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野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑦

文学と神楽坂

   赤城の丘
 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。
モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
パリ市街の展望 右の写真は「サクレクール寺院を眺めよう!(3)」から。サクレクール寺院からパリを眺たもの。

神田駿河台 御茶ノ水駅南方の地区。標高約17mの台地がある。由来は駿府の武士を住まわせたこと。江戸時代は旗本屋敷が多く、見晴らしがよかった。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。左の写真は戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)から。

 パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮の裏から横寺町に向うために白銀町の高台に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園の前を通ったときであった。
 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町から矢来町に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社脇から、嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。
白銀町の高台 右図は筑土八幡宮から白銀公園までの道路。白銀公園の周りを高台といったのでしょう。
小路 広津柳浪氏や永井荷風氏は左図のように通ったはずです。青丸はおそらく広津柳浪氏の家。しかし、現在は右図で真ん中の道路はなくなってしまいました。そこで、道路をまず北に進み、それから東に入っていきます。  
 戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリの絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスムは藝術的で日本的だと思つた。」

ダリ スペインの画家。シュルレアリスムの最も著名な画家の一人。生年は1904年5月11日、没年は1989年1月23日。享年は満88歳。
シュルレアリスム 超現実主義。芸術作品から合理的、理性的、論理的な秩序を排除し、代りに無意識の表現を定着すること。
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
標石 目印の石。道標に立てた石。測量で、三角点や水準点に埋設される石。多く花崗岩の角柱が用いられる。
石灯籠 日本の戸外照明用具。石の枠に、中に火をともしたもの。
 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭という貸席のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫」の「新体詩同好会」も開かれた家であったが、加能作次郎が昭和三年刊の『大東京繁昌記』山手篇に書いた「早稲田神楽坂」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸や、近松秋江や、加能作次郎自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べりに新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月松井須磨子が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎の「早稲田神楽坂」に書かれている。
日露戦役 明治37年2月から翌年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州の支配をめぐって戦った戦争。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷。それを業とする家。
文庫 明治28年(1895年)、河井醉茗が詩誌『文庫』を創刊。伊良子清白、横瀬夜雨などが活動。
新体詩 明治時代の文語定型詩。多くは七五調。
江戸川の谷 江戸川橋周辺から江戸川橋通りにかけての低地。
江戸川べり 江戸川は現在神田川と呼びますが、その神田川で石切橋の近く(文京区水道町27)に清風亭跡があります。
 清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って矢来町ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町がひろがっている。崖下の小路の銭湯から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋こわきに抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。
 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。
坂道の十字路 正確には十字路ではないはず(図)。ここに「赤城坂」という標柱があります。
左の上り坂を辿って… 下図を参照
銭湯 1967年の住宅地図によれば、中里町の金成湯でしょう。北側の小路には銭湯はなく、中里町13番地にありました。

矢来町|文士罷り通る

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。これは「江戸の名残り」の「矢来町」。

文士罷り通る
 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。

矢来町 下図を参照

名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。
発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 下図を参照

学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治20年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、24年からほぼ10年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治36年3月、本郷区千駄木町へ居を構えた。
竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて18歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正2年のことであった。
矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮


書かでもの記|永井荷風

文学と神楽坂

永井荷風

永井荷風

 大正7(1918)年、永井荷風氏が39歳の時に書いた『書かでもの記』です。矢来町で永井氏と師匠の広津柳浪氏が初めて出会いました。
 永井荷風は小説家で『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』などを執筆、耽美派の中心的存在になりました。また、花柳界の風俗を描写しています。生年は明治12年12月3日。没年は昭和34年4月30日。満79歳で死亡しました。

 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、すだれの月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町うしごめやらいちょうなる広津柳浪ひろつりゅうろう先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしがひとばしなる校舎におもむく日とてはまれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席よせを見歩きたまさかいえにあれば小説俳句漢詩狂歌のたわむれに耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念ようやく押へがたくなりければ遂に何人なんびとの紹介をもたず一日いちにち突然広津先生の寓居ぐうきょを尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしはあらかじめ電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中いまどしんじゅう』、『(くろ)蜥蜴とかげ』、『河内屋かわちや』、『亀さん(とう)の諸作は余の愛読してあたはざりしものにして余は当時紅葉こうよう眉山びざん露伴ろはん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂かぐらざかを上りて寺町てらまちどおりをまつすぐに行く事数町すうちょうにして左へ曲りたる細き横町よこちょうの右側、格子戸造こうしどづくり平家ひらやにてたしか門構もんがまえはなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木すくなからず手水鉢ちょうずばちの鉢前には梅の古木の形面白くわだかまたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人長谷川濤涯はせがわとうがい机を置きぬ。)それより枚立まいだてふすまを境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。とこには遊女の立姿たちすがたかきし墨絵の一幅いっぷくいつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張いっかんばりの極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳のとの境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生へいぜい物に頓着とんじゃくせず襟懐きんかい常に洒々落々しゃしゃらくらくたりしを知るに足るべし。

