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矢来町|文士罷り通る

文学と神楽坂

 現在言語セミナー編「『東京物語』辞典」(平凡社、1987年)からです。これは「江戸の名残り」の「矢来町」。

文士罷り通る
 私の生家がある東京牛込の矢来町というところは、ものの本によると、江戸期にお化けの名所だったのだそうである。矢来のもみ並木というと泣く児を黙らせるときの言葉に使われたらしい。樅並木は、今、ほんの名残りという形で残っているが、お化けという言葉はすでにリアリティを失ってしまった。
「幻について」色川武大

罷り通る まかりとおる。「通る」「通用する」を強制し、わがもの顔で通る。堂々と通用する。
 もみ。マツ科の常緑高木。本州中部から九州の低山に生える。

矢来町 下図を参照

名残り ある事柄が過ぎ去ったあとに、なおその気配や影響が残っていること。
リアリティ 現実感。真実性。迫真性。

 もう少しこの文章を読むと(色川武大阿佐田哲也全集・3、福武書店、1991年)

 もっとも、因縁という言葉を上調子に使えば、以下のことを書き記すにいたった発表誌の社屋も、その牛込矢来町に建っている。
 小学校の五年生頃、頻々とズル休みをしたのが祟って父兄呼出しを喰らい、おくれた勉学の埋め合わせに、夜教頭の家に通って特別講習を受けることを命じられた。折角のご配慮であったが、私はそれも途中からズルけて家を出ると映画館や寄席に入り浸ってしまう。
 というのは、私はもともとはきはきしない子供だったが、教頭先生の前にきちんと坐っていると、トイレに行きたい、ということがなかなかいいだせない。そうなるとなおさら行きたくなるもので、ある夜、猛烈な我慢の末に、座布団の上で小便を垂れ流してしまった。しかも、私はなおうじうじとして、失態のお詫びもせずに黙って帰ってきてしまう。それで行きにくくなったこともある。
 矢来町にはその頃、某大名の末裔の広大な邸があり、その裏手の長い塀に沿った小道の向こう側は学校と空地で、ところどころにぽつんと街燈がある。教頭宅からの帰途だから十時近くで、寒い晩だった。私は子供用のマントを羽織っていたが、級友はみなオーバーなので私はその服装が嫌でしょうがなかった記憶がある。
 その道を、ぽっつりと和服の女の人が歩いてきた。変った姿をしていたわけではないが、ただ遠眼に顏が白すぎる。白っぽさが眼につきすぎる。子供心に、おや、と思っているうちに近づき、すれちがった。
 その女の人は、お面をつけていた。
発表誌 昭和54年、「別冊小説新潮」に発表
うじうじ 決断力がなく、思いためらう。ぐずぐず。
某大名の末裔 若狭わかさ国(福井県)小浜藩の酒井邸。
小道 下図を参照

学校 商業学校がありました。

 この本文に対する「解説」は……

 江戸名物の一つ、小浜藩主酒井邸の竹矢来が、明治五年の町名決定に際しそのまま「矢来町」となる。現在の東京の町名で旧地名が残る数少ない町の一つである。
 また明治期の矢来町は、多くの文学者が居住した町としても名高い。「海潮音」の上田敏が明治20年。「今戸心中」の広津柳浪、実子で『神経病時代』の広津和郎が、24年からほぼ10年間居住。その他、小栗風葉川上眉山硯友社組に私小説の極北といわれる嘉村磯多など。
 英国留学より帰国した夏目漱石が、妻鏡子の実家のあるここ矢来町に三ヶ月いて、明治36年3月、本郷区千駄木町へ居を構えた。
竹矢来 竹を縦・横に粗く組み合わせて作った囲い。

 最後は章の脚注です。

*現在でも都心とは思えぬほど静かな住宅街である。矢来町の中心には地下鉄東西線の「神楽坂」駅がある。本来、「矢来町」駅でもよかったはずなのだが、知名度を考えて神楽坂駅としたらしい。もっとも神楽坂の毘沙門天まで僅か二、三百メートルの距離でしかないが。
矢来能楽堂の近くに、新潮社の社屋がある。創設者佐藤義亮が「中央文壇にあこがれて18歳の時、裸一貫で上京して以来、新聞配達をやり、牛乳配達をやり……辛酸を重ね、初め《新声社》を起したが倒産、捲土重来を期し改めて文芸出版社、新潮社を設立」(村松梢風「佐藤義亮伝」)した。出版界に大きなトレンドをつくった新潮社がここに出来たのは大正2年のことであった。
矢来能楽堂 1908年、神田西小川町に舞台を設けたが、関東大震災で焼失。1930年に牛込矢来町60の現在地に移って復興。1945年5月24日、空襲で再度焼失。昭和27年、現在の舞台・建物が完成。
捲土重来 けんどちょうらい。けんどじゅうらい。物事に一度失敗した者が、非常な勢いで盛り返すこと。
トレンド trend。動向。傾向。趨勢。風潮


神楽坂をはさんで|都筑道夫①

文学と神楽坂

 都筑道夫氏は早川書房で「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン」の編集長を勤め、昭和34年、作家生活に入りました、本格推理、ハードボイルド、ショート-ショートと活躍。平成13年には「推理作家の出来るまで」で日本推理作家協会賞賞。

