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寒泉精舎跡(写真)揚場町と下宮比町 平成28年 ID 17975

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975は平成28年に揚場あげば町と下宮しもみや町のかんせんしょうしゃのあとを撮影しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17975 寒泉精舎跡

 中央の黒い地に黄色の文字が説明板「寒泉精舎跡」で、設置されている場所は揚場町です。
 その前に周囲を見てみます。左から……

  1. 東京電力の高圧キャビネット。「河立679」と「安心・安全 防犯ガラス/全硝連」「第50回 中央大学 理工白門祭 お笑いステージ シャッフル 歴史/しめて 11・4◯ 5◯ 6◯」
  2. 「(第2)東(文堂ビル)」「薬」(クスリの福太郎)
  3. 「日本 Japanese Language School 03-3235-xxxx」「てけてけ にんにく醤油タレ 焼き鶏 総本家 第2 東(文)堂ビル」「博多水炊き」「てけてけ 秘伝のにんにくダレ 焼き鶏 塩つくね 博多水炊き」「名物 塩つくね」「てけてけ にんにく醤油ダレ 焼き鶏 総本家」「うまい焼き鶏」「秘伝のにんにくダレ 塩つくね 博(多水炊き)」「ご宴会あります 焼き鶏79円 宴会コース 2500円」「ザ・プレミアム モルツ生 299円」「290円」「290円」
  4. 「定礎」

 寒泉精舎の場所もよくわかっていません。芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)では

  名代官の学習塾、寒泉精舎跡(下宮比町と揚場町との境)
 筑土八幡を下りて大久保通りを飯田橋に向う。津久戸小学校と厚生年金病院の中間あたりは、江戸時代の儒者岡田寒泉が私塾の「寒泉精舎」を開いた所で、都の文化財(旧跡)になっている。

 津久戸小学校と厚生年金病院本館は津久戸町、病院別館は下宮比町です。下宮比町から現在の大久保通りをはさんだ南側が、説明板のある揚場町です。
 江戸時代には、現在の下宮比町と揚場町の間には道がありませんでした。新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(新宿区、2007年、下図)を見ると、西田小金次というおそらく旗本の屋敷がありました。

 ここに道ができるのは明治時代のはじめで、明治40年頃、やや北側にずれた場所に現在の大久保通りが開通します。
 2つの町の境界上に寒泉精舎があったと推測されるので、所在地が「揚場町二 下宮比町三」として指定されたのでしょう。
 なお、東京市及接続郡部地籍地図 上卷(大正元年)では、大久保通りの南側に少しだけ下宮比町が残っていますが、現在では揚場町に変わっています。

東京都指定旧跡
    かん せん しょう しゃ のあと
     所在地 新宿区揚場あげばちょう二・下宮しもみやちょう
     指定  大正8年10月

 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名ははかる、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文げんぶん5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政かんせい元年(1789)松平まつだいら定信さだのぶに抜擢されて幕府儒官となり昌平しょうへいこう(後の昌平坂学問所)で経書けいしょを講じた。柴野しばの栗山りつざん(彦輔)・尾藤びとう二洲じしゅう(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸ひたち代官に転じた後は古賀こが精里せいちが登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵こうえんを開き給えりしに、門人もんじん賓客ひんかくにみちみちて、塾中いることあたわざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮まみや士信ことのぶが『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学ようがく指要しよう』『三札さんらいこう』『寒泉かんせん精舎しょうじゃ遺稿いこう』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置
東京都教育委員会

寒泉精舎 「寒泉」とは「冷たい泉。冬の泉」ですが、ここでは「岡田寒泉がつくった」との意味。「精舎」とは「僧侶が仏道を修行する所。寺院」
岡田家泉 江戸中期の儒学者、民政家。号は寒泉。生年は元文5年11月4日(1740.12.22)。没年は文化13年8月9日(1816.8.31)。77歳。

岡田寒泉

儒学者 中国の孔子によって主張された政治道徳思想は儒教。実践倫理と政治哲学を加え、体系化した教育と学問を儒学。儒学を学んだり、研究・教授する人を儒学者。
松平定信 江戸幕府8代将軍徳川吉宗の孫。1787年〜1793年、老中として寛政の改革を実施。
幕府儒官 江戸幕府で儒学を体得し、公務に仕える者。儒学をもって公務に就いている者。公の機関で儒学を教授する者
昌平黌 こうとは「まなびや、学舎、学校」。江戸幕府直轄の学校。寛政かんせいの改革の際、実質的に官学となった。
昌平坂学問所 1790年(寛政2年)、神田湯島に設立された江戸幕府直轄の教学機関・施設。
経書 儒教の最も基本的な教えをしるした書物。儒教の経典。四書・五経・十三経の類。
柴野栗山 江戸時代の儒学者・文人。生年は元文元年(1736年)。没年は文化4年12月1日(1807年12月29日)。

柴野栗山

尾藤二洲 江戸時代後期の儒学者。生年は延享2年10月8日(1745年11月1日)。没年は文化10年12月4日(1814年1月24日)。

尾藤二洲

寛政の改革 幕政の三大改革の1つ。老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗した。
朱子学者 朱子学は儒学の一学派。朱熹(朱子)の系統をひく学問。
常陸 東海道に属し、現在の茨城県北東部。

