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芸術倶楽部跡(写真)1980年頃 ID 208

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 208は昭和55年(1980年)頃、芸術倶楽部跡を中心に撮ったカラー写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 208 芸術倶楽部跡 1980年頃

 この写真は下図のように撮ったものでしょう。

住宅地図。1980年

 また田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の05-05-34-2 「芸術倶楽部跡近景 1975-08-28」は「酒屋の後ろ側から撮影したもの」で、ID 208とよく似ています。

05-05-34-2 芸術倶楽部跡近景 1975-08-28


 では芸術倶楽部はどこにあったのでしょうか。ところが➀ 住所、➁ 方角についてまちまちです。
 住所は
▼「横寺町9番地」と書くもの
  ❍佐渡谷重信氏『抱月島村滝太郎論』明治書院 昭和55年
  ❍新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年
  ❍新宿区横寺町校友会今昔史編集委員会『よこてらまち今昔史』平成12年)
▼「横寺町8・9・10番地」と書くもの
  ❍高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』
▼「横寺町9・10番地」と書くもの
  ❍昭和53年、新宿区文化財
▼「横寺町9・10・11番地」と書くもの
  ❍平成3年、新宿区指定史跡
  ❍籠谷典子『東京10000歩ウォーキング』真珠書院、平成18年
などがあがります。

 最古の「火災保険特殊地図」(都市製図社、昭和12年)では大正8年(1919年)に芸術倶楽部は改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図で、この図も「小林 9」、つまり小林アパートで9番地だと書いています。
 高橋春人「ここは牛込、神楽坂」第6号『牛込さんぽみち』は「芸術倶楽部の建坪は二階建て百八十余坪ある」と当時の「演劇画報」から引用しています。

 8、9、10、11番地の広さは198、199、178、180坪です。また東京区分職業土地便覧. 牛込区之部(大正4年)では、8番地の所有者は飯塚八重氏、9、10番地は株式会社東銀行、11番地は安田銀行でした。これから住所は横寺町9番地1筆か、あるいは9、10番地を合わせて2筆なのでしょう。「一般論では、199坪の土地に180坪を建てるのは困難で 、9、10番地にまたがっていた」と地元の人。そうなんでしょうね。芸術倶楽部や、そこに住んだ島村抱月・松井須磨子は当時の資料で「横寺町9」と書かれていますが、土地をまたいだ建物は一方の番地で呼ぶのが普通なので、その点では納得できます(下図)。
 ただし、新宿区のように、途中から11番地が加わり(昭和53年から平成3年)、公式文書になってしまうのは、あーあ……と思っています。
 つまり、芸術倶楽部は9、10番地の2筆を株式会社東銀行から買って、土地登録は(9、10番地を合わせて)9番地という1筆だけで、8番地と11番地は無関係だったと思います。

 次は芸術倶楽部の方角、つまり向きです。芸術倶楽部の向きは朝日坂の向きと平行(A)か直角(B)です。松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)200頁では長手方向が朝日坂に並行(A)としています。他はすべて長手方向は朝日坂から奥に向かって(B)伸びています。入り口は(B)の黒い四角以外はないでしょう。同様に『日本新劇史』以外の資料はかすべて、朝日坂から一歩奥に入ったところに建物があると記述しています。さらに高橋春人氏は当時の「演劇画報」に「将来、建物前の空地に増築、そこでバーを開く予定」と書いてあります。

芸術倶楽部の方角。新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)

昭和12年の地図

 昭和12年の地図の番地は、大正元年に比べて入り組んでいます。これは10番地(かその一部)がまず9番地(芸術倶楽部)になり、橙色は芸術倶楽部の想像図で約180坪(上図)、さらに分かれたり、一緒になったりした結果が現在の図(下図)になりました。

 以上をまとめると、芸術倶楽部は横寺町9+10の一部を東銀行から買って、全体を横寺町9として登録した。横寺町9も10も1部分は別の人の資産として残っている。例えば、横寺町9の1部は加藤商店として残ったはず。建物は(B)しかありえない。