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報から取っています。

   神楽坂をはさんで
都筑道夫
 色川武大さんとは、深いつきあいはなかった。けれど、共有していることがあって、尊敬のまなざしで、遠くから眺めていた。共有していたのは、場所と時間の記憶である。
 東京の新宿区と文京区のさかい目、矢来の坂の上のほうで、色川さんは生れた。私は坂の下のほうで、生れた年もおなじだった。近くの神楽坂の夜店を歩き、はるばる浅草へ遊びにいって、成長してから、おなじように小説家になった。
 もの書きになったのは、私のほうが早く、はじめて顔をあわせたのは、ある推理小説雑誌の編集部でだった。こんど入った色川君、と編集長から紹介されたのだが、私の担当にはならなかったので、ほとんど話はしなかった。したがって、おなじ台地の上と下とで、育ったことは、知らずじまいだった。
 私は麻雀をしないから、阿佐田哲也の小説とは、縁がなかった。色川武大の小説がではじめて、雑誌に写真がのったときに、名前に聞きおぼえがあり、顔に見おぼえがあって、ひょっとすると、と思った。やがてパーティであって、やはり推理小説雑誌の編集者だった色川さんだ、と確認できた。
 印刷会社のひと部屋を借りた編集室で、はじめて顔をあわせてから、二十年はたっていたろう。作品を読んで、牛込矢来の生れらしい、とわかっていたから、そのことが話題になった。以来、色川さんの名前を見ると、江戸川橋から矢来、矢来から飯田橋へかけて、のぼりおりする坂の家なみが、目に浮かんでくる。大学通りの夜店、赤城神社の縁日、神楽坂の夜店、飯田橋をわたって、靖国神社例大祭の露店までが、ひとつひとつ思い出される。

色川さんは生れた 色川氏の誕生は矢来町です。
坂の下のほう 都筑道夫氏によると、誕生は小石川区関口水道町62番地(現在は文京区関口1丁目)でした。
生れた年 2人とも昭和4年(1929年)でした。
もの書きになった 都筑氏がもの書きになったのは昭和24年、色川氏は昭和30年でした。
ある推理小説雑誌の編集部 桃園書房の『小説倶楽部』誌の編集者でしょう
台地 豊島台地です。
阿佐田哲也 阿佐田氏は色川武大氏が麻雀を書くときのペンネーム。
江戸川橋、矢来、飯田橋、大学通り、赤城神社、神楽坂 地図を参照
靖国神社 1859(明治2)年、戊辰戦争による官軍側の死者を弔うため、明治政府が「東京招魂社しょうこんしゃ」を創建。1879年に「靖国神社」と改称
例大祭 その神社の、毎年定まった日に行う大祭。

 私は往時をなつかしんで、言葉による絵として、思い出を書こうとするだけだが、色川さんは過去の記憶、現在の観察のなかに、自分の生きかた、自分のであった人びとの生きかたを、考えようとしていた。逃げ腰にならずに、小説を書いている。だから、傍観者である私は、尊敬のまなざしを、遠くから投げていたのである。
 色川さんは、『怪しい来客簿』のなかの一篇、「名なしのごんべえ」で、神楽坂の夜店を書いている。昭和六年にでた『露店研究』という、横井弘三の著書を援用して、昭和ひとけたの神楽坂に、どんな夜店がならんでいたかを列挙し、自分のみた昭和十年代の店、ひとの記憶を書いている。
 もっと古い資料としては、尾崎紅葉が『紅白毒饅頭』という明治ニ十四年の作品に、毘沙門びしゃもんさまの縁日の露店を記録している。色川さんは利用していないが、参考のために、品物のいくつかを、解説つきで抄録しよう。
 太白飴、これは白い棒餡だと思う。文字焼、お好み焼の一種で、近年、もんじや、、、、という小児なまりの名で、復活した。椎実しいのみ、これは椎の実を炒ったものだろう。説明不要の丹波ほうずき海ほうずき智恵の智恵の板、これはタングラムで、いまは夜店の商品ではない。化物ばけもの蝋燭ろうそく、青い火がとろとろ燃えて、幽霊の影がうつる花火の一種で、神楽坂の夜店では、昭和十年代にも売っていた。現に私が買っている。玻璃がらすふで、これは森村誠一さんが愛用しているガラスペンにちがいない。私が見たのは、たいがい細いガラス棒とバーナーをつかって、実演販売していた。たけ甘露かんろ、砂糖を煮つめて、ゆるい寒天状に冷やしたものを、細い竹筒につめて、穴をあけて吸う。銀流し、銅製品につけて磨くと、銀のように見える液体だ。早継はやつぎ、割れた陶器をつける接着剤である。

http://plaza.rakuten.co.jp/michinokugashi/diary/201511060000/

太白飴 タイハクアメ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴
文字焼 もじやき。熱した鉄板に油を引き、その上に溶かした小麦粉を杓子で落として焼いて食べる菓子。
椎実 椎の果実。形はどんぐり状で、食べられる。
丹波ほうずき 植物のほおづき。京都の丹波地方で古くから栽培されている品種。皮を口に含み、膨らませて音を出して遊ぶ。
海ほうずき うみほうづき。巻貝の卵嚢で同様の遊び方ができる。
智恵の環 いろいろな形の金属の輪を組み合わせ、解く玩具。
智恵の板 正方形の板を7つに切り、並べかえて色々な物の形にするパズル。
タングラム tangram。正方形の板を三角形や四角形など七つの図形に切り分け、さまざまな形を作って楽しむパズル。

http://file.sechin.blog.shinobi.jp/e9394230.jpeg

化物蝋燭 影絵の一種。紙を幽霊・化け物などの形に切り、二つを竹串に挟んで、その影をろうそくの灯で障子などに映すもの
硝子筆 ガラス製のペン
竹甘露 青竹に流し込んだ水羊羹。
銀流し 水銀に砥粉とのこを混ぜ、銅などにすりつけて銀色にしたもの
早継の粉 割れた陶器をつける接着剤
 

怪しい来客簿①|色川武大

文学と神楽坂

 今、私の机の上に、昭和六年刊露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。研究、とあるが、たとえばその道に有名な『香具師やし奥儀書おうぎしよ』(和田信義氏著)のように、俗にいうテキヤの実態を解剖かいぼう探究するというような内容ではない。
 ひとくちに露店といっても、縁日をめあてにするいわゆるテキヤ的なホーへーと、一定の場所に毎日出る商人あきんど的なヒラビとあり、この本は地味なヒラビの方に焦点しようてんを当てて記述してある。横井氏自身が五反田ごたんだで古本の露店をやっていたらしい。
 横井さんは本来は画家で、中年で露店商人に転業した。そう簡単な転業ではなかったと察しられる。で、職を失い、資本もなく、生きる方向を求めてウロウロしている大勢おおぜいの人たちに、思いきって露店商の世界に飛びこむための案内人を買って出ている。いかにも世界的な経済恐慌きようこうに明け暮れた昭和初年の刊行物らしい。冒頭ぼうとうに近い一節をチラリと引用するが、情が濃くて、ヴィヴィッドで、なかなか読ませる記述ぶりである。

