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飯田橋ラムラの「せせらぎ」

文学と神楽坂

地元の方からです

 叙情的なフォークソング『神田川』(昭和48年リリース)が流行していた頃、流域の住人のひとりとして、よくも悪臭漂うドブ川をこんな歌詞に仕立てたものだと作詞家の創造力に感心しました。
 子供時代、神田川の橋にさしかかると手前で深呼吸をひとつして、息を止めて渡ったものです。飯田橋から上流の隆慶橋や石切橋、下流の小石川橋や俎橋(日本橋川)など、どこも悪臭は同じでした。水面が近い橋ほど臭く、橋が高い位置にあって頭上を高速道路が覆わない牛込橋や新見附橋は、むしろ臭くない橋であったと思います。ドブ川に対する地域住民の最大の関心は、大雨で神田川が増水してあふれてしまうことでした。
 要するに、当時の都市河川は「迷惑で、消し去りたい存在」でした。再開発計画で飯田濠の埋め立てが始まった時にも注目されず、一部地権者の反対で再開発が長期に停滞したことで逆に変な関心を集めたように思います。

飯田濠遠景(1977 気まぐれ本格派 9話)この状態で数年間放置された

 再開発に反対した大郷材木店は、かなり前から津久戸町の移転予定地(後の「材木横丁」)を確保していたそうです。その点でも、よく分からない反対運動でした。

ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)29頁 ラムラ 基礎工事風景と鉄骨組み立て風景

 

「自然景観を守れ」という反対派の声に押される形で、東京都は1984年(昭和59年)に完成した再開発ビルの前に「せせらぎ」を設けてラムラの目玉にしました。飯田濠の暗渠の上に清流を模した浅い流れを再現したものです。牛込橋側の小さな滝から水道水を流し、飯田橋側で排水する仕組みでした。小さな中の島や、外堀通りの歩道から流れに下りられる階段も設けました。

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年) 「地区の概況」1頁

ラムラの「せせらぎ」。Google

東京都建設局「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)38頁。現在「滝」は流れていません。

 しかし、この「せせらぎ」に実際に水が流れていたのは、わずかな期間(最初の数年間?)だったように思います。それまでの飯田濠はゴミを運ぶ「はしけ」のたまり場で、川に親しむような場所が求められていたわけではありませんでした。また人工の「せせらぎ」は水道水を多量に使うため、ラムラの店舗や周辺住人の理解を得にくかったようにも思います。
 現在では、せせらぎは石貼の川底がずっと見えている状態です。中の島や歩道につながる階段は今もあります。しかし成長した街路樹の中に埋もれてしまっているように見えます。
 神田川の水質はその後、劇的に改善しました。下水処理場の能力が上がり、きれいな「高度処理水」を多量に川に流すことで淀みをなくしたためと言われます。悪臭も感じられなくなり、実際に神田川に下りられる「親水テラス」が別の場所に作られました。
 飯田濠の再開発反対運動が、都市河川浄化のきっかけになったようには思えません。しかしラムラのせせらぎのコンセプトは、親水テラスの先駆的なものであったとは言えそうです。

悪臭漂う飯田濠を再開発(昭和45-56年)

文学と神楽坂

 昭和45年、朝日新聞に飯田堀は臭いし汚い、との記事が出ました。

 ゆううつな季節
 お堀はゴミ捨て場 

 中央線飯田橋駅。近くの住民は憂うつな思いで夏を迎えようとしている。ホームのすぐ前に広がる通称「飯田堀」の臭気のためだ。この堀は神田川水系の1つで江戸川橋からお茶の水方面に流れる神田川の遊水池的な役割を持っている。しかし流れがごくゆるやかで水も少なく実情はゴミ捨場兼汚水だめと化している。
 住民は口々に憤まんをぶつける。「東京の真中の駅が、いまや一番汚ない駅になっているんです」「飯田橋を渡ってごらんなさい。妊婦なら絶対に吐きますよ」「ナマの汚物が流れ込み、たまっているんですよ」「住民もよくがまんしたけれど、役所もよく放っておいたもんだ」。駅でも弱っている。窓をあけたら食事ものどを通らない。
 堀は公有水面だから国のものだが、管理は都の責任である。とうとう地元、牛込地区連合町会(升本喜兵衛会長)が一万三千人の署名を集めて浄化清掃を都知事などに訴えることになった。新小川町青年部も決議した。「今や世界の東京として誇りを持ち近代化された東京都は誠に結構なことである」という皮肉たっぷりな書出しで始っている。
朝日新聞。昭和45年5月26日