代官 幕府の直轄地(天領)数万石を支配する地方官の職名。
古賀精里 江戸時代中期〜後期の儒学者。生年は寛延3年10月20日(1750年11月18日)。没年は文化14年5月3日(1817年6月17日)
民政家 文官による政治。軍政に対する語。
授読 師が弟子一人一人に書物の読み方を教え伝える。塾生を個別に指導する。
句読 くとう。文章の読み方。特に、漢文の素読。
講筵 書物などの講義をすること。
間宮士信 江戸後期の旗本で地誌学者。生年は安永6年(1777年)。没年は天保12年7月24日(1841年9月9日)
寒泉先生行状 門弟間宮士信が著した書物。静幽堂叢書(第34冊・伝記部)に収録。
大塚先儒墓所 おおつか せんじゅ ぼしょ。江戸時代の儒者の墓所。儒学者が儒教式の葬式と祭祀(儒葬)を行った
儒制 不明。朱子の『家礼』に基づいた儒式の葬祭か?
幼学指要 ようがく しよう。刊行年は弘化3年(1846)
三札図考 寒泉精舎遺稿 不明。

寒泉精舎跡

寒泉精舎跡

看護婦養成の苦心と賞牌

文学と神楽坂

 石黒いしぐろ忠悳ただのり氏の「懐旧九十年」(東京博文館、昭和11年。再録は岩波文庫、昭和58年)です。女の看病人をつけたらという発想から看護婦(現、看護師)が生まれ、また、日本赤十字社から今の国際的な開発協力事業が発生しました。
 氏は陸軍軍医。江戸の医学所に学び、西洋医学の移入、陸軍軍医制度や日本赤十字社の設立に尽くしました。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。97歳で死去。
 住所は牛込袋町26番地から明治13年、牛込区揚場町17番地に転居。

第5期 兵部省出仕より日清まで
  21 看護婦養成の苦心と賞牌
 我が国での看護婦の沿革を述べると、その始りともいうべきものは、維新の際、東北戦争の傷病者を神田かんだ和泉いずみばし病院へ収容した時です。この傷病者は官軍諸藩の武士ですからなかなか気が荒く、ややもすれば小使や看病人に茶碗や煙草タバコぼんを投げ付ける騒ぎが毎々のことで、当局ももて余し、一層のことにこれは女の看病人を附けたらよかろうというので、これを実行してみると案外の好成績を得たのです。
 その後、明治12, 3年頃海軍々医大監高木たかぎ兼寛かねひろ氏が、東京病院で看護婦養成を始めました。
 これが我が国看護婦養成の最初です。越えて明治19年、我が国の国際赤十字条約加入、日本赤十字社の創立となり、万国赤十字社に聯合すべき順序となりました.その結果、明治21年5月に篤志看護婦人会が組織せられ、有栖川ありすがわのみや熾仁たるひと親王董子ただこ殿下を総裁に推載し、鍋島侯爵夫人を会長と仰ぎました。これから看護婦養成事業がちょに就いて大いに発達して参ったのです。
 前にも述べた通り、私は最初陸軍々医方面に身を投じた際、自分の職分は兵隊の母たる重要任務であるとさとりました。さて、その兵隊の母として考えてみると、傷病者が重態になった時はこれを婦人の柔かき手で看護するのでなけれぱ親切な用意周到の看護は出来ない。ところが陸軍官軍では、看護婦を養成したり使用したりすることはまだ出来ない。そこで戦時に軍隊医事衛生の援助を主眼とする日本赤十字社においてこれを養成し、戦時にこれを使用することとし、世が進むと平時には重病者には看護婦を付けるようにするというのが、私の年来の計画であったのと、今一つには幸いにしてこの看護婦がその業務に熟達して来たならば、皇族におかせられてもぜひ看護婦を御使用ありたいというのが希望でした。また、そうなると皇族方の御看護をしたる手を以て傷病者の看護をさせることになる訳です。それで日本赤十字社の看護婦は看護は勿論、平素人格ということに注意しなくてはならぬという主張を持ったのです。
 そもそもやまいの治療に十の力を要するとすれば、医師の力が五、薬剤と食物が三、看護婦の力が二といったように三つの力が揃わなくてはならぬと思います。