 案ずるより産むかやすいよ、さあ、いらっしゃい、決心がつきましたら、なに、こわいことも、面倒なこともありゃしませんよ。
 さあ、しかしですねえ。露店で一家がべていかれたのは震災前後でした。我々は欲ばってはいけませんよ。今日不況ふきようの場合、一店の夜店から、一家三人の生活、五人の生活ができるものなどと、そんな考えをおこしてはいけません。露店は一人一個の生活ができるくらいと思うているべきです。一家三人、四人と喰べていくなれば、夜店を、二か所三か所に出して、一家の者じゅうで働くとか、昼、どこぞへ勤めるとか、妻君が内職するとか、してでなければ、とても生活してゆけるものではありません(私とてべつに煙草屋たばこやをしています)。

『露店研究』 横井弘三著。出版タイムス社。昭和6年。
香具師 縁日・祭礼など人出の多い所で商売する露天商人。
『香具師奥儀書』 正しくは『香具師奥義書』。大正昭和初の香具師事情紹介書。和田信義著。文芸市場社。1934年。
テキヤ 縁日や盛り場などで品物を売る業者。
ホーへー 縁日を目当てにする露店
ヒラビ 「縁日」に対する「平日」。転じて、一定の場所に毎日出る露店
ヴィヴィッド vivid。生き生きとしたさま。ありありと。

怪しい来客簿②|色川武大

 しかし、この本の不思議なところは別にある。当時の東京のさか上野浅草日本橋にほんばし京橋銀座神保町じんぽうちよう四谷よつやから新宿渋谷しぶや道玄坂どうげんざか牛込うしごめ神楽坂かぐらざか人形町大崎おおさき五反田ごたんだ、などの常設露店が、無類の熱心さで一店残らず記録されていて、かなりのスペースがそのことのためにさかれている。
 たとえば神楽坂のこう
 かみ赤城あかぎ神社のあたりから出発して、右側に、寿司すし、おでん。左側に、古本、八百屋やおや、ミカン、古本、表札、古本、古着、眼鏡めがね、電気器具、靴墨くつずみ、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺めいし刷り、古本、やなぎ行李ごうり。ここで肴町さかなまち電車路(現在の大久保おおくぼ通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏ざつとうした。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆なんきんまめ、寿司、古道具、半衿はんえり、ドラ焼、かなばさみのこぎり唐辛子とうがらし、焼物、足袋たび、文房具、化粧品けしようひん、シャツ、印判、ブラッシュ、石膏細工せつこうざいく、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗ちやわんかばん玩具がんぐ煎餅せんべい、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、くし類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆えんぴつ、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子ぼうし洗い、焼物、植木、植木、寿司。
 左側が、茶碗、金物、眼鏡、まくら下駄げた、柱掛け、ブラッシュ、金物かなもの、アルバム、うでゴム、スリッパ、雑貨、絆創膏ばんそうこう、ガラス、メリヤス、雑貨、モダンペン、がまぐち、雑貨、櫛、口絵、玩具、下駄、古本、台、スリッパ、化粧品、古本、万年筆、金魚、草花、鼻緒はなお、ツツジのえだ、メリヤス、エプロン、草履ぞうり、羽織ひも、バナナ、八百屋、刺繍ししゆう音譜おんぷ屏風びようぶメモリーマッチペーパー、下駄、ミカン、古本、呼鈴よびりん反物たんもの、文房具、紙、片布、ゴム紐、肺量器、古本、八百屋、八百屋、新聞、古本、犬の玩具、櫛、納豆、箱、マーク、ブラッシュ、手品、焼鳥、将棋しようぎ、箱、植木、植木、盆石ぼんせき

 神楽坂は大正の震災で下町の盛り場が焼けたことがきっかけになって、人出が盛るようになった。それから大戦争突入とつにゆうするまで、毎夜、散歩の人波で道路がまった。
 私は牛込の生まれで、したがってこの盛り場は我が家の庭のようなものであった。ただし、前記の昭和六年時の露店の様子は、当然いくらかはちがう。一見してすぐに売り手のイメージが出てくるのと、まったくわからないのとある。私が知っているのは昭和十年代の神楽坂である。

上野、浅草、日本橋、京橋、銀座、神保町、四谷、新宿、牛込神楽坂、人形町 下の地図を参照。

渋谷、道玄坂、大崎五反田 さらに南になります。
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つで、牛込の鎮守として信仰を集めた。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
柳行李 コリヤナギの枝の皮をはいで干したものを麻糸で編んで作った収納用の箱。
肴町 現在の神楽坂5丁目
電車路 大久保通りのこと。路面電車(チンチン電車)が走っていました。
白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ このホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
音譜 ①レコード盤。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜。
メモリー 記憶術でしょうか。
マッチペーパー マッチ箱を収集したもの。この頃マッチペーパー(マッチのラベル)の収集が流行した。
反物 和服・帯・夜具などの一枚分に仕上げた布。
肺量器 肺の換気機能を検査する装置。主に肺活量を測定。
マーク 記号。レッテルでしょうか。
盆石 趣のある自然石を盆の上に配して風景を写したもの
大戦争 第二次世界大戦のこと

