史跡眺望テラス」タグアーカイブ

牛込門・牛込駅周辺の変遷|史跡パネル④

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル④は「牛込門・牛込駅周辺の変遷」です。写真3枚と図2枚を掲載し、日本語と英語で解説しています。

牛込門・牛込駅周辺の変遷

牛込うしごめもん・牛込駅周辺の変遷
The Transition of Usigome-mon Gate and Ushigome Station Areas

 外堀そとぼりは、1660(まん3)年、牛込・和泉いずみばし間の堀さらいが行われ、外堀(神田川)をさかのぼって、牛込橋までの通船が可能となり、神田川沿いに河岸かしができました。牛込橋東側の堀端ほりばたには、あげちょうの「町方まちかたあげ」と御三家のひとつである「わり様物さまぶつ揚場」があり、山の手の武家地や町人地へまきや炭などの荷物を運ぶかるが、「軽子坂」を往来したといわれています。
 牛込門から城内に入ると武家屋敷が連なり、他方、堀端から現在の神楽坂の辺りは、善国ぜんこく沙門しゃもんてん)の坂下の地域が武家地、早稲田側には寺町が形成されました。寺の門前には町屋が建ち並び、江戸名所の一つとして賑わいを見せていました。
 明治になると、城外の新宿区側には、空き家と化した武家屋敷跡がげいおきや料亭となり、神楽かぐらざか花街はなまちが形成されていきました。他方、城内の千代田区側の武家屋敷跡に学校などが建てられました。
 牛込土橋東側の堀は、1984(昭和59)年、再開発事業により暗渠あんきょとなり、現在に至っています。また、鉄道整備においても削られずに残された牛込門周辺の土塁は、1911(明治44)年、牛込・くいちがい間の土手遊歩道を外堀保存のため公園とする計画が決定され、1927(昭和2)年、「東京市立土手公園」として開設されました。現在でも国史跡指定区域に、外濠公園として歴史的ふうが保全されています。
和泉橋 千代田区神田を流れる神田川にかかり神田駅に近く昭和通りの橋。。
堀さらい 水路清掃のため堀の土砂・ごみなどを取り除くこと
河岸 江戸時代に河川や湖沼の沿岸にできた川船の港
堀端 堀のほとり。堀の岸
町方揚場 「町方」は江戸時代の用語で,村方・山方・浦方などの地方(じかた)や、武家方・寺社方に対する語。「揚場」とは船荷を陸揚げする場所。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。縄を編んでもっこのようにつくったかると呼ばれる運搬具を用いた。
毘沙門天 多聞天。サンスクリット名はVaiśravaṇa。仏法を守護する天部の神。
寺町 寺院が集中して配置された地域。寺院や墓地を市街の外縁にまとめ、敵襲に際して防衛線とする意図があった。
芸妓置屋 芸妓を抱えておく家。揚屋、茶屋、料亭などの迎えに応じて芸妓の斡旋を業とする。置屋。
花街 はなまち。かがい。遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。
暗渠 地下に埋設したり、ふたをかけたりした水路。暗溝。
土橋 木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋
土塁 どるい。敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁

喰違 喰違見附。江戸城外郭門で唯一の土塁の虎口(城郭の出入り口)。紀尾井ホールの筋向かいにある。
土手公園 昭和2年8月31日「東京市立土手公園」として開園。当初は新見附から牛込見附までの長さ300間(約550m)(大日本山林会報)の公園だった。
外濠公園 昭和7年12月17日、「土手公園」を「外濠公園」と改称。(都市計画東京地方委員会議事速記録)。区域も変更し、牛込見附から赤坂見附までの細長い公園に。現在は、JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までに。
風致 自然の風景などのもつおもむき。味わい。

 In 1660, the section of the outer moat located between Ushigome-bashi and Izumi Bridges was dredged. This made it possible for boats to travel up the outer moat (Kanda River) to Ushigome-bashi Bridge. In addition, banks were constructed on both sides of the Kanda River. The bankside area on the eastern side of Ushigome-mon Bridge was home to the Agebachō neighborhood’s “community landing,” and “the Owari House Landing,” which was controlled by the Owari, one of the three branches of the Tokugawa clan. Both sites were used to offload arriving cargo. Porters transporting firewood and charcoal to warrior estates and commoner neighborhoods in the Edo’s Yamanote area are said to have traveled from these moat-side landings up an incline known as Hill of Karuko.
 Entering the castle grounds from Ushigome-mon Gate, warrior estates lined the street. The area located at the foot of Zenkoku Temple between the moat banks and present-day Kagurazaka was home to warrior estates and, on the Waseda side, there were Buddhist temples. Commoner residences lined the space in front of the temple gates and the area emerged as one of Edo’s most bustling sites.
 Entering the Meiji period, unoccupied former warrior estates outside the castle walls on the Shinjuku Ward side came to host restaurants and establishments employing geisha entertainers and courtesans. This led to the establishment of the Kagurazaka pleasure quarter. In contrast, schools and other institutions were constructed on the grounds of abandoned warrior estates inside the castle wall on the Chiyoda Ward side.
 In 1984, the moat on the eastern side of Ushigome-bashi Bridge was enclosed in conjunction with a local reedevelopment project. It remains covered today. In addition, in 1911, the government presented a plan to transform the portions of the moat embankment in the vicinity of Ushigome-mon Gate that survived the construction of the railroads into a public park and preserve remaining portions of the outer moat between Ushigome and Kuichigai as a pedestrian walkway. This resulted in the creation of Tokyo Dote City Park, which was founded in 1927. Even today, historic landscapes located inside the area officially designated as a national heritage site have been preserved in the form of Sotobori Park.

