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神楽坂をはさんで|都筑道夫①

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房で「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を勤め、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年には「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報から取っています。

   神楽坂をはさんで
都筑道夫
 色川武大さんとは、深いつきあいはなかった。けれど、共有していることがあって、尊敬のまなざしで、遠くから眺めていた。共有していたのは、場所と時間の記憶である。
 東京の新宿区と文京区のさかい目、矢来の坂の上のほうで、色川さんは生れた。私は坂の下のほうで、生れた年もおなじだった。近くの神楽坂の夜店を歩き、はるばる浅草へ遊びにいって、成長してから、おなじように小説家になった。
 もの書きになったのは、私のほうが早く、はじめて顔をあわせたのは、ある推理小説雑誌の編集部でだった。こんど入った色川君、と編集長から紹介されたのだが、私の担当にはならなかったので、ほとんど話はしなかった。したがって、おなじ台地の上と下とで、育ったことは、知らずじまいだった。
 私は麻雀をしないから、阿佐田哲也の小説とは、縁がなかった。色川武大の小説がではじめて、雑誌に写真がのったときに、名前に聞きおぼえがあり、顔に見おぼえがあって、ひょっとすると、と思った。やがてパーティであって、やはり推理小説雑誌の編集者だった色川さんだ、と確認できた。
 印刷会社のひと部屋を借りた編集室で、はじめて顔をあわせてから、二十年はたっていたろう。作品を読んで、牛込矢来の生れらしい、とわかっていたから、そのことが話題になった。以来、色川さんの名前を見ると、江戸川橋から矢来、矢来から飯田橋へかけて、のぼりおりする坂の家なみが、目に浮かんでくる。大学通りの夜店、赤城神社の縁日、神楽坂の夜店、飯田橋をわたって、靖国神社例大祭の露店までが、ひとつひとつ思い出される。

色川さんは生れた 色川氏の誕生は矢来町です。
坂の下のほう 都筑道夫氏によると、誕生は小石川区関口水道町62番地(現在は文京区関口1丁目)でした。
生れた年 2人とも昭和4年(1929年)でした。
もの書きになった 都筑氏がもの書きになったのは昭和24年、色川氏は昭和30年でした。
ある推理小説雑誌の編集部 桃園書房の『小説倶楽部』誌の編集者でしょう
台地 豊島台地です。
阿佐田哲也 阿佐田氏は色川武大氏が麻雀を書くときのペンネーム。
江戸川橋、矢来、飯田橋、大学通り、赤城神社、神楽坂 地図を参照
靖国神社 1859(明治2)年、戊辰戦争による官軍側の死者を弔うため、明治政府が「東京招魂社しょうこんしゃ」を創建。1879年に「靖国神社」と改称
例大祭 その神社の、毎年定まった日に行う大祭。

 私は往時をなつかしんで、言葉による絵として、思い出を書こうとするだけだが、色川さんは過去の記憶、現在の観察のなかに、自分の生きかた、自分のであった人びとの生きかたを、考えようとしていた。逃げ腰にならずに、小説を書いている。だから、傍観者である私は、尊敬のまなざしを、遠くから投げていたのである。
 色川さんは、『怪しい来客簿』のなかの一篇、「名なしのごんべえ」で、神楽坂の夜店を書いている。昭和六年にでた『露店研究』という、横井弘三の著書を援用して、昭和ひとけたの神楽坂に、どんな夜店がならんでいたかを列挙し、自分のみた昭和十年代の店、ひとの記憶を書いている。
 もっと古い資料としては、尾崎紅葉が『紅白毒饅頭』という明治ニ十四年の作品に、毘沙門びしゃもんさまの縁日の露店を記録している。色川さんは利用していないが、参考のために、品物のいくつかを、解説つきで抄録しよう。
 太白飴、これは白い棒餡だと思う。文字焼、お好み焼の一種で、近年、もんじや、、、、という小児なまりの名で、復活した。椎実しいのみ、これは椎の実を炒ったものだろう。説明不要の丹波ほうずき海ほうずき智恵の智恵の板、これはタングラムで、いまは夜店の商品ではない。化物ばけもの蝋燭ろうそく、青い火がとろとろ燃えて、幽霊の影がうつる花火の一種で、神楽坂の夜店では、昭和十年代にも売っていた。現に私が買っている。玻璃がらすふで、これは森村誠一さんが愛用しているガラスペンにちがいない。私が見たのは、たいがい細いガラス棒とバーナーをつかって、実演販売していた。たけ甘露かんろ、砂糖を煮つめて、ゆるい寒天状に冷やしたものを、細い竹筒につめて、穴をあけて吸う。銀流し、銅製品につけて磨くと、銀のように見える液体だ。早継はやつぎ、割れた陶器をつける接着剤である。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/

