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神楽坂下の夜景(写真)昭和34年 ID 39, ID 31, ID 32

文学と神楽坂

 4枚の写真は50~60年代の神楽坂の夜景です。新宿区新宿歴史博物館にいけば、おそらくさらに沢山の写真(坂下中腹)があるのでしょう。

 最初は昭和34年、神楽坂の中腹部です。

『目で見る新宿区の100年』(郷土出版社、2015年)(昭和34年)

「神楽坂三十年代地図」(『神楽坂まちの手帖』第12号、2006年)を参照
神楽坂2丁目
  1. 電柱看板「石川歯科」。小栗横丁にある
  2. 「夏目写真館」とネオン「photograph 夏目写真館」
  3. 「+ク」スリ。神楽坂薬局。「☎でんわ」と解熱鎮痛剤「ケロリン」。「ハーモニン 神楽坂薬局」
  4. 「田」丸屋。せんべい。「手焼せん 」
  5. ネオンは「洋装生地 林屋」
  6. 化粧品の十奈美。見えません。
  7. 山岸煎餅店。見えません。
  8. 洋品の「エス」ヤ
  9. 「メガネ」と、ひとつ奥には「ト」ケイと時計10:10。大川時計
  10. 肉・増田、太陽堂。見えません
  11. 神楽坂仲坂。見えません
  12. 山本薬局。見えません
  13. 「ヒデ美容室」
  1. 「パチンコマリー」。現在はカグラヒルズ。
  2. 「ヤマヤ ⇒」
  3. 「洋食と喫茶 京屋 どうぞ⇒」。一軒ほど右奥にはいった場所にあります。
  4. 壁面看板「ジュ 」「靴 はニ 」
  5. 「靴 ニューイトウ」。広告のぼりは「セカイチョ」。運動靴の会社「世界長 セカイチョー ゴム株式会社」。「文部省教育用品審査合格品」
  6. 「コーヒー坂」と「陶柿園」は見えません。
  7. 「旅館 かぐら苑」。右奥にはいった場所にあります。
  8. 「珈琲 グラウン」と 「クラウン」
  9. 「ルナ美」容室。
  10. 「ポーラ化粧品」
  11. 「亀井鮨」
  12. 喫茶「七福」


 下図は小さな文字で描かれていますが、大きくすると、店舗の名前もわかります。

神楽坂1~2丁目。1963年の住宅地図。

 2番目は神楽坂下から見た写真です。時代は同じく昭和34年。

新宿の1世紀アーカイブス-写真で甦る新宿100年の軌跡

➀ 「赤井商店」。戦前は足袋店。戦後は紳士用品や高級シャツの仕立てで「赤井シャツ店」に。1996年、転業し、10年間喫茶店。
➁ 印章・ゴム印で「津田印店」
➂ 「パチンコ」。おそらく「パチンコマリー」
➃ 「清水衣裳店」。結婚式、成人式、卒業式等の貸衣装店。現在は千代田区飯田橋3-2-12に。
➄ 「田原屋」。坂上の田原屋の兄弟店。フルーツパーラー。
➅ 「パチンコ」

 ほかに一方通行の標識があります。この時期、道路は坂を上る方向だけでした。

 3番目「神楽坂まちの手帖」第12号の「昭和30年代とその周辺 僕らの育った神楽坂」は新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 32と同じものです。

新宿歴史博物館 ID 32 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 31では

新宿歴史博物館 ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

 加藤嶺夫著「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)。時代は昭和42年。着物を着る芸者はもうなくなっています。

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」では

赤井足袋店(神楽坂入口付近/明治40年代/『新修 新宿区区史』〈都立中央図書館蔵〉)
神楽坂下の角、現在では不動産屋になっている場所(神楽坂1-12)にあったのが「赤井足袋店」である。足袋の形の大看板に江戸の名残が感じられる。神楽坂の入口の良い目印であった事だろう。戦前は足袋店だったが、戦後は足袋と共に紳士用品や高級シャツの仕立てを行い「赤井シャツ店」となる。1996年に転業して10年間喫茶店を開いていた。2006年から不動産屋となっている

田原や(フルーツパーラー)
氷メニューが豊富でした。美味しかったですよ。ソフトクリームが美味しくて、それを使ったパフェも絶品!甘いものが苦手な人には小ぶりの丸パン3つに違った具をはさんだバンズセットというのが人気でした。当時の私は、お昼のお弁当を食べて、夕方それを食べて、家でまた夕食を食べるという食い気ばかりの高校生でした。(そうそう、そこの氷が独特で、名前も変わっていて、スノーハワイアンっていったかな?)