図 牛込神楽坂
画讃は「月毎の 寅の日に 参詣夥しく 植木等の 諸商人市を なして賑へり」と読めます。

図 牛込揚場(江戸土産)
牛込御門外北の方 ふね原橋わらばしより南のかたちょう第宅ていたくのきを並べ 東南の方は御堀にて材木および米噌はさらなり 酒醤油始め諸色を載てここに集へり 船丘をなせり 故に揚場名は負けらし これより四谷赤坂辺まで運送す 因てこの所の繁華山の手第一とせり

写真 1905年頃の神楽坂下

牛込神楽坂。明治35~39年頃。石黒敬章編集『明治・大正・昭和東京写真大集成』(新潮社、2001年)

写真 1959年の神楽坂下
神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち(やらせ? 他にも色々な論争が発生しています)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31 神楽坂入口から坂上方向夜景、着物の女性たち

写真 牛込濠の桜

鉄道写真と飛行機写真の撮影紀 トーキョー春爛漫

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅|史跡パネル③

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル③は「甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅」です。写真5枚(うち空中写真が1枚)、図は1枚で、日本語と英語で解説しています。

甲武鉄道国有化・複々線化と飯田橋駅

こう鉄道てつどう国有化・複々ふくふくせんと飯田橋駅
The Nationalization of Kobu Railways and Construction of Multiple Lines and Iida Station

 1906(明治39)年に甲武鉄道は国有化され、1909(明治42)年に中央東線(1911(明治44)年に中央本線に改称)の一部となりました。
 甲武鉄道の乗客数は、開業した1894(明治27)年には85万8千人、翌年には242万2千人と急増していました。大幅に増えた旅客輸送に対応するため、汽車・貨物と電車の分離を目的に、1922(大正11)年から複々線化工事が行われました。複々線化の際、牛込うしごめえき下りホーム等が支障となったため、1928(昭和3)年に電車線のいいまちえき(現在の千代田区飯田橋三丁目)と統合する形で、そのちょうど中間となる曲線位置に飯田橋駅が開業しました。
 開業当時の飯田橋駅は両端に出口があり、東口側は高架駅のような構造になっている一方、西口側は橋上の駅舎でした。この西口は旧牛込駅の利用者に対して影響が少なくなるよう設けられたものであり、長い通路が造られ、2016(平成28)年まで使用されていました。駅の屋根は古レールを使って作られ、現在もホーム上から確認することができます。
 飯田橋駅のホームは急曲線にあったため、車両の大型化に伴いホームと電車の間には広いすきができていました。2020(令和2)年に、ホームを牛込駅があった市ヶ谷駅寄りの直線部分に移設し、より安全な直線ホームに改められました。あわせて、地域のシンボルとして史跡を活かした駅前広場や駅舎が整備されました。

駅の屋根は古レールを使って 屋根だけではなく、あらゆるところに古レールを使っていました。Golgodenka Nanchatte Researchでは……

レール

柱はホーム中央に1本の架構パターンと2本の部分に分かれており、2本が1本に集約される端部では梁の納まりにこれまた独特の古レールの絡み具合が見られる。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】ホーム上屋古レール全景
冒頭でも触れた西口への通路も古レールが下部構造に大量に使用されている。まるで線路上から撮影したような写真であるが、あくまでもホーム上から撮影したものであり、ホームの曲がり具合が相当のものであることを実感できる。奥に見える下駄ばきの建物が西口の駅舎である。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

同通路を西口改札外の牛込橋付近より見下ろす。これだけの長さで立ち上がる古レールが延々と続くのは壮観である。しかし、現在の耐震基準ではまずアウトではなかろうかと思われる華奢な架構とも言える。一体どのような構造計算の結果で OK となったのだろうか。

JR 東日本中央本線【飯田橋駅】西口通路古レール全景

 Kōbu Railway was nationalized in 1906 and became part of the Chūōtō Line in 1909. Two years later, the Chūōtō Line’s official name was changed to the Chūō Main Line.
 In 1894, Köbu Railway’s ridership numbered 858,000. By the following year, it had nearly tripled to 2,422,000. In 1922, additional lines were constructed in order to accommodate the line’s rapidly expanding ridership and to separate the steam and freight lines from the electric passenger lines. In 1928, Ushigome Station was merged with Iidamachi Station (present-day Chiyoda Ward Iidabashi 3-chome) because the platform for its outbound line obstructed the construction of the additional lines. This led to the creation of Iidabashi Station, which was located along a curve section of track equidistant from Ushigome and Iidamachi Stations.
 At the time of its opening, there were entrances at both ends of Iidabashi Station. While the eastern side had an elevated, viaduct-like structure, the eastern portion was located on a bridge. In order to accommodate passengers who previously boarded the train at Ushigome Station, a long passage connecting Iidabashi Station with its western entrance was constructed and remained in use until 2016. The Station’s roof was constructed using old pieces of rail track. These sections of the roof are visible today from the station platform.
 Because Iidabashi Station was located along a sharp curve, the construction of larger rail cars resulted in a wide gap between the platform and trains that served the station. In 2020, the platform was relocated to the straight section in the direction of Ichigaya Station previously occupied by Ushigome Station. This narrowed the gap between the platform and trains and made it safer for passengers to board. In conjunction with the platform’s relocation, a station-front plaza and station XX, was constructed.