芸術倶楽部跡と島村抱月終焉の地(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 平成28年に架け直した看板。所在地は区の説明では、9・10・11番地ですが、佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』では9番地と書いてあります。歴史博物館に聞いた理由は「そう決めたから」ということ。う~ん。9、10番地を買って、一部を9番地に変えたのです。正しくは以下に掲載しました。

新宿区指定史跡

芸術げいじゅつ倶楽部くらぶあと島村しまむら抱月ほうげつしゅうえん
         所 在 地 新宿区横寺町9・10・11番地
         指定年月日 平成三年11月6日
 この地は、評論家・劇作家・演出家・小説家など、多彩な活動を行った島村抱月(1871~1918)が、女優松井須磨子とともに、近代演劇や文学・音楽・芙術の普及.発表、交流のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点「芸術倶楽部」の跡である.
 抱月は、幼名を瀧太郎といい、現在の島根県浜田市に生まれた。東京専門学校(現在の早稲田大学)に学び、卒業後は母校の講師となり、イギリスやドイツに留学、帰国後は創作活動に入った。
 明治39年(1906)には、坪内つぼうち逍遙しょうようの文芸協会に参加し、西欧せいおう演劇えんげきの移植に努めたが、大正2年(1913)内紛ないふんから同協会を脱会し、芸術座を結成した。
 その拠点芸術倶楽部は、木造二階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 しかし、大正7年11月5日、スペイン風邪から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で急死した。享年47歳であった。傷心の須磨子は翌年1月5日、この倶楽部の道具部屋で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散となった。
 平成28年3月25日
新宿区教育委員会

スペイン風邪 現在はA型インフルエンザウイルス(H1N1亜型)

島村抱月

島村抱月の終焉

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では

写真05-05-35-2で芸術倶楽部跡案内板が写真左端に見える。

 この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。

「ゴンドラの唄」と芸術座|神楽坂

文学と神楽坂

「ゴンドラの(うた)」は、1915年(大正4年)芸術座第5回帝劇公演に発表した流行(はやり)(うた)です。吉井勇作詞。中山晋平作曲。ロシアの文豪ツルゲーネフの小説を劇にした『その前夜』の劇中歌です。大正4年に35回も松井須磨子が歌いました。

『万朝報』ではこの劇は「ひどく緊張した場面は少いが、併し全体を通じて、甘い柔かな恋の歌を聞いてゐるやうな、美しい夢を見てゐるやうな心持の好い感じはした」と書きます。

『ゴンドラの唄』の楽譜は翌16年(大正5年)セノオ音楽出版社から出ました。表紙は竹久夢二氏です。ゴンドラの唄。セノオ新小唄。大正5年(1916)

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(あか)(くちびる)()せぬ()に、
(あつ)血液(ちしほ)()えぬ()に、
明日(あす)月日(つきひ)のないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)、
いざ()()りて()(ふね)に、
いざ()ゆる()(きみ)()に、
ここには(たれ)れも()ぬものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)(なみ)にたゞよひ(なみ)()に、
(きみ)柔手(やはて)()(かた)に、
ここには人目(ひとめ)ないものを。

いのち(みじか)し、(こひ)せよ、少女(をとめ)黒髪(くろかみ)(いろ)()せぬ()に、
(こころ)のほのほ()えぬ()に、
今日(けふ)はふたゝび()ぬものを。

 1952年、黒澤明監督の映画『生きる』で、主人公役の志村喬がブランコをこいでこの『ゴンドラの唄』を歌う場所があります。実はこれが有名なのはこのシーンのせいなのです。
 実際にはシナリオの最後で主人公が歌う歌は決まっていませんでした。脚本家の橋本忍氏の言ではこうなります。なお小國氏も脚本家です。これは橋本忍氏の『複眼の映像』(文藝春秋社、2006年)に書かれていました。

