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「きらく会館」の謎?

文学と神楽坂

 地元の方から神楽坂3丁目にあった「きらく会館」という話を送ってくれました。

 商店や住人の名を個別に記した住宅地図は情報量が多く、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」などの撮影時期の特定に役立ちます。一方、その記載は必ずしも正確でなく、逆に謎を生んでしまうこともあります。昭和30年代に短期間だけ神楽坂3丁目にあった「きらく会館」も、そのひとつです。このブログの「神楽坂通り(3丁目南東部)」で詳細に検討しているエリアですが、記事には名前も出てきません。
 場所は神楽坂を登り切る直前、通りの南側の「龍公亭飯店」と「ヒデ美容室」の間です。老舗の多い一角で、戦前はここに「助六はきもの店」がありました。
 第2次大戦で焼け野原になった後、店が戻ってきた様子が昭和27年(1952)の写真ID 4794です。「龍公亭」は平屋。「助六」は「龍公亭」を挟んで反対側に移りました。「龍公亭」の向こう隣、建築中または改装中の建物が、のちに「きらく会館」になる場所です。さらに坂下よりの2階屋が「ヒデパーマ」で、壁面に大きく「パー〇〇」の字が見えます。
 アルバム 東京文学散歩(創元社、1954年)掲載の写真では店は開業しています。昭和28年(1953)のID 9504は凸型の「龍公亭」の向こうに、昭和32年(1957)のID 4943では「ヒデ美容室」の手前に建物があることが分かります。いずれも業種も店名も分かりません。『神楽坂まちの手帖』第12号の「神楽坂30年代地図」では「蘇家成」の名があります。
 この時期の住宅地図を見ると
●人文社
1960 → 1962 → 1964
空家 → 空家 → きらく会館
●住宅協会
1962 → 1963 →1964→ 1965 → 1968
()→()→ きらく会館 → 同→ 同
とあり、昭和39年(1964)ごろに店ができたように見えます。
 しかし写真と照合すると矛盾が出てきます。
 ID 14-15は昭和37年(1962)-昭和40年(1965)と推測される写真です。「ヒデ美容室」の手前は取り壊されています。同様にID 12903-12905でも「龍公亭飯店」と「ヒデ美容室」の間は空地です。これも昭和37年(1962)-昭和39年(1964)と思われる写真です。
 一方、住宅地図の「きらく会館」の場所には、すぐ後に「五条ビル」が建ちます。完成は昭和42年(1967)で、住宅地図では昭和45年(1970)から「コーヒー五番(五条?)」が出てきます。ただ昭和41年(1966)のID 7658や「メトロアーカイブ 坂のある街 昭和41年」には、外観的には完成している「五条ビル」が写っています。5階建てのビルですから、前年の昭和40年(1965)には建築を始めていたでしょう。
 では「きらく会館」は、いつあったのか。ID 14-15の空地に建築して、すぐ壊してビルにするのは不自然です。それ以前の空き家だったところに昭和30年代半ばに店を出し、数年で閉店したのではないでしょうか。だとすればID 14-15ID 12903-12905は、「きらく会館」取り壊し後の撮影として時期を絞り込みやすくなります。
 確たる証拠はありません。ひとつだけ手がかりらしきものはID 18(下図)です。昭和37年(1962)頃と思われる写真ですが、拡大するとはるか坂上に「ヒデ美容室」の看板と、その向こうに洋酒のボトルのような看板が見えます。並びの店(山本薬局、龍公亭飯店、助六はきもの店)ではなさそうなので、これが業種不明の「きらく会館」かもしれません。
 なお「きらく会館」の場所は「五条ビル」が建った後、平成19年(2007)に隣の「ヒデ美容室」と一体で「神楽坂センタービル」になりました。「ヒデ美容室」は日本髪、着付けなど和装を主体とする美容院で、今も同ビル内にあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 18の拡大図 神楽坂下から坂上方向

あとがき|アルバム 文学散歩|野田宇太郎

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文学散歩』(昭和29年、創元社)は、昭和27年の記録で、昭和28年12月に「あとがき」を書き、昭和29年2月には「アルバム 東京文学散歩」として出版しました。
 これは「あとがき」で、どうしてカメラを使ったのか、その理由と目的を書いています。