神楽河岸埋立(写真)ID 493, 537, 539, 540, 543 昭和51年

文学と神楽坂

 神楽河岸の写真を見てみたいと思っていました。でも、神楽坂の写真すら見ることはかなり困難で、坂といっても普通は神楽坂一丁目から上がる坂しか出てこないし、昔のスズラン通りの写真もない。まあ、これと比べると、神楽河岸はかなりラッキーで、昭和51年8月26日に新宿歴史博物館が撮った写真数枚があります。
 昭和51年はどんな時代なのでしょうか。東京都建設局がつくった「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)を読むと、昭和45年に都議会が「飯田壕の埋め立て請願」を採決し、昭和46年、飯田濠の埋立を申請し、昭和47年10月、埋立に着手し、約5,308㎡を埋め立て、昭和48年3月末に完了しました。つまり、昭和51年には埋め立てはおおむね終わっているのです。
 昭和51年には地元の「飯田橋地区市街地再開発連絡協議会」ができています。また昭和52年には「飯田壕を守る会」が発足し(渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」けやき舎、2007年)、同年6月には都議会へ再開発の中止を請願しました。つまり、神楽河岸はなくなる可能性の計画があり、埋め立てが終了したために、新宿歴史博物館もあわてて写真を撮ったのでしょう。

 写真は赤色の地点にカメラを置き、青色の神田川(つまり、飯田壕)を中心に撮ったものでしょう。地図は昭和53年の住宅地図です。また①②➂はカメラの角度です。

 ➀の焦点は飯田橋駅と東京燃料林産などにあてています。新宿歴史博物館は「河岸の雰囲気が残る神楽河岸地区。飯田橋駅の東口(目白通り)・西口(早稲田通り)と外堀通りに挟まれた飯田濠の再開発は、昭和61年(1986)に完了。飯田橋セントラルプラザ・ラムラに生まれ変わっている」と、解説しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 493 神楽河岸。昭和51年8月26日

 なお、「東京燃料林産の寮」はどうも社宅だったようです。kさんの下の発言をどうぞ。

②の焦点は牛込橋と埋立地などです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 537 神楽河岸。昭和51年8月26日



 いまではなくなった情報誌『かぐらむら』の「記憶の中の神楽坂」では「とんかつ森川」について(ただし名前は間違えています)

おかむらもりかわ(トンカツ)
神楽河岸の今は「なか卯」辺りにあった。ここのトンカツは天下一品だったんだよね。復活してほしいなぁ。

 目立つ建物は東京理科大学だけを除いて全てなくなりました。移転したり、あるいはオーナーは残っても建物は別の業態に変えたりしています。奥山酒造からはマクドナルドハンバーガー、さらにカナルカフェに代わっています。

 この埋立地は「鋼矢板を打ち込んで水面を区切り、土砂などを投入し」たものだと地元の方。埋立地は巨大で、ゴミもありません。汚臭もなさそうです。この埋立地の上にフタをかぶせ、循環式「せせらぎ」と緑地をつくり、さらに左奥にはラムラが建ちました。

 昭和46年の写真(下図)と比べてください。この写真にはゴミも、古材も、廃物もありそうです。でも昭和51年には何もなく、古材も悪臭もなさそう。「昭和46年の写真の廃材を、埋立地に埋めて処理したのかも」と地元の方。

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」(デコ。2013年)

 ➂の焦点は➁よりも近い場所です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 540 神楽河岸 昭和51年8月26日

 銀鈴会館の屋上には巨大なPR用の看板がでています。ある時点でこれは大きな「東京ワンタン本舗」の看板でした。現在はこの看板の前に大きなビルが建ち、看板は全く見えません。

 これはID 539で、ID 537とよく似ています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 539 再開発前の神楽河岸3

 またカラー写真も新宿歴史博物館から借用しています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 543 神楽河岸 昭和51年8月26日

 さらにIDは大きな数になりますが、変わらない写真もあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11465 神田川 神楽河岸から飯田橋駅西口、牛込橋方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11467 神楽河岸から飯田橋駅ホーム

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11470 神田川 神楽河岸から飯田橋駅西口、牛込橋方向