兵庫横丁」タグアーカイブ

兵庫横丁(写真)ID 18242と18400 平成26年と平成27年

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18242は平成26年(2014)に、ID 18400は平成27年(2015)に、軽子坂を登ってから(あるいは材木横丁和泉屋横丁から)兵庫横丁に入る直前に撮影した写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18242 神楽坂から南方向を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18400 神楽坂から南方向を望む

兵庫横丁 住宅地図 平成29年

 正面の高いビルはオザワビル(地上7階、地下1階)で、その右側は神楽坂テラス(地上7階、地下1階)、ID 18400では最右側に「神楽坂アインスタワー」(地上26階)も見えます。
 左側の前はイタリア料理の「リストランテ ラストリカート 神楽坂」。次の「神楽坂おいしんぼ」は良く見えませんが、ID 18400では店の前にスタンド照明が出ています。その奥の角が「旅館 和可菜」です。
 右側の建物は前から「神楽坂AGEビル」「オフィス万り八仙」「料理幸本」で、ID 18400では「神楽坂 幸本」「やくら」「八仙」と料理店名も出ています。

「見返し横丁」に抜け道新設へ

文学と神楽坂

 地元の方から「見返し横丁」(か「見返り横丁」)に関する文章をいただきました。

 神楽坂4丁目、本多横丁から脇に入る通称「見返し横丁」は、ある時期まで「兵庫横丁」に出る抜け道がありました。現在はブロック塀でふさがれています。
 これとは別の「抜け道」を新設するプランが進行しています。
 新宿区は「神楽坂三・四・五丁目地区地区計画の都市計画変更原案」を策定し、令和5年1月13日の新宿区都市計画審議会に報告しました。
 注意点として、区の資料では一貫して該当する路地を「見返り横丁」と呼んでいます。「まちづくりキーワード集」(1977年)で図示した路地と違います。また雑誌「ここは牛込、神楽坂」でつけた愛称「見返し横丁」は採用していません。路地の名前が地元に定着していなかったことを示唆します。
 さて、区は審議会に次のように報告しました。
 見返り横丁につきましては、行き止まり道路になっているといったようなところがありますので、2方向避難の観点から、地区内の地権者のご協力を得て0.6m、60cmの避難経路を確保するといったところで、こちらの避難経路についても地区施設に位置づけるといったところです。

 資料の図を見ると、東京理科大学森戸記念館の脇のスペースを「見返し横丁」から「酔石横丁」へ通じる38メートルの避難路として活用するようです。現在は屏や植栽で通れなくしていますが、これを除去するのだと思います。避難路ですから常時、通れる形でしょう。

避難路「酔石横丁」側 黒い柵の内側

避難路「見返し横丁」側 黒い柵の内側

東京都市計画地区計画 神楽坂三・四・五丁目地区地区計画

 幅60センチは「ごくぼそ」よりはるかに狭く、新たな「路地」として名所になるかも知れません。同時に「見返り横丁」という名も、今後は定着するように思います。
 新宿区は令和5年10月の正式決定を予定しているとのことです。

「見返し」とは「1 書物の表紙と本文との間にあって、両者の接着を補強する2ページ大の紙。一方は表紙の内側に貼りつけ、もう一方は「遊び」といって、本文に接する。2 和装本で、表 (おもて) 表紙の裏にはる紙または布。著者名・書名・発行所などを印刷したものが多い。3 洋裁で、襟ぐりや打ち合わせ・袖ぐり・袖口などの縁の始末に用いる布。多く共切れを用いる」

「見返り」とは「1 ふりかえること。見返り美人。2 担保・保証またはお返しとして差し出すこと。その差し出したもの。見返り品」

 つまり「見返し」と「見返り」、あるいは「見返し横丁」と「見返り横丁」とは別々の意味でした。私もどちらがどちらなのか、よくわからないし、多分、新宿区の人もわかっていなかったのでしょう。しかし、インターネット、地図、津久戸小学校の「つくどがみてきたまちのふうけい」などは全て「見返し横丁」です。おそらく10月までに新宿区は間違えたと思って、正しく直っていると思いますが……。