     あ と が き
 私が自分の仕事にカメラを利用しはじめたのは昭和27年の初めからで、それまではスケツチ・ブツクやノートに鉛筆を走らせてゐたのを、カメラに代へたのである。
 スケツチも嫌ひではないが、素人のかなしさで、とても時間がかかる。それに、これは絵にしたいと思ふやうな風景とか事物などを調査するのではないから、絵心が大して動くわけでもないし、動く場合があるとしても、それにかかづらつてゐると、私の必要とする資料の意義から離れてしまふ。やつばりカメラに限ると云ふことになつたのである。だから断るまでもなく本書は写真の本ではなく、あくまでも文学書である。
 東京文学散歩の仕事をはじめてからもう四年になるが、何しろ戦後の復興途上のことなので、一年一年様相が変る。さうした慌しい変化の中に見えかくれする近代文学の遺跡を、自分の文学として描かうとするのが私の目的であるから、カメラはその目的のために、時折必要に応じて利用するに過ぎない筈だが、いざカメラを使ひはじめると、常に携帯してゐないことには気がすまなくなつてくる。ちよつとした調査で出かける時は、今日は力メラは要らないと考へてゐるが、そこで仕事をしてゐると、必ずカメラを持つて来ればよかつたと後悔することがあるし、そんな場合は後で又同じ所にカメラを持つて出かけねばならない。カメラが私よりも先に記録の必要を感じてゐて。それを私に教へるのである。
 私はただペン一本の人間で、機械いぢりはまことに不得手だし、撮影に自信など更にない。ペン一本を命とたのんで、もう20年以上にもなるだらうが、未だにそのペンにさへ自信の持てない私が、馴れない精巧なカメラを自信を持つていぢれるわけはない。にもかかはらず、私のカメラは同情深い生き物で、自信のない私を落膽させない程度には何時も役立つてくれるのだから、このカメラだけは愛さないわけにはゆかない。
 ――このやうに全く写真には素人の私が、写真を主体とした本書を出版するなどは盲人蛇に怖ぢぬたぐひで、盲人でもないつもりの私としては、まことに恥かしいことであるが、それにもかかはらず本書を出版したのは、私一人の恥を犠牲としても尚あまりある文学的な意義があると信じたからである。文学の眼で見た文学的記録写真とも云へるこのやうな書物が、必要なのにもかかはらず今日迄出版されなかつたのを、ともかくも実現したと云ふこと一つからも、私はよくもやつたと自らを慰めてゐる。もつとも、カメラに馴れない私が、この仕事を一応貫くまでの勇気を持ち得たのは、絶大な後援者があつたからで、先づ私の仕事のために高価なカメラを提供された柏山清一氏と、この素人写真を本にするために編輯から製版造本に至るまで苦労を惜しまれなかつた柚登美枝さんの御厚意を忘れることは出来ない。
 尚本書に入れた随筆は昭和27年の毎日新聞に「東京文学散歩」と題して連載したものに、書き下ろしを加へたものである。使用カメラはキャノン4SB・レンズf1.8であつた。
   昭和28年12月中浣
遺跡 ある人や事件に深い関係のあった場所。
落膽 らくたん。落胆。期待や希望どおりにならずがっかりすること。
盲人蛇に怖ぢぬ 盲蛇に怖じず。物事を知らない者はその恐ろしさもわからない。無知な者は、向こう見ずなことを平気でする。
中浣 ちゅうかん。月半ばの十日間。中旬。

アルバム 東京文学散歩(写真) 昭和27年

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の「アルバム 東京文学散歩」(創元社、1954年)の一部で、神楽坂3丁目を扱っています。撮影の方向は、坂上から坂下。街灯は簡素な電灯で、昭和28年頃から始まった、鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯ではありません。
 写真ではベストの人がいますので、夏ではなく、春か秋でしょう。
 歩道と車道の高さはほぼ同じようにみえます。

「アルバム 東京文学散歩」の元は毎日新聞で、氏は昭和27年に「東京文学散歩」を連載し、同時に初めてカメラを扱ったと書いています。おそらくこの写真も昭和27年に撮ったものでしょう。

神楽坂3丁目(坂上→坂下)
  1. 菱屋の庇だけが見える
  2. 万平のみや。吊り看板の「鮨」
  3. 「ピアノ」。福島ピアノ
  4. 都市製図社「火災保険特殊地図」(昭和27年)では「毛糸S」
  5. 巨大な半円の「パーマネント」。マーサー美容院。新宿歴史博物館ID 30(昭和27年頃)にも見られるが、同じID 10(昭和36-39年)では消えている。
  6. 神楽坂仲通り
  1. 龍公亭(黒い建物)
  2. 店舗。看板「松〇〇」
  3. 上に「パー」。正面に「〇 Beauty Salon」。ビデパーマ
  4. 山本薬局(消炎鎮痛薬「サロメチール」)
  5. 神楽坂仲坂
  6. 太陽堂だと思う。新宿歴史博物館のID 30では太陽堂だと大きく書いている。

 地元の方にはまだ何点か、気がついていました。

 左から……

  1. ピアノの看板の向こうに「マツタ●」の看板が見えます。地図の「毛糸S」は後の「あざみ」と思いますが、軒を貸すような形で「竹谷電気」があったのでは。
  2. 電柱広告で、黒地に白文字の「龍公亭」かも。
  3. 電柱広告「大久保」。仲通りです。
  4. 飯田橋駅西口の屋根が電柱看板で隠れています。しかし電柱の反対側にも、屋根を遮るものがある。これは「メトロ映画」ですね。S27開業。

  1. 看板「■仁丹」。言われれば分かります。
  2. 建屋の側面にうっすらと「○○もの」。「せともの」太陽堂です。
  • 本当にID:30とそっくりですが、この写真の方が少し早そうですね。

 「仁丹」は新宿歴史博物館のID 30の拡大図でもっとよく出てきます。

ID 30の拡大図

都市製図社「火災保険特殊地図」(昭和27年)