 えき。(人民を徴発する意味から)戦争
賞牌 しょうはい。競技の入賞者などに賞として与える記章。メダル。
神田和泉橋 神田川に架かり昭和通りにある橋。
病院 明治元年、横浜軍陣病院を神田和泉橋旧藤堂邸に移転、大病院と称していたが、明治10年、東京大学医学部附属病院と改称。
高木兼寛 鹿児島医学校に入学し、聖トーマス病院医学校(現キングス・カレッジ・ロンドン)に留学。臨床第一の英国医学を広め、脚気の原因について蛋白質を多く摂り、また麦飯がいいと判断。最終的には海軍軍医総監。東京慈恵会医科大学の創設者。生年は嘉永2年9月15日(1849年10月30日)。没年は大正9年(1920年)4月13日。
東京病院 明治14年、有志共立東京病院を設立。現在の東京慈恵会医科大学附属病院の前身。
日本赤十字社 明治10年(1877)の西南戦争時に、佐野さの常民つねたみ大給おぎゅうゆずるらが中心となり、傷病者救護を目的として組織した団体を「博愛社」と呼び、明治20年(1887)日本赤十字社と改称。
有栖川宮熾仁親王 江戸時代後期から明治時代の皇族、政治家、軍人。有栖川宮幟仁たかひと親王の第1王子。反幕府・尊王攘夷派で、戊辰戦争では江戸城を無血開城。
董子 有栖川ありすがわの宮妃みやひ董子。有栖川宮熾仁親王の妃。博愛社(現、日本赤十字社)創設。10年間、東京慈恵医院幹事長。
鍋島侯爵夫人 鍋島なべしま榮子ながこ。イタリア公使であった侯爵鍋島直大とローマで結婚。明治20年、日本赤十字社篤志看護婦人会会長に就任。
緒に就く しょにつく。見通しがつく。いとぐちが開ける。

神楽河岸の酒問屋(写真)路面電車 昭和42年 

文学と神楽坂

 雪廼舎閑人氏の「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)に次の写真がでてきました。撮影時期は昭和42年8月でした。

雪廼舎閑人「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)昭和42年8月に撮影

 都電「飯田橋」行きなのに、方向板だけは早々と「品川駅」に直してしまうという結構面白い写真です。理由は以下に
 この都電系統3番は4か月後の昭和42年12月10日に廃線しました。あとこの写真は升本酒問屋についても説明があり、『新撰東京名所図会』が続きます(引用は以下の「神楽河岸の酒問屋」で)。
 酒問屋の升本総本店は、確か田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」にもあったっけ。で、見つけました。これが(↓)昭和47年に撮った写真です。都電はなくなり、「京英自動車株式会社」は「安全第一/大林組」の看板に変わっています。この時期にはID 8793のように飯田壕で地下鉄有楽町線や護岸の工事が進んでおり、その関係の現場事務所かも知れません。
 升本の背後に出現したビルは、左が東衣裳店、右が小川ビル。いずれも大久保通り沿いです。右端はボウリングのピンの広告塔で、下宮比町のイーグルボウルです。

05-14-39-2飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 升本総本店のサイトにも写真があったはず……。ありました(↓)。説明は昭和38年ごろとあります。しかし、よく見ると最初の雪廼舎閑人氏の写真と似ている。非常に似ている。けた違いに似ている。眼光紙背に徹すると、同じじゃないか。

 雪廼舎氏と升本総本店、いずれも嘘をつく理由はなく、どちらかが間違いです。
 住宅地図で調べると、升本の倉庫の隣は昭和39年が「駐車場」、昭和42年と43年が「百合商会」、昭和45年から「京英自動車」に変わります。住宅地図の更新は数年遅れになることが多いので、これを考えると雪廼舎氏に軍配があがります。
 「続・都電百景百話」の中で雪廼舎氏は

 当初、「都電百景百話」は、私の撮影した1万枚を越すネガから、先ず四百の場面を選んで、更にそこから百景にしぼったものだった。この広い東京の町々を、百の場面で代表させることの難しさは並大抵なものではなかった。江戸の昔、葛飾北斎は「富嶽三十六景」で三十六景ならぬ四十八景を、そして安藤広重は「江戸名所百景」で、百十八景もの場面を残しているのに徴しても、このことはお解り頂けると思う。

 雪廼舎氏は趣味が高じて写真を撮っていて、都電3系統の廃止を前に撮影に行ったのでしょう。写真の大きさや解像度から見ても氏のほうが正しいでしょう。

 神楽河岸の酒問屋
 中央線に乗って四谷から御茶の水に向かって行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべる者や釣糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しいところだ。その外濠に沿って走っている電車は、昔の外濠線で、この伝統ある線は、③番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の五叉路にさしかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立往生だ。方向板は折返す時に直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げしたので、船宿や問屋などがたくさんあり、このあたりの河岸を神楽河岸と言った。
 明治37年の『新撰東京名所図会』の「牛込区之部」の巻一に、「此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。一番地には油問屋の小野田。三番地には東京火災保険株式会社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ。」と出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。
 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町四丁目の質屋大和屋、本郷三丁目のかんむり質屋、音羽一丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることもできない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた水面積か減った。残念なことである。

★飯田橋の都電ミニ・ヒストリー
 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、三社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川橋までが完成して、飯田橋は乗換地点となる。一方、大正1年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、⑩番江東橋~江戸川橋、⑨番の外濠線の循環線、それに新宿からの③番新宿~牛込万世橋間が通る。
 昭和初期には、5年まで⑱番角筈~飯田橋~万世橋、⑲番早稲田~大手町~日本橋~洲崎、㉒番若松町~御茶の水~神田橋~新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から⑱番が⑬番に、⑲番が⑭番に、そして㉒番は改正されて㉜番飯田橋~虎の門~新橋~三原橋と、㉝番飯田橋~虎の門~札の辻間となった。昭和15年には㉜番は廃止となった。
 戦後は、⑮番高田馬場駅~茅場町、⑬番新宿駅~水天宮、③番飯田橋~品川駅とになった。
 ③番は42年12月10日、⑮番は43年9月29日に廃止、⑬番は43年3月31日岩本町までに短縮の後、45年3月27日から廃止された。

