830、6階のグランドダイニングルーム夕食

 食後、風呂に入る

 夜になり、出航後3時間が経ったところで、船長のアナウンスがあった。医者が診断して、客一人が病気になって、この船はピレウスに戻る予定だという。夜12時に再度ピレウスを出港。

 10月25日(木)630、起床。朝、妻は11階のエグゼクティブ・ラウンジでコンシェルジェから聞いた話として、6時間遅れなので、予定通りには行かず、ロードス島の寄港は不可能だという。

 800、朝食でグランドダイニングルームに行くときに、正式な船長のアナウンスがあり、前日の異常事態でロードス島はキャンセルになったという。これで、1日中、海上に。あとで手紙が回ってきた。

 朝は、私は朝のステーキ(breakfast steak)とクランベリージュース、コーヒーを、妻はオムレツ、オレンジジュース、コーヒーを頼む。朝のステーキは昔米国に住んでいたときに食べたことがあるものとまったく変わらない。ただただスジが硬く、噛んでも噛み切れない。それを何切れか噛んでいると、それが喉の先に行かない。苦しくなり、スタッフを呼ぶ羽目に。すぐに落ち着いたが、これが「朝のステーキ」です。850、朝食終了。現病に「強直性脊椎炎」があるので、これが関係する可能性もある。

グランドダイニングルーム

グランドダイニングルーム

 930、バルコニーのドアが開かない。バトラーを呼ぶが、彼でも直せない。1030、メンテナンスが来て、直る。

 TVを見ると、ニュースにはMSNBC、BBC、さらにルパート・マードックがつくったFoxとSkyを放送中。FOXがでてCNNがでないのは変。

 1130、昼食は12階のウェーブズグリルで。2人でサラダ、神戸牛バーガー、トロピカルのスムージー、アイス、レモンクッキー。

 後方のエレベーターで帰り、11階のエグゼクティブラウンジでカプチーノ、クッキー。

 1500ごろ、14階のバリスタスでコーヒー。ただなので、部屋に焙煎装置がなくてもいい。

バリスタス

バリスタスでもコーヒーが飲める。

 もし外に出たとすると、ものすごい風が吹き荒れている。見るだけで、よくわかる。

 1800、5階で4組が避難訓練。1組は救命胴衣を忘れていた。2組がアメリカ人。1組がヨーロッパの人。タバコを吸わないこと以外には何もなかった。10分以内で終了。

 船にいる日本人は数名が個人で、JTBの団体が20人ぐらいで、他にはなく、それ以外はアジア人(国籍で米国人も含む)が3~40人ぐらい、ヨーロッパの人やイギリス人も多くはなく、あとは全員アメリカ人だった。しかも、全員がアメリカ語を使い、きれいで上品でゆったりした発音。日本にいるときには全く忘れていた感覚だった。

 1810、15階のホライズンで船長主催の歓迎パーティー。船長は挨拶を。

船長主催の歓迎パーティ。

船長主催の歓迎パーティ。

 1830、14階のトスカーナ夕食

プロピレア(説明板)

A. プロピレア(2018/10)

The Propylaia, the monumental entrance of the sanctuary of the Acropolis, was built at the west edge of the hill in the frame of the building programme of Perikles. The building’s architect was Mnesikles, who applied ingenious and innovative architectural solutions. The construction of the Propylaia (437-432 B.C.) was interrupted by the outbreak of the Peloponnesian War, and as a result the original plan remained incomplete.
The Propylaia comprise a central building with an E.-W. direction and similar hexastyle (6 columns) Doric pedimental facadet. A cross-wall with five doorways divides the central building into two parts. The longer western one is divided into three aisles by two Ionic colonnades, each of three columns, which support the ceiling. The marble ceilings comprised beams and coffered slabs which had rich painted decoration. The central building of the Propylaia is flanked on the south and the north by two wings with a similar prostyle Doric porch. In the north wing the hall lying behind the porch might have served as a banquet and recreation hall for the worshippers. According to the traveler Pausanias (2nd cent. A. D.) the hall was decorated with paintings and for this reason is conventinally known as the “Pinakotheke” (picture gallery). The southwing consists only of a porch through which the sanctuary of Athena Nike was accessed.
In the 6th cent. A.D., the south wing of the Propylaia was transformed into a single-aisle Christian basilica. In the Medieval times, Frankish and FIorentine rulers converted the Propylaia into a Palace and a tall tower was built at the south wing. During Ottoman Occupation, in 1640. The building was struck by a lightning or a cannonball which blew up the gunpowder stored there and caused extensive damage to the monument.The Medieval and later remains were removed during the excavations of the Acropolis in the 19th cent.in order to reveal the Propylaia of the Classical period.

