平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。9、10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。正しくは以下に掲載しました。
スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では
この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。
平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。9、10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。正しくは以下に掲載しました。
スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では
この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。
秋田雨雀氏と仲木貞一氏の『恋の哀史 須磨子の一生』(日本評論社、大正8年)という本に坂本紅蓮洞氏が松井須磨子氏に対する追悼文を書いています。この文章を読むと紅蓮洞氏って普通で正常な人にしか見えません。
並び大名
坂本紅蓮洞
松井須磨子の死は、なみなみならぬ死である。それだけ、人をして感動せしめたことも大である。然し、この感動といふもの、餘りに、よくその人を知り、餘りに近く、その人に接して居たものには、その當時にあつては、唯、あつけに取らるゝばかり、所謂、茫然自失、何も、それに對して、いふことが出来ない。私は、今、この境遇に居る。何も書けない。もう、少しく時日でも經過したら、或は、感想なり、何なりか、いへもし、また、書けるかも知れない。今の處、何も出来ない。須磨子が女優であつただけ、芝居のことを、例に引くが、この書に對しては、多勢の人が、それぞれ感想を書くさうで、私も、それ等の人の中に交て働く役を振られた以上、せめてのことに、申上ます位の格のところを勤めて、一言や二言の科白をいひたいのではあるが、今もいつた通りのことで、トチるはおろかなこと、何うかすると舞臺をも破壊し兼ない。そこは、遠慮し、並大名の一員として、默つて舞臺の上に、顏を連ぬる底の役を勤める。新劇の方では、かういふ役のことを、タチンボウといふ。よく人は、芝居のことを綜合藝術であるといふが、假令、並大名にせよ、タチンボウにせよ、やはり、この書に於て、その一箇分子たるところの役を勸むるのである。自ら新劇彌次將軍を以て任じ、他から女優應援隊長官を以て目せらるゝ英雄の私といへど、この場合心緒紊れて糸の如しどころか、茫然自失せる上からは、かういふ舞臺はこれより以上の役は勸まらない。並大名のタチンボウたる端役を甘じ、且、それが綜合の一箇分子たるを喜び、こゝに、自ら、その名を署するの光榮を擔ふのである。 |
並び大名 歌舞伎で、大名の扮装をして、ただ並んでいるだけの役や、扮した俳優。人数に加わっているだけで、あまり重要ではない人。
なみなみならぬ。非常に。
茫然自失 ぼうぜんじしつ。あっけにとられ、また、あきれはて、我を忘れてしまうこと。
時日 じじつ。日数。月日。あるいは、日数と時間。
格 物事の仕方。流儀。決まり。規則。法則。
科白 演劇の舞台で俳優がいう言葉。
トチる 俳優が台詞や演技をまちがえる。とちめんぼうの「とち」を活用させたもの
底 てい。種類。程度。中国で近世の口語に用いられた「…の」の意の助辞から出た語。現代中国語では「的」に相当する。
新劇 日本で明治以降に展開した新しい演劇ジャンル。以前の能・狂言、歌舞伎などの伝統演劇の「旧劇」に対する呼称。近代・現代演劇運動とほぼ同義に用いられる。
タチンボウ 長い時間ずっと立ちつづけている人。
心緒 しんしょ。思いのはし。心の動き。しんちょ。
紊る みだる。乱る。秩序を乱す。整っていた物をばらばらにする。
川村花菱氏の「松井須磨子ー芸術座盛衰記」(青蛙房、平成18年刊)は『随筆松井須磨子』(昭和43年刊)の新装版です。これは川村花菱氏が島村抱月氏と松井須磨子氏らと一緒になって芸術倶楽部で夜食を取る場面です。ここでも鶏料理店の川鉄が出ています。
川村花菱氏は芸術座の脚本部員兼興行主事として活躍した人で、のちに新派の脚本、演出を担当し、若い俳優の育成に力を注ぎました。
松井氏の発言、続いて島村氏の発言と思います。
「あら、皆さん、まだごはん前、私ァとっくに食べちゃったけど……」 「なにか、あったかいものはないかな」 「川村さん、あんたが好きなのよ、ねえ、そら、あの、親子……あれなら私もたべたいわ! あれ、どこの親子? 私、あんたが食べてるところ見て、一度たべたいなァと思ってたのよ! あれ、どこから取るの?」 それは、近所の鳥屋の“川鉄”という家のもので、ほかの親子丼とちがった、まったく独特の味を持っているものだった。 「川鉄の親子ですよ」 「川鉄? じゃ、言うわ……先生あがる?」 「たべます] 「と、一ツ、ニツ、三ツ……私もたべるから四ツね……四ツ言うわ」 須磨子は、袂をふらふらさせて駈けて行った。 それ以来、私が芸術座へ行く毎に、必ずこの川鉄の親子が出た。おそらく芸術座で、行くたびに食事の出るのは、私ひとりだったと思う。いや、私のほかにもうひとりの客があった。それは、阪本紅蓮洞という人で、紅蓮洞は島村先生に対して、 「おい、島村……」 と、呼びつけにした。 「ぐれさんが来た、親子を御馳走しなさい」 先生は快くいつもそう言われた。島村先生に対して、「おい、島村」と呼びすてにするのは、紅蓮洞だけだと言ったが、芸術座の中に、 「おい、島村……」 と言った者がもうひとりある。それは、倶楽部に厄介になっていた役者だが、なにかのことで須磨子と争い、そのさばきが不当であるのに激昂して、先生の室に飛び込んで、 「おい、島村……」 と言っただけで、その場で首になってしまった。 |
坂本紅蓮洞氏の生まれた年は慶応2年9月で、島村抱月氏は明治4年1月10日です。西暦では1866年対1871年なので、坂本氏のほうが4歳半ほど年長です。坂本紅蓮洞氏はもともと数学者で、「数学の天才」と呼ばれていましたが、教師はうまくいかず、雑誌記者、その後、与謝野鉄幹が主催する新詩社に入り、文学者と交流。これで奇癖の逸話も多く、文壇の名物男として有名でした。新詩社は詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月11日創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。
標柱を朝日坂を上に向かって(地図では南西方向ですが)行くと、飯塚酒場、さらに内野医院がそのあとにあり、さらに「ビニール工業所」とアパートを越えると、坂はほとんど終わっている場所ですが、この奥に芸術倶楽部があります。
平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。正しくは、9-10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。以下に述べました。
スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)
これは旧史跡です。
場所はどこ?
