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神楽坂通りの迂回[明治の市区改正](明治21年)

文学と神楽坂

地元の方からです

 早稲田通りは、千代田区九段北の田安門交差点から神楽坂や高田馬場を通り、杉並区上井草までの道路の通称です。神楽坂上交差点を境に東側(都心側)は千代田区と新宿区の区道、西が都道になっています。この原点となったと思われる決定が、明治政府の市区改正委員会の議事録にあります。
 市区改正は東京市内の道路を区間ごとに第一等~第五等と指定し、道幅を広げる計画でした。現在の内堀通りや中央通りは第一等、外濠通りは場所によって第一等または第二等です。明治21年10月、原案は次のようになっていました。

・第二等道路(幅12間=21.6m)
・第三等道路(幅10間=18m)

東京市区改正全図。明治23年3月

 神楽坂通りは第三等道路に指定され、拡幅される予定でした。この原案に異議がありました。

明治21年(1888年)10月12日開催
1番委員 この路線は飯田橋より少しく西により筑土通りの道をとる方が平坦にして実施上も便宜ならん。
24番委員 説のごとく成すときは迂回するならん。(遠回りではないか)
1番委員 いや、かえって迂回を避けうべし。
25番委員 説は至極と考える。もし路線を変更するも8間道(14.4m)にて十分。
1番、2番委員 賛成す。
(新字・新かなで適宜省略)

 賛成多数で、神楽坂通りは第四等道路に格下げになりました。しかし、次の会議でさらに修正されたのです。

明治21年(1888年)10月15日開催
1番委員 実況を調べし。神楽坂通りを肴町まで取り広げるは、はなはだしき坂路のみならず、牛込の繁盛を幾分か傷つくるきらいなしとせぬ。これを少しく北に移し、飯田橋の外の下宮比町と揚場町との間を過ぎ、筑土前町および肴町を貫き、岩戸町の四等線(第四等道路)に接続せば、急坂を避け、(道路の)改良の効果を奏すべし。路線を修正されたし。
(新字・新かなで適宜省略)

 神楽坂は急なので工事が大変だし、商店を立ち退かせるのは損だ。坂を迂回し、北側に新しい道を作ればいい-という意見です。委員会は全会一致で原案の変更を決定し、神楽坂通りは第四等道路からも外れました。
 迂回を提案した1番委員は桜井勉といい、内務省地理局長でした。全国に気象観測網を整備したことから「日本の天気予報の創始者」ともされています。

 神楽坂の迂回路となったのが、現在の飯田橋—筑八幡町—神楽坂上を結ぶ大久保通りです。地図を見ると、この区間は家を立ち退かせて道を作ったようです。

 牛込区史(昭和5年)によれば、神楽坂通りは

・第五等道路(幅6間=10.8m)
第八十二 牛込門外より神楽坂通り矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

に指定されました。ところが、この計画は明治36年の市区改正の修正で

・第五等道路
第六 牛込肴町より矢来町・弁天町を経て馬場下町に至るの道路

へと短縮され、通りの神楽坂1-5丁目は東京市の管理を外れます。

神楽坂上~坂下路幅
明治21年10月(原案)市区改正・第三等道路18m
10月12日市区改正・第四等道路に格下げ14.4m
10月15日市区改正・第四等道路から格下げ
明治22年5月市区改正・五等道路10.8m
明治36年3月市区改正の対象外

 その頃には神楽坂の商店街を拡幅するのは難しくなっていいたのでしょう。神楽坂1-5丁目が都道になっていないのは、この時の決定の影響と考えられます。
 また現在の道幅は約12mですが、これは明治期から変わっていないと言われます。神楽坂が急坂だったために都市計画から外れ、古い風情が残ったというのは、とても興味深いことです。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

「新見附」はいつから?