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

手前が都電の走っていた外堀通り、左下が神楽坂方面。牛込濠と中央線の線路を越えてゆく橋が牛込橋。橋の下から右の濠端にかけてが旧・牛込駅の跡地である。橋の上に飯田橋駅の西口駅舎がある。そこからゆるやかに左へ下る長いスロープの通路とカーブを描いた飯田橋駅が見える。その先のカーブ右側一帯が旧・飯田町貨物駅。駅の左側の小さな水面 が旧飯田濠で、現在は埋め立てられて「セントラルプラザ・ラムラ」のビルが建っている。昭和38年11月8日 写真:三宅俊彦、三好好三、三宅俊彦、塚本雅啓、山口雅人著「中央線オレンジ色の電車今昔50年」(JTBパブリッシング、2008年)

飯田橋の遠景

加藤嶺夫著。 川本三郎・泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。写真の一部分

都電15番の鉄道趣味 撮影日 1982年(昭和57年)10月25日らしい

写真 戦後直後の飯田橋駅航空写真

地図・空中写真閲覧サービス コース番号 M698 写真番号 99 1947/12/20(昭22)撮影高度 1524m 焦点距離 154.000mm 撮影計画機関 米軍

写真 昭和初期の牛込見附・飯田橋駅西口

写真 昭和初期の牛込濠と土塁の様子

写真 飯田橋駅旧西口通路
 飯田橋駅の写真としてはインターネット「れとろ駅舎」が非常によく撮れています。

史跡紹介パネル|飯田橋駅西口

文学と神楽坂

 JR東日本は令和2年(2020)7月12日(日)初電から飯田橋駅の新しいホーム新西口駅舎歩行者空間を供用開始しました。
 さらに令和3年3月19日から、西口駅舎1階の歩行者空間に「国指定史跡『江戸城外堀跡』」を、「遺構巡り」にを、また1階の西口改札外コンコースの「史跡紹介解説板」に「外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造」を加えました。
 そして令和3年7月21日朝9時から、西口駅舎2階にも「史跡眺望テラス」を展開し、「史跡紹介解説板」を使って「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」を説明し、また「牛込門と枡形石垣」を紹介しています。

史跡解説板テーマ設置箇所供用開始日
牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)西口駅舎2階「史跡眺望テラス」2021年7月21日
国指定史跡「江戸城外堀跡」とその遺構巡り歩行者空間2021年3月19日
外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造西口改札外コンコース2021年3月19日

飯田橋駅西口1階

史跡紹介解説板 西口駅舎1階の歩行者空間 国指定史跡『江戸城外堀跡』とその遺構巡り

史跡紹介解説板 西口改札外コンコース 外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造

スガツネ工業株式会社

 また、「スガツネ工業株式会社」がドイツ「Q-railing」社から輸入したガラスについて「(この)自立ガラスフェンスシステムを使うとガラスとガラスの継ぎ目に支柱のないフェンスを作ることができます。支柱が邪魔にならず、景観を主役にするためのシームレスなデザインを作り上げることができます。ご覧の通り『史跡』も支柱の遮りなく、愉しむことができます」と自慢げに書いていました。

Q-railing社の自立ガラスフェンスシステム

牛込駅|史跡パネル②

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)に飯田橋駅西口駅舎の2階に「史跡眺望テラス」ができ、「史跡紹介解説板」もできています。2階の主要テーマは「牛込門から牛込駅へ(鉄道の整備)」で、テラス東側にパネルが4枚(左から)、さらに単独パネル()があります。これとは別に1階にも江戸城や外濠の「史跡紹介解説板」などができています。
 パネル②は「牛込駅」です。写真は6枚、図は2枚、コンピューターグラフィックス(CG)1枚で、日本語と英語で解説しています。

牛込駅

牛込うしごめえき
Ushigome Station

 1894(明治27)年10月9日にとう鉄道てつどうがいせんの新宿・牛込間の開通とともに牛込駅が開業しました。この牛込駅は翌年4月3日のいい町駅まちえき開業までのわずか半年の間ですが、甲武鉄道の始発駅として活躍していました。
 牛込駅があった位置は、現在の飯田橋駅のホームのうち牛込橋から市ヶ谷駅方向のあたりとなります。当時、駅舎と線路敷設のために堀の一部が埋め立てられており、現在の中央線快速のあたりにホームが作られ、中央・総武緩行線のあたりに駅舎が作られました。
 駅の改札口は現在の新宿区側と千代田区側の2方向にそれぞれ設置されました。千代田区側は、駅のこ線橋から階段で土手どてを上り、土手沿いの道路に面して改札の建物が設置されました。その駅舎脇にあった土手の擁壁ようへきが現在でも外濠そとぼり公園こうえん入口の付近にそのままの姿で残っています。一方新宿区側は、牛込見附のばしの脇を埋め立てて道路が塾備され、せきの水路付近に設置された小型の連絡橋を渡って駅舎に行くことができるようになっていました。現在もその連絡橋の橋台の遺構が残っており、牛込橋上やホームから確認することができます。
2方向に 正しくは、当初は新宿区側の出口だけで、遅れて跨線橋と千代田区側の出口が出現。(註:牛込駅の通路新設
こ線橋 跨線橋。こせんきょう。鉄道線路の上をまたぐような形で架けた橋。渡線橋。
擁壁 土圧に抵抗して土の崩壊を防止する土止め壁。
土橋 水面にせり出すように土堤をつくり、横断の用に供した橋。土橋の下に水路を設けることが多いが、牛込見附の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。
 川を横切って流水をせき止める施設。