兵庫横丁(写真)平成31年 ID 14052

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14052は、平成31年(2019)1月、兵庫横丁の北の入り口から南方を見て写真を撮ったものです。影が長いので夕方の撮影のようです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14052 神楽坂から南方面を望む

 前方の石畳が兵庫横丁、手前のアスファルトが公道で名前はありません。左側のゆるやかな上りは2番目の四つ角から下り坂になり、この坂は軽子坂です。右側の先、曲がり角からは和泉屋横町です。斜め後方は材木横丁。兵庫横丁と材木横丁の大部分は私有地です。

道路台帳平面図

 兵庫横丁の石畳には歩行者用の白線はなく、車を想定していません。ただ荷運びなどで例外的に車が入ることはあるようで、この写真でもバンが停まっています。
 石畳の中央部は扇形に並んでいますが、左右は少し違っています。これについて地元の人の解説は……

 石畳は路地の歴史を色濃く残します。この写真の右側には雨水を流す側溝があり、境石を挟んでモザイクのような石敷になっています。石畳とアスファルトの境に正方形の金属製プレートがあり、おそらく土地の境界標です。建物を建てる時に路地を広げて側溝を作ったと想像できます。
 左の家の前は、幅40センチくらいにわたって石畳が直線的に敷かれています。よく見ると赤い三角ポール(駐車禁止)の左側に窪みがあります。この窪みは別の写真で見ると排水溝です。昔はこの位置が路地の端で、今の建物を建てたときに後退して石畳を追加したことが分かります。
 私有地では、こうした側溝や上下水道は路地に面した家が費用を負担して整備します。おそらく下水管は路地の中央にあり、公道に出たところのマンホールにつながっています。
 工事で石畳を部分的に掘削した時は、そこを石畳に戻すのがルールです。従って時代を経るにつれて石畳は傷んでいきます。ちなみに神楽坂通りの歩道のインターロッキングは公道ですが、工事した店が掘削部分を同じ材料で復旧する義務を負っています。
 私有地である路地でも、住人が区に共同で申請すれば上下水道や石畳の整備に補助がもらえます。住人の意見がまとまらない場所では、徐々に石畳を維持できなくなっていくようです。
境石 きょうせき。境界石。きょうかいせき。隣の敷地や道路との境界ライン。素材はコンクリート、金属、プラスチック、鋲など。境界標と同じ
石敷 平たい石を敷き詰めて舗装した所。ピンコロ石より大きい。
境界標 目に見えない境界点を現地で示す標識

https://to-ki.jp/center/useful/kiso010.asp

 左の家1軒目はイタリア料理店ラストリカート(意味は石畳)で、2軒目は「おいしんぼ」です。中央部には旅館「和可菜」があります。ここで終わりに見えても右側に小路があり、さらに奥にはいっています。上の絵(ID 14052)も電柱があり、やはり奥にはいけないという幻想があります。ここから心理的には昭和初期、ちょっと怖くて、わくわくする世界が始まります。

兵庫横丁 住宅地図 2017年

 遠景のビルは左は島田ビル(地上6階、1階はワヰン酒場)、右はオザワビル(地上7階と地下1階、1階は郵便局とカフェ・ベローチェ)です。どちらも神楽坂通りに接しますが、縦横高さの大きさでもオザワビルのほうが巨大です。

和可菜|新宿歴史博物館

文学と神楽坂

 旅館「和可菜わかな」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き旅館」として有名でした。2015年末に一時閉店、隈研吾設計事務所の手を借りて、2022年、再出発、営業再開予定ですが、22年7月。再開はまだのようです。
 和可菜は路地の小さなクランクに印象的な看板を出しています。ここは曲がり角というより、兵庫横丁が狭くなっている場所です。
 路地の石畳は水道工事などで部分的に掘り返すことがあります。ID 13350の左下の石畳が少し新しく見えるのは、そうした工事のせいかもしれません。
 ここでは新宿歴史博物館がカメラで撮った写真を4枚(2008年、2010年、2014年、2017年)収録します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13350 旅館和可菜 平成20年(2008)3月