怪しい来客簿③|色川武大

文学と神楽坂

 べ合せ、というタンカを使う薬売りが坂の途中の小暗いところに居たが、前記にはのっていない。
うなぎ梅干うめぼしを一緒に喰べたら大変だぞ、胃袋いぶくろ梅酢うめずいろに染まってタラタラとくさっちまう――」
「天ぷらを喰ったあと、西瓜すいかを喰った人がいる。このあいだ、その人は、喰って便所へけこんだのが最後だった。大きな音がして、胃と腸が破裂はれつしちまったね――」
 大仰おおぎようなのであるが風采ふうさいのあがらないあか深そうな三十男がやるのでかえって不思議な迫力が出て、何度きいても子供心にひきつけられた。そういう喰べ合せを羅列られつしていって、食当り予防の本を売ったか、薬を売ったか、今記憶かない。
 坂上の音譜売りのおじさんは、舌の裏に小さなふえを入れて、器用にいろいろなメロディを吹いた。汚れたソフトに眼鏡、まるい鼻からまっ黒い鼻毛がき出ており、メロディにつれてその鼻毛がふるえたりした。
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗しょうきさまのようなひげを生やしたおっさんが、あんこまきを焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。
 もう一人、人気者はバナナのたたであった。この商売、当時は新鮮な感じがあり、そのタンカでいつも黒山のように人を集めていた。この吉本よしもとさんは叩き売りで財を作り、『ジョウトウ屋』という果実店を坂上に開いていたが、半年ほど前に亡くなったらしい。

タンカ 啖呵。香具師やしが品物を売るときの口上
梅酢色 「梅酢」とは「梅の実を塩漬にしてしぼり取った汁。酸味が強く、風味がある」。「梅酢色」は定型ではないが、たとえば右図。
大仰 おおぎょう。大げさ。誇大。
風采が上がらない 見た目や服装がぱっとしない。外見が野暮ったい。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
ソフト 「ソフト帽」の略。フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
鍾馗 しょうき。濃いひげをはやした疫病をふせぐ中国の鬼神。(右図)

食べ合わせ 同時に食べると害があると信じられている食品の組み合わせ。
あんこ巻 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子
半年ほど前に亡くなった この本は昭和49年から昭和52年にかけて『話の特集』で連載しています。

怪しい来客簿④|色川武大

 しかし、私にとって一番印象に残っているのは、毘沙門天の石塀のあたりに立っていた南京豆売りのお婆さんであった。
 南京豆ばかりとに限らない。季節によって、玉蜀黍を焼いたり、焼き栗、浅蜊若布など売物が変わる。しかしいつも一品で、他の露天のように三寸と称する陳列台を持たず、ミカン箱二つに板きれをわたし、そのうえに売物を投げだすようにおくだけ。
 コードを頭上に張り、各店いくらかずつ出しあって、裸電球をつけているが、この婆さんのところだけは電球もない。
 乞食同然のまっくろい顔で、夏も冬も紺のに商店の名入りの前かけ、着たきり雀じゃなかったかと思う。
「キッタないねえ――」と私の母親などはその前を通るたびにいった。
「食べものをあっかっていてあれじゃ、売れやしないよ」
 婆さんの方は恬淡としたもので、似たような意味のことを夜店の仲間が注意すると、きまってこういったという。
「儲けなくてもいいンだよ」
 露店には場所割りがあって、多少の変動はありがちだったが、みすぼらしさでNO・1のくせに、婆さんの毘沙門天前の位置は終始不動だった。そこは通りのほぼ中央部で大変にいい場所だったのである。その理由は誰にきいてもはっきりしない。

南京豆 ピーナッツのこと。
浅蜊 あさり。マルスダレガイ科の二枚貝。淡水の混じる浅海の砂泥地にすむ。
若布 わかめ。褐藻綱コンブ目ワカメ属の海藻。
三寸 昔、露店は6尺3寸の大きさだった。この当時には、露店の広さは横2メートル、縦1メートルだった。
 あわせ。裏をつけて仕立てたきもの。表と裏との布地の間に空気層をつくり保温効果を高め、初夏と初秋に着た。
着たきり雀 着たきりの人
恬淡 てんたん。無欲であっさりしていること。

 突然、戦争が終って、焼けたところと焼けないところが、くっきり差がついた。神楽坂は、見渡すかぎりの焼野原であった。一時期、歩く人もまったくなかった。(中略)
 安田銀行の筋向かいに小さな映画館があり、焼失して映写室の外郭だけになっていたが、その中から、根強く生き残ったきのこのように、南京豆の婆さんが現われたのには驚いた。
 おそらく、誰にもことわらずに入りこんでしまったのだろう。が、そんなことはどうでもよい。私は祝盃しゆくはいをあげたいような気分になった。そうしてまた、生きていたと知ると、なんだかまがまがしいものがそこに居るような、気がかりな気分になる。
 不気味なものというものはやはりこの世にあるのであり、それどころか、人間が本当に生きようとすると、恰好が整わなくなって化け物のようにならざるをえない。大仰であろうか。
 婆さんは、あいかわらずぶあいそな顔つきで、苦行僧のような感じだった。私はその映写室をのぞいたことはないが、フィルムを映写する小さないくつかの穴以外、窓もなく、夏は風呂ぶろのようであり、冬は冷蔵庫のように冷えただろう。婆さんの持物はコンクリートのゆかの上に敷く茣蓙ござと、玉蜀黍時代からの七輪一個だけで、電気もなかった。
 そんなに条件が悪くても、この新居が気に入っていたようで、夜店仲間の近藤さんなどと顔を合わせると、
「遊びにおいでよ――」
 と誘ったという。
 うんざりするほど長年月の時、係累けいるいを作らず、ペットすらなしですごしてきたこの人物が、ときにつぶやく「遊びにおいでよ――」というセリフは、ぜひ一度私もきいておきたかった気がする。
 婆さんはかつぎ屋などして細い生計をたてていたようだが、焼跡が旧に復し、映写室もとりこわされる頃、忽然こつぜんと姿を消した。方面委員の手で養老院に送られ、そこではじめてせきを切ったようにがっくりとおとろえ、まもなく板橋の病院に廻されたという。今度の調べで、やっと彼女のせいだけはわかったが、わざとここには記さない。

