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松山藩酒井家の光照寺墓石43基|神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事

文学と神楽坂

 「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」は2004年2月29日から2005年8月12日までのブログです。作者は平松南氏。ここでは「山形県松山町との市民交流に秘められた『神楽坂光照寺酒井家墓石群43基のナゾ』」(2004年6月4日)を引用します。

 松山町は山形県庄内平野にある町である。地理に詳しくなければ、この町がいづこにあるか、まずピンとこない。地理音痴のわたしは、もちろんピンとこなかった。7年前までは。
 松山町が神楽坂と深く結びついていることは、いまでもほとんどの人が知らない。そのナゾから、神楽坂と松山町の市民交流ははじまっていった。今回はそのショートストーリーである。
 神楽坂一帯は、戦前まで牛込といった。いまの新宿区は、牛込区、四谷区、淀橋区が合併してできている。
 牛込区の歴史は、中世の牛込城に溯る。
 赤城山山麓地方の大胡氏が神楽坂に進出して、いまは光照寺になっている袋町に城をかまえたのが、牛込城の始まりである。
 平城で格別の城郭があったわけではないので、光照寺を牛込城の跡というには少少の気恥ずかしさを感じてしまうが、歴史家はそういっているのでそれに倣おう。
 大胡氏がきたころの牛込台地は広々として、武蔵野台地の端に位置しているので海も近く、草原も形成されていたのだろう。牛の放牧に適していたようである。牛込つまり牛の牧場もあった。
 そんな土地柄なので、ここらは人呼んで牛込といっていた。
 大胡氏は、やがて自らも牛込氏を名乗るようになった。
 牛込氏は、北条方についていたので、徳川幕府開府とともに、この城も取り潰されて、その跡地に神田から光照寺がやってきた。1645年のことである。
 さてその光照寺である。
 ご住職はいかにも住職住職している方である。こういう言い方は変なのだが、むかしのご住職はみな光照寺さんのように住職住職されていた。浮世離れしているといったら怒られるかもしれないが、お寺は浮世から離れているのが本来だから、その点古典的つまり本来の神職の風情により近いお方である。おなじ神楽坂のお寺に善国寺がある。毘紗門さまとしてよく知られ親しまれている。このご住職は、人当たりもよく街に溶け込んでいる。犬の散歩などされている時に会うと、一見普通人然としたまま気さくに声をかけてくれる。
 神楽坂商店街のど真ん中にある所為で、精神的に街との距離も近い。商店会の新年会にもかならず御参加になる。
 さて先の光照寺さんには、異様な墓石群がある。異様なというのは、怪奇なという意味ではない。
 普通人の墓はみな一様につつましい。それにくらべてあまりにも目立ち過ぎ、数も多い。
 じつはこれが、旧松山藩酒井家の一族の墓なのである。
 新宿区の教育委員会は、この墓については文化財と位置づけていないが、区内で江戸時代から残っていて手付かずの墓石は、ここ光照寺の酒井家の墓石群と弁天町の寺のものだけである。
 では酒井家はなぜ光照寺に歴代の墓を築いたのだろうか。
 地元の郷土史家によれば、酒井家初代の奥方が利口だったかららしい。
 江戸初期の酒井家の最初の墓は芝増上寺であった。当時寛永寺、増上寺は幕府の菩提寺であるため、ここに墓を持つことは相当な経費を覚悟しなければならない。
 その財政負担から逃れるため、光照寺が神田から神楽坂へ移ってきたのときにいち早く墓を移転したというのだ。
 二代を除いて、藩主、奥方、側室、子供の墓がなんと43基も揃っている。門構えのある墓などもあり、形容矛盾な言い方だが、豪華絢爛なのである。
 そこに立つと、耳なし芳一になって霊界からの死者と対している気分になるほどだ。
 その武士一族の墓場は、しかし一方では、別の問題で光照寺を苦しめているのである(続く)。
松山町 山形県飽海郡の町で、昭和30年(1955)1月1日発足したが、50年後の平成17年(2005年)11月1日、酒田市、飽海郡八幡町、平田町と合併し、新たに酒田市が発足。江戸時代では正保4年(1647年)、庄内藩主酒井忠勝が三男忠恒に松山の領地を分地し、松山藩が始まっている。
庄内平野 山形県北西部で最上川流域に広がり、南北約50km、東西約40kmの平野。穀倉地帯で有名。

庄内平野の地形図

牛込区、四谷区、淀橋区 昭和22年(1947)3月15日に3区が合併。新宿区になった。
牛込城 新宿区の牛込藁店わらだな(地蔵坂)の坂上、袋町の光照寺付近の台地にあった。牛込城の廃城は1590年ごろ。築城は不明だが、1510〜1520年か?
赤城山 群馬県東部にある広大な二重式成層火山。
大胡氏 上野国(群馬県)勢多せたおお郷を基盤とする領主で、武士の一族。
光照寺 新宿区袋町にある浄土宗の寺院。慶長8年(1603)、神田元誓願寺町に開祖。正保2年(1645)に現在地へ移転。
平城 平地に築かれた城。
牛込台地 早稲田通り以南は、牛込台地と本村台地の2つの台地からなっています。

牛込氏を名乗る 牛込氏は牛込に移り住んで、初めは大胡姓を使ってきました。北条氏康に申請して許可を得てから、天文24年(1555)以降は牛込姓を使ってきました。
善国寺 日蓮宗の鎮護山善国寺は、徳川家康より天下安全の祈祷の命をうけて、文禄4年(1595)日惺上人が麹町六丁目に創建、寛政5年(1793)当地へ移転。
松山藩酒井家 出羽松山藩(山形県酒田市)の酒井家です。矢来町の矢来屋敷が有名な小浜藩(福井県)の酒井家とは違います。同じ姓名が2人いるのも(若狭小浜藩酒井讃岐守忠勝と松山藩酒井忠勝)混乱します。
弁天町の寺 弁天町には宗参寺、浄輪寺、南春寺、照臨山多聞院があり、江戸時代の墓石はどの寺でも持っています。
芝増上寺 港区芝公園四丁目の浄土宗の三縁さんえんこうぞうじょう寺。徳川家康公が関東の地を治めるようになってまもなく、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれました(天正18年、1590年)。
寛永寺 かんえいじ。天台宗の東叡山寛永寺円頓院。開基(創立者)は江戸幕府3代将軍の徳川家光。徳川将軍家の祈祷所・菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
耳なし芳一 盲目の琵琶法師、芳一は、霊に取りつかれる。寺の和尚は芳一の体中にお経を書くのだが、耳には書き忘れた。芳一は耳を怨霊に引きちぎられてしまう。

 光照寺の住職は、代々直系が継承している。
 現在のご住職とは、神楽坂まちづくりの会のイベントのときにお寺を拝借した関係で、会員たちがいろいろお話しをさせてもらった。
 そんな会話のなかで、7年前のこと、ご住職からこんなはなしを伺ったことがあった。
 酒井家の子孫がキリスト教に改宗したため、光照寺にある43基の墓石群が宙に浮いてしまったというのである。
 通常これだけの墓があれば、酒井家の子孫はお寺に対しては多額の管理費を収めることになろう。
 しかしクリスチャンになった現在の子孫は、現在酒田市にある致道博物館の館長になっていて、山形県松山町に酒井家の小規模なお墓も持っているそうである。
 寺院経営の観点からすれば、都心にある光照寺の墓地用地は大変な資産価値がある。この酒井家の墓石群を撤去して、墓地にして売り出したら、相当な金額のお金がころがりこむ。
 もし酒井家が光照寺にある祖先のお墓の墓守をしないなら、いっそ撤去してほしい。
 ご住職はいま風の方ではないので、多分そうは考えなかったと思うが、傍から見ている下々は、そんなことを考えかねない。
 新宿区は、江戸時代からある43基の大型墓石群は、区内の貴重な史跡であると思っている。事実史跡調査もかけている。
 かといって、財政逼迫のおりからそうそう金銭的援助もできかねる。宗教問題も絡んできて、ややっこしい。
 こうして光照寺の苦悩はますます深まっていった。
 このはなしを耳にした神楽坂まちづくりの衆の何人かが奮い立った。
「なら、おらほで、山形の酒井家と光照寺さんの仲をとりもつべえ」
 光照寺のご住職に山形までご同行願って、酒井家のご子孫に面会をもとめて、現在の光照寺側の実情を知っていただき、何らかの対処をお願いしようということになった。
「おせっかいな」
と思われる御仁もいるとおもうが、まちづくりというものは、基本的にはお節介焼きなのだ。
 むかし、町には必ずお節介な世話好きがいたものだ。
「なんだなんだい、おらにまかせておけ」
 じぶんのことはさて置いて、困っている人がいると聞けば東奔西走。困っていない人がいても
「どうしたどうしたい」
と首を突っ込む。
 戦後、行政というものの範囲が広がり、個人の確立、個の自由、権利と義務などスマートで西欧的なルールが導入されて以降、こうした世話好きは他人の生活への闖入者と忌み嫌われ、疎まれた。
 社会の諸制度も確立し、個人主義も蔓延した結果、町の世話好きはもはや絶滅危惧種であった。
 しかし行政は公平主義、手続き主義、機会均等の原則、すべったころんだで縛られるため、現実には町の要望にこたえられない。
 こうして世話好きたちは、ありあまるおのれたちの情熱に捌け口を、まちづくりというあたらしい市民活動のなかに求めてきた。
 だからまちづくり活動は別に新しいことではなく、かつてのまちの世話好きさんがあたらしい装いの出店をしたに過ぎない。
 神楽坂のまちづくりの会のみんなは、光照寺さん応援の意気に燃えた。
 もしこれが上手くまとまれば、光照寺さんはもちろん、新宿区にとっても、また江戸からの貴重な墓石群一式が保存されることでの町おこしのためにも、万万歳、めでたしめでたしということになる。一石三鳥である。
 まちづくりの会の人たちは、功名心というものに無縁の人がほとんどだ。みんなはこのことを純粋に考えて、酒井家を訪ねる庄内旅行に出発することになった。
 この旅は、また大いなる珍道中だった(続く)。
神楽坂まちづくりの会 平成3年、結成。代表者は坂本二朗。神楽坂まちづくり推進計画、神楽坂まちづくり憲章、神楽坂まちづくり協定、神楽坂キーワード表等を作成。平成30年(2018)を最後に休眠中。
致道博物館 ちどうはくぶつかん。庄内藩主酒井家の御用屋敷地だった。貴重な歴史的建築物(旧西田川郡役所、旧庄内藩主御隠殿、民具の蔵、旧渋谷家住宅、旧鶴岡警察署庁舎)、酒井氏庭園、重要有形民俗文化財収蔵庫などが移築。
おらほ 東北弁などで「私たち」

 庄内旅行は、松山町と隣接する櫛引町も訪問することになった。
 まちづくりの会に所属するFさんの事務所の共同使用者が、櫛引町の東京代表を務めていたからである。
 この旅行はFさん中心で企画されていった。
 Fさんはエコロジーに強い下水道などの設計者で、設計事務所を経営しているのだが、わたしなどが見ていても、どこまでが本業でどこからがボランテイアか判然としない。
 まちづくりの会にはそんな人が多いのでだれも気にしないが、社長業のかたわら庄内旅行を遂行するのは大変だったろう。
 バスを借りることになったので30人は集めようということになり、旅行には3つの会が参加した。神楽坂まちづくりの会、わたしが主催する川を歩く会、Fさんの関係の山方面の会である。
 わたしの会では、時間がなかったため趣旨の伝達が不充分で、課題をはっきり把握していない参加者が混じってしまったが、この混成部隊はいずれにしても目的がバラバラだったことは否めない。
 光照寺さん支援がメインだったが、黒川能鑑賞にひかれたもの、最上川歩きに好奇心を募らせたものなど、観光目的の人々がいたことは事実であった。
 町の歓迎会の席上、松山町、櫛引町がどこかわからないまま参加したという発言を平気でする無邪気なものも出て、わたしたち主催者者側をひやひやさせた。
 町側の歓迎は驚くべきものであった。
 町長以下、助役、総務部長、観光課長、商工課長、農協役員など、総勢20名近くが、わたしたち30名を歓待してくれた。
 その熱意にはほとほと感謝したが、私たちの団体がなにを目的としてきているかを誤解しているのではないかと心配になったほどである。
 わたしたちは、新宿区の行政ではないし、神楽坂の商店会でもない。任意のまちづくり団体である。
 結成して数年が経っているが、それほど力量があるとも思っていない。
 それなのに、この歓迎である。松山町に限らず、櫛引町でもである。
 ありがたいと思う反面申し訳ないとも思い複雑であったが、地方の町が東京と地域交流して、商工でも農産物でも、販売や開発の切っ掛けになればと真剣に思っていることは、手にとるように実感した。
 やがてこの庄内旅行から一定の成果がうまれたのであるが、このときは、多彩な歓迎にただただ恐縮するのみであった。
 ところで、光照寺さんは、致道博物館館長である松山藩のお殿様の末裔と面会した。私たちも同行した。
 博物館は町の中心にある名建築を使用していて、収蔵品も漁具や民具がそろっていて、たいへん優れた博物館であった。
 その応接室で、お二人は対面した。いずれもやんごとなきかたなので、会見はとても不思議であった(続く)
櫛引町 くしびきまち。旧山形県東田川郡の町。2005年10月1日、鶴岡市、藤島町、羽黒町、朝日村、温海町と合併し、鶴岡市に。
黒川能 くろかわのう。山形県鶴岡市黒川の春日神社に奉納された能。氏子で農民の能役者はほぼ世襲で、およそ160名。伝承の規模の大きさ、組織の強固さは、他の民俗芸能に類を見ない。
やんごとなき 家柄や身分がひじょうに高い。高貴だ。止む事無し。「終わりを迎えることは決してない」との表現。転じて「捨て置けない」「とても大事だ」「尊ぶべきだ・高貴だ」の意味が派生。