花埋み|渡辺淳一氏

文学と神楽坂

荻野吟子 (Wikipedia)

 渡辺淳一氏の「はなうずみ」(河出書房新社、昭和45年)です。これは初めての女性医師、荻野おぎの吟子ぎんこの一生を描いたものです。
 なお「花埋み」という言葉は多分ありません。『とみなが屋』では「埋めるという字は、不足しているものを補ったり、平らにする意味。お花と絡めると、埋葬という言葉、死のイメージが浮かびます。華やかな側面だけ見るのではなく、死や老いを含めた生命の美しさ、そして人間の痛みを伴う情景を表現したいので『花埋み』という名前は結果的にすべてを繋げてくれるのだと思っています」
 これは荻野吟子氏が初めての女医を目指して陸軍軍医監の石黒忠悳氏に会う場面です。

 永井久一郎が紹介した人物は、当時の医界の有力者、陸軍軍医監、石黒いしぐろ忠悳ただのりであった。この人は幕府の官立医学校であった医学所をえ、その後、新政府ができるとともに医学校(大学東校)に少助教として勤めたことがある。この時、医学校長であった佐藤さとう尚中しようちゆう大博士に仕え、また先の皇漢医道復興運動の折りには岩佐純さが知安ともやすらと結んで反対論のきゅう先鋒せんぽうとなった人物である。
 彼はのちに軍医総監となり子爵を授けられたが、吟子が会いに行った時はまだ三十歳半ばの働きざかりで軍医監としてひょうしょうにいたが、同時に大学医学部そう心得として週に二日ほど文部省に出向していたのである。
 女の身でいかめしい官庁へ出かけるのはさすがの吟子もためらわれた。しかも場所は軍人の出入りする兵部省である。吟子は石黒の私邸を尋ねることにした。一度むだ足を踏んで、二度目に牛込うしごめあげちょうの石黒邸でどうやら会える機会を得た。
 石黒は顎骨あごぼねの張った、いかつい感じの男だった。彼は吟子の持っていった永井久一郎からの添書を読むと「うん」と一度、大きくうなずいた。
「成程、君が荻野吟子君か」
 維新を生きぬいてきた男らしく、石黒の声は周りに響くほど大きい。
「お初にお目にかかります」
 吟子はこの無骨な感じの男にすっかり緊張していた。女子師範で接した教授達とはいささか勝手が違う。
「君の意見には儂も賛成だ。婦人は総じて内気なもので、ことさら婦人病等をあらわに診察されることをじらってきらうものだ。きちんと診なければ分るものも分らない。これには儂も往生した経験がある。これらに対して女医が処することは大いに有益である。医学で女では学ばれぬという程の学科もないから、女がなってもおかしくはない」
 今更、何故なぜやりたいか、などと決りきった質問はしない。さすが実際に西洋医学を学んできた人だけに分りがいい、と吟子はほっとした。
「ところで、何処どこの学校をお望みかな」
「私のような者でも、いれて下さるところがあれば、選り好みは致しません」
「とにかく君も知っているように、今は何処も女人禁制だ。すぐと言われても困るが、どこか探してみよう」
「ありそうでしょうか」
「分らん。分らんからこれから探すのだ」
 石黒は掛け値のない男である。言われてみれば当り前のことであった。吟子は恐縮して石黒のもとを辞した。
 吟子が石黒忠悳から連絡を受けたのは、その一週間後の三月の初めである。早速出向くと石黒は例の大声で、
「いろいろ当ってみたが女学生は断わると言うて応じてれぬ」
「…………」
「ただ一つ、下谷の好寿院だけが、引き受けようと言うて呉れた」
「本当ですか」
 吟子は椅子いすから立ち上った。
すわって聞いても話は同じじゃ、坐りたまえ」
 吟子はあわてて坐った。
「風紀のことをはじめ、女ではいろいろと不便なことがある故、初めは駄目だと言いおったが、儂の懇請なら仕方がないとついには降参しおった」
「ありがとうございます」
 自慢しても石黒の場合はいやみに聞えない。
「院長の高階たかしな経徳君は私もよく知っているなかなか優秀な男だ。ちょっとこうるさいがな」
 いよいよ医者へ一歩近づいたのだ。吟子はめくるめく思いで石黒を見上げた。
「二、三日中に行ってみると良い」
「早速伺わせていただきます」吟子は深々と頭を下げた。
 皮肉なことに吟子は、皇漢医道復興問題で相対した井上頼圀、石黒忠悳という二人の人物の知遇を得たことになったのである。
 好寿院へ入ると決って吟子は再び頼圀の許を訪れた。好寿院の高階院長が宮内省侍医を兼ね、頼圀が宮内省御用掛であった以上、吟子の入学が頼圀に知れることは時間の問題であった。だが吟子が訪れたのは単なる挨拶あいさつと報告だけからの理由ではない。それよりも頼圀の近況を探るのが吟子にとっては大きな目的であった。
「そうか、西洋医になられるか」
 吟子の医学への志を初めて聞かされた頼圀は、沈痛な表情で腕を組んだ。漢方医ならともかく、西洋医では頼圀の手の及ぶところではない。といって西洋医になるのを断念させる理由もなかった。たしかに西洋医は時流にかなっている。その辺りのことは皇漢医である頼圀にも見通せた。
「長いのう」
「はあ?」
「いや、これからがじゃ」