では芸術倶楽部はどこにあったのでしょうか。ところが➀ 住所、➁ 方角についてまちまちです。
住所は
▼「横寺町9番地」と書くもの
❍佐渡谷重信氏『抱月島村滝太郎論』明治書院 昭和55年
❍新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
❍新宿区横寺町校友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年)
▼「横寺町8・9・10番地」と書くもの
❍高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』)
▼「横寺町9・10番地」と書くもの
❍昭和53年、新宿区文化財
▼「横寺町9・10・11番地」と書くもの
❍平成3年、新宿区指定史跡
❍籠谷典子『東京10000歩ウォーキング』真珠書院、平成18年
などがあがります。
最古の「火災保険特殊地図」(都市製図社、昭和12年)では大正8年(1919年)に芸術倶楽部は改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図で、この図も「小林 9」、つまり小林アパートで9番地だと書いています。
高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』は「芸術倶楽部の建坪は二階建て百八十余坪ある」と当時の「演劇画報」から引用しています。
8、9、10、11番地の広さは198、199、178、180坪です。また東京区分職業土地便覧. 牛込区之部(大正4年)では、8番地の所有者は飯塚八重氏、9、10番地は株式会社東銀行、11番地は安田銀行でした。これから住所は横寺町9番地1筆か、あるいは9、10番地を合わせて2筆なのでしょう。「一般論では、199坪の土地に180坪を建てるのは困難で 、9、10番地にまたがっていた」と地元の人。そうなんでしょうね。芸術倶楽部や、そこに住んだ島村抱月・松井須磨子は当時の資料で「横寺町9」と書かれていますが、土地をまたいだ建物は一方の番地で呼ぶのが普通なので、その点では納得できます(下図)。
ただし、新宿区のように、途中から11番地が加わり(昭和53年から平成3年)、公式文書になってしまうのは、あーあ……と思っています。
つまり、芸術倶楽部は9、10番地の2筆を株式会社東銀行から買って、土地登録は(9、10番地を合わせて)9番地という1筆だけで、8番地と11番地は無関係だったと思います。
次は芸術倶楽部の方角、つまり向きです。芸術倶楽部の向きは朝日坂の向きと平行(A)か直角(B)です。松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)200頁では長手方向が朝日坂に並行(A)としています。他はすべて長手方向は朝日坂から奥に向かって(B)伸びています。入り口は(B)の黒い四角以外はないでしょう。同様に『日本新劇史』以外の資料はかすべて、朝日坂から一歩奥に入ったところに建物があると記述しています。さらに高橋春人氏は当時の「演劇画報」に「将来、建物前の空地に増築、そこでバーを開く予定」と書いてあります。
昭和12年の地図の番地は、大正元年に比べて入り組んでいます。これは10番地(かその一部)がまず9番地(芸術倶楽部)になり、橙色は芸術倶楽部の想像図で約180坪(上図)、さらに分かれたり、一緒になったりした結果が現在の図(下図)になりました。
以上をまとめると、芸術倶楽部は横寺町9+10の一部を東銀行から買って、全体を横寺町9として登録した。横寺町9も10も1部分は別の人の資産として残っている。例えば、横寺町9の1部は加藤商店として残ったはず。建物は(B)しかありえない。
坪内祐三氏の「極私的東京名所案内増補版」にはこんな一文が載っています。
古書展に行くと時おり、戦前に刊行された『世界演劇史』全六巻(平凡社)や『歌舞伎細見』(一九二六年・第一書房)といった本を目にすることがある。実は飯塚酒場は、それらの本の著者飯塚友一郎の生家だった。飯塚にはまた、斎藤昌三の書物展望社から出した『腰越帖』(昭和十二年)という随筆集があって、そこに収められた「松井須磨子の臨終」という一文で彼は、こういう秘話を披露している。先にも書いたように飯塚の生家は芸術倶楽部に隣接していた。それは飯塚が東京帝大法学部に通っていたころ、松井須磨子が首つり自殺をした大正八年一月五日の未明のことだった。
私は夢うつゝのうちに隣りでガターンといふ物音を聞いた。何時頃だつたか、とにかく夜明け前だつたが、別段気にも止めず、又、ぐつすり寝込んで、少し寝坊して九時頃起きると、隣りの様子が何となくざわめいてゐる。そのうちに須磨子が自殺したといふ報が、どこからともなく舞込んでくる。
「物置で椅子卓子を踏台にして首を縊つたのだとさ。」と家人に聞かされて、私は明け方のあのガターンといふ物音をはつきりと、それと結びつけて思ひ出した」 自殺を決意した須磨子は三通の遺書を認めた。その内一通は坪内逍遥宛のものだった。須磨子の兄が牛込余丁町の坪内家へ持参すると、逍遙夫妻は熱海の別宅双柿舎に出掛けて不在で、代わりに養女のくに(鹿島清兵衛の二女)がその遺書を受け取った。のちに彼女は、不思議な運命のめぐり合わせで、飯塚友一郎の妻となる(この文章が『彷書月刊』に載った直後、何と飯塚くに――九十五歳――の回想集が中央公論社から刊行され、それを私が『週刊朝日』で書評したことが縁となって文庫化の際には解説を書かせていただいた)。
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また今和次郎氏の『新版 大東京案内』(ちくま学芸文庫、元は昭和四年の刊)では
書き落してならないのは、神楽坂本通りからすこし離れこそすれ、こゝも昔ながらの山手風のさみしい横町の横寺町、第一銀行(現在のキムラヤ)について曲るとやがて東京でも安値で品質のよろしい公衆食堂。それから縄暖簾で隠れもない飯塚、その他にもう一軒。プロレタリアの華客が、夜昼ともにこの横町へ足を入れるのだ。独身の下級俸給生活者、労働者、貧しい学生の連中にとって、十銭の朝食、十五銭の昼夕食は忘れ得ないもの。この横町には松井須磨子で有名な芸術座の跡、その芸術クラブの建物は大正博覧会の演芸館を移したもので、沢正なども須磨子と「闇の力」を演じて識者を唸らせたことも一昔半。その小屋で島村抱月が死するとすぐ須磨子が縊死したことも一場の夢。今はいかゞはしい暗の女などが室借りをするといふアパートになった。変れば変る世の中。 |
長田秀雄氏が昭和元年の『文芸春秋』に書いた「松井須磨子の事」です。長田秀雄氏は長田幹雄氏の兄に当たります。
松井須磨子の事
松井須磨子が死んでから、もう、足掛け、七年になる。彼女が亡くなつてから、日本の劇壇には、女優らしい女優はゐないと、かう云ひ切ってもいいと私は今でも思つてゐる。 いや、女優ばかりではない。あらゆる種類の女の中で、今の時勢にあの位純眞な女は恐らく少ないであらう。 |
足掛け あしかけ。始めと終わりの端数を一として計算する。例えば、ある年の12月から翌々年の1月までは「足掛け三年」
山国 山の多い国や地方。松井須磨子がいた長野も山国
鳥渡 「一寸」か「鳥渡」と書いて、「ちょっと」と読みます。すこし
芸術座 1913年、島村抱月、松井須磨子を中心として結成。1919年解散。
浅間しい 浅ましい。見苦しく情けない。嘆かわしい。