A. プロピレア
 プロピレアは、アクロポリス聖域の記念碑門を示し、丘の西端にあり、枠組みはペリクレスによる建築設計だった。建築家はムニシクルスで、独創的かつ革新的な建築法を使っている。 プロピレアの建設(前437-432年)はペロポネソス戦争の発生で中断、その結果、元の計画は不完全なままである。
 プロピレアは東西に向いた中央の建物で、同じく玄関は6柱(6列)、正面にはドリス式ペディメント(三角形の切妻壁)がある。 5つの出入口がある横断壁は、中央の建物を2つに分割する。比較的長い西側のものは、通路3つと、イオニア式の列柱2つに分かれ、列柱はそれぞれ円柱3つで天井を支える。大理石の天井には、梁と石板が含み、豊かな装飾があった。プロピレアの中央の建物は、南翼と北翼で同様のドリス式前柱廊ポーチが側面に並ぶ。北翼ではポーチの後ろの集会場は、崇拝者たちの宴会とレクリエーション集会場として役立ったと思える。旅行者パウサニアス(2世紀)によると、この集会場は絵画で飾られていたため、この理由から、 慣習的に”ピナコテーケー”(絵画館)として知られている。南翼はポーチだけから構成し、アテナ・ナイキの聖域がある。
 6世紀で、プロピレアの南翼は、単一通路のキリスト教のバシリカに変形された。中世の時代には、フランク人とフィオレンティンの支配者たちはプロピュライアを宮殿に改造し、南翼には高塔が建設された。オスマン帝国時代の1640年に、建物には稲妻か砲弾の爆破があり、そこにあった貯蔵庫の火薬は爆発し、プロピレアに大きな被害をもたらした。古典時代のプロピレアを明らかにするために、中世以降の遺跡は、19世紀にアクロポリスの発掘中に除去している。

B. アテナ・ニケとヒュギエイアの神殿
 プロピレアの中央建物の東南部では小さな神殿があり、アテナ・ニケ(健康)とヒュギエイア両者の神であるアスクレピオスの娘に捧げられている。この娘は薬の神である。 アクロポリスにあるアテナ・ニケの信仰は碑文的証言によると前6世紀からのもので、ヒュギエイアの信仰は前420年である。
 神殿には、長方形の祭壇の一部と、アテネの彫刻家ピロスが作ったアテネ・ニケの銅彫像のうち円筒状の大理石の土台が保存されている。伝統によれば(プルタルコス『ペリクレスの一生』、 13.7-8)、この像は、プロピレアの建設中に事故を起こした労働者の救助のために捧げられたという。 しかし、アテネの人々(demo)が、ペロポネソス戦争(前429-427年)の始まりに都市を襲う疫病と関連して捧げられたとの見解がいいだろう。

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パルテノンの復元(説明板)

 パルテノンの復元(2018/10)

 The restoration of the parthenon;
 Works in progress and interventions completed.

The project of the Opisthonaos (1992-1993 and 2001-2004) included the strengthening of columns by grouting (1997) and the structural restoration of the capitals, the upper drums and the entablature. The blocks of the west part of the frieze were transferred to the museum and cleaned with the use of a laser method; they were replaced with copies made of artificial stone (1-2).
The works in the west side (2011-2015) concerned the structural restoration of the two corners of the entablature including the capitals and parts of the edges of the pediment. Seven metopes from the west of the monument were transferred to the museum, while copies were placed back to their original positions (2,5,6).
During June of the 2017 the restoration programme of the west pediment began. The works were of a rescue nature and included the dismantling of the middle orthostate and the upper blocks of the backing wall. During their repositioning special damps will be used to further secure the orthostates (3-4).
ln the period of (2017-2020) the works will involve the replacing of the grid frame of the roof of the west wing, with the use of ancient restored beams together with new ones that were made in the 1950s.
Later on, the arrangement of all or some of the newer coffer slabs will also take place (7).