簾の月 その原稿は今でも行方不明になったままで、荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものだという。
外国語学校 旧制東京外国語学校。現在は東京外国語大学。略称は外語大、外大、東京外大など
たまさか 思いがけず、そのような機会を得る。たまたま
 ぎ。たわむれ。面白半分にふざける
寓居 仮の住まい。わび住まい
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描く
黒蜥蜴 くろとかげ。明治28年発表。醜女お都賀が無頼の(しゅうと)を毒殺し、自殺するまでの人生を描く。
河内屋 かわちや。明治29年発表。封建主義の制度下にある家の問題点を明るみにだす
亀さん 明治28年発表。遊女と遊んだ亀麿は、女性数名に強姦未遂を起こす。一方、遊女は火災で死亡する。
雅俗文 雅俗折衷文。がぞくせっちゅうぶん。地の文は文語文(雅文)で書き,会話は口語文(俗文)で書く文体
格子 対話体 話し言葉(口語文)の文体。
何番地 牛込矢来町3番地中の丸52号でした。3番地は大きすぎて、大正か昭和になってから新しい番地をあてています。では新番地ではどこにあるのでしょうか。「広津和郎の生家」で考えをまとめていて、新番地は73番地でした。
寺町 寺院が集中して配置された町。ここでは牛込区横寺町と通寺町のこと。
格子戸造 こうしどづくり。格子状の引き戸や扉が主の建造物。採光や通風もできる。
門構 もんがまえ。門をかまえていること
蟠り わだかまり。心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など
手水鉢 ちょうずばち。手を洗ったり、口をすすいだりするための水(=手水)を溜めておく鉢。寺社の境内に置かれるほか、茶庭や日本庭園の重要な構成要素
門人 弟子。門弟。門下生。
長谷川濤涯 はせがわとうがい。明治40年から大正2年まで「東京の解剖」「誤られたる現代の女」「海外移住新発展地案内」「婦人と家庭」などを書いています
4枚立4枚立 よまいだち。柱と柱の間に4枚の襖が入るもの
一閑張 竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作り、柿渋や漆を塗る。食器や笠、机などの日用品に使いました。
襟懐 きんかい。心の中。胸のうち。
洒洒落落 しゃしゃらくらく。性質や言動がさっぱりして、物事にこだわらない

神楽坂|アルバム 東京文學散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏が描く「アルバム 東京文學散歩」の「神楽坂」(創元社、1954年)です。

 神樂坂

 神楽坂は明治大正昭和にかけての東京に住む文学者のふるさとのやうなところである。この界隈が文学者に縁を持つやうになつたのは、横寺町尾崎紅葉が住み、矢来町広津柳浪が住み、そこに通ふ若い文人の数も多かつたのにはじまるとも云へるが、又赤城神社の境内の清風亭と云ふ貸席坪内逍遥の芝居台本朗読会や俗曲研究会が催されたり、その他の大小の文学関係の会合が行はれたりしてゐたこともその一つであらう。その清風亭がやがて長生館と云ふ下宿屋に変ってからは、片上伸や後には近松秋江なども住んだことがあつた。

貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷や家。

 大正時代になると矢来町に飯田町から移って来た新潮社が出来、新潮社を中心にこの附近には色々な文士が集つた。同時に島村抱月芸術座が旗上げして芸術倶楽部が出来たのが横寺町である。逍遥や片上伸や抱月などの早稲田大学の教授連の名が出たことでも判るやうに、大正初期になるとこの界隈は早稲田の学生で賑ひはじめた。そこから多くの現代文学の詩人や作家が出たことは今更喋々もあるまい。わけても神楽坂は毘沙門天を中心に花柳粉香の漂ふ町でもあり、ロマンチシズムに胸ふくらませた明治大正の清新な青年文士と、紅袂の美女とのコントラストは如何にも似つかはしいものとなった。
 泉鏡花がすず夫人との新婚生活を営んだのもこの神楽坂であつた。それは明治三十六年頃からのことであるが、その場所は今の牛込見附から神楽坂を登らうとする左側の小路の奥であつたらしい。だが、もはや街は全貌を変へてしまつたので偲ぶよすがとてない。

飯田町 右図で描いたのは昭和16年頃の飯田町です。
芸術座 劇団の名前。1913年、島村抱月氏が女優の松井須磨子氏を中心として結成。
芸術倶楽部 劇場の名前。1915年に発足し、島村抱月氏と女優の松井須磨子氏を中心に、主に研究劇を行いました。
喋々 ちょうちょう。しきりにしゃべる様子。
 かなめ。ある物事の最も大切な部分。要点。
毘沙門天 仏教で天部の仏神。神楽坂では毘沙門天があり、正式には日蓮宗鎮護山善国寺。
花柳 かりゅう。紅の花と緑の柳。華やかで美しいもの。 遊女。芸者。
粉香 ふんこう。おしろいの匂い。女性の色香。
紅袂 「こうべい」「こうへい」「こうまい」でしょうか。国語辞典にはありません。赤いたもと。女性のたもと。
牛込見附 この場合は神楽坂通りと外堀通りを結ぶ4つ角。現在は「神楽坂下」に変更。
小路の奥 神楽坂二丁目22番地で、北原白秋が住んだ場所と同じでした。現在はが立っています。