電話に出てきたのは、當時、藝術座に籍を置いてゐた米國歸りの畠中蓼坡君であつた。 「けさの電報はどう云ふんです。」と私はせき込んで訊ねた。すると畠中君の聲はハッキリと 「死んだんです。」と答へた。私は、まだ半信半疑であつた。 「本統ですか。」 「えゝ。」 「どうして死んだんです。自殺ですか。」 「えゝ、首を釣つたんです。」と畠中君は少し吃り氣味に答へた。元来畠中君はタチツテ卜がうまく出ないので、釣る……などと云ふ言葉はいつも吃り氣味であった。私は驚いた中にも畠中君の言葉の調子が馬鹿に可笑しかつたのでつい笑つた。 「とに角、すぐ來て下さい。まだ、誰も來てゐませんから。」とい畠中君はかう云つて、電話を切つた。 私が俥で驅けつけたときには、丁度、松竹の大谷君が玄關に來てゐた。 「やあ、」 「やあ、どうも飛んだ事でした。」とかう云ふ大谷君の言葉を聞流して、私は彼女の居間になつてゐた藝術倶樂部の二階の安つぽい西洋間へ行つた。 三ケ月前に島村氏が死んで横たわつてゐた場所に粗末な蒲團を敷いて、須磨子が寢せてあつた。顔は生きてゐた時のとほりであつた。心持、鉛色に欝血してゐるかと思はれるが、薄く化粧してゐるのでよく分らなかつた。輕く眼をつぶつてゐる容子が、どうしても死んだとは思へなかつた。 |
畠中蓼坡 はたなかりょう。演出家、俳優、映画監督。生年は1877年5月21日、没年は1959年3月1日。27歳に渡米。アルピニー俳優学校に入学。42歳、1919年(大正8年)に帰国し劇団「芸術座」に入団、同年1月5日の松井須磨子により劇団は解散。
大谷 大谷竹次郎。兄・白井松次郎とともに松竹会社を創業しました。
西洋間 芸術倶楽部2階の抱月の書斎に「ベッド」があります。ここでしょうか。
欝血 うっけつ。 血液の流れが悪く、体の一部に血液が溜まってしまった状態
雜司ケ谷の墓地で島村氏の葬式を行つたとき、すぐその場から明治座の中幕へ出かけなければならないのに、墓地の茶屋に泣倒れて子供のやうに駄々をこねた彼女の姿が、死顔をみてゐると、思出された。 「死ぬなんて、別に何んでもない事よ。」と、今にも眼を見開いて云ひさうな氣がした。 遺書は坪内博士と伊原青々園氏と實兄米山氏に宛てゝ三通書いてあつた。 弔客の應待など萬端の手傳をしてくたくたに疲れて家へ歸つたのは、その夜の十二時過ぎだつた。私は丁度、西片町の崖の上に住んでゐた家へ歸つてすぐ床に入ると、何所からともなく須磨子のカチユシヤの唄が綿々としてきこえてきた。 私は厭な心持がした。丁度崖下の二階で、蓄音機をかけてゐるのだと云ふ事が分つた。今日の夕刊で須磨子の自殺を知つたので、かけてゐのだなと私は思つた……が、やはり何だか厭な心持だつた。 「須磨子がいきてゐたら……」と私は時々考へる事がある。だが、然し、「あの時死んだので好かつたのだ」と、云ふやうな氣がいつもするのである。 もし生きてゐたら、どうなつてゐるだらう。やはり澤田正二郎君と一座でもしてゐるかも知れない。澤田君と一座でもしてゐれば、新劇は、もつと面白くなつてゐたかも知れない。然し、あの性格では、やはり澤田君と一座して長く結束して行く事は出來ない。きつと、今頃は、松井須磨子とその一黨と云ふやうな事にでもなつてゐるであらう。 |
伊原青々園 いはらせいせいえん。劇評家・小説家。生年は1870年5月24日(明治3年4月24日)。没年は1941年(昭和16年)7月26日。島根の生まれ。青々園の名で劇評を書き、坪内逍遥と親しくなりました。「日本演劇史」「近世日本演劇史」「明治演劇史」の三部作を完成。
カチューシャの唄 作詞は島村抱月と相馬御風、作曲は中山晋平。『復活』の劇中歌で、松井須磨子が歌唱。1番は「カチューシャかわいや わかれのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と 神に願いを(ララ)かけましょうか」
綿々 途絶えることなく続く
一党 いっとう。仲間。一味
黒柳徹子氏の『トットチャンネル』(1984年)です。松井須磨子さんのことが書いてあります。
青山先生の授業は、実際の演技指導より、昔の新劇の話や、俳優の、心がまえ、などが多かった。先生は、トットたち若い人と話すのも、楽しくて好きだ、と、よく自由に会話をした。 そんな、ある日、卜ッ卜は、前から知りたいと思ってたことを聞いた。 「松井須磨子って、どういう人でしたか?」 山田五十鈴が、松井須磨子になった「女優」という映画も見ていたし、日本最初の 近代劇をやった女優として、卜ッ卜は、興味を持っていた。日本で最初にイプセンの「人形の家」のノラをやり、トルストイの「復活」のカチューシャをやり、しかも恋人の島村抱月のあとを追って首をつって死んだ人。その人と一緒に芝居をした人が、ここにいる! そんな人と話をすることがあるだろうなどと、夢にも考えたことはなかったから、トットは、ワクワクしながら、聞いたのだった。青山先生は、いつも、とても物静かだった。しゃべるとき、いつも真直ぐに首をのばし、ゆっくりとした、口調だった。トットの質問に、青山先生は、少し微笑すると、いった。 |
一応、さらに伝記を読むと
1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を。映画芸術協会に参加。1924年(大正13)、築地小劇場の創立とともに参加。その後、昭和5~15年松竹少女歌劇団、昭和17~28年NHK放送劇団の指導に。この間、昭和19年俳優座同人、昭和24年俳優座養成所所長に。新劇、映画、放送劇、オペラなどの演出に幅広く活躍しました。 |
あれ、どこにも松井須磨子の名前はでてきません。
氏の生涯を描いた本『青山杉作』(昭和57年)があります。500冊の限定出版です。読んでみましたが、やはり松井須磨子氏はほとんどでません。
ただし、2人は1か所、同じ場所に行ったことはあります。それはここ芸術倶楽部でした。ここで踏路社が旗揚げしたと書いてあります。
この芸術倶楽部は島村抱月氏がつくったものです。大正2年に島村抱月氏が芸術座を作り、大正4年に研究所兼劇場の芸術倶楽部を誕生させたのです。
大正6年に、青山杉作氏は27歳、松井須磨子氏は31歳でした。
松井須磨子氏とよく似たところを歩いていますが、完全に違う場所などです。この2人はやっていることは同じ芝居ですが、台本も違うし、師匠も違う。友人も違う。松井須磨子氏にとっては、年齢が4年も下の青山杉作氏については、おそらく紹介があれば名前はわかっていても、あとはなにも知らないのではなかったでしょうか。「一緒に芝居をした人が、ここにいる」といえなかったと思います。
「あなたが、あの時代に女優になってたら、もっと有名になってたかも知れませんよ。つまり、それまで、男の役者が女形として、やってた中に、女が入っていって、しかも西洋の芝居をやったんですから、新らしい、というか、変ってるというか、そういうことで、もてはやされたのであって、あなたのように、個性的じゃありませんでした。ふつうの人でしたよ」 ……トットは、びっくりした。はじめは、卜ッ卜の元気がいい事を、皮肉って、先生がいったのか、と思ったくらいだった。でも先生の表情も話しかたも、そういう風には見えなかった。でも、映画の主人公になるような情熱的で、美しく、常人とは違う人、と思っていたそれか、ふつうの人だったなんて……。 「そう、本当に、ふつうの人でした」 青山先生は、くり返した。それは、まるで、女優としては、すぐれてはいない、とでもいうように聞こえた。たしかに、ドットかその前にラジオで聞いた松井須磨子のカチューシャのセリフや、「羊さん/\」とかいう歌を思い出してみると、当時の録音技術のせいもあるかもしれないけど、女優らしいメリハリはなく、歌の音程も悪く、素人のようだった。でもやっぱり、誰もやっていないことを始めたのだから、偉い人だ、と、ドットは考えた。 |