 光照寺さんは酒井のお殿様の末裔さんを前にして立ちあがり、ひたすら実情を伝えた。
 末裔さんは、やはりたったまま聞いていた。
 随行の人間はこのはなしには加われるはずもないから、ひたすらふたりのはなしに耳を傾けた。
 光照寺さんの訴えは切々としていたが、ただひたすら自身が困っているという訴えであった。末裔さんがなぜ光照寺をはなれていったかについては、聞くことはなかった。その点交渉ではなく、一方的なものであった。
 光照寺さんにとっては、相手の立場を忖度するなど、とてもそんな余裕はないということなのだ。
 末裔さんはご住職の訴えを注意深く聴いていたが、その窮状に対して助け船を出すことはなかった。強力な反論もしなかった。
 いまの末裔さんには、43の墓が神楽坂の住民のまちおこしや新宿区の歴史的遺産にとっていかに重要であっても、もはや自分とは何ら関係のないはなしなのである。
 末裔さんは恬淡として静寂であった。
 こうして光照寺さんと末裔さんは、一期一会の限りであった。
 ふたりはご年配である。今生で再会することはまずあるまい。
 わたしたちは神楽坂から山形に大勢で出かけてきた。そして、酒井家一族の43の墓石を維持管理している光照寺さんと、キリスト教に改宗されて神楽坂とは無縁になられた酒井のお殿様の末裔との歴史的会見を実現した。
 1600年代に芝の増上寺から牛込神楽坂にお墓を移したことから始まった酒井のお殿様と光照寺の祖先の延延350年ものお付き合いがこうして物別れになったことに、わたしは一抹の感慨と不安を抱いた。そしてわたしがそこに立ち会っている不思議さに改めて思い致した。
 この会見を限りに、あるいは光照寺と酒井家との関係は断絶するかもしれない。光照寺は、都心の一等地を占める酒井家の無縁墓地を改修して、一基うん百万円で分譲するかもしれない。
 43の墓については、新宿区歴史博物館学芸員の北見恭一さんが丹念に調べているが、それは停止した歴史の調査であり、こうした血肉をもって現存する人間の歴史的関係は、時代のある瞬間に突然消滅する。
 神楽坂まちづくりの会の参加者たちは、あと10年もすれば年老いていき、記憶も薄らいでいく。そして単なる団体旅行の思い出話になっていくに違いない。
 350年続いたある一族の墓の歴史が物理的にも消滅したとき、わたしたちの次世代が光照寺で見るものは、真新しく売り出された都心の墓地であり、境内にそっと立つ新宿区教育委員会の酒井家43の墓跡の説明板である。
 わたしは、川が好きである。四半世紀、都市河川の環境問題に関わったこともあり、全国の川を歩くのを楽しみにしてきた。
 山形は何といっても「五月雨を——」の芭蕉最上川である。
 旅の一日、わたしたちは、松山町の町長やお偉方に招待されほろ酔いになった夜、小高い丘に投宿した。
 翌朝目覚めて見渡すと、丘の眼前に、大蛇がたゆたうように流れ行く最上川があった。左に出羽三山、右に鳥海山、最上の流れの遥かさきには日本海が広がっていた。
 松山の人たちは、遠くにあってふるさとを思うとき、この丘の上からの眺望を思い描くという。
 これが庄内平野かと、わたしはこの風景を目に焼き付けるためひとときまぶたを閉じた。
 そしていまこれを書いているときも、ひとときまぶたを閉じてみた。
 するとあのときとまったく同じ光景がまぶたの奥に立ちあがってきた。
 あの日この光景に接したとき、わたしの妻が隣にいてくれたのが幸運だった。
 こんなすばらしい風景というものは、めったにあるものではないからだ。
 この丘を眺海の森と、地元では呼んでいる。
 このことが縁で、松山町と神楽坂まちづくりの会は、いまでもずっと細細ながら市民交流を続けているのである。
 ことしもその季節がやってきた。
末裔 まつえい。子孫。後裔。
忖度 そんたく。他人の心中をおしはかること。自分なりに考えて、他人の気持ちをおしはかること。
恬淡 てんたん。あっさりしていて物事に執着しないこと。心やすらかで欲のないこと。
一期一会 いちごいちえ。一生に一度限りの機会。生涯に一度限りであること
一抹 いちまつ。ほんのわずか。わずかにある。かすか。
無縁墓地 墓の継承者や縁故者がいなくなったり、管理費が一定期間支払われなかったりした墓。官報に記載し、該当する墓地の見やすい場所に札を立て1年間公告し、この期間に申し出がなかったら無縁墓と認定できる。
新宿区歴史博物館 新宿歴史博物館。新宿区四谷三栄町にある、新宿区の郷土資料を扱う博物館。
五月雨を—— 五月雨を集めてはやし最上川。さみだれを あつめてはやし もがみがわ。季語は初夏。梅雨の雨が最上川へと流れ込んで流れが早くなっている。
芭蕉 松尾芭蕉。まつおばしょう。江戸前期の俳人。深川の芭蕉庵に住み、蕉風俳諧の頂点をきわめた。紀行文は「奥の細道」など。生年は寛永21年(1644)。没年は元禄7年10月12日(1694年11月28日)
最上川 山形県を流れる一級河川。流れが大きく激しいことで有名。
出羽三山 磐梯朝日国立公園の最北部を占める山形県庄内地方に広がる月山・羽黒山・湯殿山の総称
鳥海山 ちょうかいさん。出羽富士とも。山形県と秋田県の県境で日本海に面し、標高2236メートル。
眺海の森 ちょうかいのもり。県民の森。アウトドア施設(スキー場、キャンプ場、ピクニックランド)、学習施設(森林学習展示館、天体観測館)がある。

出羽三山と鳥海山、眺海の森、松山城

牛込城の構築|牛込氏と牛込城

文学と神楽坂

 新宿区郷土研究会「牛込氏と牛込城」(昭和62年)4「牛込城(袋町居館地)と城下町」についてです。もし牛込城があった場合、何がどこにあったのかという疑問があり、そこで昭和61年度に郷土研究会が一致団結して調査に乗りだしました。

牛込城(袋町居館地)と城下町
(1) 牛込城趾の調査
 牛込氏の居館が袋町にあった、という文献は多いが、城として存在を認めているのは『御府内備考』と『江戸名所図会』だけである。
 一般に、城には城としての条件——目的、規模、範囲、施設(、井戸、やぐら曲輪等)——があるものだが、今となっては不明な点が多い。
 今回、昭和61年度、1年がかりで、会員全員でこの調査にあたった。その結果を次に示す。
①目的……袋町への進出は重行の代とすると、まさに、戦国時代へ突入する直前の頃で、居館の安全性を考え、備えが必要だったと想われる。又、筑土八幡の高台は、すでに、扇谷上杉朝興によって“”が築かれ、赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町と、ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂供養塚(奥州街道に想定されている)との二本の古道があったらしい(『牛込区史』)。まさに、城はこの二本の古道を睨んで築かれている。
②規模……牛込氏の故郷、群馬県大胡町にある大胡城趾と、その規模、構造共に、亦、地形こそ違うが、その配置、施設と想われる場所が、非常に類似している。

御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
 「牛込城蹟」については……

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々

註:いかさま 1.なるほど。いかにも。2.いかにもそうだと思わせるような、まやかしもの。いんちき

江戸名所図会 「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

 空堀。からぼり。水のないくぼみ。
 水堀。みずぼり。水をためた堀。
やぐら 櫓。城門や城壁の上につくった一段高い建物。敵状の偵察や射撃のための高楼。
曲輪 くるわ。城を構成する防禦区画で、土塁や堀、石垣などで囲まれた平坦地。敷地内を複数の小さな曲輪で区切るのが日本の城の基本。壁面を急傾斜の切岸状にするほか、縁辺に土塁を盛り上げたり、外周や尾根続きに空堀を掘って外部から遮断する。
重行 大胡重行。日本城郭全集第4「東京・神奈川・埼玉編」(人物往来社、1967)では……

 牛込城を築いたのはおお宮内少輔重行である。大胡氏は藤原秀郷の後裔で、代々大胡城(群馬県勢多郡大胡町)に居城していた。重行は『寛政重修諸家譜』によれば、上杉修理大夫朝興に属し、のち北条氏康の招きに応じて牛込に移り住まいしたという。上杉朝興が江戸城を追われ河越城(埼玉県川越市)で没したのは天文6年(1537)であり、上杉氏は北条[氏康]氏と戦って連敗し、その勢いを失っていたころ、大胡重行は氏康に招かれたものと考えられるから、大胡氏の牛込移住は天文6年(1578年)前後と推察される。

 天文6年は1537年で、豊臣秀吉が誕生した年でした。
筑土八幡の高台 筑土山。現在の筑土八幡神社がある高台
扇谷上杉朝興 室町後期の武将。江戸、川越の城主。朝憲の子。おおぎがやつ上杉朝良の養子。
神楽坂交差点 現在は「神楽坂上交差点」です。
二本の古道 図では「二本の古道」を描くと、中央から右に動く1本(赤城神社南—ひょうたん坂—神楽坂通り—飯田町)と中央から左下に動く1本(ひょうたん坂下—神楽坂交差点(現)—焼餅坂—供養塚)でしょう。

「牛込区史」「道路」の126頁では……

江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもないが、赤城下の築地の成らない前正保年中の地図に依つて見ると、本区の道路は牛込見附から通寺町榎町の通りを経て馬場下に達するものと、通寺町から南折して柳町から馬場下に達し、前者と合して旧高田馬場方面に走向するものと、(供養塚町の事蹟にこれを古奥州街道の一つと言っているのは採否の限りでないが、しかし比較的重視すべき原始往還たることだけは十分に察せられる)前記柳町附近から分岐して、西大久保方面に走向するものと、市谷本村町より渓谷を辿って谷町に至り、左右に分岐する谷に沿つて一は天神前方面、他は番衆町方面に走向する道路を幹線として、それらに若干の間道を連接する片町或は両側町式市街に過ぎない。

註:正保年中の地図 正保は「しょうほう」。地図は江戸初期、正保元年か2年(1644〜45)に作られたもの
通寺町 現在は神楽坂6丁目

 つまり「2本の古道」と「牛込区史」の「道路」とは全く違っています。さらに「江戸時代の初期、即ち覇都の影響を蒙らない前の状態は考究すべくもない」といい、これは江戸初期や戦国時代以前は、おそらく憶測が入るので、考えるべきではないといっているのでしょう。
牛込区史 東京市牛込区編「牛込区史」(昭和5年)です。
大胡城趾 群馬県前橋市河原浜町の空堀で区切った中世の城跡。鎌倉幕府御家人の大胡氏が城主。

③範囲……現在の地形、及び当時の状勢から想像すると、城の範囲は袋町を中心として、若宮、北、中、南、砂土原、払方、神楽坂4、5丁目の各町の一部、いわゆる牛込台地の南側一帯と考えられる。
 袋町の光照寺の台地は、この辺での最高地(海抜27米)で、後世、江戸時代には天文屋敷(天文台)が置かれた処である(『御府内備考』)。この台地が伝承の通り、牛込氏居館趾、本丸と思われる場所で、大胡城趾本丸居館趾高台の広さと同じ、8、90米四方になる。

光照寺 袋町15番にある浄土宗の樹王山正覚院光照寺です。
天文屋敷 現在は光照寺の正面にマンション「プラウド神楽坂ヒルトップ」です。
御府内備考 天文屋鋪では……

  天文屋舗蹟
天文屋鋪蹟は地藏坂の上半町ほと西の方なり 延寶の比はたゝ二軒の旗下屋敷ありし 享保十年の江戶圖には屋敷はなくてたゝ明地のことくにて有しと見ゆ その後佐々木文次郞といひし人 元御徒組頭なり 天文の術に長しけれは召出され やかてこひ奉り この所に司天臺を建て天文をはかれりされと この地は西南の遠望さはり多けれはとてその子吉田靱負の時に至り天明二年壬寅七月 或六月朔日ともいふ 今の淺草鳥越の地へうつされたり

牛込城(「牛込氏と牛込城」「東京都新宿区 (13104) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット」から)

 北側……急をなし牛込川の谷になっている(現大久保通り)。
 西側……南蔵院旧本堂前の池にそそいでいたと思われる沢跡が一直線に逆上り、北町、中町通りを直角に横切り、南町通りの直ぐ手前まで達している。水源地は南町通りから一寸と北へ入った箇所で、現在でも使用している井戸があり、当時は涌水が出ていたことであろう。この沢を、更に、手を入れて濠とした形跡がある。
 又、最高裁判所長官邸から払方町へ行く路が牛込中央商店街通りへ出る際に、不自然な凹地が路を横切る。その谷状地の南側は、急に、市ヶ谷濠に落ちて行く。北は崖状になって、民家の中を抜けて、南町通り近くまで達し、前記の水源地近く40~50米附近まで近づいている。恐らく、南町通りができた時にならされてしまったのではないだろうか。以上が西壕跡である。

牛込川 昔、南蔵院近傍から飯田橋駅近くの小石川大沼まで流れていたと思われた川。
南蔵院 箪笥町にある天谷山竜福寺南蔵院。
沢跡が一直線に逆上り これは空から見るとはっきりします。

沢跡と南蔵院

現在でも使用している井戸 これは40年近く前、昭和62年(1987)に書かれた文章です。井戸の有無は私にはわかりません。
最高裁判所長官 最高裁判所長官公邸は新宿区若宮町39にあります。
牛込中央商店街通り 正式には「牛込中央通り」。市谷田町交差点から矢来町交差点に至る南北に通る全長約1.2kmの通り
不自然な凹地 払方町に見られます。

払方町の不自然な凹地。

ならされる ならす。均す。平す。高低やでこぼこのないようにする。たいらにする。

牛込城(北と西)

 南側……現在の外濠り通りになっている谷に面して、相当の急崖になっている。
 東側……神楽坂通り善国寺裏あたりまでは崖になっている。若宮町14、西条歯科医院一帯は現在でも、はっきり解る濠跡である。
 ここは当時、空壕ではなく、湿地的な水の可能性さえある。この濠水の流れる谷が、現在の熱海湯通りで、両崖の高さからみて、かなりの水量があったことさえ想像される。そして、若宮八幡の前は崖状になって外濠通りへ落ちている。

外濠り通り 現在は「外堀通り」です。
若宮町14、西条歯科医院一帯 小栗横丁が西側で終わる地域を超えると、西側に西条歯科医院があります。西条歯科医院とその周辺(黄色)が若宮町14です。

若宮町14はこの写真では西条歯科医院とその周辺。右が北方。下の図(↓)では西条歯科医院の地図。

熱海湯通り 小栗横丁と同じ意味です。

 大手門……一説では地蔵坂下の説もあるが、もう少し南寄りの三菱銀行から宮坂金物店辺りではなかろうか。最近、ビル工事をした宮坂金物店の通りに面したところから頑丈なで組んだ井戸が発掘された。これが、いつの時代のものか不明だが、丁度、このあたりが神楽坂通りでは一番高く、古道に対する最短距離の場所となる。又、善国寺裏、料亭松ヶ枝の庭は階段状になり、左右に折れながら登っている。そして最奥の離屋は光照寺墓地のすぐ下へと続いている。この辺が大手門と本丸をつなぐ道ではなかろうか。

大手門 城の正面。正門。おう
宮坂金物店 神楽坂3丁目6-10です。現在はMIYASAKAビルに替わり、こう椿つばき」が営業中。
 ひのき。常緑高木。日本特産。山地に自生、広くは植林。高さ30~40メートル。樹皮は赤褐色で縦に裂け、小枝に鱗片りんぺん状の葉が密に対生する
本丸ほんまる 城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。

 大手門には仮説として2説があるということになります。一番目は地蔵坂(藁店わらだな)が神楽坂通りと交わる点、二番目はより南方(例えば毘沙門横丁や三つ叉横丁)と神楽坂通りと交わる点。重要なことですが、どちらも仮説です。

市ヶ谷牛込絵図(万延元年)

 江戸時代の「江戸名所図会」や「御府内備考」などでも大手門の位置はわかりません。「江戸名所図会 中巻 新版」(角川書店、1975)では

牛込の城址 同所藁店わらだなの上の方、その旧地なりと云ひ伝ふ。天文てんぶんの頃、牛込うしごめ宮内くないの少輔せういう勝行かつゆきこの地に住みたりし城塁の跡なりといへり

御府内備考」(大日本地誌大系 第3巻、雄山閣、昭和6年)では

牛込城蹟 牛込家の噂へに今の藁店の上は牛込家城蹟にして追手の門神楽坂の方にありとなり、今この地のさまを考ふるにいかさま城地の蹟とおほしき所多くのこれり云々(註:いかさま=なるほど。いかにも)

 仮説1は芳賀善次郎氏の下図によっています。仮説2はこの文章で、おそらく文責は一瀬幸三氏にあったのでしょう。

図は「牛込氏と牛込城」から

 搦手門……不明。
 井戸……袋町25、26番地一帯は光照寺台地の南側で、一段、低くなっている。牛込城の二の丸とみられる処で、東ぎわは崖で、下は若宮町14の水濠跡になっている。この崖際に三木さんのビルがあるが、江戸時代の土井家の屋敷跡である。土井家時代からのものといわれる、外井戸が屋上にある。今でも、外水を全部まかなっている程、出が良く、大城の水門位置からみて、この辺が牛込城の水門口とみている。この辺り一帯の井戸で、最も重要な井戸と思われるものが26番地、飯塚ビル玄関前の井戸跡であろう。旧宅時代には便利で、良い水の井戸で、余り出が良いので、現在は下水栓につないであるとのことである。飯塚ビル向って左側の隣家は一段高く、その家に通じる路が、この井戸跡を巻くようにして登っている。その路を数登り切ると、光照寺本堂が目と鼻の先にある。水吸み路の名残りではなかろうか。

搦手門 からめてもん。城の裏門。
袋町25、26番地一帯 図を参照。

袋町。建物は昭和62年の時点。現在は西条歯科医院を除き全て新しい建物に変わっている。

二の丸 にのまる。城の本丸の外側を囲む城郭。本丸を守護し、城主の館、藩の各役所、武器や食料の倉庫など
三木さんのビル 袋町25の東南の角。
土井家の屋敷跡 「新撰東京名所図会」牛込之部「中」(東陽堂、明治、明治31年)では