太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
丹波ほうずき 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。
海ほうずき うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
智恵の環 いろいろな形の金属の輪を組み合わせ、解く玩具。
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。
タングラム tangram。正方形の板を三角形や四角形など七つの図形に切り分け、さまざまな形を作って楽しむパズル。

http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの
硝子筆 ガラス製のペン
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。
銀流し 水銀に砥粉とのこを混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継の粉 割れた陶器をつける接着剤
 

神楽坂をはさんで|都筑道夫②

文学と神楽坂

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報➁から取っています。

 この月報の読者は、すでにでた第一巻に、『怪しい来客簿』が入っているから、お読みになっているだろう。だから、昭和ひとけたの夜店明細表は、ここに引用はしない。赤城神社あたりから、夜店がはじまって、大久保通りを越してからは、両側になる、と書いてある。それが、昭和十年代になると、大久保通りから、飯田橋の手前まで、右がわだけになっていたように、私はおぼえている。
 リストのなかの帽子洗いは、私の好きな店だった。古ぼけたパナマ帽ソフト帽が、きれいになるのを、うっとりと眺めていた。そのくせ、洗う手順はわすれているのだから、記憶はおかしなものだ。口絵とあるのは、雑誌の色刷の口絵だけを切りとって、売っていたのだろう。風景画、美人画と分類して、茣蓙の上にならべていた。
 有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしょに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。音譜売りが、舌の裏に入れていた笛というのは、小さなブリ片を、ふたつ折りにしたものだろう。あいだに、薄いかんな屑かなにかを挾んで、ブリキ片の上から、いくえにも糸を巻きつける。それを、舌の裏に入れたのでは、吹きようがない。舌の先にのせて、上顎に押しつけながら、口笛の要領で吹くのである。
 食べあわせの薬売り、というのは、見たことがない。台などはおかずに、立つたまわりに人をあつめて、口上を長ながとのべる薬売り、睡眠術や記憶術の本をうる連中は、じめ、、という。靖国神社の例祭には、いつも二、三人、これが出ていた。明治の大盗、官員小僧のなれのはて、と称して、防犯心得の本をうる老人もいた。稽古着に袴という恰好で、八の字髭をはやして、気合術の本をうる男もいた。
 そうした露天商の紹介につづいて、色川さんは戦後、その人びとがどうなったかを、書こうとする。安田銀行のすじむこうの映画館の焼跡から、南京豆売りのお婆さんが、出てくるのを書く。
 私はその映画館が、神楽坂東宝ではなかろうか、と考える。同時に神楽坂を書いて、牛込館田原屋に筆がおよばないのに、ひそかな不満を持つ。色川さんは戦後、三十年もたってから、当時の無名の人びとを回想して、書こうとする。人びとのその後を、知ろうとする。
 色川さんのえがく神楽坂を読んで、私が尊敬のまなざしをむけるようになったわけは、わかっていただけるだろう。矢来の通りと神楽坂をはさんで、おなじ少年期を送った色川さんを、私はいまも、なつかしく思う。色川さんは、からだが大きく、私は小さい。子どものころ、青瓢箪と呼ばれた虚弱児だった。どうして、大きな色川さんが、先に死んでしまったのだろう。
リストのなかの帽子洗い 『露店研究』では「帽子洗ひ」、『怪しい来客簿』では「帽子洗い」で出ています。
パナマ帽 パナマ草の若葉を細く裂いて編んだひもで作った夏帽子。
ソフト帽 フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
茣蓙 ござ。イグサを編んだ敷物。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
食べあわせの薬売り たとえば「鰻と梅干を同時に食べると消化不良になる」と食材の取り合わせが悪いといい、薬を売る人。
官員小僧 講談師、落語が語る登場人物。懺悔談のあと、高座から盗犯防止のリーフレットを売った。
大じめ 広い場所を占領して、黒山の如き群衆を集めて長口舌を振い、商品を売る人
安田銀行  大久保通りの西側でも5丁目があります。昔の5丁目の安田銀行は大久保通りの西側で、現在の薬のココカラファインです。
映画館の焼跡 鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館は同じ場所を占めていた建物で、現在はおそらく神楽坂5丁目13です。しかし、大久保通りに拡張計画があり、すべては巨大な大久保通りの下になる予定です。
南京豆売り 南京豆とはピーナッツのこと
神楽坂東宝 はい、そうです。

