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源頼朝の伝説がある行元寺跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 7.源頼朝の伝説がある行元寺跡」についてです。

源頼朝の伝説がある行元寺(ぎょうがんじ)跡
      (神楽坂5ー6から7)
 毘沙門様を過ぎて右手に行く路地の奥一帯に行元寺があった(明治45年7月品川区西大崎4-780に移転)。
 新宿区内では古く建ったようであるが創建時代は不明である。総門は飯田橋駅前の牛込御門あたりにあり、中門が神楽坂にあったという。その門の両側に南天の木が多かったので南天寺と呼ばれていた
 源頼朝が、石橋山で挙兵したが破れ、安房に逃げて千葉で陣容を整え、隅田川を渡って武蔵入りをした時、頼朝はこの寺に立ち寄ったという伝説がある。その時頼朝は、寺の本尊である千手観世音を襟にかけて武運を開いたという夢を見たが、そのとおりに天下統一ができたので、本尊を頼朝襟かけの尊像といっていたというが、この伝説は信じがたい。
 この寺は、牛込氏が建立したのではあるまいか。そして後述するが、牛込城の城下町だったと思われる兵庫町の人たちの菩提寺でもあったろうし、古くから赤城神社別当寺ともなり、宗参寺建立以前の牛込氏菩提寺だったのではあるまいか(1113参照)。
 天正18年(1590)7月5日、小田原城の落城時には、北条氏直(氏政の子で、家康の女婿、助命されて紀伊の高野山に追放)の「北の方」がこの寺に逃亡してきた。寺はこの時応接した人の不慮の失火で火災にあったということである。このことでも、北条氏と牛込氏との関係の深かったこと、牛込氏と行元寺との関係が想像できよう。
〔参考〕南向茶話 牛込氏についての一考察 東京都社寺備考

明治20年 東京実測図 内務省地図局(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

行元寺 牛頭ごずさんぎょうがんせんじゅいんです。
明治45年7月 明治45年ではなく、明治40年が正しく、明治40年の区画整理で行元寺は移転しました。
品川区西大崎4-780 現在は、品川区西五反田4-9-10です。
創建 建物や機関などをはじめてつくること。ウィキペディアでは「創建年代は不明である。①源頼朝が当寺で戦勝祈願をしたため平安時代末期以前から存在するとも、②太田道灌が江戸城を築城する際の地鎮祭を行った尊慶による開山ともいわれている」
 一方『江戸名所図会』では③「慈覚大師を開山とすと云ふ」と説明します。慈覚大師(円仁)とは平安時代前期の僧で、遣唐使の船に乗って入唐し、帰国後、天台宗山門派を創りました。実証はできませんが、この場合、開基の時期は9世紀末です。
総門 外構えの大門。城などの外郭の正門。
中門 外郭と内郭を形づくる築地塀や回廊などがあるとき,内郭の門は中門である。
南天の木 ナンテン木の異称(下図を)

南天寺と呼ばれていた 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「往古は大寺にて、惣門は牛込御門の内、神楽坂は中門の内、左右に南天の並木ありし故、俗に南天寺と云しとなり」
源頼朝 みなもとのよりとも。鎌倉幕府の創立者。征夷大将軍。
石橋山 神奈川県小田原市の石橋山の戦場で、源頼朝軍が敗北した。平家の大庭景親や伊東祐親軍と戦った。

安房 千葉県はかつて安房国あわのくに上総国かずさのくに下総国しもうさのくにの三国に分かれていた。安房国は最も南の国。
武蔵 武蔵国。むさしのくに。七世紀中葉以降、律令制の成立に伴ってつくった国の一つ。現、東京都、埼玉県、神奈川県川崎市、神奈川県横浜市。