文学と神楽坂

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 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は「江戸城三十六見附」にはなく、民間資本で作られた新しい橋です。明治26年(1893年)の新設許可は単に「新道」でした。
 この橋はいつ完成し、いつごろから「新見附」と呼ばれるようになったのでしょう。
 明治28年7月調査の地図には橋が描かれており、2年足らずで完成したと思われます。しかし牛込門や市ヶ谷門と違い、名前は書いてありません。

東亰市麹町區全圖 新見附付近 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1088845/5

 明治31年11月の新撰東京名所図会第17編 麹町区の部・中には「新開道」として出てきます。「名づく」とあるので、これが名前だったとも思われます。

新開道 靖国神社南側の通りを一直線に進み、市ヶ谷に至るの間。堤丘を開窄(開削)し、壕水を埋没し、もって道路とせるところを名づく。(新字・新かなに変更)

 また明治32年6月の新撰東京名所図会第19編では、絵図に描かれているにもかかわらず何も書かれていません。一口坂についても記事がありません。

 明治30年代の地図には新見附自体が描かれていないものが多く、「地元民しか知らない橋」であったようです。
 一転して明治39年8月の新撰東京名所図会第四十三編 牛込区の部・下では地図に「新見附」が明記されます。

 これ以降、他の地図でも新見附が見られるようになります。何が変わったのでしょうか。
 それは路面電車の開業です。東京電気鉄道の外濠線(後の都電3系統)が延伸され、橋のたもとに新見附停留所ができたのは明治38年8月でした。

 新撰東京名所図会の市谷田町の説明にも

電車外濠線往復し、新見附停留所あり。商家軒を連ねたり

と出てきます。
 すでに地元で新見附と呼ばれていたのか、外濠線が新しい名を考えたのかは分かりません。ただ停留所名は公文書にも記載されるため、新見附の名が定着したと思われます。

 新見附の大半は土堤でできた土橋です。大正9年9月30日の暴風雨で崩壊し、橋の下を通っていた中央線の電車(現・JR)が壕側にずり落ちる大事故がありました。崩れた部分から、土中の水道管や電線が見えます。現在は鉄道の上は鉄橋で、昭和4年(1929)7月にかけられました。

一口坂を下りきった新見附交差点から、新宿区市谷田町に向かって、JR中央・総武線を越え、外濠の水を横切っている橋です。明治中頃、外濠の牛込橋と市ヶ谷橋の中間点を埋め立てて橋が造られ、旧麹町区と旧牛込区の住民の行き来の便宜が図られました。その結果、外濠は二つに仕切られ、下流の牛込橋寄りは牛込濠、上流の市ヶ谷橋寄りは新見附濠と呼ばれるようになりました。現在の橋は昭和4年(1929)7月6日の架橋で、長さ20.65m、幅11.27mの鋼橋です。
千代田区観光協会

 この説明に従えば、千代田区側の橋のたもとが「新見附交差点」です。ただ外濠通りの信号(新宿区)の交差点名表示も「新見附」とあります。
 牛込見附や市ヶ谷見附の橋が「牛込橋」「市ヶ谷橋」であるのに対し、新見附は「新見附橋」と「見附」が橋の名になっています。

外濠通り「新見附」Google

注:国や東京都、他の道路地図では、外濠通りの交差点を「新見附」交差点と呼びます。また橋は「新見附橋」と呼び、普通「新見附」とは呼びません。

新見附の新設[明治の市区改正](明治26年)

文学と神楽坂

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 牛込見附と市ヶ谷見附の中間にある新見附は、明治期の新しい橋(土橋)から生まれた地名です。旧江戸城の三十六見附ではないため知名度が低く、資料も少ないようです。見附といっても門も桝形もないので、橋全体が「新見附」と呼ばれることもあります。
 東京市区改正委員会が「麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路ノ自費開設願」を審議したのは、明治26年(1893年)9月22日開催の第百号会議でした。