怪しい来客簿①|色川武大

文学と神楽坂

 今、私の机の上に、昭和六年刊露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。研究、とあるが、たとえばその道に有名な『香具師やし奥儀書おうぎしよ』(和田信義氏著)のように、俗にいうテキヤの実態を解剖かいぼう探究するというような内容ではない。
 ひとくちに露店といっても、縁日をめあてにするいわゆるテキヤ的なホーへーと、一定の場所に毎日出る商人あきんど的なヒラビとあり、この本は地味なヒラビの方に焦点しようてんを当てて記述してある。横井氏自身が五反田ごたんだで古本の露店をやっていたらしい。
 横井さんは本来は画家で、中年で露店商人に転業した。そう簡単な転業ではなかったと察しられる。で、職を失い、資本もなく、生きる方向を求めてウロウロしている大勢おおぜいの人たちに、思いきって露店商の世界に飛びこむための案内人を買って出ている。いかにも世界的な経済恐慌きようこうに明け暮れた昭和初年の刊行物らしい。冒頭ぼうとうに近い一節をチラリと引用するが、情が濃くて、ヴィヴィッドで、なかなか読ませる記述ぶりである。

 案ずるより産むかやすいよ、さあ、いらっしゃい、決心がつきましたら、なに、こわいことも、面倒なこともありゃしませんよ。
 さあ、しかしですねえ。露店で一家がべていかれたのは震災前後でした。我々は欲ばってはいけませんよ。今日不況ふきようの場合、一店の夜店から、一家三人の生活、五人の生活ができるものなどと、そんな考えをおこしてはいけません。露店は一人一個の生活ができるくらいと思うているべきです。一家三人、四人と喰べていくなれば、夜店を、二か所三か所に出して、一家の者じゅうで働くとか、昼、どこぞへ勤めるとか、妻君が内職するとか、してでなければ、とても生活してゆけるものではありません(私とてべつに煙草屋たばこやをしています)。

『露店研究』 横井弘三著。出版タイムス社。昭和6年。
香具師 縁日・祭礼など人出の多い所で商売する露天商人。
『香具師奥儀書』 正しくは『香具師奥義書』。大正昭和初の香具師事情紹介書。和田信義著。文芸市場社。1934年。
テキヤ 縁日や盛り場などで品物を売る業者。
ホーへー 縁日を目当てにする露店
ヒラビ 「縁日」に対する「平日」。転じて、一定の場所に毎日出る露店
ヴィヴィッド vivid。生き生きとしたさま。ありありと。