千手観世音 せんじゅかんぜおん。「観世音」は「観世音菩薩」の略。慈悲を徳とし、最も広く信仰される菩薩。「千手」は千の手を持ち,各々の手掌に目がある観音。
襟かけ 掛けえりの一種。襦袢(じゅばん)の襟の上に飾りとして掛けるもの。
この伝説 酒井忠昌氏の『南向茶話』(寛延4年、1751年)には「問日、高田馬場辺は古戦場之由承伝侯……」の質問に対して、答えの最後として「牛込の内牛頭山行元寺の観音の縁記にも、頼朝卿之御所持之仏にて、隅田川一戦の後、此地に安置なさしめ給ふと申伝へたり。」
 また、島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「往古右大将頼朝石橋山合戦の後、安房上総より武蔵へ御出張の時、尊前にある夜忍て通夜し給う折から、此尊像を襟に御かけあつて、源氏の家運を開きし霊夢を蒙し給ひしより、東八ヶ国諸侍を頼朝幕下に来らしめ、諸願の如く満足せり。」
牛込氏が建立したのでは つまり、牛込氏が建立したという仮説④が出ました。
兵庫町 ひょうごまち。起立は不明で、豊島郡野方領牛込村内にあった村が、町屋になったという。はじめ兵庫町といったが、当時から肴屋が多かったという。
菩提寺 ぼだいじ。先祖の位牌を安置して追善供養をし、自身の仏事をも修める寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
別当寺 江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺。
宗参寺 そうさんじ。新宿区弁天町にある曹洞宗の寺院。牛込(大胡)重行の一周忌菩提のため、天文13年(1544)、重行の嫡男牛込勝行が建立した。
北条氏直 戦国時代の武将で、氏政の長男。豊臣秀吉に小田原城を包囲攻撃され、3か月に及ぶ籠城のすえ、降伏した。高野山で謹慎。翌年許されたがまもなく大坂で死没。
北の方 公卿・大名など、身分の高い人の妻を敬っていう語。
不慮の失火で火災 島田筑波、河越青士 共編「東京都社寺備考 寺院部」(北光書房、昭和19年)では「天正年中に小田原北条没落の時、氏直の北の方当寺に来らる時に、饗応せし人、不慮に失火せしかは古記等此時多く焼失せしとぞ」。なお、饗応は「酒や食事などを出してもてなすこと」です。

牛込赤城社内の山猫|江戸岡場所図誌

文学と神楽坂

 礒部鎮雄氏の「江戸岡場所図誌」(江戸町名俚俗研究会、1962)赤城神社の「岡場所」です。ここでは3つに分けて、最初は全体の状況です。

江戸岡場所図誌

牛込赤城社内(山猫と云)
 赤城明神は、云うまでもなく牛込の総鎮守にして、此処も門前岡場所の形態である。
かくれ里下巻」には、
 牛込等覚寺門前とあり、此の寺は天台宗で赤城明神の別当寺でもあり、始め等覚寺(伽藍記)後に東覚寺(名所図会)と記してある。
婦美車」に上品下生之部、昼夜四ツ切チョンノマ一分、此浄土、風儀回向院前におなじ、髪の結様衣装武家にまなぶ、あまりさわぎならず、但し此所山ネコと云ふ。「花知留作登」にも同様に記す。
 とあって、勿論上等ではなく山猫と云はれる程だからすさまじい所があったろう。

岡場所考」に今はなし、又、「甚好記」には価十匁とあり、安永頃まで存在していて、寛政には取潰されてしまった。
 その場所は、赤城門前町のわづかな処である。

総鎮守 そうちんじゅ。国か土地の全体を守護する神社
門前岡場府
 岡場府とは江戸で官許の吉原に対し、非公認の深川・品川・新宿などの遊里。神社や寺に参拝に来る人を目的にした門前町に集まった。
かくれ里 「かくれざと」は『近世文芸叢書』風俗部第10(国書刊行会、明治44年)から。編纂者は国学者の石橋真国で、真国は通称茶屋七助、江戸町奉行附腰掛茶屋の主人で、没年は安政二年(1855年)。以下は「かくれざと」の「赤城」から。

   赤 城
牛込等覚寺門前〔契国策〕遊所方角図 申方  赤城〔甚好記〕赤城 十匁〔紫鹿子〕上品中生 赤城 昼夜四切チヨンノマ一分 此浄土風儀回向院前に同じ、髪の結様衣裳武家をまなぶ、余りさわぎはならず、但し此所山猫と云〔名所鑑〕赤城、昔1分の重忠の城跡なり〔江戸順礼〕酒で紅葉何れ赤城の色競。〔遊里花〕ほんに しほらしく見える女郎花。