袋町の桜。牛込袋町25番地は遠藤但馬守(江州三上の藩主1万3千石)の下屋敷の跡にして、其地続き及び26番地の辺は光照寺の境内地と幕士の宅址なり、いたく荒れ果てゝ、人の顧みる無し、牧野毅(故陸軍少將)貸して此の一廓を購い、修理して庭園となす。(中略)明治20年頃、始めて神楽町三丁目より、牛込中町に通する邸内横貫の新道を開く、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家立て込みて、漸く其風致を損ふ、牧野氏去って子爵土井家(元越前大野の藩主4万石)この地所を購い、又但馬守の邸址に館す。

土井家の屋敷跡。袋町25+26。東京五千分ノ1(参謀本部陸軍部測量局。明治16年)

水門口 みとぐち。川が海や湖へ流れ込む所。河口。
飯塚ビル玄関前 図を参照
旧宅 以前に住んでいた家

 曲輪……中世の城には、その城域の最前線の守りとして、曲輪という施設がある。神楽坂通り万長酒店横の路が行元寺への元参道である。最近、万長の主人、馬場さんの案内で、地下の酒蔵を見せていただいた。この地下に、参道と平行して高さ2米の江戸時代以前の築造とみられる石垣が掘り出されている。この地下酒蔵を神楽坂通り方向に、更に拡げようと、堀ったところが巨岩(凝灰岩)にぶつかり、酒蔵の拡張は中止せざるを得なかったそうである。果して、この石垣や巨岩は牛込城の東、古道側に張り出している曲輪の、最も北寄りの土止めに用いたものではないだろうか。そして、ここを起点として、2~3米の高さの崖状をなし、相馬屋ビル裏から、往時の行元寺境内との境界をつくって、本多横丁を横切り、神楽坂3丁目、マーサー美容院裏あたりまで続く、この崖上が牛込城の東曲輪になっていたのではないか。
 この曲輪の南側に若宮八幡の台地があるが、ここも、非常の場合には南曲輪として使う予定をしていたのではなかろうか。又、西壕以西、愛日小学校あたりまで、西曲輪説を考えられる。

土止め どどめ。土留め。土手や土砂の崩壊を防止する工作物
マーサー美容院 マーサ美容院。神楽坂通りと神楽坂仲通りとが接する神楽坂3丁目の美容院だった。 昭和27年の写真で見る新宿 ID 8-12や、アルバム 東京文学散歩で見ることができます。
愛日小学校 あいじつしょうがっこう。新宿区北町26。明治13年(1880年)加賀町の吉井学校と、牛込柳町の市ヶ谷学校が合併し、愛日学校が創立。男女共学の公立学校。

牛込城の東曲輪

 綜じて、今回の調査によると、以上の条件から中世の城と認めても良いという結論がでた。石垣など殆どない、地形を利用した舌状台地上の平城で、主として、土塁と空壕で存在していたことであろう。
 城域の広さが、若干広い感じがするが、当時の関東の城の例にならうと根古屋衆を城内に住まわせていたと想われる。根古屋とは一族郎党であり、側近衆の住む家を云う。城内の大切な水場を囲むようにして、根古屋を建て、農耕をやり、馬を飼っていたと思う。其の他、武器庫、馬場、集合広場も城内にあった筈である。
 そして、江戸時代、天正年間(1590)牛込勝重が徳川幕府の家人(旗本)となると、牛込領を幕府に返上、城、居館は廃されて、百姓地になり、その後、正保2年(1645)神田にあった光照寺が袋町へ移転してきた。牛込氏は小日向牛天神下隆慶橋近くに旗本千百石取りとして屋敷を構えたのである。

根古屋 ねごや。山城の麓に形成された将兵たちの居住区域。戦国山城時代の城下の村。
牛込氏は…… 礫川牛込小日向絵図(安政4年、1857)では牛込常次郎と書かれています。

礫川牛込小日向絵図

牛込門・牛込駅周辺の変遷|史跡パネル④

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル④は「牛込門・牛込駅周辺の変遷」です。写真3枚と図2枚を掲載し、日本語と英語で解説しています。

牛込門・牛込駅周辺の変遷

牛込うしごめもん・牛込駅周辺の変遷
The Transition of Usigome-mon Gate and Ushigome Station Areas

 外堀そとぼりは、1660(まん3)年、牛込・和泉いずみばし間の堀さらいが行われ、外堀(神田川)をさかのぼって、牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いに河岸かしができました。牛込橋東側の堀端ほりばたには、あげちょうの「町方まちかたあげ」と御三家のひとつである「わり様物さまぶつ揚場」があり、山の手の武家地や町人地へまきや炭などの荷物を運ぶかるが、「軽子坂」を往来したといわれています。
 牛込門から城内に入ると武家屋敷が連なり、他方、堀端から現在の神楽坂の辺りは、善国ぜんこく沙門しゃもんてん)の坂下の地域が武家地、早稲田側には寺町が形成されました。寺の門前には町屋が建ち並び、江戸名所の一つとして賑わいを見せていました。
 明治になると、城外の新宿区側には、空き家と化した武家屋敷跡がげいおきや料亭となり、神楽かぐらざか花街はなまちが形成されていきました。他方、城内の千代田区側の武家屋敷跡に学校などが建てられました。
 牛込土橋東側の堀は、1984(昭和59)年、再開発事業により暗渠あんきょとなり、現在に至っています。また、鉄道整備においても削られずに残された牛込門周辺の土塁は、1911(明治44)年、牛込・くいちがい間の土手遊歩道を外堀保存のため公園とする計画が決定され、1927(昭和2)年、「東京市立土手公園」として開設されました。現在でも国史跡指定区域に、外濠公園として歴史的ふうが保全されています。
和泉橋 千代田区神田を流れる神田川にかかり神田駅に近く昭和通りの橋。。
堀さらい 水路清掃のため堀の土砂・ごみなどを取り除くこと
河岸 江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の港
堀端 堀のほとり。堀の岸
町方揚場 「町方」は江戸時代の用語で,村方・山方・浦方などの地方(じかた)や、武家方・寺社方に対する語。「揚場」とは船荷を陸揚げする場所。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んでもっこのようにつくったかると呼ばれる運搬具を用いた。
毘沙門天 多聞天。サンスクリット名はVaiśravaṇa。仏法を守護する天部の神。
寺町 寺院が集中して配置された地域。寺院や墓地を市街の外縁にまとめ、敵襲に際して防衛線とする意図があった。
芸妓置屋 芸妓を抱えておく家。揚屋、茶屋、料亭などの迎えに応じて芸妓の斡旋を業とする。置屋。
花街 はなまち。かがい。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。
暗渠 地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路。暗溝。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


土塁 どるい。敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁

喰違 喰違見附。江戸城外郭門で唯一の土塁の虎口(城郭の出入り口)。紀尾井ホールの筋向かいにある。
土手公園 昭和2年8月31日「東京市立土手公園」として開園。当初は新見附から牛込見附までの長さ300間(約550m)(大日本山林会報)の公園だった。
外濠公園 昭和7年12月17日、「土手公園」を「外濠公園」と改称。(都市計画東京地方委員会議事速記録)。区域も変更し、牛込見附から赤坂見附までの細長い公園に。現在は、JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までに。
風致 自然の風景などのもつおもむき。味わい。

 In 1660, the section of the outer moat located between Ushigome-bashi and Izumi Bridges was dredged. This made it possible for boats to travel up the outer moat (Kanda River) to Ushigome-bashi Bridge. In addition, banks were constructed on both sides of the Kanda River. The bankside area on the eastern side of Ushigome-mon Bridge was home to the Agebachō neighborhood’s “community landing,” and “the Owari House Landing,” which was controlled by the Owari, one of the three branches of the Tokugawa clan. Both sites were used to offload arriving cargo. Porters transporting firewood and charcoal to warrior estates and commoner neighborhoods in the Edo’s Yamanote area are said to have traveled from these moat-side landings up an incline known as Hill of Karuko.
 Entering the castle grounds from Ushigome-mon Gate, warrior estates lined the street. The area located at the foot of Zenkoku Temple between the moat banks and present-day Kagurazaka was home to warrior estates and, on the Waseda side, there were Buddhist temples. Commoner residences lined the space in front of the temple gates and the area emerged as one of Edo’s most bustling sites.
 Entering the Meiji period, unoccupied former warrior estates outside the castle walls on the Shinjuku Ward side came to host restaurants and establishments employing geisha entertainers and courtesans. This led to the establishment of the Kagurazaka pleasure quarter. In contrast, schools and other institutions were constructed on the grounds of abandoned warrior estates inside the castle wall on the Chiyoda Ward side.
 In 1984, the moat on the eastern side of Ushigome-bashi Bridge was enclosed in conjunction with a local reedevelopment project. It remains covered today. In addition, in 1911, the government presented a plan to transform the portions of the moat embankment in the vicinity of Ushigome-mon Gate that survived the construction of the railroads into a public park and preserve remaining portions of the outer moat between Ushigome and Kuichigai as a pedestrian walkway. This resulted in the creation of Tokyo Dote City Park, which was founded in 1927. Even today, historic landscapes located inside the area officially designated as a national heritage site have been preserved in the form of Sotobori Park.

図 牛込神楽坂
画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。

図 牛込揚場(江戸土産)
牛込御門外北の方 ふね原橋わらばしより南のかたちょう第宅ていたくのきを並べ 東南の方は御堀にて材木および米噌はさらなり 酒醤油始め諸色を載てここに集へり 船丘をなせり 故に揚場名は負けらし これより四谷赤坂辺まで運送す 因てこの所の繁華山の手第一とせり

写真 1905年頃の神楽坂下

牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

写真 1959年の神楽坂下
神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち(やらせ? 他にも色々な論争が発生しています)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

写真 牛込濠の桜

鉄道写真と飛行機写真の撮影紀 トーキョー春爛漫

江戸城外堀跡の案内図|史跡解説板5

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 西口駅舎1階の歩行者空間にある「遺構巡り」は「史跡 江戸城外堀跡 周辺案内図」と「江戸城外堀跡 散策案内図」です。

江戸城外堀跡

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡 散策案内図
Edo Castle’s Outer Moat Walking Map

 この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。
 また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。
 さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。

大木戸 おおきど。大きな城門。近世、国境や都市の出入り口に設けた関門。
墨引図 「御府内」とは朱引で表し、江戸時代「江戸の市域」のこと。朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、墨引で示された範囲は「町奉行所支配の範囲」

 These two maps indicate the location of historical sites in the vicinity of Iidabachi and Yotsuya Stations. The sites offer vital insights about Tokyo’s history from the early modern to the modern period.
 The map on the left traces the path of early modem Japan’s “Five Routes,” which radiated out in all directions from central Edo’s Nihon-bashi Bridge, and indicates the location of the city’s entrance gates and post stations on its periphery.
 The second map is a jurisdictional map indicating the territories under the authority of the Edo City Governor. It shows that areas inside the Yamanate Line comprised the city center and that the city area extended over a vast space that stretched far east as present-day Kinshicho Station.

江戸城外堀跡周辺案内図

 小さな小さな文字です。でも、神楽坂に関係するものは多くはありません。

神楽坂界隈(Kagurazaka District)江戸時代に武家や神社の街として作られましたが、明治期に料亭に利用され、今も江戸以来の路地が残されています。
善国寺(Zenkoku Temple)1595(文禄4)年に馬喰町で創建、麹町を経て1793(寛政5)年に現在地へ移転しました。神楽坂の毘沙門さまです。
牛込門跡(The Remains of Ushigome-mon Gate)1636(寛永13)年に作られた江戸城外郭門の1つで、1902(明治35)年に大部分が撤去されましたが、現在でも石垣が良好に保存されています。
外濠公園(Sotobori Park)1927(昭和2)年に外堀を埋め立てることにより、土手公園を開設。グランドなどに利用されています。
田安門(Tayasu-mon Gate)上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点で、1620(元和6)年に完成しました。高麗門は江戸城に残る最も古い建築物です。
市谷亀岡八幡宮(Ichigaya’s Kamegaoka Hachiman Shrine)江戸城の鎮守として1479(文明11)に建てられましたが、外堀築造で現地に移転しました。江戸名所として多くの錦絵に描かれました。
江戸歴史博物館(Shinjuku Historical Museum)旧石器、縄文時代等の遺跡から江戸時代の暮らし、明治以降の発展まで新宿区の歴史を紹介しています。
江戸歴史散歩コーナー 東京メトロ市ヶ谷駅構内(Exhibit: Walking Edo’s History/Ichigaya Metro Station Concourse)地下鉄工事で発掘された江戸城の遺構や外堀機築技術が紹介されています。
江戸城外堀跡史跡展示広場(Edo Castle Outer Moat History Plaza)外堀及び四ツ谷駅周辺の歴史を四ツ谷駅構内の展示広場で紹介しています。
市谷門跡(The Remains of Ichigaya-mon)1639(寛永16)年に完成した江戸城外郭門で、1913(大正2)年に石垣撤去され、現在は土橋の石垣のみが残っています。
コモレ四谷(CO・MO・RE YOTSUYA)四谷地域の歴史を紹介する解説版が設置されています。
四谷門跡(The Remains of Yotsuya-mon)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。1903(明治36)年に大部分は撤去され、現在枡形石垣の一部が残っています。
心法寺(Shimpo Temple)心法寺は1597(慶長2)年に創建され、一部が千代田区の文化財に指定されています。
四谷大木戸と水道碑(Totsuya Gateway and Tamagawa Aqueduct Commemorative Monuments)江戸への人や物の出入りを監視するため江戸初期に設置されました。玉川上水の碑とともに大木戸の記念碑が残っています。
四谷見附橋(Yotsuya-mistuke-bashi Bridge)1913(大正2)年に東宮御所(迎賓館)にあわせネオバロック調の意匠で架橋されました。1991(平成3)年現在の橋に架け替えられました。
須賀神社(Suga Shrine)1634(寛永11)年に江戸城外堀が造られた際に清水谷(現在の千代田区紀尾井町)から移転された稲荷神社が起源で、のちに神田明神の牛頭天王が合祀されました。
外堀普請で移転した寺院(Temples Relocated in Conjunction witk Outer Moat’s Construction)江戸城外堀の工事に伴い寺院が四谷地域に移転し、現在もこの地域に多く立地しています。
御所隧道(Gosho Tunnel)1894(明治27)年に開通した甲武鉄道のトンネルで、東宮御所(現在の迎賓館)を通過することから名が付けられました。現在も利用されています。
喰違(The Remains of Kuichigai Gate)外堀で唯一土塁を組み合わさせた門で、1612(慶長17)年に完成しました。現在も原形を確認できます。
赤坂門跡(The Remains of Akasaa-mon Gate)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。石垣は一部現存し、福岡黒田家の刻印がみられます。

飯田橋周辺案内図

牛込駅(千代田区側)駅舎跡

牛込駅(千代田区側)駅舎跡
 甲武鉄道時代、ここには牛込駅の出入口がありました。
 現在でも、当時作られた駅舎の左右にあった石積み擁壁がそのまま残されており、見ることができます。
The Remains of Ushigome Station
石積み擁壁 高低差のある土地で土砂崩れを防ぐために設置し、石を積んだ壁。

牛込門枡形石垣跡の舗装表示
 かって牛込門の枡形石垣があった位置が自然石舗装で表現されており、その大きさを体感することができます。
Remnants of Ushigome-mon Gate’s Stone Walls
枡形 ますがた。石垣で箱形(方形)につくった城郭への出入口。敵の侵入を防ぐために工夫された門の形式で、城の一の門と二の門との間にある2重の門で囲まれた四角い広場で、奥に進むためには直角に曲がる必要がある。出陣の際、兵が集まる場所であり、また、侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。

石に刻まれた印

石に刻まれた印
 かつて牛込門の枡形石垣を構成していた石垣石が移設展示されています。
 枡形石垣の整備を担当した徳島藩蜂須賀阿波守の刻印とみられるものが確認できます。
Inscriptions on the Stone

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡散策案内図

散策モデルルート
Aルート:「外堀散策ルート」Edo Castle’s Outer Moat
周囲14kmの江戸城外堀を史跡中心に巡ります。
This walk visits heritage sites along the outer moat’s 14-kilometer periphery
Bルート:「江戸城内ルート」Edo Castle
牛込門から北の丸の田安門を経て旧江戸城本丸跡を巡ります。
Departing from Ushigome-mon Gate, this walk passes through the Northern Citadel’s Tayasu-mon Gate before visiting the remains of Edo Castle’s Inner Citadel.
Cルート:「外堀水辺散策ルート」The Outer Moat Riverside Walk
神田川と日本橋川にある鉄道遺産などを巡ります。
This route visits sites along the Kanda and Nihonbashi Rivers relates to local railroad development.