安田銀行 現在薬屋さんが入っている神楽坂上交差点の西端。下図を参照。
映画館 神楽坂上交差点の東端に東宝映画館があった。

祝盃 祝いの酒を飲むさかずき。
まがまがしい 禍禍しい。不吉な。悪いことが起こりそうだ。
気がかり どうなるかと不安で、心から離れない様子
苦行僧 悟りを開くために厳しい修行をする人。山野を歩いて修験道を修める行者。
蒸し風呂 四方を密閉し湯気を出して体を温める風呂。
七輪 土製のこんろ。煮るのに炭の単価が七厘ですむことから。
玉蜀黍 とうもろこしのこと
係累 心身を拘束するわずらわしい事柄。面倒を見なければならない親・妻子など。
かつぎ屋 食料を生産地から運んできて売る人。第二次世界大戦中~戦後は特に闇物資を運ぶ人
忽然 にわかに。突然
方面委員 ほうめんいいん。民生委員の前身。生活困窮者救護のため、昭和11年、制度化。
養老院 老人を収容救護する施設。公的機関としては1932年施行の救護法に基づいて設置、65歳以上の生活困窮者を収容救護した。おそらく東京都立養育院(現在は老人総合研究所から東京都健康長寿医療センター)に入院したのでしょう。
堰を切る 川の流れが堰を壊してあふれでる。転じて、おさえられていたものが、こらえきれずにどっとあふれでる。
板橋の病院 都立豊島病院(現在は東京都保健医療公社豊島病院)に転院したのでしょう。
 同じく『怪しい来客簿』の「ふうふう、ふうふう」では宇佐美のお婆さんとして登場します。

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代


 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンションに。


若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。
                        若宮会前会長 細川八郎

現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。馬場邸
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は第二次世界大戦で戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代

 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に。

     若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。

       若宮会前会長 細川八郎

 現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

馬場邸

最高裁判所長官公邸

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」


わが馴染みの横町|色川武大

文学と神楽坂

色川武大 色川武大氏が書いた「わが馴染みの横町 神楽坂」(『東京人』、1988年6月)です。

 氏は小説家で、昭和36年「黒い布」で文壇にデビュー。昭和52年「怪しい来客簿」で泉鏡花文学賞、昭和53年「離婚」で直木賞。また阿佐田哲也の筆名で「麻雀(マージヤン)放浪記」などのギャンブル小説も出しています。生年は昭和4年3月28日なので、この文章は59歳に書かれたものです。

 神楽坂は、震災で下町の盛り場が焼失したために賑やかになり、ターミナルの西方移動で新宿が勃興するまでの短期間、盛り場としてスポットライトが当ったらしい。私は昭和四年、牛込矢来町の生まれだから、盛りの頃の神楽坂を眺めて育ったことになる。
 その頃は、建物は小ぶりだが、白木屋高島屋、デパートが二つもストア風の出店を出しており、毎晩夜店が並び、車馬は通行止めだった。雑踏で道が埋まっていたといっても今の人は誰も信用しない。本当に、昭和に入ってからは街の変転が烈しくて、その変転の中で育った私自身、往時が夢のようだ。

震災 1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に 起きた関東地方の地震とそれに続いた災害
矢来町 色川氏は矢来町80番に住んでいました。赤の地域で、矢来町80番の中には家屋が数軒あります。矢来町80
白木屋 しろきや。 東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。 かつて日本を代表した百貨店。 1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
高島屋 たかしまや。「神楽坂界隈の変遷」で新宿区教育委員会は「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で「震災直後高島屋十銭ストアーになった」とかいてあります」。以前は本屋の機山閣でした。
高島屋
「まちの想い出をたどって」第2集によれば

相川さん 三角堂の隣が「機山閣」という本屋さん。そこへ十銭ストアができた。
  神楽坂に高島屋があった
山下さん 『高島屋』が? そんな間口が広かったですか?
馬場さん そんな広くないですよ。
相川さん 二間半ぐらい。
山下さん もっと大きいつちゅうような感じがしていた。繁盛していたんだよな。高島屋系統は下にもあったしね。

 現在は貴金属やブランド品の買取り店「ゴールドフォンテン」からただの道路になっています。

 カーブして津久戸の方に抜ける現大久保通りも、ストレートな大通りではなくて、市電がぎしぎしいいながら人家の中にわけ入っていったような記憶がある。いったいに道幅を拡げていた時期で、江戸風な小道が整理され、改正道路と称する舗装道路になっていった。改正される前のたたずまいがなつかしいのだけれど、私などの年齢では具体的な記憶がすくない。
 北町と肴町の間にある坂のあたりは、両側が崖のようになっていて、袋町の方面に昇る蛇段々という曲りくねった段々があった。ここは蝉とりの名所で、ひときわなつかしいが、今は何の風情もない舗装の坂道だ。往時のあの泥道というものは、ぬかるむと始末がわるいが、下駄に適合していた。舗装になって、下駄では頭に響いて歩きにくい。私は下駄が好きだから、泥道の柔らかさがなつかしい。
 夏の夜は、浴衣を着て親に手をひかれ、矢来の方から出て、夜店を眺めながら坂下まで散歩し、外濠のほとりで涼んだり、ボート遊びをしたりして、また同じ道を戻ってくる。なんということはないが、当時、恰好のリクリエーションだった。花火屋のおばさん、玉蜀黍売りの婆さん、古本の店、詰将棋、バナナ売り、盆栽屋、皆はっきりと顔が浮かんでくる。坂上の熊公焼きは特に有名だったが、単なるあんこ(、、、)巻きだ。