等覚寺 とうかくじ。

等覚寺。礫川牛込小日向絵図。万延元年(1860)

婦美車。安永3年

別当寺 神社に付属して置かれた寺院。寺の最高管理者が別当、別当に補任された僧侶が神社に住み込み、運営指導に当たっていた寺を別当寺という。明治元年(1868)の神仏分離で廃棄。ここでは上図の中央と下図の右奥が別当寺。
婦美車 ふみぐるま。「婦美車紫鹿子」。正確には「鹿子」ではなく鄜の阝を子に変えて1語として書く。刊行は安永3年(1774)。作者は浮世偏歴齋道郎苦先生。
上品下生 「上品な人」「下品な人」と同じように、浄土教ではじょうぼんちゅうぼんぼんと呼び、さらにそれぞれをじょうしょうちゅうしょうしょうに分けます。つまり、極楽浄土に導くために「上品下生」は「上の下」(9番目のうち3番目)の階級です。
昼夜四ツ切 昼と夜それぞれを4分割して、きりあたりいくらと計算する。
チョンノマ 短時間での性行為を提供する時間。多くは20〜30分。

風儀 ふうぎ。風習。しきたり。ならわし。行儀作法。態度。風紀。
回向院 えこういん。墨田区両国二丁目にある浄土宗の寺院
さわぎ 騒ぐこと。騒がしいこと。ごたごた。騒動。大変な。めんどうな。酒席などで、にぎやかにたわむれる。
山ネコ 芸がまずく、淫を売る芸者。初めは寺の僧を相手としたが、後には寺の境内にいた一般人も客にした。
花知留作登 弘化4年。高柴英著。本の正確な読み方は不明。花知留作登の本文は「牛込赤城 此地本所回向院前に有りしと同じく、髪の結よふ衣裳は武家をまなび、さはがしき事はならぬゆへ、處を山猫と云ならし、夜昼四ツに切一切金一分、十匁」
岡場所考 石塚ほうかい編。安永4年(1775)。書写年は不明。豊芥子は江戸神田の粉屋に生まれ、珍書・古書を収集し、戦記、地誌、芝居、風俗に関する蔵書家として有名。蔵書を通じて山東京伝、柳亭種彦、河竹黙阿弥ら文人たちと交流をもった。
今はなし 「岡場所考」では「四ッ谷、ぢく谷、市ヶ谷」などは書いてありますが、しかし赤城神社で岡場所は全く触れていません。
甚好記 じんこうき。春画の小冊子。巻尾に江戸遊所40ヶ所の地名をあげる。安永年間(1772〜1781年)の印刷らしい。
十匁 揚代が銀10匁だったところから、上等な遊女
安永 1772年から1781年まで
寛政 1789年から1801年まで。寛政の改革(1789年~1804年)では老中松平定信を登用し、寛政異学の禁、棄捐きえん令、囲米かこいまいの制などを実施し、文武両道を奨励。しかし、町人の不平を招き、定信の失脚で失敗。
赤城門前町 上図(礫川牛込小日向絵図)を参照。

 次は「行元寺」の話が入り、その後は「耳袋」の話です。

「根岸守信(江戸町奉行)耳袋」に、
  〇外科不具を治せし事
予が許へ来りし外科に阿部春沢といへる 此者放蕩にして本郷二丁目住居後出奔せし由 或時噺しけるは、此程不思議の療治いらして手柄せり、牛込赤城明神境内に隠し売女あり 世に山ネコト云 彼もとより頼み越せしゆえ、其病人を蕁ねしに年比十五六歳の妓女なり、容姿美にして煩わしき気色なし、其愁ふる所を向しに、右主人答て此者近比かゝへぬるに、婬道なき庁輪故、千金を空しくせしよし、右容躰を見るに、前陰小便道有て淫道なき故、得と其様子を考へしに内そなわりしも非ス、全血皮の所なれば其日は帰りて、翌日に至り一ト間なる所に至り、彼女の足手をゆわへ、焼酎をわかし、且独参湯を貯へて前陰を切破りしが気絶せし故、独参湯をあたえ、せうちう〔焼酎〕にて洗ひ、膏薬を打しが、此程は大方快く、程なく勤めもなりぬべし、親方甚だ悦びぬと語りぬ。
妓女 ぎじょ。芸妓。げいぎ
婬道 いんどう。女性生殖器のちつの異称。
庁輪 かたわ。片端。片輪。身体の一部に欠損がある人。
独参湯 漢方で、人参の一種を煎じてつくる気付け薬。

