文学と神楽坂
中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年、1971年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。
◆ 舗装のはしり
大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物の佐和屋あたりに、昔は段があった。 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。
神楽坂通り(昭和46年)
紀の善(昭和46年)
|
東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗岩や花崗閃緑岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾り紐など
◆ 残っている老舗
久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬、坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金、夏目写真館(戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。
|
とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は
夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の
陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。
◆ 消えたなつかしい店
戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。
|
白十字 神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では
◇白十字――白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。 |
1つは
坂の上り口で、1つは
毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。
三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱UFJ銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。
なお、写真の説明としては下の三菱銀行は正しいと言われました。加藤さんが書いていたものを再度引用すると「あと気になったのは「神楽坂の今昔1」で、毎日新聞掲載の三菱銀行の写真がありますが、これは現店舗の建て直し中の仮店舗です。現在の福太郎のある場所ですから、当時の記事は間違っていません」と『4丁目北側最東部の歴史』(
https://kagurazaka.yamamogura.com/歴史2/)の欄外に書かれています。
国会図書館の「住宅地図」には1970年と1773年の2つしかありません。わかりませんでした。もっといろいろ教えてください。ありがとうございました。