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13691 旅館 和可菜 平成22年(2010)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13255 旅館 和可菜 平成26年(2014)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13984 旅館和可菜 平成29年(2017)

 なお、平成29年のID 13984では前半分が他の建物です。

和可菜 住宅地図 2017年

 では現在の和可菜の写真です。少し化粧直しをして看板を新しくした以外は、変わっていないようです。

和可菜 2022/7/8

和可菜 2022/7/8

料亭「喜久川」(昔) 神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 地元の人の話です。松川二郎氏の「全国花街めぐ里」(誠文堂、1929年) によれば、喜久川きくがわと読むようです。

神楽坂を代表する大料亭と言えば「松ヶ枝」と「喜久川」。自分で入ったことはなくとも、地元ではそれが常識でした。

政財界の要人に愛された松ヶ枝が多くの人の記憶に残るのは当然でしょう。しかし喜久川が、このブログの記事にほとんど出てこないのは残念なように思います。

喜久川の場所は4丁目の北西部、5丁目との境です。入り口は北側(白銀町側)。松ヶ枝同様に戦前から店を構え、戦後に大きくなったことが各種の地図で分かります。花街らしい風情と風格を兼ね備えた立派な門構えでした。廃業後、跡地は「神楽坂プラザビル」というオフィスビルになりました。ビルの完成は1992年11月です。

喜久川がビルになって、玄関前の道(注・和泉屋横町)の風情がなくなりました。それで、再開発されなかった近くの「兵庫横丁」が注目されるようになったと思います。神楽坂の路地ブームは、おおよそ1990年以降です。例えば昭和51年(1976年)の読売新聞の特集のイラストや記事は、路地に興味を示していません。

さて、写真は知りませんが、今に残る痕跡はあります。3丁目の見番手前の伏見火防稲荷神社玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です。両者が奉加帳のトップとして、最も多額の寄進をしたことが分かります。

戦前から店を構え、戦後に大きくなった 実際に大きくなりました。1937年の地図では「御木(待)」と一緒になっています。

1937年火災保険特殊地図から1984年の住宅地図。

玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です 写真を参照。「㐂」は「喜」の異体字。

松ヶ枝と喜久川。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では「全国花街めぐ里」を引用して……

○旧券 芸妓屋121軒。芸妓数446名。内小妓52名。料理店11軒。待合97軒。
 主なる待合は由多加、梅林、玉の井(神楽町)、肴町の重の井、宮比町の喜久川、もみぢ、福仙、若宮町のおかめ、津久戸の中村家、その他かぐら,梅村などが名の通っている待合。
○新券の方はというと、
 芸妓屋45軒、芸妓数173名、内小妓15名、料理店4軒、待合32軒。
 主なる待合。若宮町の松ケ枝を代表として之に次ぐもの小松、住の江。幸楽、萬琴、あけぼの。

 松川二郎氏の別の本「三都花街めぐり」(誠文堂文庫、1932年)にも喜久川がでてきます。

 主なる待合 由多加、梅林、玉の井、楓月(以上神樂町)松ケ枝(若宮町)重の井(肴町)喜久川、もみぢ、福仙(以上宮比町)御歌女(若宮町)中村家(津久土町)。その他小松、住の江、幸樂、かぐら、梅村など。


兵庫横丁は1960年代から…だと思う

文学と神楽坂

 1995年以前は兵庫横丁という横丁はありませんでした。では、この横丁はいつごろできたのでしょうか?

 まず江戸時代は嘉永5年(1852年)❶。下図は神楽坂4丁目に相当します。中央にある線が将来の兵庫横丁です。図は新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から。

❶ 江戸時代。嘉永5年(1852年)嘉永5年(1852年)の神楽坂4丁目

 次は明治29年❷です。元の図は小さく、でも読めます(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』から)。この変形した四角形が上宮比町で、番地は1番地から8番目で、上宮比町は将来の神楽坂4丁目に当たります。町の横丁は上から1本、下から2本です。右や左の横丁はまだありません。