私と黒澤さんは、警官の台詞からカットバックで、夜の小公園に繋ぎ、ブランコに揺れながら歌う、渡辺勘治を書いていた。
    命短し、恋せよ乙女……
 だが私は、黒澤さんの1人言に似た呟きを、そのまま書いたのだから後の歌詞は全く見当もつかない。
「橋本よ、この歌の続きはなんだっけな?」
「知りませんよ、そんな。僕の生まれる前のラブソングでしよう」
 黒澤さんは英語の本を読んでいる小國さんに訊いた。
「小國よ。命短し、恋せよ乙女の後はなんだったっけ?」
「ええっと、なんだっけな、ええっと……ええっと、出そうで出ないよ」
 私は直ぐに帳場に電話をし、この旅館の女中さんで一番年とった人に来てほしい、一番年とっている人だと念を押した。
 暫くすると「御免ください」と声をかけ襖が開き、女中さんが1人入ってきた。小柄で年配の人だがそれほど老けた感じではない。
「私が一番年上ですけど、どんなご用件でごさいましょうか?」
 私は短兵急に訊いた。
「あんた、命短しって唄、知ってる?」
「あ、ゴンドラの唄ですね」
「ゴンドラってのか? その唄の文句だけど。あんた、覚えている」
「さぁ、どうでしょう。一番だけなら歌ってみれば……
「じゃ、ちょっと歌ってよ」
 女中さんは座敷の入口の畳に正座した。握り固めた拳を膝へ置き、少し息を整える。黒澤さんと小國さんが体を乗り出した。私も固唾を飲んで息をつめる。女中さんに低く控え目に歌い出した。声が細く透き通り、何かしみじみとした情感だった。
   命短し、恋せよ乙女
   赤い唇 あせぬまに
   熱き血潮の 冷えぬまに
   明日の月日は ないものを……
 その日は仕事を三時に打ち切り、早じまいにした。

 この作曲家の中山晋平氏は映画館で『生きる』を見ましたが、翌日、腹痛で倒れ、1952年12月30日、65歳、熱海国立病院で死亡しています。死因は膵臓炎でした。
 さて「命短し、恋せよ乙女」というフレーズは以来あらゆるところにでてきます。相沢直樹氏は『甦る「ゴンドラの唄」』の本で、こんな場面を挙げています。

  • 売れっ子アナウンサーだった逸見政孝氏は自分でこの唄を歌ったと娘の逸見愛氏が『ゴンドラの詩』で書き、
  • 『はだしのゲン』で作者の中沢啓治氏の母はこの唄を愛唱し、
  • 森繁久彌氏は紅白歌合戦でこの唄を歌い、
  • 『美少女戦士セーラームーンR』では「花のいのちは短いけれど いのち短し恋せよ乙女」と書き、
  • NHKは2002年に『恋セヨ乙女』という連続ドラマを作り、
  • コーラス、独唱、合唱でも出ました。

 まだまだたくさんありますが、ここいらは『甦る「ゴンドラの唄」』を読んでください。この本、1曲の唄がどうやって芝居、演劇、音楽、さらに社会全体を変えるのかを教えてくれます。ただし高くて3,360円もしますが。『甦る「ゴンドラの唄」』は図書館で借りることもできます。

小林アパート(旧芸術倶楽部)|横寺町

 この芸術倶楽部の主が死亡すると、新たに「高等下宿」として生まれ変わります。つまりアパートです。『まちの手帖』第6巻で大月敏雄氏が「牛込芸術倶楽部と同潤会江戸川アパート」のなかでこう書いています。

 高等下宿に関する唯一と言っていいくらいの文献が、住宅改良会発行の月刊誌『住宅』の大正八年十月号「共同住宅特集号」である。この特集号の中で関口秀行という人が書いた「東京の共同住宅」という記事が、当時の高等下宿の有様を丁寧に伝えてくれる。