改正道路 明治時代から大正時代の都市計画を市区改正と呼んでいました。 東京市は道路幅員が狭く、上下水道など都市基盤の整備が遅れ、 大火も起こりました。改正道路とは市区改正で整備した新しい 道路のことです。
蛇段々 岩戸町の11番地と12番地で挟まれた南方が高い道路。鳥居秀敏氏が書いた「袖摺坂(そですりざか)って本当はどの坂?」(『まちの想い出をたどって』第二集)で「蛇段々」について書いています。
「蛇段々」というのをご存知の方いらっしゃいませんか? 私が愛日小学校を卒業したのは昭和十一年ですが、そのころまだS字状の広い車道の坂道はありませんでした。昭和十六年の地図を見てください。袖摺坂この地図の「町」の字のあるところが十一番地で小高い丘があり、隣の十二番地はレベッカビルです。そして十一番地と十二番地の間に細い道がありますね。この細い道を入りますと高い崖に突き当たります。高さ六メートル以上ある急な崖です。そこで左に曲がって斜めに登っていきます。そして登りきるとまた右へ曲がる細道があってそれを出ると南部さんの前に出ます。これが私の子供のころ蛇段々といわれていた細道です。学校の帰りに時々寄り道をしてこの蛇段々を下りて帰るというのが一つの楽しみでもありました。蛇段々という名前はおそらく坂でないところも含めて、うねうねと曲かっていますから、蛇を連想したのではないかと思います。しかしこの蛇段々は子供たちだけの呼び名で大人は袖摺坂と吁んでいたのかどうか、その点を私は知りません。しかし後ほど細かく申しますように、これが先ほどの新撰東京名所図会御府内備考に書いてある地形とぴったり一致するのです。そのことから私はこの蛇段々が袖摺坂であったと、九十九パーセント確信しています。蛇段々
 これは蛇段々の模型です。十一番地と十ニ番地の間から登ります。すると相当急な高さ六メートル以上の崖に突き当たりますから真直には上れません。そこでその斜面を斜めに登ります。そしてまた右に曲がると南部さんの家の前に出ます。袋町も、北町も、多少大久保通りに向かって緩い傾斜をしていましたが、岩戸町の辺りはほとんど平担です。このあたりの台地は関東ローム層、いわゆる赤土ですから滑りやすい。仮に袋町の方から下りていったとします。崖縁を左に曲がりますと当然左側は高台です。それから右側は垣根かどうかは分かりませんが、十八メートルの間に六メートルも下るかなりの急な坂です。ですから滑らないように段々を作った。「岸地に雁木を設け折廻はしたる急峻の坂なり」という表現はこれにぴったり一致するわけです。
 蛇段々と袖摺坂とは同じなのか? 私は違うと思っています。これは別に書きます。
熊公焼き あんこ巻きのことです。細かくはここに

 では、これが終わりです。

 それ以上に名物的存在は、肴町電停前にいつも居る初老の人物で、古びた学帽をかぶり書生姿に高下駄。一定時間になるとカランコロン下駄の音を響かせ、通りを往復する。乞食ともちがうし浮浪者でもない。人々は親しみの眼でこの人物を眺めていた。世の中がのんびりしていてあの頃はこういう風物詩的な人物がよく居たものだ。
 戦災で残らず焼け、復興もおそく、長いこと、都心部の見捨てられた街と化していたが、最近歩いてみると、ここもビルラッシュ。至るところで建築の音がきこえてくる。古くからの老舗も、この変革の嵐の前にひとたまりもないのかどうか。
 裏通りの花柳界は、道筋だけは変らないが、内容は大きくさま変りしているらしく、三味線の音など絶滅し、カラオケと麻雀の音ばかり空疎にきこえてくる。
初老の人物 誰だか、わかりません。

『露店研究』|神楽坂

文学と神楽坂

 著者・横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章で「牛込神楽坂の露店」を書いています。以下はそのコピーです。1つ、重要な事実があります。ここにはいろいろな露店はありますが、今川焼の一種である熊公焼はありません。

 ところが、色川武大氏は同じ本を使って『怪しい来客簿』を書き、「露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、(中略)、さびない針(錆ビヌ針)、万年筆、人形、熊公焼、花(ハナ)、(色川武大氏はミカンは書いていない)、玩具(オモチャ)(後略)」と説明します。この熊公焼は色川氏が加えたものでした。

露店1

色川武大|矢来町

文学と神楽坂

 小説家、色川(いろかわ)武大(ぶだい)(あるいは麻雀作家、阿佐田(あさだ)哲也(てつや)、本名は色川武大(たけひろ))。生まれは1929(昭和4)年3月28日。逝去は1989(平成元)年4月10日。ここ矢来町で生まれ大きくなりました。
 本人の『寄せ書き帖』によれば

 私が生まれ育った牛込矢来町というところは、戦前の典型的住宅地であると同時に、色街の神楽坂に近かったせいか、昔、芸人さんがたくさん住んでいた。
 私の生家の隣ぐらいが曲独楽の三升紋弥(先代)一家で、横町ひとつ先が昔々亭桃太郎、後年、花島三郎、松旭斎スミエ夫妻が住んでいた家がある。ここいらには小桜京子も居て、ずっと以前に桃太郎グループに属して寄席に出ていたことがあるが、おシャマなかわいい娘だった。
 戦時中には左ト全が松葉杖をついて瓢々と歩いていたし、柳家金語楼も町内に大きな邸があった。柱三木助が居て、坂下には春風亭柳橋が居て、反対側の市ヶ谷寄りには現三遊亭小円馬がガキ大将で居た。ちなみに私たちは小円馬を森山さんのお兄さんと呼んでいた。現三升紋弥は細野さんのお兄さんである。

 以下は『生家へ』からの引用です。

 私は生家でうまれて生家で育った。それはもちろんだが、生家そのものがただの一度も、焼失も移転もしなかったから、私は三十八歳になるまで、ひとつ家に、ひとつ土地に居たことになる。日本人というようないいかたは、身体に訊いてみてぴんとした反応は返ってこないけれど、牛込の矢来町八〇という名称は、私にとって特別な響きをもっている。

 生家と隣り合って一軒の家作があった。二軒合わせてほぼ正方形の角地だったが、家作はその東北部の四分の1を占めていた。いずれも平家である。
 何代か住み手は変ったが、戦争がはじまってから、Tさん一家が来て、以降ずっと住みついた。未亡人の婆さんと、もう1人前に育った子供たちの1家だった。

