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神楽坂3丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13154~ID13157

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13154、ID 13155、ID 13156、ID 13157は神楽坂3丁目から4~5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13154 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13155 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13156 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13157 神楽坂歩行者天国

 歩道はアスファルト舗装で、一方、車道で坂の傾斜が急な部分はOリングのくぼみがついたコンクリート舗装で、Oリングの位置は「万平」「龍公亭」あたりまででした。それ以上の車道舗装についてはここに。縁石は黄色と無彩色との2色で、意味は「駐車禁止」。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781(昭和50年頃)など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったのでしょう。
 電柱は左側だけで、その上に大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施中。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂3丁目→4、5丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. (レストラン)花菱
    ――見番横丁に
  2. 麻雀 一発
  3. ▶「違法駐車はレッカーで移動〇/牛込警察(署)」
  4. (最高速度)高中速度
  5. ▶電柱看板「外科 小児科 斉藤医院」「加(藤)産婦人科
  6. (菊)正宗 青柳寿司 ★サッポ(ロビール) し青柳寿
  7. (そ)ばところ 神楽坂 丸屋 生蕎麦
  8. 丸岡陶苑 DC UC
  9. (消火栓)丸岡陶苑
  10. タイヘイゴルフ
  11. ▶電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ」。
  12. (ヤマ)ダヤ
  13. フルーツ パーラー ジャウト(ー)ヤ
  14. 神楽坂通り/美観街
    ――三つ叉通り
  15. 宮坂金物店
  16. ▶電柱看板「 フクヤ」
  17. 三菱銀行
  18. 遠くに「協和銀行」
  1. (歩行者横断禁止)
  2. 縞模様のテント(赤と黄色 神楽坂青果店)
  3. (消火栓)火災警報器
    ――芸者新道へ続く路地
  4. 鮨どころ(二葉
  5. カバーマーク(美容品)(ニューマヤ美容室)
  6. 積まれた布団(フトン関商店)
    (数店おいて)
  7. 清酒〇〇〇 鳥忠
  8. 日邦工〇(宮坂ビル)
    ――本多横丁へ
  9. 仐(近江屋履物店)

▶は歩道上で車道寄りに広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1976年

神楽坂1丁目(写真)昭和45年、ID 13126、ID 13128とID 13130

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 13126、ID 13128とID 13130を見ていきましょう。3つとも昭和45年(1970)3月、牛込橋付近から神楽坂1丁目や坂上を撮ったものです。ID13117、ID13118、ID13121-22、ID13124と同様の画角ですが、より左側に寄った場所から撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13126 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13128 牛込見附、神楽坂通り

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13130 牛込見附、神楽坂通り

 交差点名は「牛込見附」。信号機にはゼブラ柄の背面板があり、逆転式一方を示す回転式の「進入禁止」の標識も見えます。通りに入ると標識「神楽坂通り/美観街」があります。
 車道は4方向ともアスファルト舗装で、側溝と縁石は牛込橋で確認できますが、他の車道も同じでしょう。また神楽坂の車道はガードレールはなく、牛込橋と右側の外堀通りの車道にはあって、おそらく左側の外堀通りもあったでしょう。また、歩道はアスファルト舗装です。
 街灯は昭和36(1961)年以降の大きな円盤形で、その下に「神楽坂通り」があります。電柱の上には大きな柱上変圧器があるものもあります。
 いずれ有楽町線「飯田橋駅」が外堀通りの下にできる予定ですが、工事開始は1970(昭和45)年8月なので、この写真より少し後です。
 牛込橋には桜の古木があります。ID 67(昭和48年(1973)5月)では取り除かれています。