東京理科大学(物理学校)裏。「アルバム 東京文學散歩」から

 北原白秋の詩に「物理学校裏」と云ふのがある。物理学校の講義の声と、附近のなまめいた街からきこえる三味や琴の音とを擬音風にとりあつかつて、牛込見附の土手下を走る今の中央線の前身の甲武線鉄道カダンスなどのことをも取り入れた、有名な詩である。白秋は神楽坂二丁目のニ十二番地に明治四十一年十月からしばらく住んでゐたのだが、それが丁度今の東京理科大学、以前の物理学校の裏に当る崖の上であつた。
「物理学校裏」と云ふ詩などは特別で、とりたてて神楽坂を文学の題材とした名作が多いと云ふわけではないが、この界隈は震災で焼け残つて以来、ぐんぐんと発展して、一時は山の手銀座とも称され、カフエーや書店をはじめ、学生や文士に縁の深い有名な店が沢山出来たものである。それに夜店が又たのしいものであつた。平和な昭和時代には真夜中かけてそこを歩きまはつた思ひ出が私などにもある。
 何と云つても神楽坂の生命はあの坂である。あの坂を登るとたのしい場所がある、と云ふやうな期待が、牛込見附の方からゆく私には、いつもあつた。
 戦後の荒廃がひどいだけに、神楽坂は又幻の町でもある。

神楽坂より牛込見附を望む

甲武線鉄道 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。明治22年(1889)4月11日に内藤新宿駅と立川駅との間に開通し、やがて御茶ノ水から、飯田町、新宿、八王子までに至りました。1906年(明治39年)に国有化
カダンス 仏語から。詩の韻律、リズム。
震災 大正12年の関東大震災です。
山の手銀座 銀座は下町。神楽坂は山の手。野口冨士男氏の『私のなかの東京』(昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では「大正十二年九月一日の関東大震災による劫火をまぬがれたために、神楽坂通りは山ノ手随一の盛り場となった。とくに夜店の出る時刻から以後のにぎわいには銀座の人出をしのぐほどのものがあったのにもかかわらず、皮肉にもその繁華を新宿にうばわれた」と書いています。詳しくは山の手銀座を参照。
カフエー 喫茶店というよりも風俗営業の店。 詳しくはカフェーを参照。

紅葉の葬儀②|江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏は小説家で、硯友社同人、のちには大衆小説を書いています。1869年9月17日(明治2年8月12日)に生まれ、昭和2年に書いた『自己中心明治文壇史』は貴重な文壇資料になりました。これは尾崎紅葉氏の葬儀の情況です。

坪内先生の卒倒(明治三十六年の冬の下)
 紅葉の死に就て各新聞は競つて記事を精密にした。その葬儀の模様も委細に報導されたので、茲には主として、自己中心で記載するが、贈花其他は可成り長くつゞいた。棺惻に門生逹が左右に別れて從つたが、其中に異彩を放つたのは、瀬沼夏葉女史で、この人はニコライ神學校の教師瀬沼某の夫人で、露國文學に通じ、その飜譯を故人に示しなどしてゐた。
 硯友社員は棺後に直ぐつゞいた。會葬者は一人も殘らず徒歩で青山の齋場まで附随した。高田先生なども無論であつた。
 思案が行列整理の任に當つて「皆二列に並んで下さい。」と無遠慮に觸れて廻つたが、皆その通りにして呉れた。自分は柳浪と並んで行つた。
 川上音二郎藤澤淺二郎二人が、横寺町の某寺門前で、シルクハツトフロツクコートで默送してゐた。行列が神樂坂を降り、堀端を進行中に、陸軍將校が騎馬で通行し掛つて、馬の暴れを鎭め切れず、一寸行列を亂した事があつた。
森鷗外丶丶丶丶騎馬で丶丶丶紅葉の丶丶丶行列を丶丶丶攪亂丶丶さした丶丶丶。」と某新聞に記載したのは、全くの無根で、前記の軍人を鷗外に嵌めて了つたのだ。

ニコライ神学校 千代田区神田駿河台の正教会の大聖堂。正式には東京復活大聖堂。ロシア人修道司祭(のち大主教)聖ニコライ(Nicholas)に由来。
瀬沼某 瀬沼恪三郎かくさぶろうのこと。明治23年、ロシアに留学。キエフ神学大にまなぶ。帰国後、正教神学校教授、校長をつとめる。
二人 「金色夜叉」を演じた役者たちです。
嵌める はめる。ぴったり合うように物を入れる。物の外側にリング状や袋状の物をかぶせる。

 青山齋場は立錐の地も無いまでに會葬者が詰めてゐた。
 硯友社の追悼文は、眉山が書いて、思案が讀んだが、途中から鳴咽して丶丶丶丶丶丶丶丶切々丶丶聽くに丶丶丶忍びず丶丶丶會葬者も丶丶丶丶亦多く丶丶丶涕泣した丶丶丶丶
 突然會葬者中に卒倒者を生じた丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶それは坪内逍遙先生であつた○○○○○○○○○○○○○。それを最初に氣着いて抱き留めたのは、伊臣眞であつた。早速場外へお逹れして、岡野榮の家で靜養されたが、一時は皆吃驚した。(腦貧血を起されたのであつた。)
 次ぎに角田竹冷宗匠が、秋聲會を代表して追悼文を讀んだ。之も亦泣きながらであつた。
 門弟を代表しては鏡花が讀んだ。
 自分は長年、多くの葬儀に列したけれども、紅葉の時の如く會葬者の殆ど全部が、徒歩で以て長途を行き、二列の順をくづさなかつた樣なのは、他に見なかつた。又齋場に於ける緊張味は、殆ど類を見ないのであつた。わざと成らぬ丶丶丶丶丶丶劇的光景丶丶丶丶に富んだ丶丶丶丶のは丶丶故人の丶丶丶徳望の丶丶丶現はれ丶丶丶と見て丶丶丶好からう丶丶丶丶である丶丶丶