舞台に於いては飽くまでも華やかに、旅宿にあっては益々放縦に、そうして散歩などの時には何処までも自由な気分で、旅に於ける須磨子の生活は、実に/\我儘の仕通しであった。今では最う抱月氏の心をも支配し得た彼女は、其の徹を以て多くの座員も、自分の意の儘だと思うようになった。 |
いったい須磨子という人間は、のちに諸家が言うように野性的な自我性狂暴性を発抑するようになったのは、「故郷」(マグダ)の初演あたりからである。わたくしどもが「まアちゃん」の愛称で呼んでいたころは、飾りけのない、さっぱりとした丸顔で、バッチリとした眼の示しているとおりの女性であった。打ち前の勝気と捨て身の態度とを、舞台にも楽屋でもさらけ出すようにだったのはそれ以後のことで、抱月に狎れ、甘え、わがままを張り通させたから、傲慢な女王気取りにもなったのであった。 |
ではなぜ青山杉作は松井須磨子を「ふつうの人」と呼んだのでしょうか。結局女優ではなく、一つの女性としてみると「ふつうの人」になるのでしょう。傲慢、横柄、威圧といった性徴を全部剥ぎ取ってみると「ふつうの人」だけが残る。松井須磨子ではなく、本名の小林正子が残る。青山杉作氏にとっては女優の松井須磨子氏は美人でもなく、知的でもなく、いい点はつけられなかった。純粋で、無邪気で、ふつうの人で、いわゆる女優ではなかったのでしょう。
しかし、開始日でも最終日でも全く同じ芝居を全く同じように見せるのは普通はできません。本当に「誰もやっていないことを始めたのだから、偉い人だ」と私も考えます。
長田幹彦氏(1887/3/1-1964/5/6)は小説家で、長田秀雄の弟にあたります。早稲田大学英文科卒業。炭鉱夫や鉄道工夫、旅役者になり、各所を放浪。小説「澪」「零落」で流行作家に。「祇園小唄」などの歌謡曲の作詞者としても有名でした。この『青春時代』は昔を思い出して昭和27(1952)年に書いたものです。そこに女優の「須磨子の思い出」という1章がありました。
僕は今でもときどき、いつたい松井須磨子という女優は、ほんとのところどんな女だつたんだろうと、ひとりで首をひねることがある。今までに僕が逢った幾千幾百の女人のあるなかでとにもかくにも、どうしても忘れることの出来ないひとりであるというだけでも彼女が何かしらそれに価する何ものかをもつていたことは確実である。 たしかにただの平凡な女じやなかつた。いかに事情がどうあろうと、あれだけの名声を博した人気女優が首をつツて死ぬなんていうことが、仇やおろそかに出来るものじやない。これは同じような死にかたをしたあの声楽家の関屋敏子と同様、大正昭和の芸術史に特筆大書さるべき存在であつたことは、私といえども是認しないわけにはいかない。 人は須磨子を語る際に、必ず磨かれたる野性というようないいかたをする。野性ということは、とりもなおさず新鮮な田舎ものということである。これもたしかに一面のみかたには相違ないが、僕は決して磨かれたとは思わない。そんな妥協性のある女ではなかつた。彼女は初めて舞台をふんでから死ぬ日まで、生地のままの野性一本で通してきたのだ。舞台以外の生活では、それがむき出しに出ていた。およそ「女優」なんていう範ちゆうから遠くはなれた、洗練されない、素材のままの田舎ツペであつた。むしろその点に、敬意と魅力とを感じている。 |
松井須磨子 まついすまこ。1886(明治19)年3月8日-1919(大正8)年1月5日。新劇女優。
首をつる 松井須磨子氏の死亡は満33歳、死因は縊死です。河竹繁俊氏の「逍遙、抱月、須磨子の悲劇」では
須磨子は明治座の舞台を、初日だけ大谷の好意で預かってくれたので休み、葬儀の日の二日めからは舞台をつとめ、観客の同情をひいた。でも、ともすれば舞台で泣いてしまうので、(二世)猿之助が「舞台ですよ」と一度たしなめたら、とめどもなく泣かなくなったとは、猿之助の直話である。 当然ながら、芸術座は動揺した。須磨子自身の不安動揺はさらに大きかった。野性ぶりも影をひそめて、あるしおらしささえ、人々の目についた。が、松竹との提携という条件のためには、東京を打ち上げると、翌月は横浜伊勢崎町の横浜座と横須賀の横須賀座とで「生ける屍]と「帽子ピン」とを、翌年は一月一日から東京の有楽座で、中村吉蔵作の「肉店」とメリメ原作・川村花菱脚色の「カルメン」とを開演しなければならなかった。が、その月の五日の明け方須磨子は芸術クラブの舞台裏の小道具部屋で、縊死して抱月のあとを追ったのであった。 |
仇やおろそか 徒や疎か。あだおろそか。他人の恩恵や物の価値を軽視するさま。いいかげん。
関屋敏子 せきやとしこ。生年1904年3月12日。享年1941年11月23日。声楽家、作曲家。自宅で睡眠薬により自殺した。
妥協性 対立した事柄について、双方が譲り合って一致点を見いだし、おだやかに解決すること
大正初期の夜11時、長田幹彦氏は京都の三島亭で松井須磨子氏と島村抱月氏を待っていました。1座の公演が終わって、やがて2人がやってきて、舞妓も加えて宴会が始まります。
そこへ例の大久保さんが、私の声がするといつて、先隣りの座敷から盃を持つて遊びにやつて来た。大久保さんは酔うと裸踊りをやる癖があつた。真白な餅肌なので、それが自慢であつた。(略) 須磨子は大胆に大久保さんの裸体を検討しなから、 『ねえ、長田さん、私、あんなきれいな肌をした男の人、はじめて見たわ。さぞ芸妓さんにもてるでしようね。あんなことをして恥ずかしくないのかしら』 と、まんじりともせずに一物ばかり見入つている。女は二十四五になっても、あんな眼で男の体をみることはなかなか出来るもんじやなかつた。 『いや、大久保君という男は、有名な色事師でね。あすこに坐っている松菊つていう年増芸者がいるでしよう。あれとそうなんだよ。いつもこの手で女を参らせるのさ。』 と、耳打ちをすると、須磨子は島村先生の方をみながら、 『そこへいくと先生なんか、とても貧弱ね。ごつごつしてるわ。干ものみたい。ほゝゝゝ』 と、変に含み笑いをする。 僕はまえからそう感じていたが、須磨子はその点ではいつも島村先生に不満を感じていたらしいのである。島村先生はああいつた寡默な、どつちかというと陰性な、内省的な人柄であつたが、しかしそれだけに発揚性でない情熱はずいぶん激しかつた。教授生活から開放されて、いうところの芝居ものになられたのだから、一時は失礼ながらかなり脱線もしていられた。 酒数行に及ぶと、丁度春に眼覚めた中学生のような稚拙な態度で、われわれバツトボーイどものワイ談に口を入れられる。それが変にいじらしい感じだつた。私たちは人間が古風にできあがつているから、早稲田の講堂であの七むずかしい美学の講義を聴聞した先生に、いかに何んでも娼妓をとりもつなどという悪ふざけはいたしかねた。 |
先隣り さきどなり。隣のもう一つ先。
長田 長田幹彦のこと。この文章の作者
島村 島村抱月。しまむらほうげつ。生年1871年2月28日(明治4年1月10日)。没年1918年(大正7年)11月5日。文芸評論家、演出家、劇作家、小説家、詩人。新劇運動の先駆けの一人。
発揚 はつよう。精神や気分を高めること