七福神巡り|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 4.繁華街の核、毘沙門様」を見てみましょう。ここでは、主に参考書『郷土玩具大成』の中の“七福神”を扱います。つまり、8種(谷中、向島、芝、亀戸、東海、麻布稲荷、山の手、柴又)の七福神です。
 ここでどの七福神が何年に初めて参詣したのか、簡単にわかる表を作りました。
 谷中七福神   元文2年、1737年
 向島七福神   文化元年、1804年
 芝(港)七福神 明治末期、1900年以降か
 亀戸七福神   明治末期、1900年以降か
 東海七福神   昭和7年、1932年
 麻布稲荷七福神 昭和8年、1933年
 山の手七福神  昭和9年、1934年
 柴又七福神   昭和9年、1934年

繁華街の核、毘沙門様
     (神楽坂5-36)
 神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁華街だったが、その核をなすものが坂を上って左側の毘沙門様である。正式には善国寺である。文禄4年(1595)に、中央区馬喰町に建立され、寛政4年(1792)に類焼してここに移転してきたものである。本尊の毘沙門天像は新宿区の文化財になっている。
 元文2年(1737)から、江戸では七福神詣でという巡拝が谷中ではじまり、寛政初年(1789)から流行したが、文化13年(1816)の「遊歴雑記」中の、江戸七福神詣にはここを入れてあるから、そのころから有名になったのであろう。
 このにぎわいを背景にして、神楽坂に花街ができたのは明治初期で、「近代花街年表」には「明治7年1月24日、牛込肴町より出火、神楽坂花街全焼す」と出ている。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが始まりで、明治20年ごろからであった。それ以後は、縁日の夜店といえば神楽坂毘沙門天のことになっていたが、しだいに浅草はじめ方々にも出るようになったのである。
 だから、明治、大正時代の縁日のにぎわいは格別で、夜には表通りが人出で歩けないほどになり、坂下と坂上大久保通りの交差点には、車馬通行止めの札が出たほどである。
 なおここが山の手七福神の一つになったのは昭和9年からである。山の手七福神というのは、このほか原町の経王寺(市谷6参照)、東大久保の厳島神社(大久保27参照)、法善寺(大久保25参照)、永福寺(大久保29参照)、西大久保の鬼王神社(大久保2参照)、新宿二丁目の太宗寺(新宿22参照)である。
 七福神の発達は前にふれたが、明治末期には芝と亀戸に設置され、昭和7年には東海(品川)、8年には麻布、9年に山の手と柴又とに設けられたのである。
 山の手七福神は、大久保の旧家で中村正策という俳人(花秀という)が発案したものだが、はじめの候補に筑土八幡(恵比寿)と新宿布袋屋百貨店(布袋)が予定されていた(新宿72参照)。しかし、筑土八幡は氏子に反対されて鬼王神社にかわり、布袋屋は営業の宣伝に使われるおそれがある上に元旦から三日間は休業するので問題となり、太宗寺になったのであった。
〔参考〕 郷土玩具大成東京篇 新宿区文化財 新宿と伝説

善国寺の毘沙門天像

毘沙門天像 昭和60年7月5日、有形文化財(彫刻)で登録。
遊歴雑記 ゆうれきざっき。著者は江戸小日向廓然寺の住職・津田敬順。文化9年(1812)の隠居から文政12(1829)までの江戸、その近郊、房総から尾張地方に至るまでの名所・旧跡探訪の紀行文。
近代花街年表 おそらく『蒐集時代』の一部でしょう。『蒐集時代—近代花街年表・花街風俗展覽會目録・花街賣笑文献目録』2・3号合輯(粋古堂、1936年。再販は金沢文圃閣、2020年)

 では、有坂与太郎氏の「郷土玩具大成 第1巻(東京篇)」(建設社、昭和10年)317頁の「七福神」についてです。最初は谷中七福で、七福神が初めてこの地に設置されたのです。

 その七福神が江戸に於て初めて設置されたのは元文2年(1737)といわれているが、七福は、俗に谷中七福と呼ばれ、左の五寺院が挙げられている。即ち
  (弁財天)不忍弁天堂(毘沙門)谷中感応寺(寿老人)谷中長安寺(えびす大黒、布袋)日暮里青雲寺(福禄寿)田畑西行庵
 つまりこれを順々に巡って福を得ようというので、その中には多分に遊山気分が含まれている。特にこれが流行したのは寛政の初年(1789)あたりからであったとみえて、同じ五年には山東京伝の「花之笑七福参詣」を筆頭とし類似の青本が数冊上梓されている。

谷中 東京都台東区の地名。本郷台と上野台の谷間に位置する。
青本 江戸時代に出されていた草双紙の一種。人形浄瑠璃や歌舞伎といった演劇や浮世草子に取材したもの、勧化本や地誌、通俗演義ものや実録もの、一代記ものなどがある。

 これは写真の七福神です。高さは13.5糎(cm)しかありません。もう1つ、手に入るのはミニチュアの七福神です。スタンプを押す方がよかったかも。

七福神

 また「享和雑記」にも
  近頃正月初出に七福神参りといふ事始まりて遊人多く参詣する事となれり
とし、屠蘇機嫌で盛り立てた谷中の七福もどうやら本物になつてきたらしいが、好事魔多しとは神仏の方にもあったらしい。文化の初年[1804]、日暮里布袋堂の住職が強盗のために惨殺されたのが七福の挫折する初まりで、布袋の像は駒込の円通寺へ還され、七福が一福欠けて、さしもの初春絶好の遊山気分にひびが入ったのは是非もない盛衰である。

 住職が死亡し、挫折と衰退があり、そこで別の七福神、墨田区の向島七福神が登場します。時代は書いていませんが、おそらく文化元年(1804)頃以降でしょう。

 この機に乗じて興ったのが向島七福神であって、これは肝入りであり、土地開拓者の一人である梅屋鞠塢の宣伝よろしきを得たため加速度に売り出してしまった。
 梅屋鞠塢は仙台の産で、初め堺町の芝居茶屋和泉屋に住み込んでいたが、後、独立して骨董商を営んでいた。晩年、向島に梅屋敷を開いた事もまた七福神を創設した事もすべてこの骨董商時代に知遇を得た文人墨客の力に興って大なるものがあった。即ち、鞠塢が七福設置を企画するに当り、先づ喜多武清の宝船に、角田川七福遊びと憲斎が題をした一枚摺板行した。そして、抱ー蜀山を抱き込み通人雅客清遊地と云う折紙附の芝居を打ったので、「山師来て何やら裁えし角田川」と白猿に難じられながらも、半可な酢豆腐には迎合されるに十分なものがあった。鞠塢自身にして見れば、たただ向島に人がきて呉れればよかったので、どれほど売名的だと云われてもそんな事には亳しも頑着していなかった。文化元年に梅屋を開いた時も、千蔭春海などの歌人を利用して立派に宣伝効果を挙げていたので、七福の受り込みなどは鞠塢にとって寧ろ朝飯前の仕事であつたかも判らぬ。つまり、向島の七福は谷中のそれと相違し、創設の目的が江戸人の吸引策にあったので、七福神の如きも、寿老人の髯から思いついて対象物のない白髭神社を寿老人に見立てたり、前身の骨董商で既に経験済みの、なにやら得体の知れぬ福禄寿をさも有難そうに梅屋敷へ持ち込んだりしてみた。
 こんな具合に鞠塢の手際は頗る鮮やかだったので、終には谷中の七福という母屋を奪って、どっちが本家の如く思惟されるまでになったのは、考えように取っては鞠塢は向島発展の恩人であつたと云う事が出来る。
 天保四年(1833)に上梓された「春色梅兒誉美4編巻8には向島の変遷に就て次のやうな事が語られてある。
 由「イエ向島も自由は自由になりましたネ渡り越の舟が、今じゃア六人でかはり/”\に渡しますぜ
 藤「くわしく穿つの、船人の数まではおれも知らなんだ、昨今まで竹屋を呼に声を枯したもんだっけ、それだから故人になった白毛舎が歌に
◯   文々舎側にて当時のよみ人なりし万守が事なり
    須田堤立つゝ呼べど此雪に
     寝たか竹屋の音さたもなし
 藤「この歌も今すこし過ぐると、こんは山谷舟を土手より呼びて、堀へ乗切りし頃の風情を詠めりと、前書が無いとわからなくなりやす」
 天保頃の向島は既にこういった著るしい推移が見られた。これは勿論、鞠塢の売名的手段がその発展を急速に促したものであると共に、七福神の存続が向島に対する一般の認識を強めさせる一つの原動力となっていたという事は考えるまでもなかった。

おこった おこる。さかんになる。おこす。はじまる。ふるいたつ
肝入り 双方の間を取りもって心を砕き世話を焼くこと。鞠塢氏の百花園が中心となって七福神を立ち上げたのでしょう。
梅屋敷 正式名称は清香庵。伊勢屋喜右衛門の別荘内にあり、300本もの梅の木が植えられ、梅の名所として賑わった。
鞠塢 佐原鞠塢。きくう。江戸後期の文人、本草家。中村座の芝居茶屋に奉公し、骨董店をひらき、財をなし、文化元年、向島寺島村に3000坪の土地を使って花木や草花をあつめ、当初は「新梅屋敷」、後に「向島百花園」で開始。生年は宝暦12年。没年は天保2年8月29日。70歳。「向島百花園」は、昭和13年、全てを東京市に寄付し、現在、都立庭園の1つ。
喜多武清 きた ぶせい。1776-1857。江戸後期の画家
角田川 すみだがわ。隅田川の別表記
憲斎 中川憲斎。なかがわ けんさい。江戸後期の書家。
一枚摺 いちまいずり。紙一枚に印刷すること
板行 はんこう。書籍・文書などを版木で印刷して発行すること
抱ー 酒井抱一。さかい ほういつ。江戸後期の絵師、俳人。
蜀山 蜀山人。しょくさんじん。大田南畝。江戸後期の文人・狂歌師
通人雅客 つうじん。あることに精通している人。がかく。風雅を理解し愛好する人。
清遊 せいゆう。世俗を離れて風流な遊びをすること
白猿 五代目市川団十郎白猿。芭蕉の「山路来て なにやらゆかし すみれ草」をもじって「山師来て 何やら裁えし 角田川」と詠んだ
半可な酢豆腐 知ったかぶりの若旦那が、腐って酸っぱくなった豆腐を食べさせられ、酢豆腐だと答える落語から。知ったかぶり。半可通。
亳しも こうも。「毫」は細い毛の意。少しも。ちっとも。おそらく「亳しも」と書いて「少しも」と読むのでしょう。
千蔭 加藤かげ。江戸中期から後期にかけての国学者・歌人・書家。
春海 村田春海。むらたはるみ。江戸中期・後期の国学者・歌人。
福禄寿 ふくろくじゅ。七福神の一神。幸福・俸禄ほうろく・長寿命をさずける神
春色しゅんしょくうめ兒誉美ごよみ しゅんしょくうめごよみ。人情本。江戸深川の花柳界を背景に描いた、写実的風俗小説。
穿つ 穴をあける。押し分けて進む。人情の機微に巧みに触れる。物事の本質をうまく的確に言い表す。新奇で凝ったことをする。

 ここで、向島七福神の内訳を書いておきます。
角田川七福神(=隅田川七福神)
(夷大黒)東京市本所区向島二丁目 三囲神社
(布袋) 同  本所区須崎町   弘 福 寺
(弁財天)同  本所区須崎町   長 命 寺
(福禄寿)同  向島区寺島町   百 花 園
(寿老人)同  向島区寺島町   白鬚神社
(毘沙門)同  向島区隅田町   多 聞 寺
 では、谷中七福神がどうしているのでしょうか。文化13年(1816)には牛込岩戸町の善国寺がでてきます。善国寺は牛込肴町になったこともあります。明治12年(1879)、復活が企画されましたが、これも失敗。また、明治末期、芝と亀戸の七福神が出ましたが、人気は出なかったといいます。

 こうして、向島の七福は江戸人の春興として最早一つの常識とさえなるに至ったが、一方谷中の七福はどうなったかといえば、十方庵の「遊歴雑記」三編(文化13年、1816)には御府内七福神人方角詣として左の七ヶ所が挙げられている。
(毘沙門)牛込岩戸町   善国寺
(大黒) 小石川伝通院内 福聚院
(福禄寿)田畑村     西行庵
(布袋) 日暮村     妙了院
(寿老人)谷中      長安寺
(弁財天)しのぶ岡    弁天堂
(夷)  浅草寺境内   西の宮
これを一瞥して直ちに感ぜられるのは、創設時代とこれといろ/\な相違が見出される事である。即ち、創設時代から文化13年(1816)まで依然として変らないのは、不忍の弁財天と長安寺の寿老人と西行庵の福禄寿と僅かに三ヶ所で、他は凡て新らしい組織になっている事と、もう一つは、従来は上野の不忍から田畑迄という比較的短距離であったものが、これでは牛込から浅草まで延びている事である。何故こんな変動があったかといえば、これは、前記布袋堂住職の横死に起因しているものであって、この長距離(道程約三里)とこの組織では如何になんでも江戸人を吸収する事が出来ない。これでは急造の向島七福に圧倒されたのも無理からぬ事であり、谷中七福の声誉はこうして徐々に転落の一途を辿るのみとなってしまったのは誠に余儀ない結果であった。所が、明治12年(1879)、不図した事から高畠藍泉等の手により復活が企画され、山下の清凌亭施版で橋本周延画の道案内図が作られたり、清元仲太夫三遊亭金朝等の鳴物入りもあって、ここに華々しく谷中七福は毎度のお目見得をする段取にまで漕ぎつけたのであった。但し、この時組織された七福の顔触れがまた変わっている。
(弁財天)上野不忍    弁天堂
(毘沙門)谷中      感応寺
(寿老人)谷中      長安寺
(布袋) 日暮里     修性院
(大黒) 日幕里     経王院
(夷)  日暮里     青雲寺
(福禄寿)田畑      西行庵
と、こういう具合になっている。この復活は大体に於て当を得ていたが、無論これは一時的現象で殆どアトがつづかなかった。いうまでもなく、向島の七福にも盛衰があって安政の地震(1855年)後は、まさか雑煮腹を抱えて七福詣でもないので、自然閉塞の形となっていたが、これも亦、明治33年(1900)、小松宮殿下御徴行以来、漸く復活の曙光が見え出して来ている。尤も、同じ更生でもこの方は谷中と異り、鞠塢が組織したそのももの顔触れが揃って亳しも変動がなかった。現在、元旦より七日迄、七福の各社寺より尊像が授与される慣例は、この復活の機運が崩した小松宮殿下御徴行以来と云われ、大正12年(1923)の東京震災にも安政の轍を踏まず いよ/\増々盛大に行はれつつある現状に置かれている。
 この向島の七福に倣って、明治の末期、芝と亀戸との二ヶ所に七福神が設置されたが、これらは向島の如く地の利を得ていない事が第一の理由で、世間的には認められずにしまった。従って、七福神といえば、全く向島が独占した形であったが、俄然、昭和7年(1932)に東海七福神が出現するに及んで、七福の氾濫時代を惹起する事となった。こうなってみると、地下の鞠塢に先見の明ありと北叟笑まれても二の句がないかも判らない。
横死 不慮の死。非業の死。天命を全うしないで死ぬこと
声誉 せいよ。よい評判。ほまれ。名声。
高畠藍泉 たかばたけらんせん。明治初期の戯作者と近代ジャーナリスト。
清凌亭 上野の料亭。「佐多稲子の東京を歩く」で詳しい
橋本周延 はしもと ちかのぶ。江戸城大奥の風俗画や明治開化期の婦人風俗画などの浮世絵師。
清元仲太夫 江戸浄瑠璃。江戸浄瑠璃とは江戸で成立か発達した浄瑠璃のこと。
三遊亭金朝 2代目でしょう。落語家。
徴行 びこう。身分の高い人などが身をやつしてひそかに出歩くこと。
北叟笑む ほくそえむ。うまくいったことに満足して、一人ひそかに笑う。
二の句 二の句が継げない。次に言う言葉が出てこない。あきれたり驚いたりして、次に言うべき言葉を失う。

