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外堀の工事方法|史跡解説板3

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()のうち3枚目は「外堀の工事方法」で、牛込から赤坂まで、外堀の工事方法の説明です。

工事方法

牛込うしごめ赤坂あかさか間の江戸えどじょう外堀そとぼりの工事方法
The Way to Make the Outer Moat from Ushigome to Akasaka

 牛込から赤坂にかけての外堀のうち、牛込~市谷までは、かんがわこくの地形を利用して造られました。次によつこうじまち付近は、もともと台地の尾根が横切っている地形であったため、台地を掘り込み、赤坂側の溜池ためいけの谷へと結ぶ大工事となりました。この区間の工事は、普請を担う各大名が組を編成し、組毎の掘削土量が一定となるように分担されました。
 外堀は、くいちがいつけが最も標高が高く、さなぼりよりかんがわに向かって堀毎に順に水位が低くなりました。そのため、牛込うしごめもん(飯田橋駅西口)のように外堀を渡る土橋にはせきが設けられ、堀の水位を調整していました。また、自然の谷地形を活かしながらも、じょうかくとしての防御効果を高めるため、現在の千代田区側の台地に土を盛って高いるいを築き、きゅうしゅん土手どてが形成されました。
 江戸城外堀は総延長約14kmをほこり、このうち牛込門から赤坂門までの約4km、面積約38haの堀が国史跡指定されています。史跡区域には、地形を巧みに利用して築かれた外堀が水をたたえる姿や、外郭がいかくもんの石垣、土塁の形態を見ることができます。

普請 家を建築したり修理したりすること。また、道・橋・水路・堤防などの土木工事。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


 せき。川の途中や流出口などに設けて、農業用水・工業用水・水道用水などの水を川からとるなどのため、水位を制御する施設。ダムや堤防の機能はない。
城郭 城と外囲い。堀や土塁・石垣などにより,外敵の攻撃を防いだ施設。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
土手 川などがあふれて田地や家屋に流入するのを防ぐために、土を小高く積み上げて築いた長い堤
外郭門 城などの外がこいにある門

  The section of the outer moat located between Ushigome to Ichigaya was constructed by utilizing the topography of the Kanda River valley. In addition, because the Yotsuya and Kojimachi sections of the moat were located on a ridgeline, which cut across the Kanda Plateau, moat construction in those areas required the execution of a large-scale infrastructure project in which sections of the Plateau were removed and the moat was extended to the valley in the vicinity of the reservoir on the Akasaka side. Groups of domainal lords were mobilized to carry out the project and each group was required to remove a predetermined amount of earth from the plateau. The outer moat reached its highest point in the vicinity of Kuichigai Gate.
  From there, the water level gradually lowered as it passed through the channels linking Sanada-bori Moat with the Kanda River. In order to control the flow of water and prevent flooding, weirs were constructed to around gates, such as Ushigome-mon Gate, which were located on earthen bridges. These weirs were then utilized to control the water level in the moat. Furthermore, utilizing the natural topography, large earthen fortifications were constructed by building up sections of the Kanda Plateau on the present-day Chiyoda Ward side of the moat in order to improve the Castle’s defenses. That project resulted in the establishment of a steep embankment.
  Edo Castle’s outer moat boasts a total length of approximately 14 kilometers. The approximately 4-kilometer, 38-hectare section between Ushigome and Akasaka Gates is a designated as a National Historic Site. Visitors to the site can see the ingeniously constructed outer moat filled with water, the stone walls of the Castle’s outer gates, and the shape of its earthen fortifications.

工事方法➀

見附の水位が違う

工事方法②

喰違から弁慶濠を見る

 野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では……

 石垣の桝形は、各組頭の他に毛利長門守秀就・蜂須賀阿波守忠英・森内記長継・生駒壱岐守高俊・池田勝五郎光仲(溜池櫓台)が担当している。いずれも大大名である。桝形の竣工時期(建築工事を完了する日時)を示した記録は少ない。毛利家の記録には、正月8日に諸家一同で鍬入れを行い、同家の丁場が3月14日に竣工したとある。細川家の場合は、3月27日とある。また、池田家の場合、同家の御船頭である東原半左衛門が伊豆の岩村に行き平田船(石船)に積んで回送するとあり、その後、日付は不明であるが、将軍家光が同家の丁場を巡視した記録が残されている。つまり、3月末前後には、池田家ではまた石垣工事を行っていたのである。この三家に共通しているのは、各々の担当した桝形の竣工日を正確に記されたものではないということである。しかし、竣工日を参考とするならば、各藩の担当箇所による差もあるが、およそ3月前後と考えることができよう。

 つまり、寛永13年(1636)1月8日に工事が始まり、3月14日に終了しています。

光照寺(写真)昭和27年頃 ID 9496

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496は、昭和20年代後半、こうしょうを撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9496 光照寺

 光照寺は、新宿区袋町の浄土宗の寺院で、増上寺の末寺。正式には樹王山正覚院光照寺といいます。
 手前の車道の舗装、参道の敷石はいずれもかなり荒れています。
 左手に文化財の木札があります。残念ながら本文は読めません。

新宿区文化財
史跡
 牛込城址
(不明)
昭和二十七年

新宿区役所

 ちなみに1972年(昭和47年)9月21日に田口重久氏は「歩いて見ました東京の街」のなかで写真を撮っています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-1

 20年を経ていますが塀や敷石、門柱は同じもののようです。新宿区の木札はより詳細な説明になりました。現在は、すべて一新されています。

田口重久「歩いて見ました東京の街」05-02-34-2

旧跡 牛込城跡
 牛込氏の居城地は袋町北部の大部分であるが、大切な部分は光照寺境内である。
 戦国時代の天文6年(1537)前後のころ、小田原の北条氏は群馬県赤城山ろくの大胡城主大胡重行を招き、牛込に住わせた。大胡氏はここに牛込城をつくって住むことになったが、城といっても大勢の家来と住む平山城の居館地であったろう。
 その規模は西は南蔵院に通じる道、北は都電通りの崖、東は神楽坂に面した崖、南は境内南の崖で、舌状半島の台地の尖端部である。大手門は神楽坂にあり、裏門は西の南蔵院に通じる道にあった。牛込家の居館は光照寺境内北部にあったようである。
 大胡重行の子勝行は、天文24年(1555)正月6日に姓を牛込と改め、小田原氏の重要家臣となり、赤坂、桜田、日比谷あたりまで領していたが、北条氏が滅亡したあとは、徳川家の家臣となり、館は廃止された。今の光照寺は正保2年(1645)神田から移転したものである。
  昭和43年1月
新宿区