 さらに、その「東京の共同住宅」の記事を引用して

 大久保新宿線の肴町の停留所から約二町で横寺町になる。通りの右側に少し引つ込んだ三階建ての洋館が芸術倶楽部である。この倶楽部の名を知らない人は少ないであろう。新劇界に大革命を起こしたかの芸術座の事務所であり研究所であったのである。同座開放後、松井須磨子の実兄小林放蔵氏が引き受けて、内部を改造して現今の如き共同小住宅としたのである。此処が共同小住宅として提供されたのは大正八年三月で、まだ日が浅い。併しながら改造中から申し込みが多く、工事修了と同時に満員の有様であった。今も続々と申込者が引きも切らぬ有様であるが、空室がないという始末。

 なんとこの小林アパート、申し込みは多く、空室もなかったようです。

 しかし、昭和に入ると、変わります。昭和26(1951)年6月、日本読書新聞社から野田宇太郎著『新東京文学散歩』として刊行されたものでは

 その飯塚酒場の左の露路を入った正面に、この附近で誰知らぬものもない、大きな軒の傾いた、中を覗くと如何にも無気味にほの暗くて荒れすさんだ小林アパートというのがあった。この小林アパートには如何に貧書生の私も一寸住む気持にはならなかったが、極端に貧乏な若い画家たちがそこの住人で、その連中は隣の飯塚で安いにごりをひっかけ、秋の日でも尚一枚の湯上りだけしか持たず、竹皮の草履をはき、ぶらぶらと神楽坂を散歩する人種あった。そういう、本当に無一物の、ただ未来に大芸術家の夢ばかりを描いて生きている青年たちが住むにもって来いの家らしかった。
「松井須磨子の幽霊がいますよ」
と誰かが私に教えてくれた。松井須磨子といえば、少年の頃からカチューシャの唄以来その名はよく知っていた。尚よく聞いてみると、その家が芸術座の本拠、芸術倶楽部のあとで、主宰者の島村抱月をしたって自殺した須磨子を幽霊にして、例の貧乏画家たちが、天井に悪戯をしたのであった。

 この小林アパート、まるでお化けアパートに変わったようです。しかし、第2次大戦ではここも焼け野原になります。なにも残っていません。『新東京文学散歩』では

 そう云えば、何処も焼けてしまったけれど、昔の芸術倶楽部の、小林アパート、あれはどの辺でしたかな」
「芸術倶楽部の跡はそこです」
と青年の指さし教える所は、私の想定通りこの飯塚酒場の横の、焼けあとのかなりな広場の奥の部分であった。(中略)
 私は荒涼とした芸術倶楽部あとに転がる昔の建物の台石と思われる石の上に立ったり、ぐるぐると瓦礫の散乱する敷地の跡をわけもなく巡ったりした。在りし日の抱月と、名花須磨子の幻を私は追っているのかも知れなかった。
    カチューシャ可愛や別れのつらさ
    せめて淡雪とけぬまに
    神に誓いをララかけましょか
 そんな歌が、私の母の口から漏れ、いつのまにか、私の口に移っていた、あのなつかしい少年時代のことを私は思い出していた。

 戦後すぐに、この小林アパートはなくなり、瓦礫だけになっています。さらに時間が経ち、野口冨士男氏の「私のなかの東京」(初出は昭和53年、1978年)では

 最近はどこを歩いても、坂の名を記した木柱や神社の由来とか文学史蹟を示す標識の類が随所に立てられているので芸術倶楽部跡にもてっきりその種のものがあるとばかり勝手に思いこんで行った私は、現場へ行ってとまどった。やもなく飯塚酒店に入って30代かと思われる主婦らしい方にたずねると、そういうものはないと言って丁寧に該当地を教えられた。
 飯塚酒店の右横を入ると酒店の真裏に空き地という感じのかなり広い土膚のままの駐車場がある。そのへんは朝日坂の中腹に相当するので、道路からいえば左奥に崖が見えて、その上には住宅が背をみせながらびっしり建ちならんでいるが、屋並みのほぼ中央部の崖際に桐の樹がある。芸術倶楽部はかつてその桐の樹のあたりに存在したというから、朝日坂にもどっていえば飯塚酒店より先の右奥に所在したことになる。