 小松宮殿下が徴行する明治33年(1900)からは、向島七福神が谷中七福などを打ち砕き、独占した形になりました。しかし、昭和7年(1932)には、新しい東海七福神が出現し、これで氾濫時代にはいりました。

 その七福氾濫時代のトップを切った東海七福の企画者はかくいう筆者であるが、生の動機は向島七福の創設当時と一致するもののあった事は断言し得られる。勿論これを企画した筆者は酒落でもなければ戯談でもなく、まして御信心の押売りをしようなどと大それた考えは毛頭持ってなかった。それではどんな所に動機があったかといえば、沈滞しつつある品川を昔の繁栄に引戻そうとした一つの手段に過ぎなかったので、これを設置すればたとえ短時日の間でも他区民が同所へ足を踏み入れるであろうし、それと同時に煙草一ヶ位は売れるに違ひない、そうすれば品川という土地がどれだけ潤うであろうと考えたのが本当であった。
 ほぼ。全部か完全にではないが、それに近い状態。
戯談 ぎだん。冗談。

 昭和8年(1933)には麻布の稲荷七福が出てきます。

 この東海七福の好評だった反響は直ちに昭和8年(1933)の麻布稲荷七福の創設によって現れて来ている。これは十番の末広稲荷の肝入りで、初めは麻布七福神として発表した所、七福が凡て対象のない稲荷を象っため、神社会から難じられ、已むを得ず稲荷の名を冠して麻布稲荷七福と看板を塗り代えたものであった。ここの宝船は皮付きの丸木舟で、尊像は悉く木彫であるが、別に恵比寿に象っている恵比寿稲荷から鯛と宝珠(いづれも土製)を吊した「女男登守」というものが出されている。
象る かたどる。物の形を写し取る。ある形に似せて作る。
悉く ことごとく。全部。残らず。すべて。みな。
宝珠 ほうじゅ。宝石。
女男登守 「男女ともにお守りを授かる」という意味?

 昭和9年(1934)、山の手七福神がついに登場し、柴又の七福神も開設されました。ここで、当時の山の手七福神を書いておきます。
山の手七福神
(昆沙門)東京市牛込区神楽坂上 善国寺内 毘沙門堂
(大黒) 同  牛込区原町        経王寺
(弁財天)同  淀橋区東大久保      巌島神社
(寿老人)同  淀橋区東大久保      法善寺
(福禄寿)同  淀橋区東大久保      豊香園
(夷)  同  淀橋区西大久保      鬼王神社
(布袋) 同  四谷区新宿二丁目     太宗寺

 つづいて昭和9年(1934)、山之手七福と呼ぶものが出現した。これは大久保の中村花秀という俳人の発願であったが、花秀氏の依頼で筆者もこれに関し、最初から七福編成の難局に当たる光栄に浴せしめられた。当初候補に充てられた恵比寿の筑土八幡と布袋の新宿百貨店布袋屋中、筑戸八幡は氏子に反対されて途中から脱したので鬼王神社を以てこれに代え、布袋屋は営業の宣伝に供される恐れがある事と、元旦から三日間休業するため他との統一がとれぬ事とで排除し、太宗寺に交渉して更めて諾を得たものであった。ここの尊像は土製着彩、東海七福の類型であるが、宝船は経木で製られた頗る瀟洒なものである。(尊像授期日、麻布、山之手共に例年元旦より七日迄)
 右の外、昭和9年から柴又七福と称するものが開設された。これは寺院ばかりで編成されたもので、福禄寿は葛飾区新宿町崇福寺、寿老人は同区高砂町観蔵寺、毘沙門は同区柴又題経寺、弁財天は同区柴又町真学院、布袋は同区金町良観寺、恵比寿は同区柴又町医王寺、大黒は同区柴又町宝生院、以上であって、出処からは仕入ものの七福の腰下げが出されている。但し、柴又に限り例月7日に修行されるので、一年に通算すると 12日間腰下げが授与されるという事になる。
 かくして七福の氾濫時代が到達したのである。右の内どれが残ってどれが廃れるかは、かかって将来に対する興味ある問題でなければならぬ。
経木 きょうぎ。杉・檜などの木材を紙のように薄く削ったもの。
腰下げ 印籠いんろう・タバコ入れ・巾着きんちゃくなどのように、腰にさげて携帯するもの。ミニチュア七福神よりも実用性は高いのでは?

「郷土玩具大成」の本は昭和10年(1935)に上梓した約90年昔の本です。七福神が競争する、結構本気で真剣な張り合いでした。しかも、筆者自身が「東海七福神」や「山の手七福神」でダイレクトに出ている。山の手七福神ははるか昔から決めたものではなく、昭和9年に決まったものでした。

神楽坂よ、もう一度|昭和39年

文学と神楽坂

 くず勘一氏の「月刊金融ジャーナル」(金融ジャーナル社)『新・東京散歩』の「神楽坂よ、もう一度」(1964年)です。氏は随筆家で春秋社顧問、著書は「世界名作小説を中心とする文学の鑑賞 小説篇」「若き人々のための文学入門と鑑賞の手引」「文学の鑑賞」など。「金融ジャーナル」では連載『新・東京散歩』(「神楽坂よ、もう一度」のほかに「新宿」「お茶の水」「神田川から隅田川へ」「鎌倉」「池袋」「渋谷周辺」など)を執筆していました。没年は昭和57年6月25日。享年は80歳。

 飯田檎駅は、市ガ谷寄りのお堀端の水際にあった甲武線牛込駅が、関東大震災以後、水道橋寄りに改築されて面目一新し、出入口が二つ出来たために、そのころの評判小説、菊池寛の「心の日月」では、男と女の待合せ場所が、表口と裏口とになってしまい、飯田橋駅ニレジイが発生するというエピソードによって有名になった。今でこそ駅に出入口が二つあるのは少しも不思議ではないが、大正から昭和の始めごろの小駅の出入口は一つしか無かったのである。
 その飯田橋駅の長い廊下のような通路を抜けて、牛込見付のほうへ出てみると、山の手唯一の繁華街であった神楽坂は、この路の一直線上にある。明治・大正のころから神楽坂は、情緒たっぷりな市民の憩いの場であったが、大正十二年の関東大震災で下町を失ってからは、いっそう拍車がかかって、春や夏の宵など、夜店のアセチレン灯の光に映えた町全体は、まるで極彩色の錦絵を眺めるような風情ふぜいがあった。夢二の絵が、もてはやされた時代である。少年たちの瞳は、アセチレンの灯になまめく芸妓たちの褄先つまさきや白い素足におどおどと吸い寄せられたものである。
甲武線 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
心の日月 菊池寛。大日本雄弁会講談社。初版は昭和6年。皆川麗子には親が決めた結婚相手がいるが、嫌悪感は強く、同じ岡山県の学生磯村晃と飯田橋駅で待合せをする。しかし、麗子は飯田橋の改札口、磯村は神楽坂の改札口で待っていたので、数時間後も会えなかった。麗子は丸ビルで中田商事の青年社長の秘書として働くが、社長の妻からは退職するよう言われる。その後、中田社長は離婚する。また麗子は磯村と話し合い、磯村は中田の妹を愛しているので、心の友達として会いたいと答える。最後は麗子は中田社長の勧めで、音楽学校に入ることになる。
ニレジイ フランス語L’élégie。英語ではelegy。悲歌、哀歌、挽歌。
飯田橋駅の長い廊下のような通路 かつての通路。

アセチレン灯 炭化カルシウムCaC2と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるランプ。硫黄化合物などの不純物を含むため、特有のにおいがある。
錦絵 にしきえ。浮世絵版画で、多色ずりの木版画
艶めく なまめく。つやめく。異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。
褄先  着物の褄の先端。

 久しぶりに牛込見付の石崖近くに立って私は暮れなずむ神楽坂の灯を眺めた。法政大・物理大の学生の人並で押しつぶされそうである。石崖につづくお堀の上の土手に、戦前は「この土手に登るべからず警視庁」という、いかめしい制札が建っていて、これが現代俳句の濫觴らんしょうだなどと私たちは皮肉ったものである。その土手に、今では散歩道がついて、学生たちの気取った散歩姿が見られる。土手の登りぎわにある煤けた白亜の逓信博物館の、煤けた白亜に捨て難い風情がある。しかし、情緒・風情などの言葉は既に死語といえそうだ。戦争直後の廃墟のようなただ、、に過ぎなかった神楽坂も、幅広い歩道が完成し、老舗しにせの灯も復活した今は、どうやら生気が甦ったようである。
制札 せいさつ。禁令の個条を記し,路傍や寺社の門前・境内などに立てる札。
濫觴 らんしょう。ものごとの始まりや起源を指すことば
煤けた すすける。すすがついて黒く汚れる。
逓信博物館 京橋区木挽町に逓信省庁舎にあった「郵便博物館」から、大正11年、東京市麹町区富士見町二丁目の建物に移転し「逓信博物館」と改称。1964年(昭和39年)、千代田区大手町の逓信ビルに移転。

 坂の中途の左側に、文人墨客の溜り場であった名物屋という珈琲パーラーがあり、中国の詩人コーエイの若き日の姿も、この辺で見られたものである。その右手の亀井鮨に「そっと握ったその手の中に君の知らない味がある」という平山芦江ろこうの筆になる扁額がかかっていたが、今はどうなったか。さらに四、五軒上には、牛込会館という、一種の貨演芸場があり、私たちは、水谷八重子(井上正夫共演)の「大尉の娘」に涙を流し、「ドモ又の死」や「人形の家」や「青い鳥」などでりきんだり興奮したりして″新時代″を感じたものである。その牛込会館の下は、美容院になり、上は何かの事務所か貸室になっているようであった。神楽坂を登り切ったところ、左ヘ曲がると、三語楼金語楼が活躍した神楽坂演芸場があったが、今は、さむざむと自動車の駐車場か何かの空地になっていた。左側の本多横町の角から三軒目かに山本コーヒー店があり、一杯五銭の渋いコーヒーと、外国航路船の浮袋のようにふとく大きいドーナツが呼びものであった。日本髪で和服の可憐な娘さんが、カウンターにいて、学生たちは胸をときめかしたはずだが、さて、山の彼方の空は、そのころは、いっそう遠かった——のである。
文人墨客 文人と墨客。詩文・書画などの風雅の道に携わる人
名物屋 不明です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では昭和5年ごろ、亀井すしの坂下南では「カフェ神養軒」「はりまや喫茶」「白十字喫茶」しかありません。
コーエイ 詳細は不明。コーエーとも。大正末期から昭和初期にかけて日本語で詩を書いた詩人。
平山芦江 小説家・随筆家。花柳ものが得意で、都々逸の作詞、随筆を残した。第一次『大衆文芸』を創刊。小説『唐人船』『西南戦争』など。生年は明治15年11月15日、没年は昭和28年4月18日。享年は70歳。
扁額 へんがく。室内や門戸にかかげる横に長い額。
大尉の娘 ロシアの詩人プーシキンの完成された唯一の中編歴史小説。1836年に発表。僻遠の地キルギスの要塞に赴任した少尉補グリニョフとミロノフ大尉の娘マリヤとの恋を、プガチョフの叛乱を背景に描く。
ドモ又の死 有島武郎の作品。大正11年(1922)に発表。若い画家5人は1人(ドモ又)を天才として死亡させるが、実は死亡するのは石膏の面で、ドモ又はドモ又の弟となり、モデル(とも子)と結婚する。そして、悪ブローカーやえせ美術愛好家から金をとろうとしている。
人形の家 1879年、ヘンリック・イプセンの戯曲。弁護士の妻ノラは借金のことで夫になじられ、人形のような妻であったことを悟り,夫も子供も捨てて家をとび出す。
青い鳥 モーリス・メーテルリンク作の童話劇。1908年発表。チルチルとミチルは幸福の青い鳥を探しに行く。
美容院 マーサ美容室です。
山の彼方の空 上田敏氏の『海潮音』「山のあなた」からきています。「山のあなたになお遠く「幸」さいわい 住むと人のいう」。詩では「幸福」ですが、ここでは「恋愛」を指すのでしょう。

 その先の沙門天しゃもんてんをまつる善国寺のお隣りには、山の手の洋食の味を誇った田原屋があり、晩年の鷲尾雨工は、この店の酒と料理と雰囲気とを、こよなく愛していたようだ。同じ側に五十鈴といった甘い物屋と鮒忠という鳥料理屋があるが、これは、いずれも戦後派である。その角を左へ、急坂を少し登ると、今はアパートか何かになっているが、山の手の洋画封切場として偉容を誇る牛込館があった。徳川夢声の前のインテリ弁士といわれた藤浪無鳴がここに拠り、やがて夢声も、つづいて奇声と頓才で売出した大辻司郎が、右手を符の上へ突込んで銀幕の前へ、のこのこと現われて大喝采を博した懐しい大正時代。さらに、その以前、隣り上の下宿屋には、宇野浩二広津和郎などの若い文士たちが、とぐろを巻いていたものである。さらに大昔、藁店わらだなといったこのあたりは、由井正雪何何剣客のゆかりの地でもあったらしい。
封切 ふうきり。ふうぎり。封を切る。開封する。(近世、小説本は袋に入れられ発売した)新版の本。新作映画をはじめて上映して一般に見せること。一番館。
藤浪無鳴 活動写真弁士(無声映画の説明者)の1人。映画会社の翻訳を行い、のちに活動弁士になり、初めは浅草の金竜館、のちに新宿の武蔵野館の主任弁士を務めた。徳川無声の兄分で、2人で大正六年三月に帝国劇場でトマス・インス監督の大作映画「シヴィリゼーション」で弁士を行っている。また大日本映画協会を主宰しヨーロッパ映画の輸入に携わった。生年は明治20年8月4日。没年は昭和20年6月11年。享年は59歳。
大辻司郎 漫談家。活動写真弁士。兜町の株屋から弁士に転向し、「胸に一物、手に荷物」「海に近い海岸を」「勝手知ったる他人の家へ」「落つる涙を小脇にかかえ」などという「迷説明」など珍妙な台詞で有名になった。頭のてっぺんから出る奇声とオカッパ頭も有名。昭和27年、日航機もく星号の伊豆大島三原山の墜落事故で遭難死。生年は明治29年8月5日。没年は昭和27年4月9日。享年は55歳。
下宿屋 みやこ館です
とぐろを巻く 蛇などが渦巻状に巻いてわだかまっている。何人かの人が、ある場所に集まって長時間いる。腰を落ちつけて動かなくなる。
何何 不定称。不定の人や物事についていう。あれこれ。

 新宿―水天宮間の都電通りへ出る少し手前の左側に、紅屋という二階建の洋菓子店があり、高級な甘党を喜ばせていた。三階に、東京でも嚆矢といわれるダンスホールがあったが、いつの間にか消え失せ、その後はもっばら味の店としてさかっていた。そのころ一週間に二、三回は必ず二階の隅の卓に、小柄で白髪童顔の老紳士が、コーヒーを喫しながら何かを読んでいるのにぷつかったものだ。その老紳士秋田雨雀に、私は、ここで知り合いになった。
都電通り 現在の大久保通り。
嚆矢 こうし。何かの先がけとなるもの。物事の初め。最初。やじりにかぶらを用いていて、射ると音をたてる矢。昔、中国で、戦争の初めにかぶら矢を射たところから。