 パルテノンの復元。進行中の作業と完了した介入。

https://classicalarthistory.wordpress.com/2015/11/21/doric-and-ionic-orders/

 神殿後側(Opisthonaos)プロジェクト(1992-1993、2001-2004)では、薬品注入による柱の強化(1997年)と、 柱頭、上部筒形部、エンタブラチュア(柱の上に架した梁部)の構造的復元などを行う。西側のフリーズの台盤は、博物館に移され、レーザーで清掃し、人工石で作ったものに置き換えられた(1-2)。
 西側の仕事(2011-2015)では、 柱頭やペディメント(切妻屋根の稜線とコーニスとに囲まれた三角形の壁面)の端などエンタブラチュアの2つの隅の構造的復元に関係する。記念碑の西からの7つのメトープが博物館に移され、コピーを元の位置(2,5,6)に戻した。
 2017年6月の間、西ペディメントの修復計画が始まった。この仕事には救助の性格があり、中央の立て石と裏側の壁の上のブロックの解体を含む。位置を変えている間、立て石をさらに固定するために特別な防湿性材料を使用する予定である(3-4)。
 この期間(2017-2020)は、西棟の屋根の格子枠を置き換え、古代の復元した梁や、1950年代に作られた新しい梁も一緒に使用する。
 その後、新しい石製の格間の全部~一部の配置も行われる(7)。

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パルテノン(解説)

パルテノンの建築家の優美さ
 パルテノンの建築家たちは、神殿を厳密な直線ではなく、はずれるようにして彫刻しました。水平部分(階段、腰掛け、高さ)はわずかに凸で、垂直部分(円柱、部屋の壁)はわずかに内側に傾斜しており、柱は下から上に向かって細くなり、その中央は膨らみ、その結果、全体的な印象としては、建物に上方の動きがでてきます。
 パルテノン神殿は、アテナ・パルテノス(処女神アテナ)に捧げられた神殿でした。その神殿はドリス式で造られ、白いペンテリコ大理石でできていて、幅30.86メートル、長さ69.51メートル、高さ15mです。外部柱廊(翼廊)は幅8列、長さ17列、内部柱廊(前部)は幅6列でした。神殿の内部は、前室(玄関間、プロナオス)、主室(神室、セコ、ケラ)、後室(オピストドモス)、オピストホーネスに分かれていました(それぞれプラン1,2,3,4参照)
 パルテノンはアクロポリス聖域再建計画のうち、最も重要な建物です。ペルシア人が略奪した(480 BC)後、アテネの有名な政治家、ペリクレスのイニシアチブで実施しました。このプログラムの資金は、パルテノン神殿のオピストホーネスに残っていたアテナイア連盟の財宝から来たものです。
 神殿は、紀元前447〜438年に建てられ、紀元前432年に彫刻の装飾が完成しました。イクチノスとカリクラテスは神殿の建築家でした。彫刻の飾りつけは、有名なアテナイの彫刻家でありペリディアスの友人であるフィディアスが、同僚たちと共同で、設計し、一部は彫刻しました。また、フィディアスは神殿建設の全般的な監督を受けていました。フィディアスはまた、クリスリファンチン(金と象牙でつくった)の女神の像をつくりました。堂々とした正式な外観と高さ12mがあり、主室で立っていました。像は保存されていませんが、その外観は古代の作家から知られています。
 神殿の彫刻装飾品。
 パルテノンの豊かな彫刻装飾品は、数世紀にわたって深刻な被害や略奪を受けており、92のメトープと、ペディメントとフリーズで構成されています(パルテノンの断面図を参照)。オリジナルの彫刻装飾品の大部分は、アクロポリス博物館で展示されています。メトープでは様々な戦いを描き、東側ではオリュンポスの神々対反抗的な巨人族ギガース(ギガントマキア)、北側はギリシャ人対トロイアの略奪(イリオスの陥落)、西側は都市を脅かすアマゾンの反撃(アマゾノマキー)、南側ではギリシャ対ケンタウロスの戦い(センタウロマキー)を描いています。
 東ペディメントは、他のオリンピックの神々があり、父ゼウスの頭からのアテナの誕生を表しています。女神が誕生する期間は、ペディメントの角にあったヘリオス(太陽)の二輪戦車とセレーネ(月)の二輪戦車で定義されます。西ペディメントは、アテナ人の保護のもと、アテナ対ポセイドンの紛争を示し、アテナ人の祖先や地元の英雄の王たち、あるいはアッティカの風景を擬人化したものです。
 フリーズは、全長160メートルでドリス式建物の閏ローニック要素ですが、市民のグループとアテネの軍隊が参加した大パナセアエア祭典を描いています。進行は東側で完結します。オリンピックの神々の存在下でアテナ神殿の儀式のために礼服(peplos)を提供します。