  Ushigome Station opened on October 9, 1894, the same day that Kōbu Railway initiated service between Shinjuku and Ushigome Stations. Before Iidama-chi Station opened on April 3, 1895, Ushigome Station served as the starting station on the Kōbu Line.
  Ushigome Station was located on the portion of present-day Iidbashi Station that extends from Ushigome Bridge in the direction of Ichigaya Station. At the time, portions of the outer moat were reclaimed in order to construct the station house and train tracks. Ushigome Station’s platform was located on the site currently occupied the JR Chuo Rapid Transit Line. In addition, the station house was constructed on the site currently occupied by the JR Chuo and Sobu Local Lines.
  Ushigome Station had two ticket gates. One was located on the present-day Shinjuku Ward side and the other was located on the Chiyoda Ward side. The gate building on the Chiyoda Ward side was constructed facing the road alongside the outer moat’s embankment and could be accessed by a staircase that rose from the Station’s rail bridge and climbed the embankment. A retaining wall from a section of the embankment next to the station house remains in place today in the vicinity of the entrance to Sotobori Park.
  On the Shinjuku Ward side, a road was constructed on land reclaimed from alongside Ushigome-mon Gate’s earthen bridge. Thereafter, Ushigome Station could be reached via a small pedestrian bridge, which was erected near the aqueduct attached to Ushigome-mon Gate’s weir. Today, portions of the foundation that supported the pedestrian bridge remain in place and are visible from Iidabashi Station’s platform and atop Ushigome Bridge.

牛込駅と土橋

 上と同じような写真はありませんが、ただし、三井住友トラスト不動産の写真「牛込駅」の開業が似ています。説明では「写真は明治後期~大正期の撮影で、手前が『牛込駅』の駅舎、その北(写真では上)に『牛込濠』が広がり、その先が『神楽坂』の入口となる。『牛込駅』から『神楽坂』の入口までは『牛込見附』の坂の隣に通路・橋が設けられており、坂を通らないで行き来することができた」

「牛込駅」の開業。三井住友トラスト不動産

 手前の駅舎と牛込濠の間にある立派な瓦屋根の建物は本屋でした。

牛込駅のCG

牛込駅見取り図

牛込駅駅舎

① 写真 牛込駅駅舎

牛込駅。法政大学専門部商科卒業アルバム(1929年3月)所載。牛込駅は1928年11月廃止。HOSEIミュージアム。

写真 現在の牛込駅駅舎跡

現在の牛込駅駅舎跡

2024/09/02の牛込駅駅舎跡

②写真 現在の外濠公園入口

現在の外濠公園入口

2024/09/02の外濠公園入口

牛込駅

③図 跨線橋立体図

甲武鉄道市街線紀要(明30年)牛込渡橋

④写真 関東大震災直後の牛込駅

関東大震災直後の牛込駅

 国立映画アーカイブで、上の「駅舎や車両の被災と無蓋貨車の避難家族」(映画)が残っています。キャプションは「被災した牛込駅や焼失した車両とともに、無蓋貨車に避難した一家の中に、幼少期の三木鶏郎の姿が写っている」。ひらがなの「うしごめ」の後ろで倒れた家は本屋でしょう。牛込濠の向こう側にある牛込区の建物は無傷に見えます。
 映画の「地割れした牛込駅前の道」のキャプションは「牛込駅とその手前の道に発生した地割れの様子。当時中央本線の駅舎は万世橋駅(煉瓦造)を除いて木造であったが、牛込駅付近は火災を逃れ、駅舎についても焼失ではなく倒壊の被害が報告された」。倒れた本屋が写っています。新宿区側(連絡橋付近)から見た牛込駅です。

⑤写真 連絡橋レンガ擁壁遺構

連絡橋レンガ擁壁遺構

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」(1972年)の「首都圏の鉄道と駅の写真」「駅市谷側」には連絡橋があり、実際に使われていたようです。ただし、この橋は橋脚よりかなり幅が狭く、おそらく牛込駅の現役時代には、もっと幅の広い橋が架けられていて、戦災で橋は焼失し、戦後に管理用の橋が架けられたのでしょう。

 また、「ひとりごと 主に鉄道工事現場・車両改造を観察した内容を紹介するページJR飯田橋駅改良工事(その26)の最後に「余談ですが、濠にちょっと出っ張った部分があります。旧牛込駅の連絡橋の擁壁遺構なのだそうです。草むらで覆われていますがよく見るとレンガ造りの遺構が見えます」と書かれています。

JR飯田橋駅改良工事

JR飯田橋駅改良工事

江戸城外堀跡の案内図|史跡解説板5

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 西口駅舎1階の歩行者空間にある「遺構巡り」は「史跡 江戸城外堀跡 周辺案内図」と「江戸城外堀跡 散策案内図」です。

江戸城外堀跡

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡 散策案内図
Edo Castle’s Outer Moat Walking Map