 そこで飯田濠を再開発する計画が出てきます。渡辺功一氏の神楽坂がまるごとわかる本」(けやき舎、2007年)では…

昭和45年(1970)6月に、あらためて都議会へ(飯田濠再開発への)請願が出された。このころの飯田濠は、汚水がたれ流されてドブ川と化し、汚濁と悪臭の発生源となっていた。

 平松南氏の「神楽坂をめぐる まち・ひと・出来事」では……

 神楽河岸はかつてそこに飯田濠があり、JR飯田橋駅のホームに立つと西側の目の前に大きく広がっていた。ちょうどいまのJR市ヶ谷駅ホームやお茶の水のような景観だった。
 ただ濠の水は汚れに汚れていて臭いもあった。

 さて渡辺功一氏の同書によれば…

 飯田濠再開発計画の実態は、千代田区飯田橋、新宿区揚場町、神楽河岸にまたがる飯田橋地区市街地再開発である。都市計画決定は昭和47年7月。計画区域は、飯田濠を埋め立て約千平方㍍を含む2万3千平方メートル。都が地上20階の事務棟と16階の住居棟の高層ツインビルを建設するほか、緑地帯や道路を造成するというものである。

 昭和48年3月31日 飯田濠の埋め立て工事を完了し、さて、再開発を始めましたが、あらゆることがうまくいきません。最初に昭和53年6月、鯉の大量死がありました。

 17日朝、都が再開発事業を進めている国電飯田橋駅わきの飯田濠(ぼり)から神田川にかけて、約1万匹のコイが浮き上がる騒ぎがあったが、付近の住民で作っている「飯田濠を考える会」の千代田区側のメンバーは「これは行政による人災。逃げ遅れたコイに気の毒」と怒っている。一方、新宿区側のある商店主は「コイはこの日照りで酸欠死したのであって、工事とは関係ない」と語るなど、住民たちはコイの大量死にも複雑な反応を示していた。(中略)
 都公害局では、水質検査などを行って原因を調べているが、毒物などは検出されず、飯田濠に入り込んだコイが、潮が引いた際に濠の水位が下がって取り残されて、酸欠状態に陥ったものとみている。
読売新聞 昭和53年6月18日朝刊

東京都建設局再開発部「飯田橋夢あたらし」平成8年。

 大郷材木店は神楽河岸再開発による立ち退きを拒否し、それに対して都が強制代執行するという話まで出ました。

 予定地内の材木店の強い反対で工事が大幅に遅れているが、都は27日までに、この材木店に対し、都市再開発法に基づく異例の強制代執行を発動する方針を固めた。
読売新聞 昭和56年5月28日朝刊

強制代執行 強制執行しっこうとは公法や私法上の義務を国家権力によって強制的に実現する行為。代執行とは、行政庁が義務者に代わってその行為をし、あるいは第三者に行わせ、そのため要した費用を義務者から徴収する行為。

地権者の一人が反対  飯田濠再開発 大喜びの「守る会」
 都の高層ビル建設計画に反対して、「埋め立てられたお濠(ほり)を復元して」と訴えている「飯田濠を守る会」に強力が援軍が現れた。新宿区神楽河岸、材木業大郷実さん(45)で、都の再開発事業にかかる民間地権者3人のうち1人。この大郷さんが事業反対の立場を最終的に表明したからだ。(中略)
(大郷さんの)自宅の裏庭からは、すぐに埋め立てられた飯田濠。わずかに水路が残っているが、そこには都心ではめずらしいわき水があり、水鳥が飛んでくる。「再開発が進められて高層ビルが減っては、こうした光景も……」。守る会の「お濠復活。公園建設」の主張にもつながっていく。守る会側では、大郷さんの姿勢に「百万の援軍だ」と大喜びである。
朝日新聞 昭和53年10月25日朝刊