芝居もの しばいもの。芝居者。役者。俳優。劇場で働く人。劇場関係者。
稚拙 ちせつ。幼稚で未熟なこと
やがて午前2時を回り、このまま、みんなで雑魚寝をしようと話がまとまります。
須磨子は何と思つたか寝たまま、ついと手をのばして、そこの盆のうえへのせてあった林檎を鷲づかみにすると、皮もむかずにがじがじかじりだした。みるみるうちに芯ものこさずきれいに平げてしまう。 舞妓や芸妓は眼をまるくしてみていたが、ひとりが、 『林檎おあがりやすのやつたら、むいてもろうてきまほか』 と、いうと、須磨子は、不機嫌な調子で、そつぽを向いたまんま、 『私、歯が丈夫だから、皮ごとたべないと食べた気がしないのよ。長田さんのバカ。長田さんなんてダメよ。こんな窮屈な遊びをして、お金ばかりつかつて、何が面白いんだろう。大久保さん、私、好きよ。よつぽどあの方が自然でいいわ。ねえ、先生、誰が何んてつたつて、いいじやないの。さ、こつちを向いてよ』 と、舞台のカルメンそつくりのわが儘いつぱいな声でずけずけいう。声の調子まできつくなつてくる。 舞妓たちはすつかりおびえて、僕のそばへ寄つてきながら、 『長田はんのバカやいうてはりますえ。きついこといわはるえな。あんな女優はんてあるやろか』 と、ひそひそささやきあつている。 『そうかてな、あて、こないだ大吉はんでしらしてもろた。その時には、須磨子はん男はんみたいに、あてを廊下でぎゆうツと抱きしめはつた。口臭いの。うち、あんなんいややわ』 『ほゝゝゝゝ。いやらしやの。先生とーしよに寝たりしてからに。行儀わるいな』 もうさんざんである。(中略) 須磨子はしまいにはあぐらをかいて、 『ねえ、長田さん。今夜あたし、京都の舞妓と二人つきりで雑魚寝したいんだけど、いくらお金がかかるでしよ。十円じや、だめかしら』 『いや、そういう風趣は、松井君にやわからんよ。ムダだからよしたまえ』 『ううん、分るわ。わかつてよ。ぜひそうさせて。舞妓を買うのよ。女だつて買えるでしよ』 『そりや君が寝たいといえば、どんないい舞妓だつて、寝てくれるよ。いまの君の人気だもの』 『そうかしら。ただで』 『金のことをいうなよ。ただし夜の十一時から先の問題は島村先生のお許しか出ないとうつかりしたことは出来ないからね。はゝゝゝゝ』 島村先生もだいぶきこしめしたので、眼がうるんでいて、例のうすい鬚でふふと笑いながら、 『そりや松井君、長田君に頼んでおけば、上手にアレンジしてくれるさ。電話ひとりで解決がつくですよ』 須磨子は、ヤマのはいつた雪輪か何かの帯の間から、縞の三つ折の紙幣入を出してみせながら、 『お金ならあるわよ』と、いこじになってまたビールを飮む。 あんなにやたらと酢味噌をたべて、ビールを呷つちやきつとあとで気持が悪くなるだろうと思つてみていると、果たして船が下りにかかると、ゲコゲコやり出した。 島村先生は心配して、 『どうだね。大丈夫かね』 先生はやさしく介抱してやる。須磨子はまるで駄々ツ子のように酢味噌のはさまつた齒でイイツをして、 『あたし、先生きらいツ。ゲツ。醉ってなんかいやしないわよ。そんなにしつツこくしなくたりて行儀よくしてよ。ゲツ。長田さん、先生つたらね、とても行儀のことうるさくいうのよ。だって仕方がないじやないの。ゲツ。あたしやどうせ信州の田舎で育つたんだもの』 『そうだ。巴御前と戸籍が同じなんだからなあ』 僕がひやかすと、とたんに、我慢が出来なくなつて、須磨子は肩をくツつけていた僕の膝へげろげろツと勢よくもどした。 |
大吉 料亭の1つ
雪輪 ゆきわ。文様の名前。六角形の雪の結晶を円形に表したもの
縞 しま。縞模様。何本もの線で構成された文様の総称
呷る あおる。酒や毒などを一気に飲む。仰向いてぐいぐいと飲む
巴御前 平安時代末期、信濃国(別名信州)の女性の武将で、信州で育ったという。須磨子も信州で育っている。
結論はこうなります。
僕のみる限り須磨子という女優は、性格、容貌、肉体、教養、その他あらゆる角度からみて、正直のところ六点二分以上はやれない女だった。もとより生活態度にしたつて映画に出てくるような尤もらしい意義づけは噴飯の至りだし、島村先生とのいきさつだつて、断然あんな「文学」めいたもんじやなかった。 ところがひと度舞台に立つとグラフはピンとはねあがつてくる。舞台一面に彼女ならではかもし得ぬ雰囲気がほうはくとしてきて、実に惚れぼれするような女になる。役柄の発散する情熱の霧があいたいとして観客を魅了してしまう。したがって下積になつた相手役の努力や、彼女を育成した人たちの苦労は大変なものであつた。まさに一将功成つて万骨枯るである。 |
噴飯 がまんできずに笑ってしまうこと。もの笑いのたねになるような、みっともない事柄
ほうはく 磅礴、旁礴、旁魄。混じり合って一つになること
あいたい 靉靆。雲や霞などがたなびいているさま
一将功成つて万骨枯る いっしょうこうなってばんこつかる。曹松の詩『己亥の歳』に由来。一人の将軍が名を上げた影には、無名のまま犠牲となった一万人の兵士が骨と化して戦場にさらされているという意味から。
島村抱月について書こうと思います。抱月は明治4(1871)年1月10月、誕生し、明治24(1891)年10月、東京専門学校文学科(現在の早稲田大学)に入学し、明治27(1894)年7月卒業。明治28(1895)市子と結婚(数えで抱月は25歳、市子は21歳でした)。
明治31(1898)年、26歳の時に読売新聞や早稲田中学などで働いています。
明治35(1902)年3月8日、32歳で、英国に出発し、5月7日、ロンドン着、オックスフォードに行き、明治37(1904)年、ドイツに渡り、明治38(1905)年9月12日、3年半で帰国しました。10月、35歳で早稲田大学英文科講師になります。
明治39(1906)年1月「早稲田文学」再刊。「囚はれたる文芸」などの評論を書いています。3月島崎藤村が「破戒」を刊行します。
明治40(1907)年、37歳になり、英文学科教務主任になります。現在の教授です。
抱月の論評は英文科のいくつかの分野を対象にしています。
しかしここでは抱月が重要だと思ったものを見ていきます。最初は美学です。美学は哲学の1分野で、美しいものを研究する……だけではありません。
(明治40年『早稲田文学』)
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『早稲田文学』の論評は主幹自ら(つまり抱月が)行っているものもあります。たとえば、書評では……
◇書評
『破戒』はたしかに我が文壇に於ける近来の新発現である。予は此の作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪えぬ。欧羅巴に於ける近世自然派の問題的作品に傅はった生命は、此の作に依て始めて我が創作界に対等の発現を得たといってよい。十九世紀末式ヴヱルトシュメルツの香ひも出てゐる。 (明治40年『早稲田文学』)
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また自然主義の文学については、陣頭にたって、かつ理論的に行いました。
◇自然主義
今の文壇と新自然主義 技巧無用論は、言ふまでもなく一の自然主義である。自然を忠実に写さんがため、技巧を人為不自然として斥ける。此の点からいへば自然主義の対照は技巧主義である。但し吾人は更に他に1つの対照を有する、それは情緒主義である。 (明治49年『早稲田文学』)