青山斎場 現在は青山葬儀所。場所は港区南青山2-33-20。明治34年に民間の斎場として開設。大正14年に旧東京市に寄付。なお、尾崎紅葉の墓は青山霊園で1種ロ10号14側にあります。
秋声会 しゅうせいかい。俳句結社。1895年(明治28)10月、角田竹冷ちくれい、尾崎紅葉、戸川残花、大野洒竹しゃちくらが、日本派以外の新派俳人を広く糾合して創立。その趣旨は、新古調和、折衷主義で、革新的意気に欠け、作句面では遊俳とも称される趣味的傾向が強かった。
宗匠 そうしょう。文芸・技芸などの道に熟達し、人に教える立場にある人。特に和歌・連歌・俳諧・茶道・花道などの師匠。
長途 ちょうと。長いみちのり。遠い旅路。
わざとならず ことさらでない。さりげない。自然な。

尾崎紅葉の臨終③江見水蔭

文学と神楽坂

 江見水蔭氏が『自己中心明治文壇史』で書いた尾崎紅葉氏の臨終の様子です。

   紅葉逝く(明治三十六年の冬の上)

 悲しみの極みの日は遂に来た。十月三十日の朝、紅葉危篤の至急電報が來た。急いで自分は陣屋横町の家を出た。
其頃自動車があれば問題ではないのだが、品川から牛込までは、綱曳の人力車としても相當に時間を要するのだ。
取りあへず品川驛へ駈付けると、其折、山の手線の汽車が入つたので、急いでそれに飛乘り、新宿で又乘替へて、牛込驛で下車したが、此時品川から偶然同行したのは、紅葉夫人菊子の從妹の良人、岸といふドクトルであつた。
硯友社員及び門下生は勿論、角田竹冷長田秋濤齊藤松洲、その他が前後して駈付けて來た。
紅葉の病床は二階の八疊? 我々は階下の一室に詰切つてゐた。看護には菊子夫人を初め親族方が附切りの他に、看護婦二人ゐた。(この内の丶丶丶丶一人が丶丶丶後に丶丶柳川丶丶春葉丶丶夫人丶丶
それから○○○○神樂坂○○○藝妓で○○○相模屋○○○○養女○○である○○○小ゑん○○○といふのも○○○○○枕頭を○○○離れ○○なか○○。(この小ゑんといふのは、明治二十七年の三月三十一日に初めて紅葉と逢つた。それは紅葉が思案風谷及び自分との四人連れで、例の吉熊で小集した時なので。その後一二度社中と共に矢張吉熊へ呼び、四月二十一日には紅葉思案風谷及び自分との四人逹で、相模屋の經營してゐる喜美川といふ待合に遊んだのが深くなる始まりであつた。それからズツト永く續いてゐるのであつた。この小ゑんが紅葉死後、東洋通の某代議士の貞淑なる夫人と成つた。その代議士も先年物故した。)
午後に丶丶丶成つて丶丶丶(何時であつたか記憶を缺ぐ)もう丶丶到底丶丶駄目丶丶だから丶丶丶靜かに丶丶丶暇乞丶丶したら丶丶丶好からう丶丶丶丶といふので丶丶丶丶丶、親族側が先きで有つたらう。それから友人逹が、二階の六疊? の方に入つて待合せ、そこから二人宛組んで、次の間の八疊? の方に行き、生前の△△△告別△△をした△△△。(門生一同を集めて――七たび丶丶丶人間に丶丶丶生れて丶丶丶文章丶丶報國丶丶遺言丶丶した丶丶時に丶丶――ドレ△△を見ても△△△△マヅイ△△△面だなァ△△△△――と死の丶丶前の丶丶諧謔丶丶發した丶丶丶といふ丶丶丶のは丶丶前後丶丶の筈丶丶。)
自分の前には、秋濤と他に一名で、あのノンキ屋の秋濤が涙滂沱で出て來たのが、今も歴々と限前に浮んで来る。それとスレ違ひに自分は柳浪と共に病室に入った。
紅葉は丶丶丶未だ丶丶意識は丶丶丶明瞭で丶丶丶二人の丶丶丶顏を丶丶見て丶丶
遠方を◎◎◎ワザ◎◎/\◎◎……』と云つて丶丶丶その儘丶丶丶眼を丶丶閉ぢた丶丶丶
自分は△△△胸が△△一杯で△△△低頭△△した△△ゞけで△△△一言も△△△發し△△得な△△かつ△△。柳浪も同樣であつた。それで其儘退いて他と入替つた。
遠方をワザ/\とは、明かに自分に向つてゞ。それは其時代としては、品川は東京外で、旅へでも出るツモリで、呑氣に遊ぶ程なのだが。それは丶丶丶紅葉が丶丶丶自分に丶丶丶發し丶丶最後の丶丶丶別れの丶丶丶としては丶丶丶丶何んだか丶丶丶丶餘所行丶丶丶挨拶丶丶の様で丶丶丶自分丶丶としては丶丶丶丶悲し丶丶かつ丶丶
自分は神戸以來、紅葉の感情を害してゐたに相違無かつた。皆それは自分の不德の致す處なので、それには辯解の辭が無いのである。
小波が獨逸滞在中、紅葉が三十五年五月六日夜一時に書いた手紙の中に(『紅葉より小波へ』参照)

