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心の日月|菊池寛

文学と神楽坂

 菊池寛氏の「心の日月」は雑誌「キング」の昭和5年1月号から6年12月号まで連載されれた長編小説です。岡山県に住む皆川麗子が主人公で、親が決めた結婚相手がいましたが、彼に対する嫌悪感は強く、家を飛び出し、同じ岡山県の学生磯村晃と東京の飯田橋駅で待合せをします。

 磯村は、牛込市ケ谷に近い寄宿舎にゐた。そこは、キリスト教と関係のある寄宿舎で、監督が可なり厳重だと云ふことをきいてゐた。経営者が岡山県人なので岡山県人も、沢山居ると云ふ話だつた。そんな寄宿舎へ麗子がいきなり訪ねて行くことは、相手にどんな迷惑をかけることか分らなかつた。それに、麗子の顔を見知つてゐる学生でもゐたら、自分の東京にゐることが、自分の家に知れることになるかも知れないと思つた。
 で、麗子は、牛込に着いたら、とにかく電話で容子を訊いて見ようと思つた。
「ね、もし。」
 彼女は、運転手に話しかけた。
「何です。」
「まだ牛込へ来ませんの。」
「いゝえ。もうすぐ牛込ですよ。そこの橋が飯田橋で、を渡れば牛込ですよ。」
「こゝから、市ヶ谷は近いでせうか。」
「えゝ。もう、三四町です。」
「ぢや、わたし一寸茲で、おろして貰ひたいわ。」
「はい。」
 運転手は、すぐ橋の左側のに車をとめた。見るとそこに、その往来を横ぎつて高架線があり、道の直ぐ左側にその高架線の停車場があつた。飯田橋駅とかいてあつた。麗子が、運転手に賃銀を払ふとき、数台、連結した電車が、麗子の頭上を轟々と通りすぎた。
「この電車は、どこへ行きますの。」
「これですか、これは省線ですよ。」
 麗子は、なるほどこれが、新聞でよく知つてゐる省線電車だなと思つた。
 麗子は、車から降りると公衆電話をさがした。公衆電話は橋向うにあつた。麗子はすぐ、電話の所へ行つた。もう、一分の中には磯村の声がきかれるかと思ふと、麗子は胸が、踊り始めた。でも、公衆電話には。五十近い老婆が、はつて居り、麗子は三四分の間いら/\しながら、待つてゐた。
「お待遠さま。」
 老婆は麗子に挨拶して出て行つた。麗子は、急いでその小さい六角の建物の中には入ると、電話帳をくり出した。割合に早く牛込四八〇五番と云ふ番号が出て来た。
 五銭の白銅を入れると、それは麗子の胸を、おどろかしたほどの高いひゞきを出した。
「あなたは、牛込の四千八百五番ですの。ぢや、聖陽学舎でございますの。磯村さんは、いらつしやるでせうか。」
 麗子は、おづ/\しながら訊いた。
「一寸お待ちなさい!」
 麗子は、自分の名前を訊き返されたりするのではないかと、ビク/\してゐたが、そんなことはちつとも、訊かれないので、ホツとした。もう、今度声が聴かれると、それが磯村の声だと思ふと、麗子は全身の血潮が受話器を当てゝゐる左の耳に、奔騰して来る思ひがした。
「もし、もし、僕磯村です。あなたは。」
 それは、たしかに磯村のなつかしい声だつた。
「わたくし、皆川です。」
「皆川?」
 磯村には、麗子が東京へ来てゐるなどとは、夢にも思ひつかぬらしかつた。
「皆川ですの。岡山の。」
「まあ! 麗子さんですか。」
 電話口に於ける磯村の驚きが、ハツキリ感ぜられた。
「えゝ。」
キング 大衆娯楽雑誌で、1925年(大正14)1月、講談社の野間清治氏は「万人向きの百万雑誌」を出そうとして創刊。翌年には150万部になりました。
容子 様子。容子。外から見てわかる物事のありさま。状況。状態。
 ここ。ほかに此処、此所、此、是、爰も「ここ」
三四町 1町は約109m。3~4町は327~436mで、約400m
 たもと。そば。きわ。
省線 鉄道省の電車の通称。汽車と省線電車の2つに分かれた。
くり出す 順々に引き出す。事実を探り出す。
白銅 5銭白銅貨幣。大正5(1916)年に制定。昭和9年では1銭はおおむね現在の250円(https://ameblo.jp/kouran3/entry-12069419540.html
血潮 ちしお。体内を潮のように流れる血。激しい情熱や感情。
奔騰 ほんとう。非常な勢いで高くあがること。勢いよくかけのぼること