 しかし、10年に及ぶ抗争はあっという間に終わっていきます。渡辺功一氏の同書では……

 昭和56年(1981)10月20日に、東京都は立ち退きを拒否している新宿区神楽河岸の大郷義道、実親子に対して、10月29日から11月10日にかけて強制代執行をおこなうとの代執行命令書を郵送した。彼らは、話し合いを何十回と重ねてきたか、進展は見られない。これ以上工事を運らせれば事業費がかさみ、公共の福祉に反し、請負業者との契約解除に追い込まれる、と説明する。
 これを受けて大郷側は27日午後、この代執行命令書処分の収り消しと執行停止をもとめる訴訟を東京地裁民事三部に起こした。提訴に対し、泉裁判長は同日午後四時すぎ、大郷実と都側の井手建設局再開発部長ら双方の当事者を同地裁に呼んで事情聴収をおこなった。
 この結果、午後5時すぎ「再開発事業にともなうこのような強制代執行は前例がない」などの判断から、双方の話し合いをもとめ職権によって和解を勧告した。

 朝日新聞(S56/10/30)も読売新聞(S56/5/29)も決着まで詳しく書いています。

せせらぎ12㍍幅に
大郷さん「問題提起果たした」

 都市における「水辺の景観」をめぐって熱い論争の続いていた江戸城の外堀、飯田堀を埋め立てる再開発事業問題が29日、一応の決着をみた。これまでかたくなに都市計画決定は変えられないといい続けてきた都が、わずか8分の1とはいえ堀を残すことに同意。ただ一軒、立ち退きを拒否していた材木商、大郷義道・実さん親子も内容が不満だとして「和解拒否」の形はとりながらも、自主的に立ち退くことを決めた。都の強制代執行の期日が迫る中、最も心配されていた力と力の衝突は完全に回避された。(後略)
朝日新聞 昭和56年5月30日朝刊
 全国初の強制代執行が直前で回避された飯田橋地区市街地再開発事業について、都は28日、代執行の対象だった大郷材木店(大郷義道社長)の支援グループ、飯田濠(ぼり)再開発対策会(川端淳郎代表)と話し合いを行い、飯田濠の一部を開きょとして残す案を提示した。(中略)
 開きょ案は(中略)飯田濠を約50㍍、そのまま残し、一部残っている玉石護岸も生かそうというもの。さらに、この開きょ部分からは、同ビルの前庭地区の下を暗きょで通すが、暗きょの真上に人工せせらぎを作る二重河川方法にする案を示した。大郷さん側が和解の条件とした「堀の水辺の景観を残す」意向を受けたもので、同会議と大郷さん側も、ほぼ同案を受け入れる見通しだ。
読売新聞 昭和56年5月29日朝刊

開きょ 開渠。上部をあけはなしたままで、おおいのない水路。
玉石 たまいし。川や海に産する丸い石。
護岸 ごがん。 海岸、河岸かし、堤防の水流に沿った所を保護して洪水や高潮などの水害を防ぐこと。そのための施設。
暗きょ 暗渠。地下に埋設し、地表にあってもふたをした導水路。

 昭和59年2月、事前の「大規模小売店法(第3条)に基づく事前商業活動調整協議会(商調協)」は結審し、4月、住宅と事務所に入居、9月、セントラルプラザ「ラムラ」は開店。昭和61年3月、事業はすべて完了しました。セントラルプラザの北棟は地上16階、南棟は地上20階です。
 しかし、これだけで終わったわけではありませんでした。平松南氏の同書では……