牛込橋→神楽坂(昭和45年)
  1. 富士見 〇〇入学随時☎ 英会話タイプ学院 この手前
  2. 電柱看板「独特 とんかつ 森川
  3. 東山酒蔵
  4. 電柱看板「 大久保
  5. (12-24 駐車禁止)(区間内)
  6. 交通標識の裏面
    ――「牛込見附」交差点
  7. 看板「無事故運転は/教養のあらわれ」
  8. 電柱看板「東電のトレードマーク 中〇」
  9. (車両通行止め)
  10. 電柱看板「八千代鮨
  1. (歩行者通行止め)
  2. 萩の宮
  3. ファサード看板「加藤医院
  4. 貸間 アパート 学生会
  5. 映画ポスター「大いなる男たち」(日本公開1969年10月25日)
    ――「牛込見附」交差点
  6. 株式会社 さく(らや)(靴)
  7. 佳作座の看板「〇〇上映中」(「尼僧物語」か))
  8. 赤井商店
  9. カレーショップ ボナ
  10. (白十字医院)
  11. 紙 事務用品 文具 原稿用紙 山田(紙店)
  12. (車両進入禁止)
  13. 不二家洋菓子
  14. (消火栓)
  15. 突き出し看板「喫茶 軽い心」 屋上看板「喫茶 軽い心」屋上看板「3,4F 麻雀 桜/2F 喫茶室 軽い心/1F パブ ハッピージャック」スタンド看板「ハッピージャ(ック)」「今宵楽(しく軽い心で)」
  16. (右のネオンサイン)(キャ)パレー(ムー)ンライト(仲通り)
  17. (さらに右のネオンサイン)神楽坂トルコ(仲通り)
  18. 看板「パチンコはマリーで」
  19. ニュ(ーイト)ウ(靴店)
  20. 純喫茶 クラウン(喫茶店)
  21. MAX FACTOR(化粧品)
  22. 資生堂(化粧品)(さわや
  23. ナショナルのマーク(竹谷電気工事)
  24. 東京電力(サービスステーション)
  25. 鮨どころ 二葉(寿司)

住宅地図。1970年

神楽坂2丁目(写真)昭和48年 ID 8805, ID 8806

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805とID 8806は、昭和48年(1973年)2月、神楽坂2丁目から坂上を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8805 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8806 神楽坂

 休日の歩行者天国が始まっています。「歩道がそれ以前のブロック敷きからアスファルトになっています」と地元の方。一方、車道について、急勾配のコンクリート坂は滑り止めが必要ですが、これは道路表面に円形のオーリングを埋め込み、一定時間後にそれを取り除く方法をとっています。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、街灯から地面に行く途中に標識「神楽坂通り」があります。
 電柱の上には大きな柱上変圧器があり、電柱看板も見られます。また遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えています。

神楽坂2丁目(昭和44年)
  1. 化粧品 おしゃれの店 十奈美 ブラバス・スタッフ/BR  KOJI/コージーアイラッシュ MG5
  2. 電柱の剥がされたビラ「ベトナム革(命)」
  3. おしゃれの(S)PO(T)T ESUTA(洋品店)
  4. とんかつ かん一(2階)
  5. (高い位置に マルマン)ガスライター メガネのオオカワ Nikon メガネレンズ
  6. 街灯看板「神楽坂通り」
  7. 電柱看板「歯 石川」「 大久保
  8. ヒデ美容室
  9. (音楽)長崎(五条ビル)
  10. 菊正宗 青柳寿司
  11. そばどころ 神楽坂 丸屋
  12. 三菱銀行
  1. ビクター音楽 リ(ード商会)(レコード店) 2階 (名)人荘 (麻雀店)
  2. 山田紙店 仮営業所(以前の亀井寿司)
  3. 資生堂化粧品 さわや  カネボウ化粧品
  4. 喫茶 馬
  5. マーサ美容室(窓からウインドウ型のエアコンが飛び出している。昭和40年(1965)頃の写真ID 15にはないもの。店舗の冷房が普及していった時期でしょう)
  6. アザミ
  7. ナショナル クレジット ナショナル カラーテレビ(竹谷電気工事)
  8. 小料理 万平
  9. 東洋紡カーテン(菱屋
  10. 東京電力(サービスステーション)
  11. 鮨どころ 二葉
  12. 酒酒 鳥忠
  13. 五十(番)

1973年。住宅地図。

神楽坂3丁目(写真)菱屋 昭和28年 ID 99

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 99は、神楽坂3丁目付近で、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道にはほぼ平坦で、将来できるOリングはまだありません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 99 神楽坂中程か