 この2枚の散策図は、飯田橋駅から四ツ谷駅周辺に残る江戸城外堀跡を中心とした文化財を示したものです。これらは、近世から近代までの東京の歴史を示しています。
 また、日本橋を起点とする五街道が四方に延び、江戸出入口の大木戸や宿場の位置を左の図に示しました。
 さらに江戸御府内を示した「墨引図(町奉行支配の町範囲)」は、概ね現在の山手線を中心として、東は隅田川を越えて錦糸町駅までの広い地域であったことが分かります。

大木戸 おおきど。大きな城門。近世、国境や都市の出入り口に設けた関門。
墨引図 「御府内」とは朱引で表し、江戸時代「江戸の市域」のこと。朱引図には、朱線と同時に黒線(墨引)が引かれており、墨引で示された範囲は「町奉行所支配の範囲」

 These two maps indicate the location of historical sites in the vicinity of Iidabachi and Yotsuya Stations. The sites offer vital insights about Tokyo’s history from the early modern to the modern period.
 The map on the left traces the path of early modem Japan’s “Five Routes,” which radiated out in all directions from central Edo’s Nihon-bashi Bridge, and indicates the location of the city’s entrance gates and post stations on its periphery.
 The second map is a jurisdictional map indicating the territories under the authority of the Edo City Governor. It shows that areas inside the Yamanate Line comprised the city center and that the city area extended over a vast space that stretched far east as present-day Kinshicho Station.

江戸城外堀跡周辺案内図

 小さな小さな文字です。でも、神楽坂に関係するものは多くはありません。

神楽坂界隈(Kagurazaka District)江戸時代に武家や神社の街として作られましたが、明治期に料亭に利用され、今も江戸以来の路地が残されています。
善国寺(Zenkoku Temple)1595(文禄4)年に馬喰町で創建、麹町を経て1793(寛政5)年に現在地へ移転しました。神楽坂の毘沙門さまです。
牛込門跡(The Remains of Ushigome-mon Gate)1636(寛永13)年に作られた江戸城外郭門の1つで、1902(明治35)年に大部分が撤去されましたが、現在でも石垣が良好に保存されています。
外濠公園(Sotobori Park)1927(昭和2)年に外堀を埋め立てることにより、土手公園を開設。グランドなどに利用されています。
田安門(Tayasu-mon Gate)上州(現在の群馬県)へ向かう道の起点で、1620(元和6)年に完成しました。高麗門は江戸城に残る最も古い建築物です。
市谷亀岡八幡宮(Ichigaya’s Kamegaoka Hachiman Shrine)江戸城の鎮守として1479(文明11)に建てられましたが、外堀築造で現地に移転しました。江戸名所として多くの錦絵に描かれました。
江戸歴史博物館(Shinjuku Historical Museum)旧石器、縄文時代等の遺跡から江戸時代の暮らし、明治以降の発展まで新宿区の歴史を紹介しています。
江戸歴史散歩コーナー 東京メトロ市ヶ谷駅構内(Exhibit: Walking Edo’s History/Ichigaya Metro Station Concourse)地下鉄工事で発掘された江戸城の遺構や外堀機築技術が紹介されています。
江戸城外堀跡史跡展示広場(Edo Castle Outer Moat History Plaza)外堀及び四ツ谷駅周辺の歴史を四ツ谷駅構内の展示広場で紹介しています。
市谷門跡(The Remains of Ichigaya-mon)1639(寛永16)年に完成した江戸城外郭門で、1913(大正2)年に石垣撤去され、現在は土橋の石垣のみが残っています。
コモレ四谷(CO・MO・RE YOTSUYA)四谷地域の歴史を紹介する解説版が設置されています。
四谷門跡(The Remains of Yotsuya-mon)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。1903(明治36)年に大部分は撤去され、現在枡形石垣の一部が残っています。
心法寺(Shimpo Temple)心法寺は1597(慶長2)年に創建され、一部が千代田区の文化財に指定されています。
四谷大木戸と水道碑(Totsuya Gateway and Tamagawa Aqueduct Commemorative Monuments)江戸への人や物の出入りを監視するため江戸初期に設置されました。玉川上水の碑とともに大木戸の記念碑が残っています。
四谷見附橋(Yotsuya-mistuke-bashi Bridge)1913(大正2)年に東宮御所(迎賓館)にあわせネオバロック調の意匠で架橋されました。1991(平成3)年現在の橋に架け替えられました。
須賀神社(Suga Shrine)1634(寛永11)年に江戸城外堀が造られた際に清水谷(現在の千代田区紀尾井町)から移転された稲荷神社が起源で、のちに神田明神の牛頭天王が合祀されました。
外堀普請で移転した寺院(Temples Relocated in Conjunction witk Outer Moat’s Construction)江戸城外堀の工事に伴い寺院が四谷地域に移転し、現在もこの地域に多く立地しています。
御所隧道(Gosho Tunnel)1894(明治27)年に開通した甲武鉄道のトンネルで、東宮御所(現在の迎賓館)を通過することから名が付けられました。現在も利用されています。
喰違(The Remains of Kuichigai Gate)外堀で唯一土塁を組み合わさせた門で、1612(慶長17)年に完成しました。現在も原形を確認できます。
赤坂門跡(The Remains of Akasaa-mon Gate)江戸城外郭門で、1639(寛永16)年に完成しました。石垣は一部現存し、福岡黒田家の刻印がみられます。