芸術倶楽部館|神楽坂

文学と神楽坂

 芸術倶楽部の館は大正4年(1915年)8月に完成し、大正7年まで、横寺町9番地で開いていました。佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』(明治書院、昭和55年)では

『復活』の地方巡業によって資金の調達が可能になり、芸術倶楽部の建設を抱月は具体化し始めた。もっともこの計画は前年の大正三年三月二十二日、抱月、中村吉蔵、相馬御風、原田某、尾後家省一、石橋湛山らが夜十一時迄相談し具体案を立てたものである。(石橋湛山の日記に拠る。)これは『復活』公演前のことであり、抱月は政界、財界に強く働きかけていたのであろう。それから一年後、芸術倶楽部の建設が実行に移されることになった。場所は牛込横寺町九番地に決り、二階建の白い洋館。一階には間口七間に奥行四間の舞台を設け、一階と二階の観客席の総数は三〇〇。総工費七千円。建築費の大口寄附者(五百円)に田川大吉郎、足立欽一、田中問四郎左衛門の名があり、残りは巡業からの収入を充てる。抱月はこの芸術倶楽部で俳優の再教育(養成主任は田中介二)を行い、将来、俳優学校を、さらに演劇大学のようなものに発展させたいという遠大な夢を抱いていた。そのために抱月は演劇研究に尽力し、若き俳優を外国に留学させて演技力を身につけさせる必要があると思い、さしずめ、須磨子をヨーロッパに留学させることを抱月は秘かにかつ、真剣に考えていたのである。
 巡業中に着工した芸術倶楽部は大正四年八月に完成した。この倶楽部の二階の奥の間には抱月と須磨子が移り住み、芸術座の運命を共にすることになった。

 芸術倶楽部の見取り図は、左は籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の図です。右は抱月須磨子の2人がなくなり、大正8年(1919年)に改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図です。

芸術倶楽部の2プラン

 また松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)では

日本新劇史186頁

牛込芸術倶楽部

日本新劇史200頁

 次は新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)にある図です。

芸術倶楽部の場所

 また今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)に書いてある図ではこうなっています。

芸術倶楽部2

 高橋春人氏の「ここは牛込、神楽坂」第6号の『牛込さんぽみち』では想像図と地図が載っています。

芸術倶楽部の想像図 芸術倶楽部の想像図

高橋春人氏の芸術倶楽部

 高橋春人氏は…

芸術倶楽部 これを描くときに参考にしたのが印刷物の写真版である。これは、芸術座・芸術倶楽部用の封筒の裏に刷られたもので(宣伝用?)、ここにあげたものは、抱月(滝太郎)が、大正6年12月に使ったものである(早大、演劇博物館、蔵。なお、筆者が見た芸術倶楽部の写真はこのワンカットだけ)

 昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では

小林アパート(芸術倶楽部)

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では「芸術倶楽部の跡」の写真が載っています。これはどこだか正確にはわかりません。おそらく上図の「小林 9」と上から2番目の「11」の間にカメラを置いて撮影したのでしょう。

芸術倶楽部の跡。1954年

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では

1984-09-01。写真05-05-35-2で芸術倶楽部跡案内板が写真左端に見える。

 この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。

 毘沙門せんべい福屋の福井 清一郎氏は「商売人どうし協力して 街を盛り上げていきたいよね。」(東京平版株式会社)の中で

 神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。

魚浅 一水寮 矢来町 朝日坂の名前 朝日坂 Caffè Triestino 新内横丁

朝日坂|神楽坂公衆食堂

文学と神楽坂

神楽坂公衆食堂

 正蔵院を越えると、現在は「割烹 とよ田」ですが、昔は神楽坂公衆食堂でした。168席が入るので実際に大きな場所を使っていました。ここは西村和夫氏の『物理学校意外史』で