 では牛込の矢来町80番はここです。左側は昭和15年の図、右側は現代の地図です。

矢来町の地図。色川武大氏

 また色川武大氏にはナルコレプシーという病気があります。『風と()とけむりたち』で

 私は“ナルコレプシー”という奇妙な持病があって、これは一言でいうと睡眠(すいみん)のリズムが(くる)ってしまう病気である。私の場合、持続睡眠が二三時間しかとれず、そのかわり1日に何度も暴力的な睡眠発作に(おそ)われる。生命を失なう危険はないようだが、疲労感(ひろうかん)が常人の四倍といわれ、集中力を欠き、また症状(しょうじょう)の1つとして幻視(げんし)幻覚(げんかく)を見る。なぜそうなるかまだ原因がわからない。しかし医者にいわせると、発病期はおおむね十(さい)前後だという。

 もうひとつ。『寄席放浪記』「ショボショボの小柳枝」の1節で「私は駄目な男だから」と書いてあります。「駄目な男だから」時間通りに起きられない、大変なことろで猛烈な眠気で眠ってしまう。これが10代に起こるので、次第次第にソフトで本人は物腰が柔らかくなってきます。色川武大氏も物腰は柔らかくなっていました。ぎすぎすしていたり、神経質になるのはナルコレプシーではないと考えてもいいでしょう。

柳家金語楼|矢来町

文学と神楽坂

 柳家金語楼(きんごろう)は、生まれは1901(明治34)年2月28日、本名は山下(やました)敬太郎(けいたろうで、エノケン・ロッパと並ぶ三大喜劇人でありました。戦前の吉本興業では最高給取りでした。戦時中になると、上からの圧力で落語家を廃業し、喜劇俳優になり、1940年、金語楼劇団を旗揚げします。戦後では、1953~68年のNHKテレビ『ジェスチャー』で白組キャプテン、1956年、TBSテレビとテレビ朝日『おトラさん』で主役。1968年、日本喜劇人協会会長に就任し、1972(昭和47)年10月22日、死去します。

 さて戦前に住んでいたところが矢来町です。山下武氏の『父・柳家金語楼』によれば

 四谷から牛込へ越すことになった原因が変わっています。吉本興業から借金して車を買うことになったものの、それまで住んでいた四谷伝馬町の家では車が置けません。そこでガレージを作れるほど庭の広い借家をさがした結果、牛込の矢来町に大きな古い借家を見つけたのでした。人間が住むほうは屋根さえあればどうでもよく、車を置くために借りた家ですから、こういうところにも享楽的な父の性格がのぞけます。凝り性といえばそうともいえますけれども、もともと父にはマイ・ホーム主義など破片(かけら)もありません。また、そんな雰囲気に浸るほどの時間的余裕(ゆとり)もないのです。なにせ、当時の父は目が回るほどの忙しさでしたから。
 矢来町の家は三百坪ほどもあったでしょうか。ガレージを作ってもなお大きな庭が余るのはいいのですが、家が古く、しかも暗くて陰気なのです。建坪(たてつぼ)だけでも百坪以上はあったでしょう。古い邸で、一部が二階になっているほかはあらかた平屋です。この二階建ての部分はあとで継ぎ足したものらしく、俗に“おかぐら”といって家相がよくないのは父も知っていたはずですが、ガレージが欲しいばかりに急いで越してしまったのです。怪異とまではいかないにせよ、この家に怪しい影がついて回ったのもそのせいではなかったかと思います。

 なお、“おかぐら”とは「御神楽」で、平屋だったものを、あとから2階を継ぎ足したもので、一階と二階には別々に作り、通し柱はありません。

 金語楼社の住所は矢来町34番地でした。ここが自宅の住所だとすると、

金語楼の屋敷(矢来)

 色川武大氏の『寄席書き帖』によれば

 私の生家のある牛込矢来町では、金語楼は特別な意味あいで有名人だった。というのは彼の本宅が町内にあったから。刑務所のように背の高い黒板塀で囲まれた大邸宅で、私どもは学校の行き帰りに山下敬太郎という表札をみてはクスクス笑い合ったものだ。たしか息子さんが一級上ぐらいに居たと思う。
 そうして、彼の妾宅が、附近に点在しているのを町の人々は皆知っていた。そのころの噂によると、金語楼は妾宅では、明治の元勲のようにいかめしい顔つきで口もきかずに酒を呑んでいたという。(略)
 私が感心したのは、酒が手に入った夜に必ず現れる、ということだ。
 Yさんの所ばかりではなく、町内の誰彼のところにも現れるらしい。当時、酒は貴重品で、やたらに誰のところでもあるわけではなかった。あっても他人に呑ませる的交際があったわけではあるまい。金語楼なら突然入ってきても歓待するということだったのだろう。
 同級生からもこういう話をきいた。
「不思議なんだよ。今夜、二合あるとするだろ。誰も二合なんてしゃべらないのに、金語楼さんが来て、わァッと家じゅうをわかしてさ、二合が出たなッと思うと、すうっと元の顔に戻って、帰っていくんだ」
「呼んだわけでもないのに来るのかい」
「そうだよ。夕方、町をぶらついて気配を見てるんじゃないかい」
 実にどうも、偉い。空襲でどこもかしこも焼けて、むろん自分の家も焼けて、日本が負けるかどうかというときにお酒一筋に気を凝らして、狙い定めてすうッと入っていく。
 偉いともなんともいいようがない。兵隊落語や映画で感じていた俗な顔つきはあれは営業用のもので、本人は俗どころか、超俗的なものを持っている。

 昭和20年5月25日、東京最後の大空襲でこの家は灰になりました。

和可菜|兵庫横丁

文学と神楽坂

 旅館「()()()」は昭和29年に木暮実千代氏が出資して、神楽坂4-7(兵庫横丁)に建築。女将は妹の和田敏子氏。一時は脚本家・映画監督・作家たちが本を書く「ホン書き」として有名でした。
 粋なまちづくり倶楽部の『粋なまち 神楽坂の遺伝子』(2013年、東洋書店)では和可菜旅館について