 これはID 46ほぼ・・同じです。最大の違いはID 99の左隅1~2mが増えたことです。またトーンカーブのため、見えなかったことが見えるようになったことも違っています。さらに昭和28年(1953年)に撮影したと新宿歴史博物館が正確に示した点です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 46 神楽坂3丁目付近。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂3丁目(昭和28年)
  1. 電柱看板「飯田橋 犬猫の診療所」
  2. フランス料理喫茶 花菱。地図の「金井敏雄」
  3. 看板「土地と家屋」。地図の「土地S」
  1. 電柱看板「おなじみの龍公亭
  2. 万平のみや。吊り看板「鮨」
  3. 菱屋糸店。看板の「菱屋糸本店」。のぼり旗の「(スキ)ー毛糸」
  4. 〇富。丸富呉服。〇〇〇〇店
  5. 神楽坂の魚屋「青久」。写真の看板に「仕出し」と書いてあります。周辺の割烹、料亭がお得意様だったのでしょう。
  6. 「あんぱん」の「木村屋」。地図の「木村泰造」。銀座・木村屋の支店で、立派な店構え。テントの文字は、おそらく「木村屋(小さく)神楽坂店」では。その上には木の字をベースにしたキムラヤの商標とローマ字が書かれているようです。この店舗の創業は明治39年、閉店は平成17年(「神楽坂まちの手帖」第8号、平成17年)
  7. 不明。寿司「二葉」は一歩奥に入った場所でした。
  8. 「青日書院」

神楽坂3丁目(写真)昭和30年頃 ID 46

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 46を見ましょう。撮影は神楽坂3丁目付近で、神楽坂の中途から坂上に向いています。街灯は鈴蘭の花をかたどった鈴蘭灯があり、車道には平坦で、Οリングはまだありません。なお、ID 99のほうがこれよりも情報が多く、必ずID 99を見ておいて下さい。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 46 神楽坂3丁目付近。

 新宿歴史博物館「新宿区の民俗」(5)(平成13年)p.57では「昭和30年前後の神楽坂3丁目付近」と書かれています。
 また神楽坂三十年代地図の昭和35年頃では、丸富呉服は東京電力に、神楽魚は食品ストアに変わっています。同様な変化は住宅地図(人文社、昭和35年)でも見られます。つまり、ID 46は昭和35年以前だといいます。
 一方、昭和27年(都市製図社「火災保険特殊地図」)と比べると、同時代になるといいます。

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和27年

神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂3丁目(坂下→坂上)
  1. 万平のみや。「鮨」が見られる。
  2. 菱屋糸店。看板の「菱屋総本店」。のぼり旗の「 ー毛糸」
  3. 丸富呉服。
  4. 神楽坂の魚屋「青 」。写真の看板に「仕出し」と書いてあります。周辺の割烹、料亭がお得意様だったのでしょう。
  5. 木村泰造。「あんぱん」の「木村屋」。銀座・木村屋の支店で、立派な店構え。テントの上の文字は、おそらく「木村屋(小さく)神楽坂店」です。その上には木の字をベースにしたキムラヤの商標とローマ字が書かれているようです。この店舗の創業は明治39年、閉店は平成17年(「神楽坂まちの手帖」第8号、平成17年)
  6. 不明。寿司「二葉」は一歩奥に入った場所でした。
  7. 「青日書院」

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」では

万平(すき焼き)
 ちょっと陰気な柳が目印だった「万平」。名物のおばあちゃんは、四角いカウンターの中で、若かった文学青年たちを相手に、男女の粋な話をいろいろとしてくれた。確か早稲田の坪内逍遥先生の最後の講義を、着物をぱりっと着て、講堂の最前列で聞いたと自慢していた。20代で学生でもなかったけどね、粋だったね。元気で楽しいおばあちゃんだった。ビルになった時は、早稲田通り側に、檜の風呂を作ったのは有名な話だけど…。

キムラヤ(パン・菓子)
 明治時代からつづく老舗中の老舗。銀座本店と縁戚関係にあって、名物の酒種あんパンをはじめ、クリームパン、マロン、チーズクリームなどとてもおいしかった。お店のおばさんや若夫婦もとても品があって気持ちがよかった。新作メニューのナッツの入ったのや煮タマゴの入ったのも好きでした。残念の一語です。