永井久一郎 ながい きゅういちろう。漢詩人。米国留学後、工部省、文部省、衛生局第3部長、東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)三等教諭兼幹事、帝国大学書記官をつとめ、のちに日本郵船の上海・横浜支店長。永井荷風の父。生年は1852年9月15日(嘉永5年8月2日)。没年は大正2年1月2日。
石黒直悳 いしぐろただのり。医者。日本陸軍軍医、日本赤十字社社長。1890年、陸軍軍医総監と陸軍省医務局長を兼任。軍医学校校長。生年は弘化2年2月11日(1845年3月18日)。没年は昭和16年4月26日。
大学東校 明治初期の官立の医学教育機関。明治政府は、1869年(明治2)旧幕府の昌平学校、開成学校、医学校を統合して大学校とした。同年末(旧暦明治2年12月)大学校が、大学と改称され、医学校を大学東校、開成学校を大学南校と称し、東校はドイツ人教師の指導の下で、プロシア軍医学校を模した教育改革が行われ、1874年東京医学校、1877年東京大学医学部、1886年帝国大学医科大学となった。
少助教 明治時代に政府が設置した大学の教官の職階。大博士の下に中博士・少博士、大助教・中助教・少助教の官職があった。
佐藤尚中 さとうしょうちゅう。たかなか。幕末明治の蘭方医。外科医。大学東校(東京大学医学部の前身)初代校長。東京順天堂の第2代堂主、順天堂医院の初代院長。生年は1827年5月3日(文政10年4月8日)。没年は明治15年7月23日。
皇漢医道復興運動 明治初期に起こった運動。漢方から発達した日本古来の医道を復興し西洋医学を排斥する活動。
岩佐純 いわさじゅん。明治時代の医学者。福井藩主の執匙侍医。医学校創立取調御用掛。医学教育制度の範をドイツにとることを力説、実現した。生年は天保7年5月1日。1836年6月14日。没年は明治45年1月5日。
相良知安 さがらともやす。幕末明治の医師。佐賀藩主鍋島閑叟の侍医。第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)校長。明治2年医学校取調御用掛。ドイツ医学の採用につとめる。生年は天保7年2月16日。没年は明治39年6月10日
荻野吟子 おぎのぎんこ。明治18年(1885年)、初めての医術開業試験に合格した女性医師。医籍に登録し、本郷に荻野医院を開業。またキリスト教婦人矯風会に参加、明治23年、牧師の志方之善と結婚し、27年北海道に渡り開業。夫の死後帰京し、41年東京でも医院を開いた。生年は1851年4月4日(嘉永4年3月3日)。没年は大正2年6月23日。
三十歳半ば 満34歳でした。
兵部省 ひょうぶしょう。明治2年、六省のひとつ。他は民部省、大蔵省、刑部省、宮内省、外務省。明治5年に陸軍省と海軍省に分離したので、ここでは兵部省ではなく陸軍省が正しいでしょう。
大学医学部綜理心得 現在の東京大学総長特任補佐に当たるのでしょうか。石黒直悳は明治14年7年6日から明治19年1年16日まで綜理心得。
石黒の私邸 牛込区揚場町だと言いますが、そうでしょうか。

1912年、地籍台帳・地籍地図

 吉岡弥生『吉岡弥生伝』(日本図書センター、1998年)は「明治12年10月、荻野さんは、ほかならぬ石黒子爵の紹介だからというので、この好寿医院に入学を許されました」。したがってこの2人があったというエピソードが起こったのは明治12年10月以前です。一方、石黒直悳『懐旧九十年』(岩波文庫、1983年)の年譜では「明治6年 29歳。1等軍医正となり、牛込へ転居」「明治13年 36歳。牛込揚場町に家を購い、ここが終生の住居となる」。終生の住居(=揚場町)を決めたのは、明治13年です。つまり、牛込区に住んでいましたが、揚場町かどうかは不明なのです。
顎骨の張った、いかつい感じの男 写真では……