飯田橋周辺案内図

牛込駅(千代田区側)駅舎跡

牛込駅(千代田区側)駅舎跡
 甲武鉄道時代、ここには牛込駅の出入口がありました。
 現在でも、当時作られた駅舎の左右にあった石積み擁壁がそのまま残されており、見ることができます。
The Remains of Ushigome Station
石積み擁壁 高低差のある土地で土砂崩れを防ぐために設置し、石を積んだ壁。

牛込門枡形石垣跡の舗装表示
 かって牛込門の枡形石垣があった位置が自然石舗装で表現されており、その大きさを体感することができます。
Remnants of Ushigome-mon Gate’s Stone Walls
枡形 「枡形」は石垣で箱形につくった城郭への出入口。

石に刻まれた印

石に刻まれた印
 かつて牛込門の枡形石垣を構成していた石垣石が移設展示されています。
 枡形石垣の整備を担当した徳島藩蜂須賀阿波守の刻印とみられるものが確認できます。
Inscriptions on the Stone

江戸城外堀跡散策案内図

江戸城外堀跡散策案内図

散策モデルルート
Aルート:「外堀散策ルート」Edo Castle’s Outer Moat
周囲14kmの江戸城外堀を史跡中心に巡ります。
This walk visits heritage sites along the outer moat’s 14-kilometer periphery
Bルート:「江戸城内ルート」Edo Castle
牛込門から北の丸の田安門を経て旧江戸城本丸跡を巡ります。
Departing from Ushigome-mon Gate, this walk passes through the Northern Citadel’s Tayasu-mon Gate before visiting the remains of Edo Castle’s Inner Citadel.
Cルート:「外堀水辺散策ルート」The Outer Moat Riverside Walk
神田川と日本橋川にある鉄道遺産などを巡ります。
This route visits sites along the Kanda and Nihonbashi Rivers relates to local railroad development.

外堀の工事方法|史跡解説板3

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の中型パネル4枚()のうち3枚目は「外堀の工事方法」で、牛込から赤坂まで、外堀の工事方法の説明です。

工事方法

牛込うしごめ赤坂あかさか間の江戸えどじょう外堀そとぼりの工事方法
The Way to Make the Outer Moat from Ushigome to Akasaka

 牛込から赤坂にかけての外堀のうち、牛込~市谷までは、かんがわこくの地形を利用して造られました。次によつこうじまち付近は、もともと台地の尾根が横切っている地形であったため、台地を掘り込み、赤坂側の溜池ためいけの谷へと結ぶ大工事となりました。この区間の工事は、普請を担う各大名が組を編成し、組毎の掘削土量が一定となるように分担されました。
 外堀は、くいちがいつけが最も標高が高く、さなぼりよりかんがわに向かって堀毎に順に水位が低くなりました。そのため、牛込うしごめもん(飯田橋駅西口)のように外堀を渡る土橋にはせきが設けられ、堀の水位を調整していました。また、自然の谷地形を活かしながらも、じょうかくとしての防御効果を高めるため、現在の千代田区側の台地に土を盛って高いるいを築き、きゅうしゅん土手どてが形成されました。
 江戸城外堀は総延長約14kmをほこり、このうち牛込門から赤坂門までの約4km、面積約38haの堀が国史跡指定されています。史跡区域には、地形を巧みに利用して築かれた外堀が水をたたえる姿や、外郭がいかくもんの石垣、土塁の形態を見ることができます。

普請 家を建築したり修理したりすること。また、道・橋・水路・堤防などの土木工事。
土橋 どばし。(1)城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに虎口前の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。(2)土でおおった橋。木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。つちばし。
 せき。川の途中や流出口などに設けて、農業用水・工業用水・水道用水などの水を川からとるなどのため、水位を制御する施設。ダムや堤防の機能はない。
城郭 城と外囲い。堀や土塁・石垣などにより,外敵の攻撃を防いだ施設。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
土手 川などがあふれて田地や家屋に流入するのを防ぐために、土を小高く積み上げて築いた長い堤
外郭門 城などの外がこいにある門

  The section of the outer moat located between Ushigome to Ichigaya was constructed by utilizing the topography of the Kanda River valley. In addition, because the Yotsuya and Kojimachi sections of the moat were located on a ridgeline, which cut across the Kanda Plateau, moat construction in those areas required the execution of a large-scale infrastructure project in which sections of the Plateau were removed and the moat was extended to the valley in the vicinity of the reservoir on the Akasaka side. Groups of domainal lords were mobilized to carry out the project and each group was required to remove a predetermined amount of earth from the plateau. The outer moat reached its highest point in the vicinity of Kuichigai Gate.
  From there, the water level gradually lowered as it passed through the channels linking Sanada-bori Moat with the Kanda River. In order to control the flow of water and prevent flooding, weirs were constructed to around gates, such as Ushigome-mon Gate, which were located on earthen bridges. These weirs were then utilized to control the water level in the moat. Furthermore, utilizing the natural topography, large earthen fortifications were constructed by building up sections of the Kanda Plateau on the present-day Chiyoda Ward side of the moat in order to improve the Castle’s defenses. That project resulted in the establishment of a steep embankment.
  Edo Castle’s outer moat boasts a total length of approximately 14 kilometers. The approximately 4-kilometer, 38-hectare section between Ushigome and Akasaka Gates is a designated as a National Historic Site. Visitors to the site can see the ingeniously constructed outer moat filled with water, the stone walls of the Castle’s outer gates, and the shape of its earthen fortifications.