The architectural refinements of the Parthenon
The architectural members of the Parthenon were carved in such a way that the parts of the temple present deviation from the strict straight line; the horizontal parts (steps, stylobate, elevation) are slightly convex, the vertical parts (columns, walls of the cella) slightly incline inwards, the columns diameter tapers from the lower to their upper part and have a swelling in the middle of their height, etc., resulting in an overall impression of an upward movement of the building.

The Parthenon was a temple dedicated to Athena Parthenos (Virgin). It is built in the Doric order and made of white Pentelic marble with a width of 30.86 m., a length of 69.51 m. and a height of 15 m. It has an outer colonnad (pteron) of 8 columns on the short and 17 columns on the long sides as well as an inner colonnade (prostasis) of 6 columns on the short sides. The interior of the temple was divided into the pronaos, the sekos (cella), the opisthodomos and the opisthonaos (see Plan. no 1,2,3 and 4 respectively).

The Parthenon was the most important building of the Programme for the re-establishment of the Acropolis sanctuary after the sack by the Persians (480 B.C.), which was implemented at the initiative of Perikles, the renowned politician of Athens. The funding for the programme came from the treasury of the Athenian League that was kept in the opisthodomos of the Parthenon.

The temple was built between 447 and 438 B.C. and its sculptural decoration was completed in 432 B.C. Iktinos and Kallikrates were the architects of the temple. lts architectural sculptures were designed and partly sculpted, in collaboration with his colleagues, by the famous Athenian sculptor and friend of Perikles, Pheidias, who also had the general supervision of the construction of the temple. Pheidias also created the chryselephantine (gold and ivory) statue of the goddess with an imposing formal appearance and of a total height of 12 m, which stood in the cella. The statue is not preserved but its appearance is known from ancient writers and later copies.

The sculptural adornment of the temple.
The rich sculptural decoration of the Parthenon which through the centuries suffered severe damages and looting, consisted of 92 metopes, the compositions on the pediments and the frieze (see sectional diagram of the Parthenon). Great part of the original sculptural decoration is exhibited in the Acropolis Museum. The metopes depict the battle between the Olympian gods against the rebellious Giants (Gigantomachy) on the east side, the sack of Troy by the Greeks (Ilou persis) on the north side the repulsion of the Amazons who threatened the city (Amazonomachy) on the west side, and scenes of battle between Greeks and Centaures (Centauromachy) on the south side.

The east Pediment represents the birth of Athena from the head of her father Zeus, in the presence of other Olympian gods. The duration of the birthday of the goddess is defined by the chariot of Helios (the sun) and the chariot of Selene (the moon) at the corners of the pediment. The west pediment shows the dispute between Athena and Poseidon for the protection of Attica, in the presence of the kings who were the forefathers of the Athenians and local heroes or personifications of the Attic landscape.

The frieze, an intercalary lonic element in a Doric building of a total length of 160 m. depicts the procession of the festival of the Great Panathenaea, in which several groups of the citizens and the army of Athens participated. The Procession concludes on the east side, with the offering of the robe (peplos), for the cult statue of Athena Polias in the presence of the Olympian gods.