 永井義雄氏の「図説 大江戸性風俗事典」(朝日新聞、2017年)ではまるで小説のようにこの情景を細かく書いています。

 あるとき、外科医の阿部あべしゅんたくが赤城の女郎屋に往診を依頼された。
てやってください」
 楼主が示したのは十五、六歳の遊女である。なかなかの美貌で、顔色もよく、とても病気には見えない。
「じつは、大金を払って最近抱えたのですが、陰道のない女だったので、大損をしてしまいました」
「陰道がないですと。まさか。ちと、診てみましょう」
 春沢は女の陰部を診察した。
 たしかに尿道口はあるが、膣はふさがっている。
「うーん、いま、ここではどうすることもできません。明日、準備をして、まいります」
 いったん、春沢は引きあげた。
 翌日、春沢は気付薬の独参湯どくじんとう、消毒用の焼酎しょうちゅう、手術用の小刀を用意して赤城に出向いた。
 独参湯をせんじ、焼酎を温める。女の手足をしばって股を広げさせ、陰唇を開いておいて、小刀で陰門を切開した。
 その痛みに、女は失神してしまった。焼酎で傷口を消毒しておいて、青薬を貼った。独参湯を飲ませると、女は意識を回復した。
 しばらくして傷はえ、女は客を取れるようになった。楼主は大喜びだった。

 著者のぎし鎮衛やすもりは寛政10年(1798)から文化12年(1815)まで南町奉行の任にあり、外科医の阿部春沢とは親交があった。春沢から直接聞いた体験談を書き留めたのである。内容は正確であろう。
 女は処女膜きょうじんしょうではなかったろうか。処女膜が分厚くて、普通には性交できない状態である。メスで切開手術をすることで治るという。春沢の処置も基本的には同じだった。
 それにしても痛ましい話である。症状が治った途端、けっきょくは売春を強要されたことになろう。女郎屋にとって女は商品だった。

 最後は「蜀山人」の話です。

〇蜀山先生云、
 此頃赤城明神地内に山猫の茶屋ありて、此處の倡妓の方言に、ばかの事を十九日と隠話にいへり、ぞろの字、十九日に似たればなり。此方言の初りは宝暦明和の初めの比、江戸中を売ありく針金うりあり、商ひ場所を日をきわめてうりありく、毎月十九日に者牛込より赤城近辺に来る故、右の隠語とはなりぬ、其うり声、
 〽 はりかね/\はりかねの安うり二尺一文針がね/\

倡妓 しょうぎ。歌や舞で、宴席に興を添える女。売春婦。 「倡」とは歌舞や演奏を生業なりわいとする人。

 これは「大田南畝全集第10巻 随筆」(岩波書店、昭和61年)のうち「奴凧」ですが、かなり違っています。「大田南畝全集第10巻」465頁は次の通り。

明和のはじめまで、針がね/\、二尺壱文針がねとよびて、江戸中を売ありく老父あり。予が若き時、牛込に居りしに、此辺へは毎月十九日に来りし也。風説には、此老父隠密を聞出す役にて、江戸中を一日づゝめぐるといへり。
◯馬鹿ものゝ事を十九日とよびしは、牛込赤城の縁日十九日也。其頃赤城に山猫といふ倡婦ユフジョありしが、此所にていひ出せし隠名といへり。ばかと書て十九日といふ字体にちかきゆゑともいへり。
明和 1764年から1772年まで
倡婦 しょうふ。娼婦。売春婦。