東京市区改正委員会議事録 第6巻81コマ 新見附開設 麹町区四番町ヨリ市ヶ谷田町ニ通ズル等外道路新設之図

 市区改正は重要度順に、第1等から第5等に分けて道路建設を計画していました。その計画にない「等外」道路を、民間が自費で建設するプランです。「新見附」という名もありません。
 当時の東京府知事は、以下の内容を文書で市区改正委員会に意見を求めました

 新道開設の儀につき、福永儀八ほか22名の者より出願あり。
 麹町牛込両区を貫通する中央枢要の路線にして、将来一般の便益少なからず。かつ新道に要する土積は、目下、牛込門外壕内浚渫等の土、その他不用土を生ずべき見込みもあり。
 この不用土をもって漸次、築設することに致せば、幸いに多額の工費を要せず。工費2,486円余をもって竣工し得べきことに相成り。
 工費は願人その他有志者より悉皆寄付致すべき旨、申し出あり。建物の移転料を要せずして開設し得べき。等外道路幅員4間(7.2m)として開設可と致し候。ご意見承知したく。
新字・新カナで適宜省略

 出願者の代表である福永儀八は、市谷田町で呉服商「あまざけや」を営んでいました。橋の必要は切実だったでしょう。

 新見附橋の大部分を占める土堤が不用土処分場を兼ねていたというのも興味深いでしょう。「牛込門外壕内浚渫」とは、おそらく飯田壕の揚場の舟運のためでしょう。神楽河岸に土砂や石など建築廃材の集積場があったことも、新道の開設工事を容易にしたと思います。
 この提案に対し、委員会では次のように議論されました。

7番委員 牛込市ヶ谷間はずいぶん長きところなれば、道路の新設は誠に賛成なり。
企望(希望)は、俗に一口坂とか言うすこぶる急な坂あるが、この坂を改正(改修)せば便利を増す。この際、ともに坂路を改正せられなば大なる便宜ならんと信ず。
21番委員 本案は最初、牛込区において大いに尽力せられ、麹町区にも内談ありし。
麹町区においても等外道路として取り広げ、馬車等をも通せしむる様したいと、寄付金を募りすでに出願せんとす。その節には可決せられんことを。
新字・新カナで適宜省略

 新道の先、現在の千代田区側は都市計画道路にはないけれど、寄付金で坂をなだらかにする工事ができそうだから許可しよう-ということです。古い地図を見ると、確かに一口坂には大きなガケがあります。

明治東京全図 明治9年(1876)一口坂付近 緑斜線がガケ

 出席者に異議はなく、東京府の決定を「是認」しました。この道路の新設により、外濠は牛込壕と新見附壕に分けられました。

 東京市区改正は明治政府の都市計画事業です。委員会の議事録を国立国会図書館デジタルコレクションで公開しています。

あまざけやと福永儀八氏 市谷田町

文学と神楽坂

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 大正期まで市谷田町にあった呉服商「あまざけや」は、福永儀八氏の経営でした。福永氏は明治時代に、外濠の新見附を民間資金で新設した時の代表者です。

 あまざけやは江戸期から続く老舗で、紳士録や名鑑などに見られます。古典落語にも登場します。「落語の中の言葉」では……

落語の中の言葉138「あまざけ屋」
 実在の「あまざけ屋」は呉服屋で、品揃えが豊富で普通の店では置いていない御殿向の物まで揃えていたという。
「市ヶ谷のあまざけ屋は、御殿向のものが一切揃えてありましたが、あまざけ屋は御用達ではありませんでした。」(三田村鳶魚「御殿女中」春陽堂、昭和5年)
「四谷市ヶ谷にあった呉服の老舗「あまざけ屋」は、店頭に大釜をかけておき、入って来るお客に甘酒を進呈していたことで人気があった。この店の屋号は福永屋であったが、誰もほんとうの屋号を呼ばず「あまざけ屋」で通っていた。(増田太次郎『引札絵ビラ風俗史』青蛙房 1981)」