 そんな日々の中、その中核の拠点である大郷材木店が、強制代執行をさけて市谷に移転を決めてしまった。支援の人たちには寝耳に水の出来事だった。
 いま大郷さんは、神楽坂近くの大久保通りに木材店をもち、市谷駅前には大郷ビルという駅前ビルをたてているが、この移転交渉のいきさつは伝わっていない。
 ただ大郷さんを支援してきた市民運動のグループや労組の外人部隊のひとたちにとっては、自分たちの拳のやり場が消失してしまったわけである。
 藤原さん(当時の東京都環境保全局員)にきくと「地元より外人部隊が多かったから、大郷さんも仕方なかったのかもしれないなあ」と、20年たったいまは淡々とかたった。

 しかし、全くわからなかったという人もいます。坂本二朗氏(「神楽坂まちづくりの会」会長)の「まちづくり うたかたの、語り部」は…

 たった四人の反対の声は、運動と呼べるほどのものではなかったが、濠の場所に土地を持つ地権者が反対側に加わったことで、反対運動は俄然現実味を帯びてきた。近隣住民や労組、学生などさまざまな外部団体が反対派に加わってきて、反対派の勢力は大きな力を得ていた。やがて運動は激しさを増し、強制代執行による機動隊との衝突も想定される事態となっていた。加藤登紀子さんや美濃部亮吉さんも応援に駆けつけていた。代執行の前夜、飯田濠の現場は、ドラム缶に火がたかれ、仮設舞台も用意され、ものものしい雰囲気に包まれていた。たった四人ではじめた小さな反対の声は、大きな時代の渦に呑み込まれつつあった。
 ところがまずいことに、私はこの事態になじめなくなり、さらに具合の悪いことに、当日昼間に自分の結婚式を控えていた。(中略)
 そして一週間の北海道旅行(=新婚旅行)から帰ってきたら、反対運動はすべて終わっていた。もちろん、機動隊との衝突は回避された。私はいまだにその後に何が起こったのか知らない。仲間にも聞きそびれてしまった。

神楽坂1丁目(写真)外堀通り 昭和54年 ID 93

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 93は、昭和54年(1979年)の北東部の神楽坂1丁目で、外堀通りに沿って撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 93 神楽坂入口近く外堀通り

1980年 住宅地図。

1978年 住宅地図。

神楽坂1丁目(昭和54年)
  1. 神楽坂飯店。味自慢、ラーメン。
  2. えぞ松。上に「ラーメン えぞ松。牛丼/餃子/え(ぞ松)」
    下に「手打餃子。ジャンボ 250円。土産 270円」
  3. カレーショップ インドール
  4. そばうどん(立ち食い店)
  5. バラエティスタンド飲食街 (2)階 (トウホウビル通り抜け)
  6. (TORI)NO(喫茶店)
  7. 雀處 の舎〇
  8. 人形の家(純喫茶)
  9. 東京トラベル
  10. 松(村薬局)
  11. (離れて)東海銀行
  1. 神楽坂交差点先100M 白銀町九 フクヤ 神楽坂3-5(地番表示は誤り)
  2. 電柱看板「阿部医院」




  1. 大郷材木店
  2. (離れて)五洋建設

材木横丁|津久戸町

文学と神楽坂

『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)を引用します。坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表、井上元氏はインタラクション社長です。

井上 この先をゆくと、材木屋が見える道に出る。
坂崎 で、『材木横丁』。
井上 安易ですねえ。でも、途中のビルの脇にビーナスの裸像があった。
坂崎 じゃ材木横丁、別称『ビーナス横丁』
井上 う~ん。ま、いいでしょう。

ビーナスの裸像 大久保通りから材木横丁にはいって1分以内、大郷材木店の反対側(OSビル)にあります。

 材木横丁は大郷材木店の名前から出ています。

 大郷材木店は元から持っていた津久戸町の場所に移転しました。しかし、東京都都市整備局Webの「都市計画情報」では相当部分(青色)が新しい道路になります。なんかなあ。でも、残っている土地もあるので、まあ、いいか。