10月24日夕食

 船旅1日目の夕食は6階のグランドダイニングルームで取った。

1日目の夕食(グランドダイニングルーム)

 上のメニューはOceania社のGrand-Dining-Dinner-Menuから取っている。社はグランドダイニングルームで毎日違うメニューを出しているが、私たちがお世話になったT&Tでは、その全部を日本語に直している。

 私たちの料理には、✓がついています。念のため、私はロブスターのビスクと牛肉の赤ワイン煮込み、妻はシチリア風野菜のサラダと鶏肉の香草焼き。ビスク(bisque)はフランス語のスープ。取った料理は全部、普通でした。

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10月25日夕食(トスカーナ)

 北イタリアの家庭料理です。

トスカーナで夕食

トスカーナで夕食

オリーブオイルの多さ

オリーブオイルの多さ

 最初はオリーブオイル10数本が出て、どれかいいか聞かれた。ただし、これがお薦めです、といっていたので、それにした。隣のアメリカ人も同じように聞かれて、全く同じオリーブオイルを選んでいた。同じなのです。

 その次は、パン。パンが串焼きになってでている。しかし、あまりおいしくはない。
 長く長く細長いパン。これは日本でも出ている。

トスカーナのパン

トスカーナのパン

 他に、まるごとのニンニク球根が揚げてあり、上部分は捨てて、下部分を出している。へーっと思うが、米国式、それともイタリア式? 普通はアメリカ式なんでしょうね。

ニンニク球根

トスカーナ

トスカーナ

トスカーナのメニュー

トスカーナのメニュー

トスカーナのメニュー1

トスカーナのメニュー2

 前菜とメインを1つずつ食べる。

 アスパラガス、イタリアハム、チーズ、野菜の盛り合わせ。

アスパラガス、イタリアハム、チーズ、野菜の盛り合わせ。

アスパラガス、イタリアハム、チーズ、野菜の盛り合わせ。

 ロブスターのリゾット

ロブスターのリゾット

ロブスターのリゾット

 スカロピーネ。仔牛の薄切り肉にワイン風味のソースを添えて。Scaloppine di Vitello a Modo Tuo. [Scaloppini of Veal Medallions prepared in sauteed in Aged Marsala Wine sauce]

コストレッタ。ベーコン巻のコロラドラムチョップ。Costolette d’Agnello avvolte nel Pancetta Toscana. [Roasted Pancetta-Wrapped Colorado Lamb Rack served over Traditional Roasted Potatoes perfumed with Garlic and Rosemary]

コストレッタ。パンチェッタをラム肉で包んで焼いたもの

コストレッタ(あばら骨付き背肉)のコロラドラムチョップ。

 うーん、普通でした。

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10/25船長の手紙| ロードス島はキャンセル

 お客様
 わかっている通りですが、昨晩リビエラ号は医療緊急事態のためにピレウスに戻りました。残念ながら、当時利用できる選択肢はありませんでした。リビエラは真夜中にピレウスを出航し、当初の予定より6時間遅れ、またロードス島の航海では荒海を予想しています。 ロードス島で数時間の上陸はできません。 したがって、オセアニア事務局はロードス島への着港をキャンセルし、直接イラクリオンに進み、10月26日に予定通りに到着することにしました。
 ロードス島でのツアーのためオセアニアの券をお持ちの場合、お支払い方法に基づいて自動的に払い戻されます。何もする必要はありません。
 もしロードス港で私的な手配を済ませていた場合、コンシェルジュはツアー会社に連絡することをお手伝いします。
 私たちはお客様の安全を常に心がけています。
 個人的に見て至らない点もあるかと存じますが、ご理解いただきましてありがとうございます。

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Dear Guest,

As you are aware last night, Riviera had to return to Piraeus for a medical emergency.
Unfortunately there were no other options available to us at the time.
Riviera departed from Piraeus at midnight, with 6 hours delayed from our original schedule and expected rough sea conditions while sailing toward Rhodes; we will not be able to make up the time to allow you some time in Rhodes. Therefore the Oceania head office has decided to cancel our call to Rhodes and proceed directly to lraklion, where we will be arriving as per schedule on October 26th.

If you are holding Oceania tickets for any tours in Rhodes, they will be automatically refunded based on your method of payment and there is no need for you to do anything further.

If you had made private arrangements in the port of Rhodes, our concierges will be happy to help you contacting your private tour operators.

The safety of our guests is always our primary concern.

We apologize for any personal disappointments and we thank you for your understanding.