怪しい来客簿②|色川武大

 しかし、この本の不思議なところは別にある。当時の東京のさか上野浅草日本橋にほんばし京橋銀座神保町じんぽうちよう四谷よつやから新宿渋谷しぶや道玄坂どうげんざか牛込うしごめ神楽坂かぐらざか人形町大崎おおさき五反田ごたんだ、などの常設露店が、無類の熱心さで一店残らず記録されていて、かなりのスペースがそのことのためにさかれている。
 たとえば神楽坂のこう
 かみ赤城あかぎ神社のあたりから出発して、右側に、寿司すし、おでん。左側に、古本、八百屋やおや、ミカン、古本、表札、古本、古着、眼鏡めがね、電気器具、靴墨くつずみ、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺めいし刷り、古本、やなぎ行李ごうり。ここで肴町さかなまち電車路(現在の大久保おおくぼ通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏ざつとうした。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆なんきんまめ、寿司、古道具、半衿はんえり、ドラ焼、かなばさみのこぎり唐辛子とうがらし、焼物、足袋たび、文房具、化粧品けしようひん、シャツ、印判、ブラッシュ、石膏細工せつこうざいく、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗ちやわんかばん玩具がんぐ煎餅せんべい、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、くし類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆えんぴつ、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子ぼうし洗い、焼物、植木、植木、寿司。
 左側が、茶碗、金物、眼鏡、まくら下駄げた、柱掛け、ブラッシュ、金物かなもの、アルバム、うでゴム、スリッパ、雑貨、絆創膏ばんそうこう、ガラス、メリヤス、雑貨、モダンペン、がまぐち、雑貨、櫛、口絵、玩具、下駄、古本、台、スリッパ、化粧品、古本、万年筆、金魚、草花、鼻緒はなお、ツツジのえだ、メリヤス、エプロン、草履ぞうり、羽織ひも、バナナ、八百屋、刺繍ししゆう音譜おんぷ屏風びようぶメモリーマッチペーパー、下駄、ミカン、古本、呼鈴よびりん反物たんもの、文房具、紙、片布、ゴム紐、肺量器、古本、八百屋、八百屋、新聞、古本、犬の玩具、櫛、納豆、箱、マーク、ブラッシュ、手品、焼鳥、将棋しようぎ、箱、植木、植木、盆石ぼんせき

 神楽坂は大正の震災で下町の盛り場が焼けたことがきっかけになって、人出が盛るようになった。それから大戦争突入とつにゆうするまで、毎夜、散歩の人波で道路がまった。
 私は牛込の生まれで、したがってこの盛り場は我が家の庭のようなものであった。ただし、前記の昭和六年時の露店の様子は、当然いくらかはちがう。一見してすぐに売り手のイメージが出てくるのと、まったくわからないのとある。私が知っているのは昭和十年代の神楽坂である。

上野、浅草、日本橋、京橋、銀座、神保町、四谷、新宿、牛込神楽坂、人形町 下の地図を参照。

渋谷、道玄坂、大崎五反田 さらに南になります。
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つで、牛込の鎮守として信仰を集めた。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
柳行李 コリヤナギの枝の皮をはいで干したものを麻糸で編んで作った収納用の箱。
肴町 現在の神楽坂5丁目
電車路 大久保通りのこと。路面電車(チンチン電車)が走っていました。
白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ このホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
音譜 ①レコード盤。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜。
メモリー 記憶術でしょうか。
マッチペーパー マッチ箱を収集したもの。この頃マッチペーパー(マッチのラベル)の収集が流行した。
反物 和服・帯・夜具などの一枚分に仕上げた布。
肺量器 肺の換気機能を検査する装置。主に肺活量を測定。
マーク 記号。レッテルでしょうか。
盆石 趣のある自然石を盆の上に配して風景を写したもの
大戦争 第二次世界大戦のこと

怪しい来客簿③|色川武大

文学と神楽坂

 べ合せ、というタンカを使う薬売りが坂の途中の小暗いところに居たが、前記にはのっていない。
うなぎ梅干うめぼしを一緒に喰べたら大変だぞ、胃袋いぶくろ梅酢うめずいろに染まってタラタラとくさっちまう――」
「天ぷらを喰ったあと、西瓜すいかを喰った人がいる。このあいだ、その人は、喰って便所へけこんだのが最後だった。大きな音がして、胃と腸が破裂はれつしちまったね――」
 大仰おおぎようなのであるが風采ふうさいのあがらないあか深そうな三十男がやるのでかえって不思議な迫力が出て、何度きいても子供心にひきつけられた。そういう喰べ合せを羅列られつしていって、食当り予防の本を売ったか、薬を売ったか、今記憶かない。
 坂上の音譜売りのおじさんは、舌の裏に小さなふえを入れて、器用にいろいろなメロディを吹いた。汚れたソフトに眼鏡、まるい鼻からまっ黒い鼻毛がき出ており、メロディにつれてその鼻毛がふるえたりした。
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗しょうきさまのようなひげを生やしたおっさんが、あんこまきを焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。
 もう一人、人気者はバナナのたたであった。この商売、当時は新鮮な感じがあり、そのタンカでいつも黒山のように人を集めていた。この吉本よしもとさんは叩き売りで財を作り、『ジョウトウ屋』という果実店を坂上に開いていたが、半年ほど前に亡くなったらしい。