❷ 明治29年明治29年

 次は❸の大正元年「東京市区調査会」(地図資料編纂会編。地籍台帳・地籍地図・東京・第6巻。柏書房。1989年)。上宮比町は同じで、ただし、もっと鮮明です。なお、将来の旅館「和可菜」は7番地になります。

❸ 東京市区調査会、大正元年東京市区調査会、大正元年

 次に新宿区教育委員会がまとめた『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)❹では、芸者と待合が中心で、普通の家はおそらくないといえます。中央の通りには外から上1本、下2本、さらに本多横丁からは2本の路地が中央の通りとつながっています。ここで中央の通りは兵庫横丁とは違います。

❹ 古老の記憶による関東大震災前の形。大正11年ぐらい。〇待合、△芸者、□料理屋

古老の記憶による関東大震災前の形

 関東大地震を大正12年に終えて、約15年後、昭和12年の都市製図社製『火災保険特殊地図』❺です。中央の通りは外から上1本、下3本となり、本多横丁はそのまま。さらに本多横丁から見返り横丁を通って中央の通りとつながっています。ごくぼそ、酔石横丁、紅小路の原型が出てきます。赤い線は崖なので、見返し横丁はこれ以上ははいりません。兵庫横丁もまだ出てきません。

❺ 昭和12年『火災保険特殊地図』昭和12年。『火災保険特殊地図』

 第二次世界大戦の中で、おそらく全てが灰燼になります。戦後、昭和26年には上宮比町から神楽坂4丁目になり、昭和27年❻になると、この町は相当変わってきます。新しい建造物はたくさん出て、また中央の道路も大きく変わっています。図の下から上に歩いて行く場合を考えてみると、まず右向きのカーブ、その後、左向きになっています。神楽坂4丁目の道路は上1本、下2本となり、さらに本多横丁からの1本(見返し横丁)が中央の通りとつながっています。

❻ 昭和27年。1952年。火災保険特殊地図

 参考ですが、この時期、ほとんどは下図のように芸妓置屋(黒)、料亭(灰)、割烹・旅館(薄灰)になっていきます。

神楽坂花街における歴史的建造物の残存状況と花街建築の外観特性。日本建築学会大会学術講演梗概集 。 2011 年。http://utud.sakura.ne.jp/research/publications/_docs/2011aij/7135.pdf

 ❼は昭和38(1963)年、 住宅協会地図部がつくる住宅地図です。中央の通りを見ると、外から上1本、下3本です。

昭和38年。昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③なくなり、本多横丁側は残り、見返し横丁に

❼ 昭和38年。①は明治時代からの通り、②は新しい通りで、兵庫横丁に。③は一部の本多横丁側は残り、見返し横丁に

 ❼はあまり細かく書くと、ぼろがでそうな地図で、多分原っぱや空き地も多かったし、中央の道路はなく、庭なのか、道路なのか、不明です。以前は「四」から①右上方向に向かう通りがあり、これは明治時代からの通りでした。②さらに、左上方にも行き、点線の方向も通れるようになりました。これはやがて、兵庫横丁になります。また、③直接、本多横丁に行くこともできます。しかし、この通りはのちになくなり、本多横丁側だけは残り、見返し横丁になりました。

 次は❽で、1978年(昭和53年)、同じく日本住宅地図出版がつくる住宅地図です。中央の道路が左に凸と変わりました。矢印①がなくなり、矢印②と③の2つが残っています。外から中央の通りに上1本、下3本となり、さらに本多横丁からの1本が中央の通り(兵庫横丁)とつながっています。

❽ 1978年。住宅地図。

 2010年の❾です。ゼンリンがつくる住宅地図です。②は現在と同じ形です。③は行き止まりになり、見返し横丁になります。つまり、外から上1本、下2本が兵庫横丁につながっています。本多横丁から左に行くのは4本。下の2本は流れを変えて神楽坂通りにつながり、中央の1本が見返し横丁で行き止まりになり、上の1本が見返り横丁で、鍵はかかっていて、やはり行き止まりでした。