 都電通りを渡って、四、五軒目のパン屋通りを左へ入ると、カフエ・プランタンがあった。大麗災で下町を追われたダンディたちのメッカであったカフエ・プランタン。しかし私には、その薄暗い客席が、どうしても馴染なじめなかった。今でこそ町名の区別がなくなったが、この辺は、もととおてらといい、少し横へ曲れば、横寺町になり、飯塚というとぶろく、、、、屋があり、その先の路次の奥に松井須磨子のくびれ死んだ芸術倶楽部があった、ひところは倉庫のようになっていて、子供たちの遊び場であったことを覚えている。今は、もうその場所跡すら誰も知らない。記憶の中に溶けこんでしまっているようだ。この通りを少し歩いた左側に明冶の文豪尾崎紅葉の住んでいた古びた二階家と庭木が、戦争前までは残っていたが、新しい世代には関係のない絵空事とでもいおうか。
 今、この通り寺町(矢来から江戸川方面と早稲田、高冊馬場通りへつづく)は、地下鉄工事でバスなどは一方交通になっているが、ここから神楽坂へかけては、散歩道としても全くよい環境であったのだ。右側にある神楽坂武蔵野館という映画館は、文明館といって、神田の錦輝館とともに東京の映画館の草分けの一つでもあった。
 その隣りに南北社という本屋があり四六判型の「日本」という珍らしい大衆総合雑誌を発行していた。
 昭和の始めごろだったろうか。夜店のバナナの叩き売りとは違う青年のかけ声が聞こえるので、人混みをかきわけて覗いてみると、白皙長髪の青年たちが、部厚い原稿用紙の束をり売りしているのであった。つまり印刷工程を経ていないなまの小説なのである。こういう時代もあったのだ。青年たちの一人は、新しい小説家の金子洋文であった。
錦輝館 きんきかん、1891年10月9日、開業し、1918年8月19日に焼失。多目的会場。明治30年、東京でバイタスコープ(トマス・エジソンが発明したアメリカ最初の活動写真)の初めての映画があった。
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
金子洋文 かねこようぶん。小説家、劇作家。武者小路実篤に師事。労農芸術家連盟を結成。昭和22年、社会党の参院議員を一期務めた。創作集「地獄」「鷗」「白い未亡人」、戯曲集「投げ棄てられた指輪」「飛ぶ唄」「狐」「菊あかり」など。生年は明治27年4月8日。没年は昭和60年3月21日。享年は91歳。

 通り寺町をまっすぐ通り抜けると矢来下に出る。その先が江戸川橋、左へ折れて早稲田へつづくが、矢来下の交番の横手に水守亀之助の家があり、小川未明もこの近所に住んでいて、娘さんの大きな澄んだ眼が印象的だった。矢来通りには東洋経済新報社もあったと思うが、古道具屋が多く「カーネギー曰く、多くの不用品を貯えんよりは有用の一品を求めよ」と大書した看板の店があった。その頃は古道具屋をあさるほどの身分でもなかったから、どんな有用な品があったか知らないが、古道具屋とカーネギーの取り合わせが珍らしく、この店はあまりはやらないのだろうと思ったりした。悠長な時代であった。
 矢来下から引返してだらだら坂を上り、右にそれると新潮社の通りだ。滝沢修が近くに住んでいた。今でも新潮社通いの文士達を時たま見かける。
(筆者は随筆家)

江戸川橋 神田川中流で目白通りの橋。場所は文京区関口一丁目。
水守亀之助 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では、大正11~14年、矢来町3番地中ノ丸2号に住んでいました。昭和3年は矢来町66番地でした(下図)。「ラ・カグ」のあたりです。さらに、昭和6年は弁天町60でしたが、戦災で焼失し、終戦直後は世田谷に疎開したと、地元の人の調査で。概略は明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏といったようです。生年は明治19年(1886年)6月22日。没年は昭和33年(1958年)12月15日。享年は72歳。

昭和5年 牛込区全図 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年から


小川未明 同じく、大正5~6年には矢来町38番地に住んでいました。
カーネギー 実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業。スコットランドで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住。
だらだら坂 矢来通りに相当します。
新潮社の通り 牛込中央通りです。
滝沢修 俳優、演出家。開成中学を卒業後、1924年築地小劇場に入る。昭和22年、宇野重吉らと劇団民藝を創設。映画・テレビドラマへの出演も多い。生年は明治39年(1906年)11月13日、没年は平成12年(2000年)6月22日。享年は93歳。

善國寺(明治時代、昭和初期)

 明治時代の善國寺です。最初は新撰東京名所図会第41編(明治37年)の「善国寺毘沙門堂縁日の図」です。

新撰東京名所図会第41編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

 左から右に見ていきましょう。まず見えるものは縁起のいい餅花もちばなで、ヤナギやミズキなどの木の枝に、紅白の餅や団子を丸めています。鯛や小判、賽、キツネ、「当たり矢」「おたふく」「ひょっとこ」の飾りが下がり、行灯は「商人中」でしょうか。賽銭箱の前で女性2人が拝んでいます。
 その次にのぼりがあり、「奉納 明治三十五年 開運 壬寅 正月」とあり、右側の「開運 毘沙門尊天」と同じものでしよう。
 善国寺は池上本門寺の末寺に当たります。「牛込千部講」というのは法華経8巻を1000回読んで、ご先祖の精霊を供養すること。僧侶100人が2回ずつ読んで200回、これを5日間行って1000回。
 参拝客の中央、メガネの男性がひめ小判守を大事そうに持っています。その奥にはおそらくだてがさがあり、そこで何かを買っている人もいます。右側の屋台はおもちゃ屋でしょう。のぼり鬼などの面、小さな獅子舞や三味線を売っています。その手前の毛氈もうせんの台でも、手ぬぐいをかぶった男性が七福神の人形やおもちゃを柿を持った子供に説明しています。
 これらの露店の奥、本堂前には現在も残る狛虎1匹。右の入母屋の瓦屋根はお守りや縁起物の販売所でしょうか。「神楽坂」の旗、中にも「兼子」「牛込」「名台○○」などの旗があります。
 右上で見切れているのは、たくさんの小さな幟をロープか竹でつなげたものです。「御華◯◯」「牛込芸妓中」「業平吾妻の寿し」「ふくや 業平」「◯し中」「會」「牛込」「◯中形」などです。

 昭和時代になると、次の写真も残っています。

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

善国寺(写真)昭和44年頃 ID 14126-28

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126~28は、善国寺の写真を撮ったものです。撮影の年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。
 この時期、善国寺には昭和45年 ID 8299-ID 8300昭和44年 ID 8271-ID 8272などがあり、これらを元として解説します。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14126 善国寺

 境内の隅から斜めに撮影しています。手前右側の四角い石はおそらく建物の基礎で、戦前にはこの場所には建物があり、東京名所絵図(明治37年)の挿絵には賽銭箱なども描かれています。その奥の建物は基礎がない仮設の小屋と思われ、商店街のセールの福引所などに使われました。
 T字に並んだ敷石は参道です。戦前のものと思われ、凹凸が目立ちます。左手間は毘沙門横丁側の門につながり、左側は本堂(毘沙門堂)に、右は正門に続いています。
 参道の向こうに四角い石があります。このあたりも戦前は建物があったので、礎石の一部かもしれません。左には屋外灯と旗の掲揚塔。さらに左は石虎で、土台に「奉」の一文字が掘られています。
 その奥の手すりは、写真には写っていない石造滑り台から降りてくる子どものための安全柵です。黒っぼい角柱は日よけの支柱で、その足元は砂場。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。いずれも区立毘沙門児童遊園の施設です。
 最も左奥の建物には「易占えきせん/毘沙門天/易断所」という看板がかかり、そこで易者が占っていました。
ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14127 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14128 善国寺

 ID 14127とID 14128は、いずれも北側の正門の外から本堂を見ています。左側にはベンチと、わずかに見えるくじ引き用の抽選器。その上には「餅花もちばな」を模した小さな正月向けの飾り。本来は餅が柔らかいうちに団子にして、花に見立てて木の枝につける冬の風習でした。軒下には提灯が並びます。
 中央の5列の敷石は参道。右は門柱で、大きく欠けているようにも見えます。いずれも戦前から残存したものでしょう、
 屋外灯、石虎、中央奥には本堂と鈴紐すずのお、賽銭箱には右書きで「奉納」と「神楽坂振興会」。石虎の右奥は、背もたれが独特なベンチでしょう。
 参拝者はコートを着ています、時期は年末で「陽差しから見ても、ID 8299と同時撮影でしょう。本堂は昭和46年に再建されるので、その建築前、おそらく昭和44年の年末でしょう」と地元の方。

善國寺。住宅地図。1970年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

若宮町(写真)平成31年 ID 14050

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14050は、平成31年(2019)1月、若宮町から善国寺方面を望んで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む

 新宿区の「新宿区史・昭和30年」「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています。この3枚目(下図)が、実は同じ場所です。時間は65年ほど離れています。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

 中央の「毘沙門横丁」は石畳からアスファルト舗装に変わっています。右側は神楽坂3丁目、左側は若宮町で、町のかつての料亭「松ヶ枝」はクレアシティ神楽坂若宮町というマンションになりました。
 この写真の少し後、2019年(令和元年)7月7日にメロン専門工房「果房 メロンとロマン」が開店しました。場所は右から2軒目(地図のジャスバー「もりのいえ」の隣)です。

若宮町 住宅地図 2017年

善国寺(写真)平成22年 ID 13351

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13351は平成22年(2010年)3月に、神楽坂4丁目にあるちんざんしゃもんてんぜんこくを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13351 神楽坂毘沙門天

 車道はアスファルト舗装、側溝はL型で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色で意味は「駐車禁止」。歩道もアスファルトのインターロッキング(interlocking)ブロック舗装。
 街灯は戦後4代目で、水銀と高圧ナトリウムの2つのランプ。この街灯は令和4年に更新され、古い街灯が本堂前の境内灯として再利用されました。続いて三角コーンがあり、次の標柱の内容はここで解説しています。
 石囲いは無地で、左端に「毘沙門寄席」の看板があります。ちなみに神楽坂毘沙門寄席の第一回は2005(平成17)年11月、22年7月では50回以上だそうです。看板は「七日の出演者」、<昼席 十三時半開場 十四時開演>は五街道彌助、三遊亭遊雀、柳家喜多八、<仲入り>、松旭斉 美智 美登、柳家花緑。<夜席 十八時開場 十八時半開演>古今亭菊六、金原亭馬遊、柳家さん喬、<仲入り>、三遊亭小円歌、林家たい平。下に行って<十三日の出演者 出演順>春風亭一之輔、入船亭扇辰、柳亭市馬、林家正楽、古今亭菊之丞、立川らく次、三遊亭白鳥、古今亭志ん輔、柳亭小菊、立川志らく、<十四日の出演者 出演順>柳家三之助、桃月庵白酒、林屋正雀。その右側に白と青のポスターが2枚、「墓地売出中」と読めます。門前を歩く人は背広、ダウンジャケット、上着を手に持った人などで、肌寒かったと想像します。
 赤い山門は平成6年(1994)に作られたものです。梁の間に「毘沙門天」「善國寺」の提灯が多数。左側の門柱には「毘沙門天」、右側の門柱は「善國寺」と銘板「神楽坂興隆会」。
 山門を潜り、境内にはいると 左の青銅色の屋根は浄行菩薩。境内灯は街灯とは違い、傘と円筒形の照明でした。本堂前の2体の石虎(右は阿形あぎょう、左は吽形うんぎょう)。その右に読めない看板、さらに右には石虎を描いた絵馬やおみくじを結ぶ棚があり、さらにその上は藤棚で、境内はアスファルト舗装されています。さらに右、門脇の石囲いの中はしだれ桜ですが、こちらもシーズン前です。
 最後は本堂(左、おみく[じ]と読める)と庫裏くり(右、住職や家族の住む場所)です。本堂と庫裏とは渡り廊下でつながっています。また庫裏の受付でおみくじが買えます。

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13167~13170

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13167-70はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目などを東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13167 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13168 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13170 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。車道もアスファルト舗装でしたが、コンクリート舗装があるという意見もあります、
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色です。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (テーラー)島(田)
  2. アワヤ(オシャレ洋品 阿波屋)
  3. ▶たばこ
  4. 「福屋不動産 」「毘沙門せんべい」「福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」。無数の字がある。ID 101の説明1の「〇〇〇〇銘茶研究会〇〇」と同じ(大佐和)
  7. 仐とは(きもの)(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 五十(番) 中華料理
  11. 日邦工〇(宮坂ビル)
  12. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 ロッテ商事 おおとり(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID 13174、ID 13176、ID 13178、ID 13180

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13174、ID 13176、ID 13178、ID 13180はカメラを神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)付近に置き、東向き(神楽坂下方向)に撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13174 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13176 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13178 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13180 神楽坂歩行者天国

「神楽坂」交差点(現「神楽坂上」交差点)があり、その交差点の上に信号機があり、信号機には背面板はないようです。神楽坂通りを横断する横断幕「楽しい情緒豊かな歩行者天国」が、左端の標識ポール「神楽坂」につながっています。この標識ポールは昭和20年代に坂上と坂下につくられたもので、坂下は昭和35年頃までに撤去されましたが、坂上はこの写真の時点でもまだ健在でした。寺内横丁の先には「神楽坂通り/美観街」が見えます。さらに遠くの「神楽坂通り/美観街」も見えます。
 交差点に面して「車両通行止 日曜・祝日の 12ー18 牛込警察署長」というバリケード看板が出ています。これは現在の歩行者天国の実施時間(12:00-19:00)とは異なります。当時は夏季と冬季で実施時間を変えていました。よく見るとバリケード看板の「18」のところに貼り紙の跡がみえます。
 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。昭和50年のID 9781など、他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

「神楽坂」交差点・神楽坂5丁目→3丁目(昭和48年)
  1. (車両進入禁止)
  2. ▶道路標識(駐車禁止)0-12 (区間内)
  3. 標識ポール「神楽坂」と横断幕「楽しい情緒豊かな歩行者天国」
  4. (歩行者横断禁止)
  5. 店舗(菊岡三味線店
  6. 店舗(明治牛乳販売所)。店頭に「明治」と書かれた牛乳ビンのコンテナが山積み
  7. 突き出し看板「(大)和田」 壁面看板「大和田」鰻焼(割烹)
  8. 店舗(リード商会)
  9. タカミ(洋品店
  10. 神楽坂通り/美観街
  11. (東洋)飯店
  12. (恵比寿精肉)
    ――寺内横丁
  13. 日本盛 ニホンザカリ 特約店 万長 Bireley’s(酒店)
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 「メガネ」の看板 (タイヨウ)
  2. カーブした矢印らしき照明広告 (「木」偏 パチンコ山水林)
  3. 東電(の)サービスステーション  新宿区神楽坂 
  4. 道路標識の反対側
  5. 神楽坂通り/美観街
  6. 中河電気
  7. 丸越(下図)
  8. 日本酒まつり 鮒(忠)
  9. (パチン)コおおとり。花輪
  10. 善國寺
  11. ▶公衆電話ボックス
  12. 三菱銀行

丸越質店。神楽坂6丁目8。1974年

住宅地図。1974年

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13165~66, ID13171

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13165-66とID 13171-73はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目など東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13171 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13165 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13166 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13172 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13173 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。
 ID 13166の写真では花輪が少なくとも7輪ほど出ています。「祝開店 おおとり 〇〇」と読めます。パチンコ「おおとり」の開店祝いに見えます。
「おおとり」を経営する鳳企業株式会社の会社沿革では

1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン
1969年(昭和44年) 鳳企業株式会社設立
1970年(昭和45年) 新宿西口にパチンコ店『アラジン』オープン
アラジン新宿店2階に焼肉店オープン
1971年(昭和46年) 『北京料理 西口飯店』オープン
1977年(昭和52年) 『アラジン池袋店』オープン
1980年(昭和55年) NASA ビル建設

 地元の方によれば

「1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン」とあります。昭和41年のID 12280にも「おおとり」の看板が写っています。
 パチンコ店では新台入れ替えなどを機に「新装開店」で出玉サービスをうたうことがあったので、この花輪はその種のものと想像されます。5丁目に新たに開店した「山水林」に対抗したものかも知れません。