タンカ 啖呵。香具師やしが品物を売るときの口上
梅酢色 「梅酢」とは「梅の実を塩漬にしてしぼり取った汁。酸味が強く、風味がある」。「梅酢色」は定型ではないが、たとえば右図。
大仰 おおぎょう。大げさ。誇大。
風采が上がらない 見た目や服装がぱっとしない。外見が野暮ったい。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
ソフト 「ソフト帽」の略。フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
鍾馗 しょうき。濃いひげをはやした疫病をふせぐ中国の鬼神。(右図)

食べ合わせ 同時に食べると害があると信じられている食品の組み合わせ。
あんこ巻 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子
半年ほど前に亡くなった この本は昭和49年から昭和52年にかけて『話の特集』で連載しています。

怪しい来客簿④|色川武大

 しかし、私にとって一番印象に残っているのは、毘沙門天の石塀のあたりに立っていた南京豆売りのお婆さんであった。
 南京豆ばかりとに限らない。季節によって、玉蜀黍を焼いたり、焼き栗、浅蜊若布など売物が変わる。しかしいつも一品で、他の露天のように三寸と称する陳列台を持たず、ミカン箱二つに板きれをわたし、そのうえに売物を投げだすようにおくだけ。
 コードを頭上に張り、各店いくらかずつ出しあって、裸電球をつけているが、この婆さんのところだけは電球もない。
 乞食同然のまっくろい顔で、夏も冬も紺のに商店の名入りの前かけ、着たきり雀じゃなかったかと思う。
「キッタないねえ――」と私の母親などはその前を通るたびにいった。
「食べものをあっかっていてあれじゃ、売れやしないよ」
 婆さんの方は恬淡としたもので、似たような意味のことを夜店の仲間が注意すると、きまってこういったという。
「儲けなくてもいいンだよ」
 露店には場所割りがあって、多少の変動はありがちだったが、みすぼらしさでNO・1のくせに、婆さんの毘沙門天前の位置は終始不動だった。そこは通りのほぼ中央部で大変にいい場所だったのである。その理由は誰にきいてもはっきりしない。

南京豆 ピーナッツのこと。
浅蜊 あさり。マルスダレガイ科の二枚貝。淡水の混じる浅海の砂泥地にすむ。
若布 わかめ。褐藻綱コンブ目ワカメ属の海藻。
三寸 昔、露店は6尺3寸の大きさだった。この当時には、露店の広さは横2メートル、縦1メートルだった。
 あわせ。裏をつけて仕立てたきもの。表と裏との布地の間に空気層をつくり保温効果を高め、初夏と初秋に着た。
着たきり雀 着たきりの人
恬淡 てんたん。無欲であっさりしていること。

 突然、戦争が終って、焼けたところと焼けないところが、くっきり差がついた。神楽坂は、見渡すかぎりの焼野原であった。一時期、歩く人もまったくなかった。(中略)
 安田銀行の筋向かいに小さな映画館があり、焼失して映写室の外郭だけになっていたが、その中から、根強く生き残ったきのこのように、南京豆の婆さんが現われたのには驚いた。
 おそらく、誰にもことわらずに入りこんでしまったのだろう。が、そんなことはどうでもよい。私は祝盃しゆくはいをあげたいような気分になった。そうしてまた、生きていたと知ると、なんだかまがまがしいものがそこに居るような、気がかりな気分になる。
 不気味なものというものはやはりこの世にあるのであり、それどころか、人間が本当に生きようとすると、恰好が整わなくなって化け物のようにならざるをえない。大仰であろうか。
 婆さんは、あいかわらずぶあいそな顔つきで、苦行僧のような感じだった。私はその映写室をのぞいたことはないが、フィルムを映写する小さないくつかの穴以外、窓もなく、夏は風呂ぶろのようであり、冬は冷蔵庫のように冷えただろう。婆さんの持物はコンクリートのゆかの上に敷く茣蓙ござと、玉蜀黍時代からの七輪一個だけで、電気もなかった。
 そんなに条件が悪くても、この新居が気に入っていたようで、夜店仲間の近藤さんなどと顔を合わせると、
「遊びにおいでよ――」
 と誘ったという。
 うんざりするほど長年月の時、係累けいるいを作らず、ペットすらなしですごしてきたこの人物が、ときにつぶやく「遊びにおいでよ――」というセリフは、ぜひ一度私もきいておきたかった気がする。
 婆さんはかつぎ屋などして細い生計をたてていたようだが、焼跡が旧に復し、映写室もとりこわされる頃、忽然こつぜんと姿を消した。方面委員の手で養老院に送られ、そこではじめてせきを切ったようにがっくりとおとろえ、まもなく板橋の病院に廻されたという。今度の調べで、やっと彼女のせいだけはわかったが、わざとここには記さない。