神楽坂通り(3丁目北西部)

文学と神楽坂

 神楽坂3丁目の神楽坂通り北側最左部の11軒について調べてみました。つまり、本多横丁からスタートし、神楽坂通りを東に向かい、1つ隣の無名の横丁までです。あるいは、左は物産館「北のプレミアムフード館『Kita-pre』」から右は牛肉料理「牛丸」や寿司屋「二葉」が入っていた「神楽坂Kビル」までです。
 明治後半から令和に至るまで、1つの土地には1つの建物しかできませんでした。ある人が、隣の土地を買い取って、拡張することもありませんでした。
 最初に2010年のゼンリン住宅地図を出します。

現在の3丁目

 これと図の「神楽坂通り商店会PC用ホームページ」と比較します。2015年の図です。

http://kagurazaka.in/map/kagurazakamap2015.pdf3丁目
 これで店舗をまとめてみます。No.10の摩耶ビルは以前は1丁目にいました。

Noビル・個人宅店舗
1大宗第2ビル2016年、北のプレミアムフード館 キタプレ。2020年、建替中。
2ミヤサカビルラフィネ、スチュワーデス倶楽部
3SHKビル金谷ホテルベーカリー、坂本商店、キーストーン法律事務所
4越後屋ビル甚右衛門、OHANA、水村、おの寺、六角堂
5鳥忠ビルセブンイレブン、SAWAN、いろり
6売物件(以前はドラッグストアスマイル)
7ナカノビルブロンクス、太山堂鍼灸接骨院、Accueil、灸屋小鉄
8個人宅桐信エステート、caqui
9個人宅関タバコ店
10摩耶ビル摩耶、足悠、Bianca神楽坂店
11神楽坂Kビルこんぶや、神楽坂ストレスクリニック

 No6、8、9は2階建てのビルですが、この建物については「〇〇ビル」とはいいません。したがって、空白です。3階以上で初めて「〇〇ビル」といっています。ここまではうまく行きました。なお、ナカノビルにあるブロンクスは神楽坂通り商店会には入っていないのでしょう。また、二葉は廃業で、こんぶやに替わりました。牛丸も廃業のようです。

 ではもう1つ、新しい(実際は昔の)地図を示します。昭和12年として作った火災保険特殊地図です。神楽坂S12
 地元の方は「石川市場」は「現代でも地方都市で見る場外市場のように、屋台式の店が並んでいたようです」といい、その左は「タバコ」、右の「加藤商店」は筆屋だったといいます。

 さらに火災保険特殊地図の昭和27年で、また同じ地域です。

昭和27年神楽坂
 この2枚と最初の1枚は本来は同じ地域の地図ですが、違う点があります。店舗5番から7番は地図上では微妙に大きさが違うのです。ある店舗は、ある地図では太り、ある地図では痩せています。おそらく実際は同じ大きさで、地図上では違っているだけだと思っています。

 次は1960年(昭和35年)の住宅地図です。

1960年、3丁目北側最西部の歴史

1960年、3丁目北側最西部の歴史

現在の代表的店舗昭和12年昭和27年
北のプレミアムフード館 キタプレ床屋藤や生花
スチュワーデス倶楽部(建物)(空白)
金谷ホテルベーカリー(建物)坂本ガラス
甚右衛門(建物)菓子
セブンイレブン石川市場松屋呉服(か柏屋呉服)
(売物件)(建物)塩瀬菓子
太山堂鍼灸接骨院(ナカノビル)(建物)ナカノ洋装
桐信エステートnaka(なか)屋時計
関タバコ店(建物)遠藤綿
摩耶加藤商店青日書院
牛丸(建物)(建物)

 さらに大正12年の関東大震災の以前の絵をこれに加えておきます。昭和45年新宿区教育委員会『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」です。ただし、『地理学評論』の「東京の都心周辺地域における土地利用の変遷と建物の中高層化」により、「大震災前」ではなく、大正11年(1922年)としています。