(前略)眉山には今だに一會も致さず稀有なるはあの男に御座侯如何致し候つもりにやあれほどの友にてありながら無下にあさましき人に有之侯
水蔭も日増に遠々しく相成はや半年近くも面會不致(下略)

 斯ういふ有樣で、紅葉晩年の親友は大分變つてゐた。(眉山のは、自分のと違つて、明かに理由があつた。それは小波洋行の時、送別會に顏を出さなかったのを紅葉が怒ったので、眉山もツヒ其爲に來難く成つてゐたのであつた。臨終には無論駈付けて來たので、紅葉は丶丶丶我儘丶丶氣儘丶丶丶に就て丶丶丶最後の丶丶丶忠告を丶丶丶試みた丶丶丶此時は丶丶丶眉山も丶丶丶泣い丶丶服膺した丶丶丶丶。)
夜十一時、遂に昏睡に入つた。親族、友人、門生等の多数に取卷かれて、安らかに永き眠りに就いた。自分は丶丶丶此時丶丶釈尊丶丶涅槃丶丶の有樣丶丶丶連想せず丶丶丶丶には丶丶ゐられ丶丶丶なか丶丶

陣屋横町 旧東海道品川宿の1横町。京浜急行新馬場駅の近くで、『東京逍遙』では、ここ。

綱曳の人力車 人力車などで、急を要するとき、かじ棒に綱をつけてもう一人が先引きすること。図を参照。
紅葉の病床 これを参考に。
小えん 神楽坂の芸者で愛人。芸妓置屋相模屋の村上ヨネの養女でした。
喜美川 明治37年の「新撰東京名所図会」では喜美川の所在はわかりませんでした。神楽阪(現在の神楽坂一~三丁目)、上宮比町(現、神楽坂四丁目)、肴町(現、神楽坂五丁目)、通寺町(現、神楽坂六丁目)にはありませんでした。なくなったか、それ以外にあったかでしょう。
暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
告別 別れを告げること。いとまごい。
文章 文を連ねて、まとまった思想や感情を表現したもの。威儀・容儀・文辞などとして、内にある徳の外面に現れたもの。
報国 国恩にむくいるために働くこと。国に尽くすこと。
諧謔 おどけておかしみのある言葉。気のきいた冗談。ユーモア。
滂沱 ぼうだ。雨が激しく降る様子。涙がとめどなく流れる様子。
歴々 はっきりと。ありありと見える。
余所行き よそゆき。よそへ行くこと。外出すること。改まった態度や言葉づかい。
服膺 ふくよう。心にとどめて忘れないこと。
釈尊 しゃくそん。釈迦の尊称。
涅槃 ねはん。煩悩を消して、悟りの境地にはいること。釈迦の死亡。

尾崎紅葉の臨終④伊藤整

文学と神楽坂

 伊藤整氏の『日本文壇史』第7巻(講談社、初版は1964年)では尾崎紅葉氏の臨終を詳しく書いています。

 硯友社の社員は当初は4人でした。明治18年(1885年)2月、大学予備門 (のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)の学生、尾崎紅葉山田美妙石橋思案と高等商業学校(現・一橋大学)の丸岡九華の4人が創立したのです。同年5月、機関誌『我楽多(がらくた)文庫』を発行。以降、同人に巌谷小波(いわやさざなみ)広津柳浪川上眉山らが参加、また紅葉門下の泉鏡花小栗風葉柳川春葉徳田秋声等が加わっています。『我楽多文庫』には小説、漢詩、戯文、狂歌、川柳、都々逸(どどいつ)などさまざまな作品を載せ、その結果、明治20~30年代の文壇の中心勢力になりました。

 玄関の三畳に集っていた七人の弟子たちへも遺言するというので、皆は二階の八畳の病室へ入った。紅葉は目を閉していた。弟子たちが、
「先生、先生」と口々に呼んだ。
 紅葉は目を見開いた。そして言った。
「まづい面を持つて来て、見せろ。」
 一人一人名前を言え、と言われて、一同は次々と「小栗です」、「です」、「徳田です」、「柳川です」と言った。
 それに一つ一つうなずいてから、紅葉は言った。
「お前たち、相互に助け合って、おれの門下の名を辱しめないやうにしろよ。夜中は忙がしい所を毎夜かはるがはる夜伽(よとぎ)に来て呉れて満足した。どうか病気に勝って今一度生き返り、世話をしてやらうと思つてゐたこともあるが、もういかん。これから力を合せて勉強し、まづいものを食っても長命して、ただの一冊一篇でも良いものを書け……おれも七度生れ変つて文章のために尽す積りだから……」
 すすり泣く声か弟子たちの間に起った。