工事方法➀

工事方法②

喰違から弁慶濠を見る

 野中和夫編「石垣が語る江戸城」(同成社、2007)では……

 石垣の桝形は、各組頭の他に毛利長門守秀就・蜂須賀阿波守忠英・森内記長継・生駒壱岐守高俊・池田勝五郎光仲(溜池櫓台)が担当している。いずれも大大名である。桝形の竣工時期(建築工事を完了する日時)を示した記録は少ない。毛利家の記録には、正月8日に諸家一同で鍬入れを行い、同家の丁場が3月14日に竣工したとある。細川家の場合は、3月27日とある。また、池田家の場合、同家の御船頭である東原半左衛門が伊豆の岩村に行き平田船(石船)に積んで回送するとあり、その後、日付は不明であるが、将軍家光が同家の丁場を巡視した記録が残されている。つまり、3月末前後には、池田家ではまた石垣工事を行っていたのである。この三家に共通しているのは、各々の担当した桝形の竣工日を正確に記されたものではないということである。しかし、竣工日を参考とするならば、各藩の担当箇所による差もあるが、およそ3月前後と考えることができよう。

 つまり、寛永13年(1636)1月8日に工事が始まり、3月14日に終了しています。

江戸城|史跡解説板1

文学と神楽坂

 2021年(令和3年)から飯田橋駅西口駅舎の1階に「史跡紹介解説板」、2階には「史跡眺望テラス」と「史跡紹介解説板」ができています(ここでは史跡紹介パネルとしてまとめています)。
 1階の外側の歩行者空間には中型パネル4枚、石1個と大型パネル2枚(国指定史跡「江戸城外堀跡」とその遺構巡り)、西口改札外のコンコースにもパネル(外堀を構築する見附石垣・土塁・堰の構造)があります。
 1階の中型パネル4枚()のうち、1枚目は江戸城です。徳川家康が作った江戸城は、まず本丸を拡大し、西の丸を作り、さらに大名達は江戸を建設してきます。
 写真は城郭などが3枚、図は江戸城跡の全体図です。

江戸城

江戸城
The History of Edo Castle
 江戸城は、平安時代末の江戸氏居館きょかん、室町時代のおお道灌どうかん、戦国時代の小田原ほうじょう氏の支城として受け継がれました。豊臣とよとみ秀吉ひでよしは、北条氏を滅ぼすと、徳川とくがわ家康いえやすを関東にほうしました。1590(てんしょう18)年、徳川家康は江戸城に入城し、江戸城とじょうまちの建設を始めました。家康入城時の江戸城には石垣はなくるいのみで、も入り江でほんばしきょうばし辺りも海面と同じ高さの湿地でした。
 家康は、まず城内の寺を出しほんまるを拡張し、城下町の武家ぶけちょうにんを整えました。次に、本丸の南の台地を削り西の丸を造成し、その残土で日比谷入り江を埋め立てました。1603(けいちょう8)年、ばくを開き実権を握った家康は、てんしんとして、城と城下町建設にしょだいみょうを動員しました。同じ年に、かんやまを崩して日本橋南の地域を埋め立て、市街地の造成と日本橋の架橋を行い、翌年には日本橋を起点とする五街道を整備しました。1606(慶長11)年には二の丸三の丸城郭の整備、石垣築造を進め、翌年にはてんしゅが完成しました。なお、天守は1657(明暦めいれき3)年に大火で焼失した後、再建されませんでした。
 1868(明治元)年、明治天皇が江戸城に入り皇居となり、1960(昭和35)年、江戸城内郭ないかくの堀が「江戸城跡」として国の特別史跡に指定されました。このほか、「江戸城外堀跡」と「ときばし門跡もんあと」が史跡に、そとさくらもんやすもんみずもんとそれぞれのやぐらもんが重要文化財に指定されています。
支城 本城のほかに領内各地に設けた城。
移封 いほう。大名などを他の領地へ移すこと。転封てんぽう。国替え。
土塁 どるい。土居どい。敵や動物などの侵入を防ぐため、主に盛土による堤防状の防壁施設。土を盛りあげ土手状にして、城郭などの周囲に築き城壁とした。英語ではembankmentで、土手、堤防、盛り土などがその訳語。
本丸 ほんまる。日本の城郭で、中心をなす一区画。城主の居所で、多く中央に天守(天守閣)を築き、周囲に堀を設ける。
西の丸 にしのまる。江戸城本丸の南西方の一郭。将軍の世子の居所、また、将軍の隠居所
天下普請 江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行わせた土木工事
五街道 ごかいどう。江戸時代、日本橋を起点とした東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中。幕府はこれを直轄し、道中奉行の管轄下に宿駅など整備し、一方関所を設けて統制を厳重にした。そのため参勤交代など主として公用に利用、一般の旅人は脇往還を多く通った。
二の丸 本丸の外側に隣接して城主の館邸の設けられた郭(周囲を土や石などで築いた囲いの内側の地域)
三の丸 二の丸につづいて外側の家臣屋敷などの並ぶ郭
城郭 城と外囲い。堀や土塁・石垣などにより,外敵の攻撃を防いだ施設。
天守 城の本丸に築かれた最も高い物見やぐら。天守閣。天守やぐら。
内郭 うちぐるわ。ないかく。城などの内側に築かれた囲い。また、その区域
江戸城外堀跡 江戸城の防衛的な施設である外堀のうち、牛込見附から赤坂見附まで延長約3.3kmと虎ノ門地区が、1956年(昭和31)に国の史跡に指定され、2008年(平成20)に追加指定を受けた。江戸時代以来の堀や土手、城門石垣が残る。
櫓門 やぐらもん。上階に櫓(城壁などの上に造った建物で、諸方を展望して偵察したり、矢や弾丸を発射して防戦の用とした)をのせた門。