石黒直悳

女子師範 正しくは「東京女子師範学校」。小学校・国民学校の女子教員を養成した旧制国公立学校。明治8年、荻野吟子氏は女子師範(現在のお茶の水女子大学)に第1期生として入学し、12年に卒業。現在、東京医科歯科大学に。
好寿院 こうじゅいん。明治12年、下谷区練塀町(現在のJR秋葉原駅の北側地域)に開設。明治16年、おそらく閉院。
高階経徳 たかしな つねのり。孝明天皇と明治天皇の侍医。「西洋医学御採用方」を著す。晩年は私塾「好寿院」を開いて医師育成に務める。生年は天保5年8月9日(1834年9月11日)。没年は明治22年3月23日。高階氏の方が石黒直悳氏よりも12歳も年寄りです。
井上頼圀 いのうえ よりくに。国学者。文部省、宮内省に出仕し、私塾神習舎で教えた。國學院,学習院教授。皇漢医道御用掛。生年は天保10年2月18日(1839年4月1日)。没年は大正3年7月4日。
宮内省御用掛 宮内省の役所の命を受けて用務をつかさどった職。元官僚や大学教授など有識者から構成された。
漢方医 もともと日本で行われていた医学を漢方医学。対して江戸時代に日本に入ってきた西洋医学を蘭方医学と呼ぶ。
皇漢医 皇漢こうかんとは日本と中国の意で、中国から伝来し日本で発達した医学、すなわち漢方医学をさす。

神楽河岸(写真)加藤嶺夫氏 昭和46年

文学と神楽坂

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)から。加藤氏は1929年(昭和4年)東京都文京区に生まれて、出版社勤務のかたわら東京を散策し、新聞紙上にルポルタージュを執筆しました。2004年に他界。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 これと昭和46年と50年の地図を比較します。なお、目にみえるゴミは別項で。

全住宅案内地図帳(新宿区版)公共施設地図 1971年

S50(1975-01-19)揚場町-筑土八幡町(地理院地図)

  1. セントラルコーポラス(地上6階)
  2. 野崎栄義商店飯田橋寮
  3. 厚和寮(厚生年金病院職員寮)
  4. 津久戸小学校? または熊谷組本社ビル工事(津久戸町、昭和49年完成)
  5. 日本製乳株式会社
  6. 升本総本店
  7. 升本 倉庫
  8. 日本製乳株式会社 事務所
  9. 升本 事務所
  10. 升本 倉庫
  11. (不明)
  12. 京英自動車
  13. 土萬商店
  14. 土萬商店

 地元の人は……

1) 厚和寮の右、切妻屋根の上に見えているのが津久戸小の外壁と屋上フェンスでしょう。
2) 黒っぽいものは津久戸小より奥にあり、私には建築中のクレーンのように見えます。
3) 校倉づくりのような横縞は確かに厚和寮の一部ですね。そこに津久戸小の屋上構造物が重なって見えているようです。
(イ)厚和寮・手前側
(ロ)厚和寮・奥側(校倉づくりのような横縞)
(ハ)切妻屋根(升本)
(ニ)川島ガラス?
(ホ)津久戸小(右側が最高部)
(ヘ)建築中の熊谷組本社

厚和寮 奥の建物

升本総本店(写真)

文学と神楽坂

 升本ますもと総本店は、江戸時代から創業の酒類問屋です。かつて揚場町にありました。昭和47年(1972年)、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で、店舗の写真を撮っています。

05-14-39-2 飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」では(ただし写真の前方にあるゴミはトリミング しています。ここに正しい写真があります)

「神楽河岸」昭和46年4月。加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

 昭和60年(1985年)、民間再開発があり、以前に揚場町だった場所は「飯田橋升本ビル」になります。やはり田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」です。

05-14-41-1 升本酒店ビル 1985-04-16

 昭和57年(1982年)、升本総本店は揚場町から津久戸町に移転します。

2009/11 津久戸町にあった升本総本店 Google

 平成24年(2012)、都道(放射第25号線)の建設のため、津久戸町から御殿坂に登る途中の、筑土八幡町5−10にまた移転します。

現在の筑土八幡町の升本総本店。Google

2020/02 現在。升本総本店だった場所

 なお、 昭和46年の升本総本店の地図と、平成22年の飯田橋升本ビルの地図を書いておきます。

昭和46年 升本総本店

2010年 飯田橋升本ビル

学校帰り、筑土八幡神社で遊ぶ。升本総本店は氏子の筆頭。新宿歴史博物館 ID7448の一部  昭和41年9月

「どんどん橋」は一般名詞? 固有名詞?

文学と神楽坂

 神楽坂に住む地元の人がこんな異議を送ってくれました。 神田川(昔の用法では江戸川)にある「どんどん橋」についてです。
 まずその内容です。
「どんどん」は2つ?
 こちらのサイトで、神田川の「どんどん」を知りました。ただ、どうにも分かりにくいところがあります。
 歌川広重団扇絵「どんどん」の記事には「船河原橋は『どんど橋』『どんどんノ橋』『船河原のどんどん』などと呼ばれていた」とあります。一方で団扇絵に描かれた「どんどん」については「牛込御門で、その向かいは神楽坂」と説明しています。
 別の記事の船河原橋と蚊屋が淵では「船河原橋は(中略)俗にドンド橋或は單にドンドンともいふ。」
 牛込橋では「この『どんどん』と呼ぶ牛込御門下の堰」と書かれています。
 同じものかと錯覚してしまうのですが、牛込御門のある牛込橋と、船河原橋は別の橋です。
 おかしいなと思って改めて地図(明治20年 東京実測図)を見たら、船河原橋のすぐ下に堰と思われるものが書かれています。