玄関の三畳 後藤宙外氏の『明治文壇回顧録』によれば
半坪程の土間につづく取次の間は、確か二畳であつたと思ふ

 と書き、一方、鳥居信重氏が『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会今昔史編集委員会)で描く尾崎邸の玄関は

畳二枚に板敷1畳分の玄関

と書いてあります。野口冨士男氏の『私のなかの東京』では

面積は三畳でも、そのうちの奥の一畳分は板敷きになっていたので三畳といえば三畳だが、二畳といえば二畳でもあったのである

と書いています。図はここにあります。
七人の弟子たち 七人の名前のうち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉、徳田秋声は正しいと思います。「十千万堂塾」や「詩星堂」に入った人は風葉、春葉、秋声の3人に加えて、白峯、紫明、凉葉でした。これがそうでしょうか。
夜伽 病人の看護、主君の警備などのために夜通し寝ずにそばに付き添うこと。
「直さん、直さん」と妻喜久子の弟の医師樺島直次郎を呼び、モルヒネを多量に注射して死なしてくれ、と言った。樺島直次郎が、あまり興奮するといけない、と言うと、紅葉は憤然として、
「そんなに女々しくちや仕方がない。どうせ命かない者か悶え苦しんで二時間や三時間生きながらへて何になるものか」と言った。
 皆が困り切っていると、彼は言葉をついで、
「理窟の分らぬ奴ぢやないか。この苦しみをして生きてゐたつて、何の役に立つものか。お前等がそんなことを言ふのは。死んだことがないからだ。嘘だと思ふなら死んでみろ」と言った。
 あまり興奮させては、と皆が次の間に下り、樺島直次郎はカンフルにモルヒネを少し入れて注射した。そのあと紅葉は気分が落ちついた。そして何か甘い(あん)のようなものを食べたいと言うので、金鍔(きんつば)を一口食べさせた。
 そのうちに、また小栗、泉と呼ぶので二人が行くと、
「今夜は酒はどうした?」と、いつもの夜伽のことを訊いた。鏡花は、今夜も酒を持って来ました、徳田は、肴として鳥と松茸の煮たのを持って来ました、と言った。
「三十日近くに、えらいな。酒をここへ持って来て飲んだらよからう」と紅葉が言った。
 酒はもう下で皆で飲んでしまった後だったので、改めてそこへ酒を持って来させ、鏡花と風葉の間に置き、紅葉には管で少し口に入れてやり、あとを皆が一口ずつ飲んだ。別れの盃であった。

カンフル 樟脳。しょうのう。医薬名。中枢神経興奮薬で、心運動亢進や血圧上昇をきたす。興奮剤としてカンフル注射液を用いていたが、作用が不確実なため、使用は現在なくなった。
金鍔 小麦粉の薄い皮で餡を包み、刀の鍔に似せて平たくし、鉄板の上で軽く焼いた和菓子

金鍔

金鍔

 そのあとで紅葉が、思案に、
「石橋、是非解剖してくれ」と言った。
 思案が当惑して口ごもると、
「何だ生返事なんかしやがつて。おれを解剖すると新聞屋なんざあ種がふえて喜ぶだらう」と言って微笑した。そのあとで紅葉は、葬式に寝棺を使うと皆より高い位置になって悪いから、駕籠(かご)にしてくれと言い、また遺品の分配のことも言った。朝方の四時半には遺言もお別れも済んだ。
 その頃、突然、すさまじい音を立てて大雨が降りはじめ、雨の中に夜が明けた。
 紅葉が言った。
「石橋、曇天(クラウデイ・ウエザー)だな、なに、(レーン)が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」
 そして彼は顔をしかめた。
 それから彼は牛乳を少し飲んだ。五六人ががりで寝巻や蒲団をすっかり新しく取り替えたあと、紅葉はよく眠った。
 この十月三十日の朝早く打った電報で、 硯友社員の江見(えみ)水蔭(すいいん)川上(かわかみ)眉山(びざん)広津(ひろつ)柳浪(りゅうろう)丸岡(まるおか)九華(きゅうか)たちがまた駆けつけた。外に長田(おさだ)秋濤(しゅうとう)斉藤(さいとう)松洲(しょうしゅう)角田(つのだ)竹冷(ちくれい)などの友人も来た。午後になって、もう駄目だから暇乞いしようと言って、親戚から順に二人ずつ八畳の病室に入った。長田秋濤は涙を滂沱(ぼうだ)と流していた。柳浪と水蔭が一緒に入ると、紅葉は、目を開いて二人を見、
「遠方をわざわざ、……」と言って、すぐまた目を閉じた。柳浪も水蔭も胸が一杯になり、一語も発することかできなかった。眉山が入って行くと、紅葉は、眉山の我がままについて最後に忠告をした。眉山は泣き出した。
 その夜の十一時十五分、潮の引きぎわに、紅葉は昏睡したまま息を引きとった。