 Edo Castle’s origins can be traced to the establishment of the Edo Clan’s estate in the late-Heian period.  During the Muromachi period, it served as the location of Ōta Dōkan’s branch castle.  Entering the Warring States Period, it was controlled by the Hōjō Clan’s and served as the site of their branch castle. When Toyotomi Hideyoshi eradicated the Hōjō Clan in the late-sixteenth century, Tokugawa Ieyasu was sent to their former territory in the Kantō region. In 1590, leyasu assumed control of Edo Castle and initiated the Castle’s reconstruction and construction of the surrounding castle town. At the time, there were no stone walls on the Castle site. The only remaining features of the Hōjō Clan’s branch castle were its earthen fortifications. In addition, the Hibiya area was an inlet and the Nihonbashi and Kyōbashi areas were low-lying wetlands.
 leyasu began the reconstruction effort by removing temples from the site, expanding the Castle’s inner citadel, and supervising the construction of the city’s commoner districts and warrior estates. He then removed portions of the plateau immediately south of the inner citadel and constructed the western citadel. In addition, the inlet in Hibiya was filled in using the earth removed from the plateau. In 1603, leyasu, who had by then seized national political authority and established a tent government, mobilized domainal lords from the across the country to construct the remaining portions of Edo Castle and the surrounding city area. The same year, Kanda Hill was leveled and earth removed from the Hill was used to fill in the southern portions of the Nihonbashi area. The area was then developed and Nihon-bashi Bridge was constructed. The following year, an archipelago-wide network of five overland circuits originating from Nihon-bashi Bridge was established. In 1606, the second and third citadels and castle tower were constructed and work continued on the stone walls surrounding the Castle. By the following year, the Castle’s main keep was complete. In 1657, however, the Castle was destroyed by a fire and had to be reconstructed.
 In 1868, the Meiji emperor moved to Edo Castle and it came to serve as the imperial palace. In 1960, Edo Castle’s inner moat was classified as Edo Castle’s official ruins and designated a National Heritage Site. In addition, remaining portions of the Castle’s outer moat and the ruins of Tokiwabashi Gate received designation as Historical Landmarks. Lastly, the box-shaped, two-story gatehouses at Sakurada-mon, Tayasu-mon, and Shimizu-mon Gates were designated as Important National Treasures.


大手門 霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997

本丸大手門 本丸正門。慶長12年(1607)完成、のち伊達政宗が延べ42万人、大判2600枚を費やして右折枡形門となす。明暦の大火後、万治2年(1659)に再建された。大正12年震災で倒壊し復興された渡櫓門も戦災で焼失、現渡櫓門は昭和40年(1965)の復元。高麗門と石塁のみ遺構として現存。写真には渡櫓右に二ノ丸異三重櫓が見える。警戒は厳しく、明治4年(1871) 4月「御城内御門謷戒兵規律」には、警戒兵が門両脇に2人ずつ昼夜交替で立ち、例外を除き鑑札所持者のみ朝六ツ時から暮六ツ時まで通行を許した。明治22年皇居造営後、内閣が赤坂仮皇居から大手門内に移動、大手門は内閣への通用門となった。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)

江戸城写真集 蓮池三重櫓、本丸御殿址と台所櫓 東京誌料 東京都立図書館

 この写真は鹿鳴館秘蔵写真帖の「下乗橋前より二ノ丸東三重櫓方向」と全く同じなので……
下乗橋前より二ノ丸東三重櫓方向 下乗橋大番所前から二ノ丸殿東側を写した写真。左手奥から東三重櫓、東多聞、異三重櫓。堀を挟んで、右手に同じ三ノ丸の平川門へ通じる喰違門の一部が見られる。大手門と喰違門の間には、御殿詰・勝手方などを除く会計一般を扱った下勘定所が置かれていた。現在、堀は二ノ丸北櫓跡まで埋められ、それより下梅林門までが天神堀となっている。埋め立て部分には宮内庁病院や厩舎、三の丸尚蔵館などが建設され、かつての面影は全くない。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)

半蔵門 霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997

半蔵門 桜田門と同じく元和6年(1620)奥羽諸侯が建造した右折枡形門。土手で桜田堀と半蔵堀とを画したため門前の橋は築かれなかった。名称は門内に住んだとされる伊賀の服部半蔵に由来する。この門は内郭の西門に位置し、武蔵国府へ向かう国府方口とも称された。麴町の町名は、国府路こふじに由来するとされる。写真には解体中の半蔵門の渡櫓門が見られる。なお現在の高麗門は和田倉門より移築したもの。現在枡形はない。(霞会館「鹿鳴館秘蔵写真帖」平凡社、1997)