霧除けを帯びた入母屋造りの瓦屋根に下見板張りの外観は、玄関脇の植栽とともに閉静な路地に彩りを添えている。板塀にしつらえられた引違いの格子木戸は、動線を屈曲させてアプローチに「引き」を作る。玄関は洗い出し土間に自然石を沓脱ぎとして配し、台形の無垢板の式台ナグリ吹寄せ 竿縁の天井をしつらえるなど手の込んだ意匠が残る。腰には丸太を縦張りし高窓のガラス戸桟を人字型に加工するなど、旅館建築ならではの自由なデザインも見られる。

そう、建物として本当に何かが上品で流麗なのです。
 なお、ここで出てくる設計用語については

霧除け 霧や雨が入り込まないよう、出入り口や窓などの上部に設ける小さなひさし。
入母屋造り 上部で切妻造(前後2方向に勾配をもつ)、下部で寄棟造(前後左右四方向に勾配)となる構造。
下見板張り 外壁で板を横に並べるとき、板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること。
格子木戸 碁盤の目の木の戸。
洗い出し たたきや壁などで、表面が乾かないうちに水洗いして、小石を浮き出させたもの。
沓脱ぎ 履物を脱ぐ所。
式台 玄関の土間と床の段差が大きい場合に設置する板。
ナグリ 舞台玄能。
吹寄せ 竿を2本ずつ寄せて入れるもの。
竿縁(さおぶち) 一般的和室天井張り形式。
縦と横1縦張り 縦に羽目板などを張ったもの。
戸桟 裏に桟を取り付けた、頑丈な戸。

外から見た旅館・和可奈

 明治大学教授の黒川鍾信氏の本『神楽坂ホン書き旅館』は02年に出版されました。
 NHK出版でそのPRを読むと『今井正、内田吐夢、田坂具隆、山田洋次、石堂淑朗、市川森一、竹山洋、野坂昭如、結城昌治、色川武大、伊集院静、村松友視。日本を代表する映画監督、脚本家、作家たちを、神楽坂の一角で四十八年間にわたって支えてきた「ホン書き旅館」の女将が語る執筆現場の秘話』だそうです。
 本当に「秘話」はちょっと大げさですが、でも「へー」という話が一杯入っています。たとえば、山田洋次氏が寅さんシリーズ第35作で初めてここにやってきた時の話。阿佐田哲也氏のマージャン大会の話。伊集院静氏が宿をここに置いた、その理由など。
 また黒川氏は05~06年、『神楽坂まちの手帖』第9号から第15号にかけて「ホン書き旅館の帳場から」を書いています。
 さらに小田島雅和氏が『神楽坂まちの手帖』15年第1号から第3号にかけて「和可菜通信」を書いています。中身は俳句の「くちなし句会」について。 「くちなし句会」は作家結城昌治氏を中心として俳句の句会のことです。昭和52年(1977年)から開始し、第4回句会以来は「和可菜」で行い、途中で中断がありますが、平成19年(07年)以上、25年以上も続いています。今もやっているのかどうかは、はっきり言ってわかりません。やっていると思いたいです。
 伊集院静氏は11年に『いねむり先生』を書きます。そこで、筆者2人がいるけど実は同一人物だと教わります。伊集院氏がその筆者を連れて

 神楽坂の通りを毘沙門天の向いから路地に入り、くねくねと曲がった石畳の階段を段だらに降りて行くと、黒塀に囲まれたその宿はあった。

 これは和可菜です。「段だら」とはいくつにも段になっているもの。その宿の庭については

 ボクたちはその宿の庭に面した濡縁(ぬれえん)に並んで座っていた。(略)
 ちいさな庭の中央に古びた池があり、手入れかされてないのか、水は涸れてしまっている池の真ん中に一匹の黒猫が吹き溜った枯葉とじっとしていた。(略)
 庭といっても数歩歩けば表に出てしまう箱庭で、時折、塀のむこうの坂道を通る人の足音かすぐ近くに聞こえた。

 濡縁とは雨風を防ぐ雨戸などの外壁はない縁側だそうです。
 しかし、『神楽坂まちの手帖』そのものは第18号になって消えていきます。以来、「和可菜」は沈黙し、声は聞こえてはきません。本当に今も外国人が多いのでしょうか? だれかインターネットを使ってくれるとよく分かるのに。
 06年の『神楽坂まちの手帖』第15号、「ホン書き旅館の帳場から」で黒川鍾信氏は和可菜を取り上げて寿命はもう「風前の灯」だといいます。

「昭和ニ十九年~現在 ここで三千本を超える映画・テレビドラマの脚本と数百編の小説が書かれた」と刻まれるだろう。
 「~現在」が「~平成○○年」に代わる日がくるのは、さほど先のことではない。いや、すでに半分は“休館”の状態である。

 ところが、07年のTVドラマ『拝啓、父上様』はまた大きく変わります。「和可菜」は架空の料亭『坂下』のすぐ隣りになり、第3話の架空の作家・津山冬彦(奥田瑛二)の写真もここで撮影しました。

かくれんぼ横丁(「和可菜」前)
  石畳に並んで立つ津山冬彦と芸者真由美。
  スチールをとっているカメラマン。
カメラ「あ、いいな!  いいですよ! 目線一寸上。ア! いいなァ!」
  その時、撮っている先方の角から和服の男が現われる。
カメラ「ア」
  一瞬ためらい、シャッターを切る。
  和服の男――ルオーさんである。


「和可奈」の前にたたずむ作家、津山冬彦。「拝啓、父上様」で出ました。

 今では和可奈は閉鎖しても閉められない場所になってきたのです。まるで遊園地、観光名所になったようです。いまでは休みの日には人人人です。

 2015年末に一時閉店しましたが、隈研吾設計事務所の手を借りて、2021年、再出発するようです。





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