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演劇の評論も盛んに行っています。
◇演劇
演芸雑談 目下欧州の文芸全体の範囲で尤も活動して居るのは演劇であらうと思ふ。… が要するに国民音楽の尤も特色あつて且つ尤も近代的であるのは独逸である。 (明治39年『新小説』)
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抱月が文学者として一番熱心に行ったものは美学や自然主義ではなく、もちろん、抱月自分のあくびで有名な大学の講義でもなく、やはり演劇だと考えられます。逍遥もそうではないでしょうか。早稲田大学では演劇は今でも文学科の1コースとして行われています(文学部文学科演劇映像コース)。
しかし、演劇を鑑賞するだけではなく、総監督として演出し、さらには劇場をつくり、劇中歌の作曲も行い、しかも大ヒットとなり、最後に多額のお金まで儲かったというのは、周りはあーあ、こけるよ、としか見てなかったようなので、ただただ驚きです。
明治42(1909)年、坪内逍遥は大隅重信が作った文芸協会を再開し、また、俳優養成を目的にして演劇研究所を設立します。そして、島村抱月氏はその指導講師になります。
4月18日、演劇研究科の入学試験。合格者は男子12人、女子2人。松井須磨子も1期生でした。
大学の講義は抱月自身あくびがでるようなつまらない講義でも、演劇研究科の講義になると、抱月の熱意があったといいます。
大学の講義について、広津和郎氏の『同時代の作家たち』のなかで抱月の講義がいかにもつまらなかったと書いています。
私は島村抱月さんから早稲田で美学の講義を聞いたが、その美学の講義はお座なりで、月並で、そう独創のあるものとは思えなかった。 島村さんはそれ以前にはもっと勤勉な先生だった時代があるのかも知れないが、私が早稲田で講義を聞いた明治四十三、四年頃には、それは氏の教授としての末期に近い頃であったが、ちょいと類のないほど怠けものの先生であった。学校には休講掲示場なるものがあって先生たちが講義を休む場合には、前以てその旨休講掲示場に掲示するのであるが、島村教授に限って、その休講掲示場に出講掲示がはり出されるのである。つまり何の掲示もない時には島村教授の講義は常に休みであり、たまにめずらしく出講する時には、それが余りに例外な事なので、出講掲示が張り出されるのである。 私の学生の頃、島村さんは文芸評論家の第一人者の如くいわれていたので、私は島村さんの評論集を読んだ事があったが、たしか「人生観上の自然主義を論ず」という一文には、島村さんの生活の裏側が出ていて、個人から家族、社会と拡がって行く生の重荷に対する憂鬱な溜息を聞く思いがして惹き入れられたが、それ以外は余りにお座なりなので意外な気がした。恐らく島村さんは他人の文学などをこつこつと読み、それを批評するような熱は、文芸批評家としても持っていなかったのであろうと思う。 島村さんにはまた幾つかの脚本の試作があるが、それも器用にテーマの上をかい撫でた程度のもので、人を打つような創作的熱情は少しも示していない。 このように講義の美学は中途半端なものであり、評論にも創作にも心を打たれるものはないのに、私は僅かばかり氏の講義に出席して、氏の風貌や述懐から受けた印象が深く心に刻まれ、いまだに忘れられないのである。――それは一つの孤独な生活者、人生の積極面をでなく、その消極面をまじまじと見まもり、その行手に虚無の洞穴が待っている事を知っていながら、どうしてもそこに向って足をはこんで行かなければならない運命の人の姿を氏に感じたからである。 |
自分でも同じことを書いています。
書卓の上
今朝もテーブルに向つて腰かけたまゝ懐手をして二時間以上ぼんやりしてゐた。何をする気も出ない。かたはらの台の上に取り散してある新刊の雑誌や書籍を、1つ2つ抽き出して明けて見たが、一向に面白くない。 (明治44年)
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何が起こっていたのか。翌年になるとはっきりします。
大正1(1912)年8月2日、抱月の妻と長女は島村抱月と松井須磨子の関係はどうもおかしいと気がついて、松井須磨子の家を見張っていました。やがで、彼女の家から盛装した須磨子が出てきます。後を追っていくと、新宿駅から高田馬場まで行き、抱月と逢っていました。妻は抱月の「襟元をふんづかまえ」ると、須磨子は「申しわけないことをしました。死んでお詫びします」といい、抱月は須磨子を自宅に帰し、抱月は妻に「死なしてくれ」という、まあ事件が起こります。
翌日、抱月が前夜に書いた恋文を妻が発見します。「抱きしめて抱きしめて、セップンして、セップンして。死ぬまで接吻してる気持になりたい。まァちゃんへ、キッス、キッス」(妻が中山晋平に命じて写し取らせたもの。河竹繁俊著『逍遥、抱月、須磨子の悲劇』)
11月、抱月は奈良京都に旅行します。本人がそうしたかったのではなく、頭を冷やせという大学の命令でした。しかし、抱月は途中で東京に帰ってしまいます。
大正2(1913)年5月31日、須磨子は26歳で演劇研究所の論旨退会になり、抱月も42歳で早稲田大学に辞表を提出。6月4日 抱月と須磨子で結婚を誓う誓紙を交わします。6月9日、坪内と島村などを交えた会見をします。
事情を完全にはわからないため、早稲田のOBは島村のほうを応援します。結構マスコミも騒いでいたようです。7月3日、抱月と須磨子を中心に「芸術座」の旗揚げが決まります。
11月、早稲田大学は正式に抱月の辞表を受理します。
大正4(1915)年8月、芸術倶楽部が完成します。
24時間と僕の生き方
私も書物に遠ざかつてから、もう三年まぢかになる。其頃の私は、毎日必ず少くとも一度づゝは書斎に閉ぢ籠つて何某教授の何哲學の系統といふやうな厳めしい洋書を引くりかへすのが職業であつた。どちらを向いても削り落としたやうな岩石の谷底に石子責になった心地で論理神経を痛めながら其間を拾って歩く。可なり強かった私の知識慾も後には疲れ切って了つた。私がまだ學校にゐた頃は、此等先哲の蹤を慕ふて、宇宙を包括するやうな高大な哲學系統を、自分の手で建てゝ見たり、壊して見たりして、其事に衷心の敬慕を棒けることが出来た。あの頃の心持も今から考へて憎いものではない。併し私は、段々其『系統』といふものに不快を感することを禁じ得なくなった。學者が最も苦心し努力した所は其『系統』をもとめた點にある。けれどもその結果は決して凡人の到り難いものでも何でもない、剋明に年月を累ねて統理してさへ行けば、私にでも出来る。機織女が、細い絲目を並べて尺を成し丈を成すのと大した相違は無い。 (大正5年『時事新報』)
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大正7(1918)年11月5日、抱月はスペイン風邪、インフルエンザで死亡します。47歳でした。
松井須磨子氏は最初の明治・大正の女優です。それまでは女形が女性を演じていました。最後は神楽坂の側の横寺町の『芸術倶楽部』で自殺しました。実は1ヶ月前、元早稲田教授で劇作家の島村抱月氏が、同じ『芸術倶楽部』でインフルエンザにかかって死亡しました。後追い心中でした。
ふーん、なるほど、そうなんだと考えていると、甘い。まだ本当は何が起こったのか、まだまだ、わかっていません。