安田銀行 現在薬屋さんが入っている神楽坂上交差点の西端。下図を参照。
映画館 神楽坂上交差点の東端に東宝映画館があった。

祝盃 祝いの酒を飲むさかずき。
まがまがしい 禍禍しい。不吉な。悪いことが起こりそうだ。
気がかり どうなるかと不安で、心から離れない様子
苦行僧 悟りを開くために厳しい修行をする人。山野を歩いて修験道を修める行者。
蒸し風呂 四方を密閉し湯気を出して体を温める風呂。
七輪 土製のこんろ。煮るのに炭の単価が七厘ですむことから。
玉蜀黍 とうもろこしのこと
係累 心身を拘束するわずらわしい事柄。面倒を見なければならない親・妻子など。
かつぎ屋 食料を生産地から運んできて売る人。第二次世界大戦中~戦後は特に闇物資を運ぶ人
忽然 にわかに。突然
方面委員 ほうめんいいん。民生委員の前身。生活困窮者救護のため、昭和11年、制度化。
養老院 老人を収容救護する施設。公的機関としては1932年施行の救護法に基づいて設置、65歳以上の生活困窮者を収容救護した。おそらく東京都立養育院(現在は老人総合研究所から東京都健康長寿医療センター)に入院したのでしょう。
堰を切る 川の流れが堰を壊してあふれでる。転じて、おさえられていたものが、こらえきれずにどっとあふれでる。
板橋の病院 都立豊島病院(現在は東京都保健医療公社豊島病院)に転院したのでしょう。
 同じく『怪しい来客簿』の「ふうふう、ふうふう」では宇佐美のお婆さんとして登場します。

わが馴染みの横町|色川武大

文学と神楽坂

色川武大 色川武大氏が書いた「わが馴染みの横町 神楽坂」(『東京人』、1988年6月)です。

 氏は小説家で、昭和36年「黒い布」で文壇にデビュー。昭和52年「怪しい来客簿」で泉鏡花文学賞、昭和53年「離婚」で直木賞。また阿佐田哲也の筆名で「麻雀(マージヤン)放浪記」などのギャンブル小説も出しています。生年は昭和4年3月28日なので、この文章は59歳に書かれたものです。

 神楽坂は、震災で下町の盛り場が焼失したために賑やかになり、ターミナルの西方移動で新宿が勃興するまでの短期間、盛り場としてスポットライトが当ったらしい。私は昭和四年、牛込矢来町の生まれだから、盛りの頃の神楽坂を眺めて育ったことになる。
 その頃は、建物は小ぶりだが、白木屋高島屋、デパートが二つもストア風の出店を出しており、毎晩夜店が並び、車馬は通行止めだった。雑踏で道が埋まっていたといっても今の人は誰も信用しない。本当に、昭和に入ってからは街の変転が烈しくて、その変転の中で育った私自身、往時が夢のようだ。

震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に 起きた関東地方の地震とそれに続いた災害
矢来町 色川氏は矢来町80番に住んでいました。赤の地域で、矢来町80番の中には家屋が数軒あります。矢来町80
白木屋 しろきや。 東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。 かつて日本を代表した百貨店。 1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
高島屋 たかしまや。「神楽坂界隈の変遷」で新宿区教育委員会は「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で「震災直後高島屋十銭ストアーになった」とかいてあります」。以前は本屋の機山閣でした。
高島屋
「まちの想い出をたどって」第2集によれば

相川さん 三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
  神楽坂に高島屋があった
山下さん 『高島屋』が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいつちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。