 新撰東京名所図会第43編「牛込区の部」下(東陽堂、明治39年8月)33頁に伝説めいた記事があります。

●あまざけ屋
市谷田陶二丁目十四番地、呉服商、福永商店、屋号あまぎけや電話番町一二五。山手の老舗なり、或人云、往時田町の堀端に甘酒売を渡世とする老爺あり、人あり之を憐み、奚すれぞ百年の計を爲さざると、爺、口を開いて笑つて曰く、説くことを止めよ、卿に一女あり、才色優れたりと、幸に愚老に許すあらば請ふ謹んで其誨を聞かむと、其人家に帰り、之を女に謀るに、女頗る喜色あり、即ち之を嫁す、爺少婦を得て同棲し、田町下二丁目に呉服店を開く、日ならずして店頭繁栄し、遂に老舗となれり、是に於てか甘洒屋を屋号とするとぞ。

 この牛込区の部・下には「市谷田町2丁目通り」の写真があります。この並びにあまざけやがあったと思います。

 福永氏は、渋沢栄一会頭時代の東京商業会議所(現・商工会議所)の会員選挙に当選し、委員を務めました。人望もあったでしょう。

 一方、あまざけやは明治28年に伊勢丹に買収されましたが、大正期まで事業を続けました。

 その後、あまざけやにあった「朝日弁財天」は伊勢丹の新宿本店に移され、屋上に祀られているそうです。

屋上の朝日弁財天。(photo: Pochi)
http://pochipress.blog20.fc2.com/blog-entry-82.html

朝日弁財天の由来

メイセンヤの変遷

文学と神楽坂

 メイセンヤについて、地元の方がエッセイを書いてくれました。

 このブログには「メイセンヤ」という、現代では聞き慣れない店が何カ所か出てきます。とくに「古老の記憶による震災前の形」の地図には、神楽坂2丁目に「銘仙屋」があり、混乱しがちです。

メイセン屋。古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会

「銘仙」は織物の種類だそうです。ソバを食べさせる店を「ソバ屋」と呼ぶように、単に「生地屋」という意味なのでしょうか。
 国立国会図書館デジタルコレクションで、大正から昭和初期の東京近郊の職業別電話帳が公開されています。この中に「銘仙屋」が出てきます。
 電話帳の右側は「東京特選電話名簿」(三友協会、大正11年)。それによると「銘仙屋平本合資会社」が正式名称で、本社は神田区鍋町13(現・千代田区神田鍛冶町付近)にありました。「第一支店」が牛込区神楽町2-10(現・神楽坂2丁目)、四谷支店が四谷区傳馬町3-18(四谷伝馬町、現・四谷付近)にあったことが分かります。

銘仙屋の比較・昭和10年と大正11年

 左側は13年後の「職業別電話名簿. 第25版」(日本商工通信社、昭和10年)です。銘仙屋平本合資会社の社名は同じで、電話番号478番のままですが、本社は四谷区傳馬町に移っています。また第一支店は「牛込支店」と名を変え、牛込区上宮比町2(現・神楽坂4丁目)に移転したことが分かります。電話番号3143番は神楽町2-10の時と同じです。

 つまり「古老の記憶」は、別の時代の「銘仙屋」の支店を同じ地図上に記載してしまっていると思われます。屋号は商品名そのままの「銘仙屋」で正しく、メイセンを扱う代表的な店だったのかも知れません。
「銘仙屋」は戦後の地図には書かれていません。戦時中になくなったと想像されます。

 メモですが、岡崎公一氏は「神楽坂と縁日市」(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』平成9年)で、昭和5年頃は、神楽坂2丁目の銘仙屋は大木堂パンに変わり、一方、神楽坂4丁目はメイセンヤのままだとしています。
 また、銘仙という絹織物は優しい色、お嬢様学校の柄、洋風の普段着として、昭和初期に全盛期になりました。
 最後に、漢字の銘仙屋から片仮名のメイセンヤに変わった理由は、おそらくメイセンヤのほうが綺麗で、おしゃれで、粋だったためでしょう。