 つまり「船河原のどんどん」と、広重団扇絵の「どんどん」は別モノなんですね。
「どんどん」と呼ばれるものが2つあったのでしょうか。それとも何かの間違いでしょうか。

 まず「どんどん橋」を考えてみます。辞書を見ると「踏むとどんどんと音のする木造の太鼓橋(反り橋、全体が弓なりに造ってある橋)」。また「どんどん」は「物を続けざまに強く打ったり大きく鳴らしたりする音を表す」ことだといいます。なるほど、太鼓橋だったんだ。つまり、これは固有名詞ではなく、あくまでも一般名詞なのです。そして、船河原橋でも、牛込橋でも、一般名詞の「太鼓橋」や「どんどん橋」と呼んでもいいのです。
 赤坂の溜池では堰をつくって、やはり「赤坂のどんどん」と呼ばれていたようです。この「どんどん」は「どんどんと音のする橋」なのでしょう。

「溜池葵坂 溜池は、江戸時代初期に広島藩主浅野幸長が赤坂見附御門とともに築造した江戸城外堀を兼ねる上水源で、虎ノ門から赤坂見附まで南北に長さおよそ1,400m、幅45~190mの規模を持つダムである。写真はその南端部の堰の部分で、堅牢な石垣の間から滝のように流れ出ている水が溜池の水である。どうどうと流れ落ちる水量の多さから、その落とし口は「赤坂のどんどん」と呼ばれ、江戸の名所の一つとして錦絵にも数多く描かれている。葵坂は写真左手を緩やかに登る坂で、高い樹本のあたりが坂の頂上となる。溜池は明治10年(1877)にこの堰の石を60cmほど取り除いたところ、瞬く間に干上がってしまったという.またこの付近は大正から昭和にかけての大幅な道路改正が行われ、葵坂は削平され、溜池も埋め立てられて外堀通りとなった」マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 御府内備考(府内備考の完成は1829年)の「揚場町」には船河原橋、つまり「どんどん橋」がありました。


 右は町内東北の方御武家方脇小石川邊えの往來江戸川落口に掛有之船河原橋と相唱候譯旦里俗どん/\橋と相唱候得共

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)。

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「5000分1東京図測量原図」(複製。日本地図センター、2011年)

 解説とは違い、中景に船河原橋が見え、遠くに隆慶橋が見えています。
 町方書上(書上の完成は1825-28年)の「揚場町」も同じです。

船河原橋之義町内東北之方御武家方脇小石川辺之往來、江戸川落口掛有之、船河原橋相唱候訳、且里俗どんどん橋相唱候得共
 なお、御府内備考の牛込御門の外にある「牛込橋」では「どんどん橋」だと書いてはありません。おそらく時間が経ち「どんどん橋」から、普通の橋になったのでしょう。御府内備考の「牛込御門」は……
    牛込御門
【正保御國繪図】には牛込口と記す。【蜂須賀系譜】に阿波守忠英寛永十三年命をうけ、牛込御門石垣升形を作るとあり。此時始て建られしならん。【新見某が隨筆】に昔は牛込の御堀なくして、四番町にて長坂血槍・須田久左衛門の並の屋敷を番町方といひ、牛込方は小栗牛左衛門・間富七郎兵衛・都筑叉右衛門などの並びを牛込方といふ。其間道はゞ百間にあまりしゆへ。牛込と番町の間ことの外廣く、草茂りしと也。其後牛込市谷の御門は出来たりと云々。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。

マリサ・ディ・ルッソ、石黒敬章著「大日本全国名所一覧」(平凡社、2001年)

 上図は牛込揚場跡で、門は牛込見附門です(鹿鳴館秘蔵写真帖。明治元年)。写真を見ると橋の手前が遊水池になっています。牛込門の船溜と呼びました。
 さて、この「どんどんノ図」はどちらなのでしょうか。牛込揚場町にある茗荷屋は右岸にあり、この位置から、おそらく、牛込橋だろうと思っています。

神楽坂下から揚場町まで 1960年代

文学と神楽坂

 1960年代の外堀通りの神楽坂下交差点を見ていきます。これは以前の牛込見附交差点でした。「牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした」と地元の方。まず、昭和37年(1962年)、外堀通りに接する場所は、人は確かに来ない、でも普通の場所だったと思います。でも、ほかの1つも忘れないこと。まず写真を見ていきます。池田信氏が書いた「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社。2008年)です。

外堀通り

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」毎日新聞社。2008年。


➀ 三和計器  ➁ 三陽商会  ➂ モルナイト工業  ➃ ジャマイカコーヒー  ➄ 佳作座  ➅ 燃料 市原  ➆ 靴さくらや  ➇ 赤井  ➈ ニューパリーパチンコ  ➉ 神楽坂上に向かって  ⑪ おそらく神楽坂巡査派出所