松井須磨子氏は田舎生まれで気が強く、美人では……うーん、いろいろありますが、はい、なく、しかし、しかし、真の女優です。島村抱月氏は気が弱く、現在の早稲田大学を卒業し、文芸評論家で、英国に行きたくさんの舞台を見た劇作家で、恋に悩む考えはここまで外に出さなくてもいいのにと思ってしまいます。
河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(毎日新聞社)で中山晋平氏の手記を引用し、抱月氏の思いを書いています。
大正元年の三月大阪ヘノラをやりに行ったとき、東儀(鉄笛)が誘惑しようとしたんだ。けれども女(=松井須磨子氏)はそれをきらってぼくの所へのがれてきた。ぼくはそれを救ってやったんだが、それをしおに女は僕におちいった訳たんだ……ノラにしてもマグダにしても、ぼくの芝居であの女は成功したんだ。あの女もぼくを悪くなく思ったろうし、ぼくも女が可愛いかった。……あの女の芸術は、ぼくがあの女になり変ってやったようなものなんだ。ねえ中山君、まったくぼくのノラで、ぼくのマグダなんだ。 |
『人形の家』でノラ、『故郷』のマグダは2人とも松井須磨子氏が演じた女性です。
同じく抱月が須磨子に書いたラブレターの1節では
あなたはかわいい人、うれしい人、恋しい人、そして悪人、ぼくをこんなにまよわせて、此上はただもうどうかして実際の妻になってもらう外、ぼくの心の安まる道はありません。 |
これ以外にも沢山書いてありますが、おなじです。
これも『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』にでていますが、本来は田辺若男氏の『俳優』(春秋社、昭和35年)から引用してあるようです。
鹿児島で「復活」をやった千秋楽の夜。宿へ引き上げてきてタ食の膳にむかった時、抱月と須磨子の室から、突然経営部の小村光雄の室へけたたましく電話がかかった。小村が取るものも取りあえず飛んで行くと、まじめで生一本な抱月は、やや青ざめて腕ぐみをしなから、「もう芸術座を解散しなければならない」と沈痛にいう。小村がけげんな顔をして、そのわけをたずねると、事情がおおよそわかった。顔なじみの土地の文学芸者から、羽織の裏へ抱月に揮が依頼された。そこで「わか胸の燃ゆる思いにくらぶれば、けむりは薄し桜島山」と書いた。書きおわるやいなや、それを見ていた須磨子は、抱月のタ食の膳を蹴とばし、行李の中から羽織や着物を投げ出して、びりびりと引き裂き、はては抱月に組みついてきたのであった。「お前が日本一の文士なら、私も日本一の女優だ」「なに、この成り上り者、誰れのおかげでそうなれたと思う」と、売りことばに買いことば、「お前こそ成り上り者だ。憚りなから、私は武士の家の血統に生れてる人間だ――」と、須磨子は引っこもうとしない。「度しがたい女だ。もう芸術座は解散する」というので、小村の室に電話かとんだわけだった。小村にしてみれば、二人のいさかいは珍らしいことでもないので、まアまアとその場をおさめて引きとった。 ところが――その翌朝、鹿児島駅の待合室で、小村の話を聞いて、不安そうな一座の俳優たちの視線を受けた二人は、テレクサイ顔をしている抱月のそばへ「先生――」と須磨子が寄り添って行って、何やらひそひそと笑いながらささやきかわしている。「――天真爛漫。そこがいいのだ」と、抱月は小村に語ってすましていたという。夫婦喧嘩は犬も喰わないという標本を見せつけられて、一座も呆然としてうなずいたという。 |
『万朝報』ではこの劇は「ひどく緊張した場面は少いが、併し全体を通じて、甘い柔かな恋の歌を聞いてゐるやうな、美しい夢を見てゐるやうな心持の好い感じはした」と書きます。
『ゴンドラの唄』の楽譜は翌16年(大正5年)セノオ音楽出版社から出ました。表紙は竹久夢二氏です。
いのち短し、戀せよ、少女、 朱き唇、褪せぬ間に、 熱き血液の冷えぬ間に、 明日の月日のないものを。 いのち短し、戀せよ、少女、 いざ手を取りて彼の舟に、 いざ燃ゆる頬を君が頬に、 ここには誰れも來ぬものを。 いのち短し、戀せよ、少女、 波にたゞよひ波の様に、 君が柔手を我が肩に、 ここには人目ないものを。 いのち短し、戀せよ、少女、 黒髪の色褪せぬ間に、 心のほのほ消えぬ間に、 今日はふたゝび來ぬものを。
1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいでこの『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実はこれが有名なのはこのシーンのせいなのです。
実際にはシナリオの最後で主人公が歌う歌は決まっていませんでした。脚本家の橋本忍氏の言ではこうなります。なお小國氏も脚本家です。これは橋本忍氏の『複眼の映像』(文藝春秋社、2006年)に書かれていました。
私と黒澤さんは、警官の台詞からカットバックで、夜の小公園に繋ぎ、ブランコに揺れながら歌う、渡辺勘治を書いていた。 命短し、恋せよ乙女…… だが私は、黒澤さんの1人言に似た呟きを、そのまま書いたのだから後の歌詞は全く見当もつかない。 「橋本よ、この歌の続きはなんだっけな?」 「知りませんよ、そんな。僕の生まれる前のラブソングでしよう」 黒澤さんは英語の本を読んでいる小國さんに訊いた。 「小國よ。命短し、恋せよ乙女の後はなんだったっけ?」 「ええっと、なんだっけな、ええっと……ええっと、出そうで出ないよ」 私は直ぐに帳場に電話をし、この旅館の女中さんで一番年とった人に来てほしい、一番年とっている人だと念を押した。 暫くすると「御免ください」と声をかけ襖が開き、女中さんが1人入ってきた。小柄で年配の人だがそれほど老けた感じではない。 「私が一番年上ですけど、どんなご用件でごさいましょうか?」 私は短兵急に訊いた。 「あんた、命短しって唄、知ってる?」 「あ、ゴンドラの唄ですね」 「ゴンドラってのか? その唄の文句だけど。あんた、覚えている」 「さぁ、どうでしょう。一番だけなら歌ってみれば……」 「じゃ、ちょっと歌ってよ」 女中さんは座敷の入口の畳に正座した。握り固めた拳を膝へ置き、少し息を整える。黒澤さんと小國さんが体を乗り出した。私も固唾を飲んで息をつめる。女中さんに低く控え目に歌い出した。声が細く透き通り、何かしみじみとした情感だった。 命短し、恋せよ乙女 赤い唇 あせぬまに 熱き血潮の 冷えぬまに 明日の月日は ないものを…… その日は仕事を三時に打ち切り、早じまいにした。 |
この作曲家の中山晋平氏は映画館で『生きる』を見ましたが、翌日、腹痛で倒れ、1952年12月30日、65歳、熱海国立病院で死亡しています。死因は膵臓炎でした。
さて「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。
まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。この本、1曲の唄がどうやって芝居、演劇、音楽、さらに社会全体を変えるのかを教えてくれます。ただし高くて3,360円もしますが。『甦る「ゴンドラの唄」』は図書館で借りることもできます。
この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。
高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。 |
さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して