 ID 12280の写真と住宅地図とは全く違います。住宅地図では昭和47年までは「おおとり」はなく、あるのは「フードセンター」です。しかし、地元の方によれば

ID 12272-73, 75-7612280、12282の縁日(夜店)の写真について念のため撮影年代を再検討しました。
・毘沙門堂の石囲いは再建前のもので、昭和45年以前
・易占の看板は池田信「1960年代の東京」(昭和40年)に酷似
・歩道は文様のない角石で昭和45年より前(ID 8299など)
・「オバケのQ太郎」などのブーム
昭和41年(1966年)という記録に無理はないと思います。

 では、どうして「フードセンター」が住宅地図に昭和39年から昭和47年まで、何年も残ったのでしょう。多分、今のように精密さや正確さは求めていなかったのでしょうか? でも住宅地図の最後に「航空写真一図化一測量修正一調査-トレス一筆耕一仕上。氏名・番地・職種すべて実態調査(足で調べる)。年一回現行維持」と書いてある。う~ん。わかりません。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (カネボ)ウ化粧(品)。尾沢薬局「化粧品/カメラ・材料 尾沢」「
    ――ごくぼその路地
  2. オシャレ洋品(阿波屋アワヤ
  3. ▶たばこ
  4. 福屋不動産 毘沙門せんべい 福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」
  7. 仐(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 おおとり ロッテ商事(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. (ジャウ)トーヤ(果物店)
  11. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

新規街灯と古い街灯

文学と神楽坂

 地元の方が「新規街灯と古い街灯」という記事を書いてくれました。新規街灯といっても普通の街灯もありますが、ユニークな街灯もあるんです。

神楽坂通1-5丁目の街灯が2022年2月に更新されたことは、このブログの記事の通りです。しかし例外的に、古い街灯が残っている場所があります。

【1】神楽坂上交差点

神楽坂通りの最も角になる位置に、古い街灯が一本だけ残っています。ここは遠からず大久保通りの拡幅で道路になる場所なので、更新しても無駄になると考えたのでしょう。

神楽坂上 新旧の街灯

なお神楽坂通りの入り口(坂下)と出口(坂上)の街灯は、他とは違って高い位置に照明があります。また照明の下の横木(神楽坂の旗)がなく、代わりに丸いリング上の金物が上下にあります。これは左右の街灯の間に横断幕をはることを想定したものです。

神楽坂上街灯

大久保通りの拡幅がすめば、神楽坂の出口は高い街灯の場所まで後退し、角の店はコンビニになるのです。

【2】毘沙門天の境内灯

毘沙門天善国寺の本堂の前には、石虎と並んで一対の境内灯があります。この境内灯が、通りの古い街灯に置き換わっています。

毘沙門天境内と街灯2022

毘沙門天境内灯2022

時期は分かりません。ただ2021年6月のストリートビューでは別の境内灯(下図)が写っています。おそらく通りの街灯を取り外したものを再利用したのでしょう。

毘沙門天境内灯2021

善国寺はID 8271-8272では、街灯が円盤形になった後に旧式のスズラン灯を境内灯として使っています。この境内灯は気まぐれ本格派(1977年)(下図)や、ID 9909-9911ID 11481(1986年)では街灯と同じ円盤形に変わっていますが、この時は街灯も円盤形でした。必ずしも街灯を再利用するわけではなさそうです。

気まぐれ本格派 第13話(1977年)

8272b善国寺


ID 8271-8272 境内灯(12)は3つありますが、旧式の鈴蘭灯は中央の青い6角形です。

善国寺参道の石畳

文学と神楽坂

 地元の方が善国寺参道の石畳という随筆を送ってくれました。「毘沙門さまの写真を見ていて発見があったので、まとめました」と、地元の方。

 かつての善国寺の境内は未舗装で、大きな敷石を並べて参道にしていました。全体の様子は新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」の ID 8271-ID 8272(昭和44年頃)が分かりやすいようです。正門から本堂に続く参道と、西側の脇門から庫裏に続く道、あとは境内各所を結ぶ敷石です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

『牛込区史』(臨川書店、昭和5年)と、中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社、昭和46年)に掲載されている戦前の写真は、正門から本堂までずっと5列の石が敷かれています。

東京都旧区史叢刊「牛込区史」臨川書店。昭和5年、昭和60年復刻版。

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

 この敷石は戦後も使われたと想像されます。ID 9503(昭和20年代後半)には、昭和26年(1951年)に再建された木造の毘沙門堂(本堂)が写っています。参道の石畳が、途中でよじれたようになっている部分があります。良く見ると手前から途中までの石敷は5列。よじれたような部分から先は石のサイスが大きくなり、本堂との間は4列です。再建本堂が戦前より小規模で、堂前まで石畳を伸ばしたのかも知れません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 昭和44年(1969年)頃、ID 8245も同様に本堂手前の敷石は4列です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 本堂は、昭和46年(1971年)にコンクリート造で建て替えられ、規模も大きくなりました。この時に敷石を改めたと思われます。昭和54年1月のID 11830では幅の異なる石が左右対称に敷かれ、さらに境石に挟まれている様子が分かります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

 同時期のID 11833では、毘沙門横丁の石囲いに立てかけるように石材が写っています。これが撤去した古い敷石である可能性が高いです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11833 神楽坂5-37 善国寺の横の道

 その後、参道の石畳は敷石6列に改められ、少し全体の幅も広くなったようです。また境内は北西側の側の遊園部分を除いて舗装されて現在に至ります。いつ舗装されたかは分かりませんが、境内にあった駐車場を毘沙門横丁側に移した時か、正門を今の赤い山門に変更した平成6年(1994)かもしれません。

舗装 アスファルト舗装です。

善国寺の舗装


善國寺(写真)昭和54年 ID 11829-11831

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11829~11831は、昭和54年1月、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11830 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11831 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿  b」ID 11829 善国寺毘沙門寄席

 善国寺の境内の石囲いには複数の門があります。当時(昭和54年)は神楽坂通りに三門が開いていました。向かって左側が他の店舗などの門(たとえばスゴオ洋菓子店)、中央は本堂に続く正門(ID 11830「神楽坂」とID 11831「毘沙門天」)、右側は庫裏に続く門(ID 11829「善國寺」)です。ちなみに、毘沙門横丁の側、出世稲荷の奥にも別の通用門があります。今は石囲いの一部を壊して駐車場にしていて、アルミの扉になっています。
「神楽坂」の門には「昭和四十六年五月十二日 児玉誉士夫建(之)」と書いてあります。また、本堂の柱には「来る十一日 歳旦初寅祈願会」の告知看板が出ています。なお、歳旦さいたんの「歳」は地球が太陽を一周する時間で1年間、「旦」は朝になり、つまり「元日の朝」。初寅はつとらとは新年になって最初の寅の日、あるいは、その日に毘沙門天へ参詣すること。賽銭箱には「志納」が書いています。志納しのう金とは信仰心から社寺に納める金、または拝観料です。
 ID 11829 の門柱脇には、蛍光灯のついた常設の「神楽坂毘沙門寄席 月例興行」の案内があります。昭和46年に完成した本堂の1階部分(内陣の下)は「毘沙門ホール」になっています。戦前にもあった寄席の復活の意味で、このホールで定期的に落語の興業がありました。
 撮影時の顔ぶれは「五日六時開演 千円 創作落語会 桂米丸 三遊亭金馬 三遊亭圓歌 林家三平 春風亭柳昇 都合で当分の間 圓右休演」と「廿五日 六時開演 七百圓 金馬いななく会 三遊亭金馬二席他 落語漫才多数助演」でした。
 落語ブームの今では考えられない、かなり豪華な顔ぶれです。なお、林家三平(初代)は1979年(昭和54年)正月に脳溢血で倒れ、翌年にがんで亡くなっています。この落語会に出られたかどうか分かりません。

神楽坂4丁目、5丁目(写真)昭和51年 ID 11482

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482は、昭和51年、神楽坂4丁目から当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)方向を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482 神楽坂

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石があり、車の渋滞はかなり長くなっています。歩道もアスファルト舗装で、看板「まず徐行 あそこに子どもとお年より 牛込警察署」が見えます。街灯は大きな円盤形で、下に「神楽坂通り」、さらにその下に数本の木と人工的な葉があり、また電柱の上には柱上変圧器があります。半袖の人が多いので夏、逆転式一方通行の向きから午後1時以降でしょう。

神楽坂4~5丁目(昭和51年)
  1. 善国寺。4角柱?などが見える部分は児童遊園
  2. レストラン フル(ーツ) 田原屋
  3. パチンコ おおとり
  4. 甘なっと 五十鈴
  5. やきとり(殿)堂 鮒忠
  6. 藁店に入る道のカーブミラー
  7. (中)河電(気)
    ここまで5丁目。ここから6丁目
  8. 遠くに協和銀(行)
  1. 福屋不動産
  2. (毘沙門)せんべい(福屋
  3. 神占 思召し/(福屋ビルテナント「神楽大国」)
  4. (事務用)品(福田屋文具店)
  5. 紳士服(テーラー島田)
  6. 尾)沢薬(品)(ク)ス(リ)尾沢
    ここまで4丁目。ここから5丁目
  7. 工事中(神楽坂コアビル 1978年4月竣工)
  8. 路上に積み荷(魚金鮮魚店)
  9. (か)やの木
  10. (第一勧業信用)組合
  11. (消火栓)

神楽坂まっぷ。1985年

住宅地図。1976年

善國寺(写真)昭和51年 ID 11481

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11481は、昭和51年、毘沙門天善國寺やスゴオ洋菓子店仮営業所などを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11481 神楽坂 善国寺前 スゴオ洋菓子店仮営業所

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建し、昭和46年に今の本堂を建てています。したがって、昭和51年には現在の本堂ができてから5年目になりました。
 左奥には毘沙門横丁という道路があります。車道はアスファルト舗装で、歩道はありません。続けて、側溝、縁石です。
 毘沙門横丁に面して善国寺の脇門があり、大きな鉄枠の門扉が横に開く構造になっています。ここは境内をイベント会場や臨時の駐車場に使う時の入り口です。現在も同じ場所に脇門がありますが、この写真当時より幅が広くなっています。
 境内のスゴオ洋菓子店仮営業所は、ID 9911の竹谷電気工事の仮店舗と同じ建物のようです。続けて利用したのかも知れません。
 スゴオ洋菓子店は4丁目、三菱銀行前にありました。ID 6338(1958年)には古い店舗の看板「純フランス菓子ス(ゴオ)」が見えます。また1977年のTVドラマ「気まぐれ本格派」第10話には新築したビルの1階店舗「洋(菓子) ス(ゴオ) COFFEE」が映っています。この写真の1976年頃は新ビルが完成間近だったと思われます。

楽山旧店舗とスゴオ洋菓子店(後の英和ビル)(TVドラマ「気まぐれ本格派」第10話から。1977年)

 ID 89(1979年)でもスゴオが確認できます。現在はこのビルも取り壊され、隣の楽山と一緒の「楽山ビル」の一部になりました。

神楽坂5丁目(昭和51年)左→右
  1. 電柱1本。上から電柱看板「料亭 松ヶ枝」、蛍光灯、看板「 大久保」、「神楽坂3-7」
  2. 掲示板。上に横書き5文字(ID 8247によれば「新宿区役所」) 、脇に縦書き8文字(「箪笥町特別出張所」か)
  3. 奥に善國寺
  4. 善国寺の脇門。模様はない。
  5. 車両進入禁止マーク。「自転車を除く」
  6. 女性の顔に一見みえるが、多分違う。電気の盤かな?
  7. 石囲いはここで終わり…
  8. 毘沙門天の境内で、スゴオ洋菓子店 仮営業所 洋菓子のスゴオ。店内にはショーケースと化粧箱、右端に人影
  9. 「ゴ」の上に円盤形の境内灯

善國寺(写真)昭和50~51年頃 ID 9909-9911

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909-9911は、昭和50~51年頃、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9909 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9910 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9911 善国寺

「昭和20年の東京大空襲は、首都を火の海と化し、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には地元各位を始め、有縁の方々のご賛助により、威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と善國寺
 戦後の最初の再建は仮堂扱いで毘沙門堂と称し、本格的な再建で本堂が出来たと考えているようです。善国寺は江戸期から「神楽坂の毘沙門様」として知られており、「毘沙門堂」とした方が一般に理解されやすい面もあるでしょう。どちらにせよに本尊は毘沙門天像です。
 1代昔の毘沙門堂は木造でしたが、現在の本堂はコンクリート造です。規模は大きくなり、本尊を安置する内陣は2階になりました。1階は「毘沙門ホール」として会合やイベントに使われます。

毘沙門堂 毘沙門天(多聞天)をまつる堂
本堂 寺院で本尊仏を安置する建物
内陣 本尊仏を安置してある中央部

 本堂の再建と同時期に、境内を囲んでいた石囲いも一新されました。それまでは戦前のもので、1本ずつ寄進者の名が刻まれていました。新しい石囲いは写真でも分かるように、何も刻んでいません。
 境内の本堂前に円盤形の灯りが2灯あります。この時期の神楽坂通りの街灯ととそっくりですが、下部の「神楽坂通り」の四角い照明はありません。ID 8271-8272の建て替え前の境内では、通りの街灯が円盤形になっているのに、本堂前の左右には古い街灯と同じ鈴蘭灯があります。この鈴蘭灯を新しくしたもののようです。現在の境内の灯りは街灯とは違う形になっています。
 ID 9909とID 9911では道路標識の「12-24 駐車禁止」と「歩行者横断禁止」が見えます。これには神楽坂の逆転式一方通行が関係していると思われます。坂下から坂上に向かう12-24は善国寺のある左側に駐車禁止の標識で、0-12は逆側に標識がないといけません。田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02(1984年10月02日)で、反対側の楽山前にある駐車禁止標識が確認できます。
 写真を見ると、のぼり旗「奉献開運大毘沙門 神楽坂」は2つ立っています。さらに「本日 開店 麻雀」もでています。「神楽坂通り」の下には数本の木と竹や笹に似せた人工葉があります。
 ID 9910とID 9911では正門に「神楽坂」と「毘沙門天」、のぼり旗の向こうに石虎が見え、さらに右側に藤棚も見えます。ID 9910のさらに右側に石造りの灯籠(石灯籠)がありますが、現在はなくなっています。
 ID 9911の左側はキリンビールやサッポロビールを積んだトラック、次に電柱広告で「割烹〇〇」「自慢のうぐいす巻 八千代鮨」と読めます。八千代鮨は本多横丁の老舗です。 その奥の「営業所 (竹)谷電気工事 260-682X」は毘沙門天境内にあった仮店舗でしょう。ガラス戸の中には人影も見えます。竹谷電気は神楽坂3丁目にあり、ID 8805-8806(昭和48年)では2階建ての店舗、ID 88(昭和54年)ではビルになっています。現在はファミリーマートやロイヤルホストの入ったビルの一部です。

善国寺(写真)昭和20年代後半 ID 9503

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503は、昭和20年代後半、毘沙門天善國寺を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9503 神楽坂 毘沙門天

 善国寺は昭和20年5月25日夜半から26日早朝にかけて大空襲で焼失、昭和26年、木造の毘沙門堂が再建されました。昭和46年に今の本堂を建てています。
 ID 8245は昭和44年(1969年)頃の写真ですが、違いは確かにあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 前の写真(ID 9503)では鴨居の高さを神前幕で覆っています。賽銭箱は同じ場所にありますが、ID 9503では中央に文様がひとつです。
 向かって左側には礎石の上に防火用と思われる水盤があります。屋根の雨樋の降水を受ける位置にあるようです。また「毘沙門天」の石碑の右側は柵で若木を保護しているように見えます。
 ID 8245では賽銭箱は別のもので「奉納 神楽坂振興会」と書いてあります。鈴紐すずのおが垂れ、本坪鈴ほんつぼすずを鳴らすようになっています。
 正面左右には一対の境内灯が立ち、向かって右側に文化財の木札があります。水盤はなくなり、境内灯の足元に撤去した礎石や壊れた石囲いらしきものがまとめて置いてあります。「毘沙門天」の石碑の右側は藤棚になっています。