1962年。住宅地図。店舗の幅は原本とは違っています。修正後の図です。

 綺麗ですね。さらに加藤嶺夫氏の「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)の写真を見ても、ごく当たり前な風景です。

1960年代の東京

 おそらくこれは「土辰資材置場」を指していると思います。地図では❶でしょう。

1965年。住宅地図。

 ➋はその逆から見たもの

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 このゴミはどうしてたまったの。そこで、本をひもときました。
 渡辺功一氏は『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)で

 飯田濠の再開発計画
(略)飯田橋駅前には駅前広場がないことや、糞尿やごみ処理船の臭気で困ることなど指摘されていた。このことが神楽坂の発展を阻害しているのではないか。それらの理由で飯田濠の埋め立て計画がたてられた。

 北見恭一氏は『神楽坂まちの手帖』第8号(2005年)「町名探訪」で

 かつて、江戸・東京湾から神田川に入る船便は、ここ神楽河岸まで遡上することができ、ここで荷物の揚げ下ろしを行いました。その後、物資の荷揚げは姿を消しましたが、廃棄物の積み出しは昭和40年代まで行われており、中央線の車窓から見ることができたその光景を記憶している方も多いのではないでしょうか。

 ここで「臭気」や「廃棄物」が、ごみの原因でしょうか。地元の人は「飯田壕の埋め立てと再開発は、外堀通りに面している低層の倉庫街をビル街にしたら大もうけ、という経済的理由だと思います」と説明します。「神田川が臭かったというのは、ゴミ運搬のせいではなくて、当時の都心の川の共通点つまり流れがなく、生活排水で汚れていたからです」「飯田壕って昔から周囲を倉庫や建物に囲まれていて、あまり水面に近づける場所がないんです。近づいたら神田川同様に臭ったでしょう」
「廃棄物の積み出し」では「後楽橋のたもとと、水道橋の脇にゴミ収集の拠点があって住宅街から集めてきたゴミをハシケに積み替えていました。電車から見る限り、昭和が終わるぐらいまで使っていたように記憶します」

 神田川のゴミ収集

 また、このゴミで飯田濠が一杯になっていたと考えたいところですが、それは間違いで、他には普通の堀が普通にあり、ゴミは主にこの部分(下図では右岸の真ん中)にあったといえると思います。他にもゴミはあるけど。

神楽河岸。「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

酒問屋升本|揚場町

文学と神楽坂

 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』第一章「神楽坂今昔」(17頁から)では

 神田川の船運が盛んだった時代、小石川橋から牛込橋までの土手上に、荷揚げ場が続き飯田河岸と呼ばれていた。(中略)
 濠端には船宿や旅館が並び、酒、油など問屋筋が店を構え、特に、幾棟もの酒問屋「升本」の蔵が目を引いた。(中略)
 特に酒問屋升本はその繁盛ぶりを「升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ」と明治に出版された『東京名所図会』に書かれている。
 松田幸次郎は幕末、「升本屋」を創業、千駄ケ谷大番町に店を出す。升本喜兵衛の代に揚場町に移転し酒類の販売から不動産業まで手広く事業を拡大して成功した。酒類の販売においても多くの使用人に暖簾分けをしたので 市内の酒屋には「升本」屋号を名乗るものが多い。

 初代升本ますもと喜兵衛は文政5年(1822)8月25日に生まれ、酒問屋になりました。明治維新を迎えると場所を牛込揚場町に移り、升本を創立します。喜兵衛は明治3年(1870年)、町年寄となり、のちに三大区(のちの牛込区)の役職を歴任し、明治12年(1879年)、牛込区会議員に当選。土地事業を手懸け、旧旗本地を買占め、不動産業も着手したことで巨万の富を得ました。明治40年(1907)死亡。

 二代目の升本ますもと喜兵衛は嘉永(かえい)2年1月5日生まれ。升本の養子となり、酒問屋をつぎます。中央貯蓄銀行取締役、東京府会議員などをつとめました。労働者に草鞋(わらじ)を、困窮者には金をあたえ、その額は毎月数百円にのぼったといいます。大正3年12月22日死去。66歳。江戸出身。旧姓は松本。

升本喜兵衛。酒造りの様子

 明治45年、喜兵衛氏は牛込神楽坂で37筆という多くの土地を所有していました。ただし、神楽坂よりは若宮町、揚場町のほうが多くの土地をもっています。神楽坂1丁目が多いようです。

 1984年、揚場町に巨大な土地を持っていました。

1984年、住宅地図

 さらに四代目の喜兵衛は明治30年1月1日生まれ。弁護士。母校中央大の教授となり、昭和36年学長。のち総長、理事長をつとめます。43年学園紛争で退任。酒問屋升本総本店社長。弟に民社党委員長佐々木良作。昭和55年11月28日死去。83歳。

 飯田濠の再開発は昭和47年に登場します。四代目喜兵衛の三男は、升本達夫氏でした。当時は国の都市局長で、再開発の本締めでした。利権もからみ、あれこれの末、昭和59年、遊歩公園ができました。

升本総本店

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。再開発前の飯田堀。