❾ 2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

2010年ゼンリン住宅地図 新宿区

 では、以上の経緯❿を見ておきます。下の地図を見てください。

❿ 経緯

 一番はっきりしているのは最下部の赤い四角()で、昭和から平成まで、どこでも4つ角があります。その上は赤い中抜き円()で、ここは階段の最上部で、降り始める場所です。その上は赤丸()で、右に行くと本多横丁にはいります。ところが、1980年以前にこの通りは消え、本多横丁のほうからはいると行き止まり(これは見返し横丁)になりました。次は青い四角()で、閉鎖した旅館「和可菜」です。昭和12年は青四角は中央の通りによりも左側に位置して7番地でした。平成29年には中央に入る通りの位置は右側に変わりますが、7番地の位置は変わりません。

 もうひとつ。一番上の「福せん」「福仙」について。兵庫横丁の出口にあるとすると、変わったのは道路が兵庫横丁の中に入ってからの位置と、兵庫横丁の道幅だけでは、と、そんな疑問もでてきます。でも、福仙の位置も昭和12年と昭和27年、昭和53年では変わっていて、昭和27年では昭和12年に比べて約半分ほど小さく、また昭和53年にはまた大きくなっています。

 つまり、全てを正確に話すことは難しい。絶対どこかにおかしなことがある。兵庫横丁の入口(ごくぼそ、酔石横丁、紅小路)はほぼ正確だとしても、その道幅は大きくなり、出口(福仙)も違うし、4丁目の家々もごちゃごちゃだもんなあ。

 この神楽坂4丁目の横丁も家々も多くは私有地なので、なんでもできる。と書いたところで、いえいえ、国有地もあるし、指定道路もある、といわれました。厳として変えられない部分がある。おそらく「戦後に一部地番が変わった時に位置が決まったと推定」されると地元の人。

 戦前は兵庫横丁という名前はありませんでした。1960年頃になって、ようやく現在の形で出現したと考えています。また、この頃(1960~65年)、石畳もできたと考えています。名前として兵庫横丁が記録されたのは平成7年(1995年)でした。

 最後に4丁目の現在と「古老の記憶による関東大震災前の形」から。

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

360度VRカメラ(2)

かくれんぼ横丁


兵庫横丁

見返り横丁

見返し横丁

浅田宗伯医院跡

酔石横丁

島村抱月の終焉

尾崎紅葉と十千万堂

石畳|神楽坂|兵庫横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 なお、は、2007年『神楽坂まちの手帖』「最深版神楽坂の路地その魅力のすべて」の兵庫横丁・路地ガイドで、寺田歩氏(料亭幸本若女将)がその一部を発言したものです。またを叩くと地図は奥に進み、また手のアイコンを握れば上下左右に動きます。

 ここでは神楽坂通りの北側の石畳です。「兵庫横丁」です。やはり左側を流れる石畳は中央を流れる昔の石畳とすこし変わっています。

石畳|兵庫5

石畳|兵庫4

下水道でしょうか。よく見えます。これはう~ん微妙です。

 遠くから見るとたちまちきれいに見えてくるので、不思議。石畳

 上に乗った店もどこか違います。なお、この店舗はなくなっています。
石畳|兵庫2

 小さな路地も美しい。
石畳|和可奈

 2013年5月2日→2019年7月26日

石畳|神楽坂|酔石横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使ったうろこ張り(扇の文様)舗装は神楽坂通りの南側は2つ、北側は数個あります。

 酔石横丁(牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」1998年)、または、まちなみ景観賞の路地(けやき舎『神楽坂おとなの散歩マップ』2007年)というのはここです。


『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」でこう話しています。

     石畳が美しい『酔石すいせき横丁』
井上 次は、テレビや雑誌の撮影などでいつも賑わっている毘沙門天の向かい、「伊勢藤」のある横丁へ。これは林さんの案で『酔石横丁』。ピンコロ石の敷石が美しい。
林  そう、半円状に敷き詰めてあってね。
井上 それが酔つぱらいの足どりみたいで。

 神楽坂通り商店会が出した神楽坂マップによれば「神楽坂の持つ『伝統と進取の心』を象徴する横丁。石畳の奥には、町屋造りの落ち着いた酒亭と、テラス席をもつクレープ料理店が向かい合って営業しています」(場所はここここ)と書かれています。