大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。 |
なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。
しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは
その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。 「松井須磨子の幽霊がいますよ」 と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。 |
この小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では
そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」 「芸術倶楽部の跡はそこです」 と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略) 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。 カチューシャ可愛や別れのつらさ せめて淡雪とけぬまに 神に誓いをララかけましょか そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。 |
戦後すぐに、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では
最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。 |
芸術倶楽部の館は大正4年(1915年)8月に完成し、大正7年まで、横寺町9番地で開いていました。佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』(明治書院、昭和55年)では
『復活』の地方巡業によって資金の調達が可能になり、芸術倶楽部の建設を抱月は具体化し始めた。もっともこの計画は前年の大正三年三月二十二日、抱月、中村吉蔵、相馬御風、原田某、尾後家省一、石橋湛山らが夜十一時迄相談し具体案を立てたものである。(石橋湛山の日記に拠る。)これは『復活』公演前のことであり、抱月は政界、財界に強く働きかけていたのであろう。それから一年後、芸術倶楽部の建設が実行に移されることになった。場所は牛込横寺町九番地に決り、二階建の白い洋館。一階には間口七間に奥行四間の舞台を設け、一階と二階の観客席の総数は三〇〇。総工費七千円。建築費の大口寄附者(五百円)に田川大吉郎、足立欽一、田中問四郎左衛門の名があり、残りは巡業からの収入を充てる。抱月はこの芸術倶楽部で俳優の再教育(養成主任は田中介二)を行い、将来、俳優学校を、さらに演劇大学のようなものに発展させたいという遠大な夢を抱いていた。そのために抱月は演劇研究に尽力し、若き俳優を外国に留学させて演技力を身につけさせる必要があると思い、さしずめ、須磨子をヨーロッパに留学させることを抱月は秘かにかつ、真剣に考えていたのである。 巡業中に着工した芸術倶楽部は大正四年八月に完成した。この倶楽部の二階の奥の間には抱月と須磨子が移り住み、芸術座の運命を共にすることになった。 |
芸術倶楽部の見取り図は、左は籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の図です。右は抱月と須磨子の2人がなくなり、大正8年(1919年)に改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図です。
また松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)では
次は新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)にある図です。
また今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)に書いてある図ではこうなっています。
高橋春人氏の「ここは牛込、神楽坂」第6号の『牛込さんぽみち』では想像図と地図が載っています。
高橋春人氏は…
これを描くときに参考にしたのが印刷物の写真版である。これは、芸術座・芸術倶楽部用の封筒の裏に刷られたもので(宣伝用?)、ここにあげたものは、抱月(滝太郎)が、大正6年12月に使ったものである(早大、演劇博物館、蔵。なお、筆者が見た芸術倶楽部の写真はこのワンカットだけ) |
昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では
野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では「芸術倶楽部の跡」の写真が載っています。これはどこだか正確にはわかりません。おそらく上図の「小林 9」と上から2番目の「11」の間にカメラを置いて撮影したのでしょう。
田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では
この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。
毘沙門せんべい福屋の福井 清一郎氏は「商売人どうし協力して 街を盛り上げていきたいよね。」(東京平版株式会社)の中で
神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。 |
志満金は昔は島金でした。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。場所はここ。
さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。
実は初めは神楽坂通りではなく、小栗横丁(鏡花横丁)にでていた時もあったのです。
新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)では…
泉鏡花の『神樂坂七不思議』にこの話が出ていますが、仕立屋と書いてあるのは「洋服 ハ木下」に間違えて入っていったのでしょう。
島金の辻行燈。
家は小路へ引込んで通りの角に「蒲燒」と書いた行燈ばかりあり。氣の疾い奴がむやみと飛込むと仕立屋なりしぞ不思議なる。
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実際にはこの頃は島金(志満金)は小栗横丁(鏡花横丁)のほうに顔を出していたのです。
昭和5年頃 | 平成8年 | 令和2年 |
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はりまや喫茶 | 夏目写真館 | ポルタ神楽坂 |
白十字喫茶 | 大升寿司 | |
太田カバン | 神楽屋煎餅 | |
今井モスリン店 | カフェ・ルトゥール | チャイハネ インド服 |
樽平食堂 | ラーメン花の華 | 天下一品 中華そば |
大島屋畳表 | 田金果物店 | メガネスーパー |
尾崎屋靴店 | オザキヤ靴 | |
三好屋食品 | 志満金 鰻 | |
增屋足袋店 | ||
海老屋水菓子店 | ||
八木下洋服 | ||
田日屋生花店 |