暇乞い いとまごい。別れを告げること。別れの言葉。
滂沱 雨の降りしきるさま。涙がとめどもなく流れ出る様子

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑪

文学と神楽坂

 朝日坂を引き返して神楽坂とは反対のほうへ進むと、まもなく右側に音楽之友社がある。牛込郵便局の跡で、そのすぐ先が地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口である。余計なことを書いておけば、この駅のホームの駅名表示板のうち日本橋方面行の文字は黒だが、中野方面行のホームの駅名は赤い文字で、これも東京では珍しい。
 神楽坂口からちょっと引っこんだ場所にある赤城神社の境内は戦前よりよほど狭くなったようにおもうが、少年時代の記憶にはいつもその種の錯覚がつきまとうので断言はできない。近松秋江の最初の妻で『別れたる妻に送る手紙』のお雪のモデルである大貫ますは、その境内の清風亭という貸席の手伝いをしていた。清風亭はのちに長生館という下宿屋になって、「新潮」の編集をしていた作家の楢崎勤は長生館の左隣りに居住していた。

神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。(略)その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

朝日坂 北東部から南西部に行く横寺町を貫く坂
音楽之友社 音楽出版社。本社所在地は神楽坂6-30。1941年12月、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会の合併で設立。音楽之友
牛込郵便局 通寺町30番地、現在は神楽坂6-30で、会社「音楽之友社」がはいっています。
神楽坂口 地下鉄(東京メトロ)東西線で新宿区矢来町に開く神楽坂駅の神楽坂口。屋根に千本格子の文様をつけています。昔はなかったので、意匠として作ったはず。
神楽坂口
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。鎌倉時代の正安2年(1300年)、牛込早稲田の田島村に創建し、寛正元年(1460年)、太田道灌により牛込台に移動し、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔が現在地に移動。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めました。

別れたる妻に送る手紙 家を出てしまった妻への恋情を連綿と綴る書簡体小説
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷やその業
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。
或屋敷 「ある屋敷」というのは新潮社の初代社長、佐藤義亮氏のもので、今もその祖先の所有物です。佐藤自宅

  広津和郎の『年月のあしおと』の一節である。和郎の父柳浪『今戸心中』を愛読していた永井荷風が処女作(すだれ)の月』の草稿を持参したのも、劇作家の中村吉蔵が寄食したのもその家で、いま横丁の左角はコトブキネオン、右角は「ガス風呂の店」という看板をかかげた商店になっている。新潮社は、地下鉄神楽坂駅矢来町口の前を左へ行った左側にあって、その先には受験生になじみのふかい旺文社がある。

今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描きます。
簾の月 この原稿は今でも行方不明。荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものではないかという。
コトブキネオン 現在は「やらい薬局」に変わりました。なお、コトブキネオンは現在も千代田区神田小川町で、ネオンサインや看板標識製作業を行っています。やらい薬局と日本風呂
ガス風呂 「有限会社日本風呂」です。現在も東京ガスの専門の店舗、エネフィットの一員として働き、風呂、給湯設備や住宅リフォームなど行っています。「神楽坂まちの手帖」第10号でこの「日本風呂」を取り上げています。

 トラックに積まれた木曽産の丸太が、神楽坂で箱風呂に生まれ変わる。「親父がさ、いい丸太だ、さすが俺の目に狂いはないなって、いつもちょっと自慢げにしててさあ。」と、店長の光敏(65)さんが言う。木場に流れ着いた丸太を選び出すのは、いつも父の啓蔵(90)さんの役目だった。
 風呂好きには、木の風呂なんてたまらない。今の時代、最高の贅沢だ。そう言うと、「昔はみんな木の風呂だったからねえ。」と光敏さんが懐かしむ。啓蔵さんや職人さん達がここ神楽坂で風呂桶を彫るのを子供の頃から見て育ち、やがて自分も職人になった。

新潮社 1904年、佐藤義亮氏が矢来町71で創立。文芸中心の出版社。佐藤は1896年に新声社を創立したが失敗。そこで新潮社を創立し、雑誌『新潮』を創刊。編集長は中村武羅夫氏。文壇での地位を確立。新潮社は新宿区矢来町に広大な不動産があります。新潮社
旺文社 1931年(昭和6年)、横寺町55で赤尾好夫氏が設立した出版社。教育専門の出版社です。

旺文社

 そして、その曲り角あたりから道路はゆるい下り坂となって、左側に交番がみえる。矢来下とよばれる一帯である。交番のところから右へ真直ぐくだった先は江戸川橋で正面が護国寺だから、その手前の左側に講談社があるわけで、左へくだれば榎町から早稲田南町を経て地下鉄早稲田駅のある馬場下町へ通じているのだが、そのへんにも私の少年時代の思い出につながる場所が二つほどある。

交番 地域安全センターと別の名前に変わりました。下図の赤い四角です。
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。

矢来下

矢来下

江戸川橋 えどがわばし。文京区南西端で神田川にかかる橋。神田川の一部が江戸川と呼ばれていたためです。
護国寺 東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山。
講談社 こうだんしゃ。大手出版社。創業者は野間清治。1909年(明治42年)「大日本ゆうべん(かい)」として設立
講談社榎町 えのきちょう。下図を。
早稲田南町 わせだみなみちょう。下図を。
馬場下町 ばばしたちょう。下図を。