 大正の始めは日本中に不景気の風が吹き荒れていていた。大正7年米騒動のあと東京市は[1919年(大正9年)に]貧民救済として横寺町に神楽坂公衆食堂を開設した。食堂では朝飯10銭、昼夜15銭、市民に支給し、この安値に1日、3000人のプロレタリアートと学生が集まった。神楽坂の色町と対照的に明暗を分けていた。

 うどんは種物15銭、普通10銭。牛乳1合7銭。ジャムバター付半斤8銭。コーヒー5銭、カレーライス15銭。大震災後、神楽坂公衆食堂はますます必要になりますが、 昭和12年頃から民間の食堂がふえると、市営の食堂は減ってきました。しかし、戦前の昭和20年、財団法人東京都食堂協会になり、戦災に出会うまで経営を続けていました。

横寺町2


朝日坂|横寺町

文学と神楽坂

 神楽坂通りにはクリーニング屋のせいせん舎と食料品店のキムラヤがあり、ここを南西方面に進む坂があります。朝日坂といいます。明治時代でも同じく朝日坂でした。

朝日坂

朝日坂の名前
 どうして朝日坂という坂にしたのでしょうか。朝日はよく見えないし……新宿区教育委員会の昭和51年の『新宿区町名誌』によれば

特に泉蔵院境内にある北野神社が、俗に朝日天神といわれたので、その門前町は朝日町と呼ばれた。北野神社をどうして朝日天神と呼んだかは分からない。神楽坂6丁目46番地から南の横寺町に上る坂を朝日坂(旭坂)というが、これは朝日町から名づいたものである。

 『東京府志料』には

朝日坂 坂名は北野神社を里俗朝日天神と称するによれり

 つまり第一の説は、泉蔵院内の北野神社を朝日天神と呼んだから。泉蔵院は正藏院の隣にありました。しかし、説はまだ続きます。第4まで続いているのです。

 第二の説は、泉蔵院に慈覚大師作の朝日天満宮があったため。新宿歴史博物館の平成22年の『新修 新宿区町名誌』では

ここから横寺町に登る坂は朝日坂(あさひざか)と呼ばれる。これは泉蔵院に慈覚大師作とされる朝日天満宮があるため唱られた(町方書上)。

『町方書上』は

朝日坂与唱候、是者當泉蔵院ニ慈覚大師作之由朝日天満宮有之候、依之朝日坂与相唱候由

 ちなみにこの泉蔵院は廃寺になり、朝日天満宮は赤城神社に遷移
 標柱でも現在はこの第二の説が有利です。

『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれていた。(『東京府史料』)

 さて第三の説は、五条坂です。野口冨士夫の『私のなかの東京』で

すぐはじまるゆるい勾配の登り坂は横関英一と石川悌二の著者では朝日坂か旭坂でも、土地にふるくから住む人たちは五条坂とよんでいるらしい。紙の上の地図と実際の地面との相違の1例だろう。

 横寺町交友会今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(平成12年)で寺居秀敏氏は「寺の町横寺」を書き

朝日天神は五条の天神様と呼ばれたため、私の両親は五条坂と呼んでいましたので、私も五条坂と言っていました。

 第四の説では坂ではなく横丁です。「閻魔様の横丁」といったようです。『ここは牛込、神楽坂』第2号の「語らい広場」では

ちなみに6丁目のスーパーキムラヤ横の横丁は、「お閻魔様のヨコチョ」といっていました。

 同じく寺居秀敏氏では

私は子供の頃(正蔵院を)お閻魔様のお寺と呼んでいました。

 おえん様というのは正蔵院、つまりエンマ堂のことです。正蔵院の脇本尊は合併した養善院の本尊「閻魔大王尊」でした。お閻魔様は戦災で焼失。その後府中の在家の方からお閻魔さまとお不動さまの寄進を受け、安置しました。
 以上、この4説、まあ、どれでも悪くないと思います。