 現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」からただの道路になっています。

 カーブして津久戸の方に抜ける現大久保通りも、ストレートな大通りではなくて、市電がぎしぎしいいながら人家の中にわけ入っていったような記憶がある。いったいに道幅を拡げていた時期で、江戸風な小道が整理され、改正道路と称する舗装道路になっていった。改正される前のたたずまいがなつかしいのだけれど、私などの年齢では具体的な記憶がすくない。
 北町と肴町の間にある坂のあたりは、両側が崖のようになっていて、袋町の方面に昇る蛇段々という曲りくねった段々があった。ここは蝉とりの名所で、ひときわなつかしいが、今は何の風情もない舗装の坂道だ。往時のあの泥道というものは、ぬかるむと始末がわるいが、下駄に適合していた。舗装になって、下駄では頭に響いて歩きにくい。私は下駄が好きだから、泥道の柔らかさがなつかしい。
 夏の夜は、浴衣を着て親に手をひかれ、矢来の方から出て、夜店を眺めながら坂下まで散歩し、外濠のほとりで涼んだり、ボート遊びをしたりして、また同じ道を戻ってくる。なんということはないが、当時、恰好のリクリエーションだった。花火屋のおばさん、玉蜀黍売りの婆さん、古本の店、詰将棋、バナナ売り、盆栽屋、皆はっきりと顔が浮かんでくる。坂上の熊公焼きは特に有名だったが、単なるあんこ(、、、)巻きだ。

改正道路 明治時代から大正時代の都市計画を市区改正と呼んでいました。 東京市は道路幅員が狭く、上下水道など都市基盤の整備が遅れ、 大火も起こりました。改正道路とは市区改正で整備した新しい 道路のことです。
蛇段々 岩戸町の11番地と12番地で挟まれた南方が高い道路。鳥居秀敏氏が書いた「袖摺坂(そですりざか)って本当はどの坂?」(『まちの想い出をたどって』第二集)で「蛇段々」について書いています。
「蛇段々」というのをご存知の方いらっしゃいませんか? 私が愛日小学校を卒業したのは昭和十一年ですが、そのころまだS字状の広い車道の坂道はありませんでした。昭和十六年の地図を見てください。袖摺坂この地図の「町」の字のあるところが十一番地で小高い丘があり、隣の十二番地はレベッカビルです。そして十一番地と十二番地の間に細い道がありますね。この細い道を入りますと高い崖に突き当たります。高さ六メートル以上ある急な崖です。そこで左に曲がって斜めに登っていきます。そして登りきるとまた右へ曲がる細道があってそれを出ると南部さんの前に出ます。これが私の子供のころ蛇段々といわれていた細道です。学校の帰りに時々寄り道をしてこの蛇段々を下りて帰るというのが一つの楽しみでもありました。蛇段々という名前はおそらく坂でないところも含めて、うねうねと曲かっていますから、蛇を連想したのではないかと思います。しかしこの蛇段々は子供たちだけの呼び名で大人は袖摺坂と吁んでいたのかどうか、その点を私は知りません。しかし後ほど細かく申しますように、これが先ほどの新撰東京名所図会御府内備考に書いてある地形とぴったり一致するのです。そのことから私はこの蛇段々が袖摺坂であったと、九十九パーセント確信しています。蛇段々
 これは蛇段々の模型です。十一番地と十ニ番地の間から登ります。すると相当急な高さ六メートル以上の崖に突き当たりますから真直には上れません。そこでその斜面を斜めに登ります。そしてまた右に曲がると南部さんの家の前に出ます。袋町も、北町も、多少大久保通りに向かって緩い傾斜をしていましたが、岩戸町の辺りはほとんど平担です。このあたりの台地は関東ローム層、いわゆる赤土ですから滑りやすい。仮に袋町の方から下りていったとします。崖縁を左に曲がりますと当然左側は高台です。それから右側は垣根かどうかは分かりませんが、十八メートルの間に六メートルも下るかなりの急な坂です。ですから滑らないように段々を作った。「岸地に雁木を設け折廻はしたる急峻の坂なり」という表現はこれにぴったり一致するわけです。
 蛇段々と袖摺坂とは同じなのか? 私は違うと思っています。これは別に書きます。
熊公焼き あんこ巻きのことです。細かくはここに