豊島理髪店

 この石川呉服店が石川市場になりました。「オーナーが商売に失敗したのでしょう」と地元の方。

 また、飯田公子氏の『神楽坂龍公亭物語り』(平成23年)で大正6年(1917年)を加えました。ただし、宮坂材料置場と坂本ガラスやは場所を交換しています。さらに昭和5年頃と平成8年の図も加えておきましょう。これは『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」にあった図です。さらに昭和27年の文章を再掲し、『神楽坂まちの手帖』第12号の『昭和35年ごろの神楽坂通り』も加えました。最後に昭和37年以降の地図は国会図書館の地図を使っています。

 ある店舗はビルになりました。たとえば、「鳥忠ビル」はセブン・イレブンの大家になって、数階建てになりました。坂本ガラスも「金谷ホテル」を店子に持っています。一方、関タバコ店は2階建てのままです。一方は大きなビルになり、一方は小さいまま。じっと眺めるといろいろ見えてきます。

大宗第2ビルミヤサカビルSHKビル越後屋ビル鳥忠ビル
現在令和2年 (2020)改築中ラフィネ、スチュワーデス倶楽部金谷ホテル、坂本商店、キーストーン法律事務所甚右衛門、OHANA、水村、おの寺、六角堂セブンイレブン、SAWAN、いろり
平成28年(2016)北のプレミアムフード館 キタプレ
平成27年(2015)五十番
平成8年(1996)子供の森(子供服)坂本硝子店甚右衛門・呉服鳥忠・神楽坂
昭和55年(1980)中西タバコ店
昭和45年(1970)宮坂金物店鳥忠
昭和35年 (1960)柏屋呉服店
昭和27年 (1952)藤や・生花菓子松屋呉服
昭和12年(1937)豊島理髪店タバコ石川市場
昭和5年 (1930)菓子石川屋・呉服
大正11年(1922)中西薬局
大正6年 (1917)中西薬局石川屋呉服

個人宅ナカノビル個人宅個人宅摩耶ビル神楽坂Kビル
2020年(空き地)ブロンクス、太山堂鍼灸接骨院、Accueil、灸屋小鉄桐信エステート、caqui関タバコ店iCure鍼灸・接骨ワイン酒蔵
2016年ドラッグストアスマイルブロンクス、太山堂鍼灸接骨院、Accueil、灸屋小鉄#rowspan#i摩耶、足悠、Bianca神楽坂店牛丸、神楽坂ストレスクリニック
平成8年バザール場ブロンクス桐信エステート成田屋・煙草ニューマヤ牛丸、二葉
平成2年五十番中華大世界 喫茶成田屋フトン店・関商店小田川 茨城 ビューティ摩耶料亭二葉 松原恵三
昭和55年塩瀬菓子ナカノ洋装大世界成田屋・関商店美容ニューマヤ寿司どころ二葉 松原
昭和45年塩瀬菓子時計屋ふとん店茂木医院二葉寿司
昭和35年 (1960)時計なかや津田屋・関商店
昭和27年 (1952)なか屋時計遠藤綿青日書院(建物)
昭和12年(1937)加藤商店(筆屋)
昭和5年 (1930)玉屋・眼鏡店開成堂・絵葉書桝屋・三味線和楽堂・筆宮城屋・菓子
大正11年(1922)食料品高尾絵はがきや三味線屋筆の魁雲堂太白飴・宮城屋
大正6年 (1917)宮城アメ屋筆や神楽バー

かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では

塩瀬(和菓子)
築地の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎やおかきのような庶民的なものもおいしかった。

塩瀬

 久保たかし氏の平成2年『坂・神楽坂』では
◆和菓子の老舗「塩瀬」がつい最近まであったが、今は無い。

『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では
鳥忠(居酒屋)
 地元民が普段着ですごせるこの店は、京都で知り合った老舗の友人との再会にぴったりだった。一人でも気負いなくくつろげる店だった。こういう「普通」な店が神楽坂から消えたのは残念で仕方がない。