 それより前のここはどうでしょうか。幅4mのいっぱいに石畳が敷き詰めています。まあ、ちょっと下水の入口が違っていますが。

酔石2

 ここについては毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは「神楽坂まちの手帖」第15号(07年冬)でこう話しています。

毘沙門せんべい福屋の福井清一郎さんは、「むかしはいい下駄ほどすぐに割れちゃったらしいし、いまでも台車が通るとガタガタうるさい。母親を車椅子に乗せてたころも、通りづらくて困ったよ」といい、石畳なんてべつに好きじゃない、といいきる。実は九年前、この石畳をアスファルトにかえる「チャンス」はあった。下水管工事のため、石畳をぜんぶはがさなくてはいけなかったからだ。それでも「下水管工事は、9割まで区が負担してくれる。舗装もアスファルトに復旧するんなら、区がやってくれる。だけどそれじゃやっぱり風情ががないから、みんなでお金をだしあってもとの石畳に戻したその時にすごくきれいになったよね。それまでは、あっちこっち掘ったりしてボコボコだったけどさ」と当時を振り返る福井さんはうれしそうだ。


石畳とマンホール

石畳|神楽坂|毘沙門横丁(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 ピンコロ石畳を使った鱗張り舗装は神楽坂通りの南側の毘沙門横丁は2つ、北側は数個あります。

 は私の説明です。またこの図は上下左右に360度動き、を叩くと地図は奥に進みます。

西→東

 まず、2本の石畳の小路です。最初は、毘沙門横丁椿屋の奥(三つ叉通り)とを結ぶ石畳の小路です。下図は西の入口から東方を見た時で……

石畳東→西(入口)

 さらに、下図では石畳の小路は東の入口から西を見た場合です。

 東の入口を使ったのは相当昔のようで、何個もピンコロが剥け落ちています。しかし、そこが終わると……

石畳東→西(半ば)

 きれいな石畳だけが広がります。ひょっとすると一番きれいかも?

 さて、もう1本は毘沙門横丁と袋小路を結ぶ路地(ひぐらし小路)です。

ひぐらし小路

 正面は懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」です。その前は石畳です。この路地をつくるのに3つの別の舗装を使っています。1つは手前で、写真の左側には何があるのかよくわかりませんが、実は普通のマンションが建っています。ここは単にアスファルトで覆っています。

 真ん中の路地の舗装は石畳です。さらに右側は「石かわ」がはいっていて、石畳ですが、石畳の流れは違っています。
 奥から見たものですが、左側は「石かわ」の石畳、右側は昔からの石畳です。昔からの石畳は、半分にされているのもあります。

ひぐらし小路(内→外)

 これは「みなし道路」に似たものをつくったのでしょう。道路の両端に敷地があるとその道路の中心から2m後退した線を道路の境界線と見なし、建物はそこからたてます。このセットバックで、一部残念な場所ができました。

 2013/5/15→2019/6/21

石畳1

石畳

神楽小路横 かくれんぼ 毘沙門横丁 紅小路 見返し横丁 兵庫横丁 クランク 寺内公園 酔石横丁

 明治時代は1本の道なのに毘沙門横丁を通って南に進むと、出羽様下、谷がはいり、若宮小路庾嶺坂まで、毘沙門横丁を含めて、なんと道の名前は4本になりました(明治20年の神楽坂の地図)。

復興土地住宅協会著 東京都市計画図

石畳|神楽坂|紅小路(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

本多横丁」にでてくる「紅小路」です。

石畳と紅小路1

紅小路6番から5番を向いて

紅小路の写真

 この7番から8番までの道路は以前は「名前はない道路」で、アスファルトで覆っていました。が、2018年ぐらいでしょうか、ここも石畳で覆われました。とりあえず「裏紅小路」としておきます。

石畳と紅小路2

4番から3番の方向に向けて

G

3番で。珈琲パティオは右手に

 下の写真は上下左右に動きます。また上矢印をたたくだけで、写真2に変わります。