善国寺(写真)昭和45年 ID 8299-ID 8300

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8299とID 8300を見ましょう。撮影は1970年(昭和45年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。
 ではID 8299を最初に見ていきましょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8299 善国寺

 季節は冬で、歳末セール中。歩道にはみ出す形で吊り屋根があり、提灯に「夢の歳末市福引所」とあります。
 正門の中の左側の小屋には「神楽坂通り商店会 福引所 入口」。餅花飾りに重なるようにたくさんの小さな電球が見えます。ベンチの広告は「ビタ明治牛乳」。
 福引き所の中にはガラガラと回す多角形の箱(正式名称は「新井式回転抽選器」)があり、壁には上位当選者の貼り紙らしきものも見えます。
 門柱と石囲いはすすけていて、破損も目立ちます。昭和5年刊の「牛込区史」(臨川書店)の写真と比べると、門柱は戦前のままの焼け残り、石囲いは手直しをしたように見えます。石囲いの柱の寄進者の名前ははっきりと見えませんが、拡大すると丸い紋の下に2-3文字が多いので、おそらくは芸妓の名でしょう。
 少なくとも右側の壁の窪みは戦前の写真にはありません。窪みのさらに右には水抜きと思われる穴があり、その上には何か書かれた石版がはめていますが、詳細は不明。
 石囲いの向こうは石造の滑り台(児童遊園)です。
 手前の左側には車道と歩道を区分する1本のガードパイプ、右側は何もありません。

ビタ明治牛乳 ビタミンなど栄養強化系の加工乳でした。

ビタ明治牛乳

 次はID 8300で、正門の右にある脇門を写しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8300 善国寺

 女性が花を売る準備をしています。この露天の花売りは「ほんの数年前、平成が終わる頃まで続いていました」と地元の方。門内の左側にある棚のようなものはID 8271-8272と比べると児童遊園の砂場の日よけです。
 門脇には大きい字で書かれた看板「易占 毘沙門天 易断所 藤墳蕙秀 電話 2〇〇 2769番」との6本線(こう)。さらに右側の7字で書かれた看板はこの写真では読めませんが、田口政典氏の「毘沙門天遠景」の看板には「橘田耳鼻咽喉科」。門の両脇の花屋も分かります。
 歩道にはガードフェンスがあり、車道に小型トラック「いらない水枕 アイスノン」「柴崎医療器KK」。その後ろは日産サニー。
 街灯には「神楽坂通り」、提灯「〇〇歳末市」と餅花飾り。ワイヤーが左右に伸びて提灯5個が下がっています。ただ細いワイヤーには電線が見えないので、提灯が夜に光ることはなかったと思われます。

易占 えきせん。算木さんぎ筮竹ぜいちくを用いてする易の占い。
易断 えきだん。易による占い。運勢、吉凶を判断する
 け。えきで占った結果あらわれるかたち。陰と陽とを示す二種のこうがあり、これを三つ組み合わせたけん・離・震・そんかんごんこんは基本の八卦
 こう。えきを組み立てている横画。陽爻と陰爻の二種がある。
水枕 みずまくら。後頭部の冷却に用いる枕の一種。氷枕こおりまくらは氷を使う。

善国寺(写真)昭和44年 ID 8271-ID 8272

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8271とID 8272を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8272 善国寺

 地元の方から解説を送ってくれました。

 街ゆく人はコートを羽織っているので、季節は冬でしょう。
 3-4階と思われる高い位置から境内全体を撮影しています。門前の店は2階建てばかりだったので、どこから撮影したのか分かりません。同時代のID 101を見ると可能性があるのは尾澤薬局の屋根の上でしょうか。
 境内は多目的に利用されています。
 入口は3カ所。本堂(毘沙門堂)に続く正門(A)、その西側の庫裏くりに続く門(B)、毘沙門横丁から入る脇門(C)です。本堂と庫裏は渡り廊下で結んでいます。
 境内は未舗装ですが、主要施設の間には敷石があります。西門の階段など、場所によってはかなり傷んでいます。毘沙門横丁の敷石は、おそらく左(1)が浄行菩薩、右(2)は建屋がある出世稲荷でしょう。
 正門前の左側に台のようなもの(3)が置いてあります。献灯のローソク台ような感じです。その後ろの石囲いは壊れていて、ナナメの棒のようものも見えます。「1960年代の東京」(毎日新聞社)の1965年の写真では石囲いは正常なので、何かあったのかも知れません。
 正門内の左(4)と本道の左手前(4)は建物の基礎の跡のようになっていて、大きな石も見えます。戦前にあった大道芸や見世物小屋などの常設店の跡かも知れません。語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年、下を参照)には、戦後も境内にダガシヤなどの店があったことが書かれています。
 この写真の空地はイベントやお祭りの御神酒所などに使われたようです。よく考えると神輿の御神酒所を日蓮宗のお寺の境内に置くのはおかしいと思いますが、そんなことは誰も気にしていません。今も4丁目の御神酒所は毘沙門様の中です。地方の名産品セールや6月4日の歯科医師会の無料検診会のようなイベント、選挙の演説会などにも使われています。
 2カ所、旗の掲揚塔(5)が立っています。寺の行事や街のイベントなどでのぼり旗を掲げていたのでしょう。また西の門脇には「易占えきせん/毘沙門天/易断所/藤墳蕙秀」(6)の看板があります。
 境内のかなりの部分は区の児童遊園として貸し出されていて、石造りの滑り台(7)、日よけ(夏場によしずをしく)を備えた砂場(8)、藤棚(9)、ベンチや水飲み場(10)、右下のブランコ(11)が確認できます。
 ID 8245に見うる鈴蘭灯はじめ、雑多な屋外照明(六角形で囲ったもの)(12)が見えます。参拝者用や児童遊園用など、目的に応じてバラバラに整備したのでしょう。
 毘沙門堂は1971年(昭和46年)に建て替えられました。この写真は建て替え直前の様子を残す目的だったかも知れません。児童遊園は小さくなって今もあり、藤棚も形を変えて本堂の手前に残っています。

庫裏 くり。住職やその家族の住む場所

 語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年)では、写真よりも、つまり昭和44年よりも、少し昔に起こったのでしょう。

おびしゃ様のこと
 毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。
 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。
 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行善薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に「頭がよくなりますように」と無理なお願い。
 節分のときは、子守さんと一緒にミカンを拾いに参りました。渡り廊下のところでお顔見知りの小父さんたちが、いつもと違ってちょっと気取った紋付袴姿で(父もその中に)、豆とミカンを投げるのです。それを家へ持って帰り、ミカンを火鉢で焼いていただきます。風邪をひかないオマジナイでした。
 そう、おびしゃ様は神楽坂の子供のディズニーランドだったのです。
 母が子供の頃は、右の御門を入って右手に「万長」さんの箱車が幾つか並ぺて置いてあったそうです。その中で母はおままごとをしていて扉を閉められ「ごめんなさい!」と泣き叫んだとか。私か幼い頃もまだ箱車があったような気がします。 
 これも母の話ですが、裏手には墓所があり夏の夜はお化けごっこをしたとか。また明治か大正の始め頃には、境内に見世物小屋が出ていたとのことでした。
新宿区新小川町ますだふみこ


善国寺(写真)昭和44年 ID 8245

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8245を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 ここで見られる一代昔の善国寺ですが、蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も健在です。
 賽銭箱には「奉納 神楽坂振興会」と書かれています。神楽坂振興会は後の神楽坂通り商店会です。
 右上に屋外灯があり、手前にもポールが立っています。下の1965年の写真(池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008年)を見ると、堂の前に向かい合わせに鈴蘭すずらん灯が立っているのが分かります。

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

 ID 5189ID 5190の神楽坂通りの街灯と比べると、照明部分の形状、柱のすその広がり具合や途中の飾り金物の位置が酷似しており、おそらく同じものでしょう。
 この写真の撮影当時の街灯は大型蛍光灯に更新されています。鈴蘭灯の使用期間は昭和28年(1953)~37年(1962)と短かったので、あるいは更新時に程度のいい鈴蘭棟を毘沙門天の屋外灯に再利用したものかもしれません。

 善國寺住職も「昭和20年の東京大空襲は、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と書いていました。

 さらにその前の、戦前の善國寺です。

新撰東京名所図会第四十一編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

神楽坂3丁目と5丁目(写真)菊まつり 昭和30年 ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID4871、ID 4893、ID 4894、ID 4899は、昭和30年(1955年)「新宿区商店感謝祭新宿菊まつり花自動車パレード」を撮ったものです。まだこれ以上ものはおそらくあると思いますが、ID 4871とID 4894は「神楽坂田原屋前」、ID 4893とID 4899は「三菱銀行神楽坂支店前」と副題が付いています。
 坂下から坂上へのバスやトラックの「商店感謝祭」パレードでした。街灯は昭和28年頃から昭和36年頃まで続いた、鈴蘭すずらんの花をかたどった鈴蘭灯でした。車道は平坦、滑らかで、実線で描いたセンターラインがあり、つまり対面通行でした。電柱の上には細い柱上変圧器があります。電柱は、家のすぐ前に立ち、歩道と車道は境石(コンクリートなどで作った石を埋め込んだもの)をはさんで同じ高さになっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4871 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 神楽坂 田原屋前

 車一台目は区の広報車で拡声器があり、上下に「新宿区商店感謝祭〇」。二台目はオート三輪。三台目は伊勢丹の飾りを乗せたトラック。四台目は花装飾の小型車。五台目のトラックも「新宿区商店感謝祭」。さらに後続車。左端にパレードを追い越している乗用車。
 看板には「田原屋」と「Bireley’s(バヤリース)」。電柱看板の「渡邊家畜病院」と「牛込家畜病院」、遠くに「三菱銀行」と6丁目にあった「鳥羽歯科」。建物は石垣のあるところが毘沙門天、その向こうが三菱銀行。

 地元の方の解説は

 最も印象的なのは三菱銀行の神楽坂支店です。石造りの立派な建物ですが、店内の天井が高く2階建てだったように記憶しています。
 その手前、毘沙門天は石積みの塀があり、戦災の焼け残りと思われます。写真集「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」の「早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)」では、石垣を除いた古い塀が撤去されています。
 電柱看板の「牛込家畜病院」は「山本〇」「袋町」と読めるので、後の山本犬猫病院と思われます。
区の広報車 昭和28年12月、区は広報車を購入し、昭和29年3月、活動開始。

広報車。新宿区勢要覧。昭和32年。

鳥羽歯科 6丁目で協和銀行と反対側にありました。

1960年。住宅地図。

牛込家畜病院 袋町にありました。山本犬猫病院と同じ場所でした。

1964年。住宅地図。

山本犬猫病院 袋町で、以前は日本出版クラブの対面で、牛込家畜病院と同じ場所です。

1980年。住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4893 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 三菱銀行神楽坂支店前

 車一台目は拡声器のあるバスで、トレードマークが「マルブツストアー」で「気楽にお買物が出来る店」「新宿区商店感謝祭」。二台目は三輪トラックで「新宿区 菊まつり」「新宿大通商店会」。三台目はで三越、四台目はJOQRの「文化放送」。少し離れて拡声器があるバス。
 看板には「西條医〇」「太〇朝〇 売〇」、反対側に「川島歯科」。
 建物は「三菱銀行」、続いて地図によれば「サムライ堂」「宮坂金物屋」。車道を子供が三輪車で運転中。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4894 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 神楽坂 田原屋前

 空中に横断幕「追越注意」と提灯の「和装まつり」。
 車一台目の右から区の広報車で「新宿区商店感謝祭〇」「新宿区商店〇〇〇」「感謝祭」、二台目は「感謝祭」。三台目は「お買物は伊勢丹へ」「伊勢丹」「TAN」、四台目は「(感)謝祭」。
 看板は「田原屋」と壁面看板の「田」、電柱看板「牛込家畜病院」、「(掘)田の〇牛 〇〇指定店」、「洋服」「〇〇家具」、和菓子の「五十鈴」、パチンコの変種の「スマートボール リボン」、地蔵坂(藁店)がはいり、本屋の「武田芳進堂」、電柱看板の「川島歯科←」「加藤産(婦人科)」、スタンド看板の「あなたは右側を通って下さい」、店舗2軒、パチンコモナミ、電柱看板の「〇婦人科」、反対側でのぼりの「パイロット高級万年筆」。

 右端の電柱広告は見切れていますが「旅館・和可菜」でしょう。万年筆ののぼり旗は4丁目の福田屋文具店と思われます。福田屋は現在も店はありますが、長く営業していません。
「あなたは右側を通って下さい」の立て看板は、少し時代が違うID 23など複数の写真で見られます。「車は左、人は右」の交通啓蒙用としてある程度の期間、使われたと推測できます。
 藁店の角に「スマートボール リボン」が見えます。ここは昭和20年代には「ノーブル 西沢商店」でした。神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第3集「肴町よもやま話③」では
「ノーブルさんのあとへすぐ鮒忠ですか?/そうですね」。
という話になっています。実際は鮒忠の前にスマートボールがあったわけです。
 和菓子の五十鈴の手前の「牛」「洋品」「家具」の看板は「堀田肉店」です。なぜ洋服や家具があるかと言えば、ここは戦前の「勧工場」のような共同市場形式の店だったからです。建物の中に通路をつくり、そこを区画して小さな店が入っていたそうです。オーナーが「堀田肉店」だったので、近所でもそう認識されていたのでしょう。「神楽坂フードセンター」という地図の記載もありますが、食品関係の店が多かったようです。1970年代にパチンコ店になりました。
(※注・私の母は毎日ここで、食材の買い物をしていたそうです)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4899 新宿区商店感謝祭 新宿菊まつり 花自動車パレード 三菱銀行神楽坂支店前

 1本の横断歩道。
 車一台目の左からバスで「JOQR 文化放送」「新宿区商店感謝祭」。二台目のトラックはモールに隠れてのトレードマークと「新宿区」「(MITSUKOS)HI」「〇で金お〇」。三台目は「新宿大通商店会」「謝祭」「(ま)つり」、四台目は「」、五台目は「〇の国産腕時計 (シ)チズン」。
 看板は「鳥羽歯科」。建物は「三菱銀行」「東京都 おそば 春月」

 中央の「おそば 春月」の看板は、戦前から続く名店です。「東京都」とあるのは、おそらく「麺類外食券」が使える店を示したのでしょう。「かぐらむら。67号」の写真には戦後のものと思われる簡素な街灯と春月の看板が見えますが、かなり外観が違っています。その理由はよく分かりません。
 商店街の売り出しは中元・歳暮に相場が決まっていて、その合間にイベントを挟むのが一般的です。10-11月の菊祭りは、ちょうどそういう季節ですね。「花自動車パレード」って今は聞きませんが、この車列が音楽を鳴らしながらゆっくり進んだと思われます。だから乗用車や自転車が追い越しているのでしょう。
 戦後に発足した新宿区は、明治から「山の手銀座」と呼ばれていた神楽坂地区と、昭和に入ってから急成長した新宿地区の縁が遠かったと言われます。このイベントは両地区を含めて区の商業者の一体感を醸成しようと企画したのでしょう。
 ただ飾りつけは新宿地区が中心です。マルブツ(丸物)は関西の百貨店が戦後に東京進出したもので、現在の伊勢丹新館のところに店があったそうです。他地区の商店街では、新宿のイベントが出張ってきたように感じられたでしょう。神楽坂では別に「和装まつり」をしていて、パレードの見物人が寂しいのも、そうした空気を映したものかもしれません。

車列は全部で10台。
1台目 区の広報車。
2台目 オート三輪。花飾り。
3台目 ダンプトラック。伊勢丹(新宿)の飾り。
4台目 小型の四輪車。花飾り。
5台目 ダンプトラック。シチズン時計(淀橋)の飾り。
6台目 バス。丸物百貨店(新宿)の飾り。
7台目 オート三輪。新宿大通商店会(新宿)の飾り。
8台目 ダンプトラック。三越(新宿)の飾り。
9台目 バス。文化放送(四谷)の飾り。
10台目 バス。
バスはいずれもオープンデッキがあり、イベントや選挙用のものです。