 では、これが終わりです。

 それ以上に名物的存在は、肴町電停前にいつも居る初老の人物で、古びた学帽をかぶり書生姿に高下駄。一定時間になるとカランコロン下駄の音を響かせ、通りを往復する。乞食ともちがうし浮浪者でもない。人々は親しみの眼でこの人物を眺めていた。世の中がのんびりしていてあの頃はこういう風物詩的な人物がよく居たものだ。
 戦災で残らず焼け、復興もおそく、長いこと、都心部の見捨てられた街と化していたが、最近歩いてみると、ここもビルラッシュ。至るところで建築の音がきこえてくる。古くからの老舗も、この変革の嵐の前にひとたまりもないのかどうか。
 裏通りの花柳界は、道筋だけは変らないが、内容は大きくさま変りしているらしく、三味線の音など絶滅し、カラオケと麻雀の音ばかり空疎にきこえてくる。
初老の人物 誰だか、わかりません。

色川武大|矢来町

文学と神楽坂

 小説家、色川(いろかわ)武大(ぶだい)(あるいは麻雀作家、阿佐田(あさだ)哲也(てつや)、本名は色川武大(たけひろ))。生まれは1929(昭和4)年3月28日。逝去は1989(平成元)年4月10日。ここ矢来町で生まれ大きくなりました。
 本人の『寄せ書き帖』によれば

 私が生まれ育った牛込矢来町というところは、戦前の典型的住宅地であると同時に、色街の神楽坂に近かったせいか、昔、芸人さんがたくさん住んでいた。
 私の生家の隣ぐらいが曲独楽の三升紋弥(先代)一家で、横町ひとつ先が昔々亭桃太郎、後年、花島三郎、松旭斎スミエ夫妻が住んでいた家がある。ここいらには小桜京子も居て、ずっと以前に桃太郎グループに属して寄席に出ていたことがあるが、おシャマなかわいい娘だった。
 戦時中には左ト全が松葉杖をついて瓢々と歩いていたし、柳家金語楼も町内に大きな邸があった。柱三木助が居て、坂下には春風亭柳橋が居て、反対側の市ヶ谷寄りには現三遊亭小円馬がガキ大将で居た。ちなみに私たちは小円馬を森山さんのお兄さんと呼んでいた。現三升紋弥は細野さんのお兄さんである。

 以下は『生家へ』からの引用です。

 私は生家でうまれて生家で育った。それはもちろんだが、生家そのものがただの一度も、焼失も移転もしなかったから、私は三十八歳になるまで、ひとつ家に、ひとつ土地に居たことになる。日本人というようないいかたは、身体に訊いてみてぴんとした反応は返ってこないけれど、牛込の矢来町八〇という名称は、私にとって特別な響きをもっている。

 生家と隣り合って一軒の家作があった。二軒合わせてほぼ正方形の角地だったが、家作はその東北部の四分の1を占めていた。いずれも平家である。
 何代か住み手は変ったが、戦争がはじまってから、Tさん一家が来て、以降ずっと住みついた。未亡人の婆さんと、もう1人前に育った子供たちの1家だった。

 では牛込の矢来町80番はここです。左側は昭和15年の図、右側は現代の地図です。

矢来町の地図。色川武大氏

 また色川武大氏にはナルコレプシーという病気があります。『風と()とけむりたち』で

 私は“ナルコレプシー”という奇妙な持病があって、これは一言でいうと睡眠(すいみん)のリズムが(くる)ってしまう病気である。私の場合、持続睡眠が二三時間しかとれず、そのかわり1日に何度も暴力的な睡眠発作に(おそ)われる。生命を失なう危険はないようだが、疲労感(ひろうかん)が常人の四倍といわれ、集中力を欠き、また症状(しょうじょう)の1つとして幻視(げんし)幻覚(げんかく)を見る。なぜそうなるかまだ原因がわからない。しかし医者にいわせると、発病期はおおむね十(さい)前後だという。

 もうひとつ。『寄席放浪記』「ショボショボの小柳枝」の1節で「私は駄目な男だから」と書いてあります。「駄目な男だから」時間通りに起きられない、大変なことろで猛烈な眠気で眠ってしまう。これが10代に起こるので、次第次第にソフトで本人は物腰が柔らかくなってきます。色川武大氏も物腰は柔らかくなっていました。ぎすぎすしていたり、神経質になるのはナルコレプシーではないと考えてもいいでしょう。