 矢来町交番のすこし手前を右へおりて行った、たぶん中里町あたりの路地奥には森田草平住んでいて、私は小学生だったころ何度かその家に行っている。草平が樋口一葉の旧居跡とは知らずに本郷区丸山福山町四番地に下宿して、女主人伊藤ハルの娘岩田さくとの交渉を持ったのは明治三十九年で、正妻となったさくは藤間勘次という舞踊師匠になっていたから、私はそこへ踊りの稽古にかよっていた姉の送り迎えをさせられたわけで、家と草平の名だけは知っていても草平に会ったことはない。
 榎町の大通りの左側には宗柏寺があって、「伝教大師御真作 矢来のお釈迦さま」というネオンの大きな鉄柱が立っている。境内へ入ってみたら、ズック靴をはいた二人の女性が念仏をとなえながらお百度をふんでいた。私が少年時代に見かけたお百度姿は冬でも素足のものであったが、いまではズック靴をはいている。また、少年時代の私は四月八日の灌仏会というと婆やに連れられてここへ甘茶を汲みに来たものだが、少年期に関するかぎり私の行動半径はここまでにとどまっていて先を知らなかった。
 三省堂版『東京地名小辞典』で「早稲田通り」の項をみると、《千代田区九段(九段下)から、新宿区神楽坂~山手線高田馬場駅わき~中野区野方~杉並区井草~練馬区石神井台に通じる道路の通称》とあるから、この章で私が歩いたのは、早稲田通りということになる。

中里町 なかざとちょう。下図を。
住んで 森田草平が住んだ場所は矢来町62番地でした。中里町ではありません。

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

本郷区丸山福山町四番地 樋口一葉が死亡する終焉の地です。白山通りに近くなっています。何か他の有名な場所を捜すと、遠くにですが、東大や三四郎池がありました。
一葉終焉
岩田さく 藤間勘次。森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生でした。
榎町 えのきちょう。上図を。
宗柏寺 そうはくじ。さらに長く言うと一樹山(いちきさん)宗柏寺。日蓮宗です。
お百度 百度参り。百度(もう)で。ひゃくどまいり。社寺の境内で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すこと。
灌仏会 かんぶつえ。陰暦4月8日の釈迦(しゃか)の誕生日に釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。花祭り。
甘茶 アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを(せん)じた飲料
東京地名小辞典 小さな小さな辞典です。昭和49年に三省堂が発行しました。

手の字|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた「手の字」の場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 が散歩から帰って来て、
「今手の字に寄ったら、尾崎が若い連中をつれて来ていた」など書生に話しているのを聞いたことがあった。
 手の字というのは、肴町の方から通寺町に入って直ぐ左手の路地に屋台を出していた寿司屋で、硯友社の人達はこの寿司屋を贔屓にしてよく出かけて行ったものらしい。
 この手の字はずっと後まであって、近松秋江氏などもよくそこに立寄って、おやじから紅葉の思い出話などを聞いたらしい。私が早稲田を卒業したのは大正二年であったが、その頃もその寿司屋はまだそこに出ていた。

肴町 現在の神楽坂五丁目です
通寺町 現在の神楽坂六丁目です
路地 ろじ。狭い道。「横丁」にも同じようなニュアンスがありますが、「路地」では更に狭く隣接する建物の関係者以外はほとんど利用しない道です。

手の字 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査

 これからは全くの空想ですが、次の場所が正しいと思っています。まず図を見てください。明治29年の東京市牛込区全図の1部です。赤い丸を見ると、ここに道路3本が集まっています。赤丸から西北西に出るのが「通寺町通り」、反対側の東南東にずっと行くと「神楽坂通り」になります。南西南に行くのは江戸時代では「川喜田屋横丁」と呼ばれ、明治時代には無名の路地でした。その中に寿司屋「手の字」(赤棒)があったのでしょう。

 ちなみに昭和6年、横井弘三氏が書いた『露店研究』を読むと、

 まづ牛込郵便局から出発して坂を下らう。右側に寿司、おでん、左側にある、古本、八百屋、ミカン、古本、表札、古本、XX、古着、眼鏡、電気、靴墨、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺刷り、古本、柳コリ(略。ここから愈々露店は両側になる)

 当時の牛込郵便局は現在の「音楽の友社」(神楽坂6-30)にありました。そこから下を向いて右側には露店2店、左側には19店が並びます。この左側の19店は恐らく等間隔に近い形で並んでいたのでしょう。では右側の2店はどう並んでいたのでしょう。しかも右側の1店は寿司が出てきます。これは「手の字」であったのか、違ったのでしょうか。
 明治時代には、この地図で見られるように赤丸から西北西に進む通寺町通りは急に狭くなりました。明治29年の上の東京市牛込区全図ではそうなっています。露店も同じです。赤城神社から出発しても、初めは道路は狭く、当然、露店用の面積も狭く、そのため、露店は一方向だけ、つまり北側だけにできたのではなかったのでしょうか。道路が広くなる赤丸を超えてから、初めて露店は両側にできたのです。つまり、赤城神社から神楽坂の方に来る場合、最初は北側の露店だけがあり、しかし、南側は何もなく、南側にできるのは川喜田屋横丁を超えた所からで、そこに寿司とおでんの2つがあったと考えます。この場合はこの寿司と「手の字」は同じでしょう。
 なお、邦枝完二作の「恋あやめ」(1953年、朝日新聞社)の「新世帯」には「郵便局前の屋台ずし『ての字』ののれんに首を突っ込んで」と書いています。これは少なくとも広津和郎氏が描いた「手の字」ではないと思います。