 野口冨士男氏の「かくてありけり」では
絵はがき屋
 絵はがき屋も太白飴などとともに消え去った商売の一つで、今では私か知るかぎり浅草のマルベル堂などが都内唯一の生き残り専門店かとおもわれるが、時代のスターも幾度か交替して、芸者から映画俳優、そして歌手という経過をたどったとみて誤まりあるまい。新橋、柳橋、赤坂などの芸者が一世(いっせい)風靡(ふうび)した時代があって、ブロマイドになる以前の絵はがきが飛ぶように売れた。私の姉などは、それにあこがれた最後の世代に相当するのではなかろうか。

 久保たかし氏の「ふるさと神楽坂」(平成6年)では
魁雲堂
 墨、筆、すずりのお店。古い木造2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書かれ、1階の瓦屋根におかれている。

『ここは牛込、神楽坂』第4号で川村克己氏の「思い出はいつも光とともに」では
◆魁雲堂
 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんかある。その先は細い路地をへだてて、太白飴を名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。

『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では
茂木書店(書店)
 まちの普通の本屋さんだと思っていたら、ポケットサイズの国語辞典を出版していたので驚いたよ。

二葉[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

「上島珈琲館」から「神楽坂上」に向かって右側に少し奥に入ると、「二葉」になりました。ここは初めて「ばらちらし」が誕生した店です。昭和6年創業。地図はここ

「二葉」の「ばらちらし」は、江戸前のちらし寿司はすし飯のうえにもみ海苔をふって魚を並べたもの。それに比べるとネタが細かくきざまれています。呉服商の依頼で、着物に醤油がとばないようにしたようです。ばらちらしは昼は1500円のみ、夜は2500円から。残念ながら、2015年に廃業しました。新しい店舗は2016年6月22日に開業した居酒屋「こんぶや」です。

二葉

 あるブログには

奥で食券買ってくださいと、お帳場で。おばあちゃんから黄色い札をもらって着席すると、やがて、ばらちらしが運ばれてきます。ランチ時にはこの単品メニューだけなのに、なぜこういうシステムなのか? あらま、不思議

と書いてありました。

神楽坂3丁目に戻る場合
神楽坂の通りと坂に戻る場合は

神楽坂 長~い3丁目

文学と神楽坂

 昔は神楽坂は坂ではなく、階段でしたが、明治初期になくなりました。明治20年の神楽()三丁目はここ


 現在、3丁目は菱屋龍公亭助六丸岡陶苑ヤマダヤ椿屋五十番(五十番は2016年から4丁目になりました)などがあります。

 2丁目から3丁目に入った場所で、神楽坂通りの上を向いて右側の歩道で、歌川広重が描いた「牛込神楽坂之図」があります。

 また、昔の木村屋(今は上島珈琲店)、二葉神楽坂演芸場があったところです。

 神楽坂通りで丸岡陶苑のあたりが最大の高さです。これから神楽坂上に行っても下がることになります。三沢浩氏の『神楽坂まちの手帖』「神楽坂、坂と路地の変化40年④」によれば

外堀通りの角、元「アカイ」前の道端を0mとすると、坂上の「丸岡陶苑」と向かいの「ナカノ洋裁」が12m230の最高所。毘沙門天から大久保通りへ向こうに連れて6m余りも下がる。

と書かれています。

 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では

 最高点から神楽坂下を見たところは…

最高点 最高点。神楽坂下を見たところ

 最高点から神楽坂上を見たところは…

最高点上 最高点。神楽坂上を見たところ

 左にはいると見番横丁です。

 すこし先に行くとまた左側に行く三叉路があります。ここを左側に曲がって、10mぐらい歩くと左手に駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。昭和10年に「演舞場」に改名しました。これは寄席の1つで、柳家きんろうなどが有名でした。

駐車場

 では三叉路に戻りましょう。すこし上に歩くと、右側に「本多横丁」が顔を出してきました。ここを超えると神楽坂通りの4丁目です。ちなみに神楽坂通りの左側は3丁目から直接5丁目になってしまいます。4丁目は一番歴史も雰囲気もいっぱいある、そんな土地です。

 本多横丁です。

本多横丁

 なお、5丁目の毘沙門天と4丁目の三菱UFJ銀行の間には「毘沙門横丁」と呼ぶ小さな路地が出てきます。このあたりは芸妓が沢山いた場所です。