「東京へいらしつたのですか。」
「えゝ。」
「今どこです。今どこに居るのですか。」
「飯田橋駅の前ですの。」
「飯田橋駅ですか、ぢや、すぐ此方こちらへいらつしやいませんか。」
「でも、私を知つてゐる方がいらつしやるでせう。こちらへ来て下さいませんか。」
「行きます。すぐ行きます。飯田橋駅ですね。」
「さうですの。飯田橋駅の入口のところにゐます。牛込の方から橋を渡つて来るとすぐ駅の入口があるでせう。」
「えゝ分りました。すぐ行きます。今から十分位に行きます。」
「ぢや、どうぞ。」
 麗子は、急に嬉しくなつてしまつた。もう十五分もすれば、磯村に会へると思ふと、胸が躍りつづけるのだつた。
 麗子は、公衆電話を出るとすぐ橋を渡つて、駅の入口のところへ引き返して来た。そして、駅の時計と自分の腕時計が、二三分違つてゐるのをなほしてから、ぢつと自分の腕時計を見ながら待ち始めた。
 磯村とは、手紙でこそ、可なり親しくなつてゐるが。打ちとけて話し合つたことは、殆んどないと云つてもいゝので、麗子はうれしさの中にも、多少の不安があつた。でも、二言三言話せば、すぐ凡てを打ちあけられる人に違ひないと思つてゐた。十分は、すぐ経つた。麗子は橋の袂まで行つて、牛込から渡つて来る人を、一人一人磯村でないかと、目をみはつてゐた。そのうちに、また五分過ぎた。十分位と、おつしやつても支度に五分位は、かゝるに違ひないと思つてゐた。そのうちに、また五分経つた。
 でも、十分とおつしやつたのは、私に勇気づけて下さるための好意で、ほんたうは三十分位かゝるかも知れない。麗子は、さう思つて、心の中に芽ぐんで来る不安の感じを、ぢつと抑へつけてゐた。だが、その中に到頭三十分になつた。麗子は、堪らなくなつて、駅の売店の十四五の女の子に訊いた。
こゝから、市ケ谷へ行くのは何分かゝるでせうかしら。」
「市ケ谷なら、十分もあれば行けますよ。」
「そんなに近いのですか。」
「電車で、二停留場ですもの、歩いたつて、十分とはかゝりませんわ。」
 麗子は、それをきくとだん/\不安になつて来た。なぜ/\来て下さらないのでせう。自分が、上京したことを、迷惑にお考へになつて、来て下さらないのかしら、麗子は磯村に対する不安と疑間とが、心の中に芽ぐんで行くのをどうすることも出来なかつた。その内に、時間が、泥濘の中を、きしり行く車輪のやうに、重くるしくうごいて、また十分たつた。初から、云へば四十分経つた。麗子は、気持が真暗になり、目をとぢると、涙が浮びさうにさへなつた。一分一分、いらくした不安のために、胸がズタ/\に刻まれて行くやうだつた。また、その内に五分経ち、十分経つた、麗子は、もうぢつとして待つわけには行かなかつた。彼女は、また橋を渡つて、以前の公衆電話をかけて見る気になつた。牛込の四八〇五番は、すぐ出た。
「もし、もし、あの磯村さんは、いらつしやいませんでせうか。」
「磯村さんは、先刻さつきお出かけになりましたよ。」
「まあ! 何時間位、前でせうか。」
「さうですね。もう、一時間前ですよ。」
 麗子は、何だか打ち倒されたやうな気がした。茲へ来てくれないで、阿処へ行つたのだらう。麗子は、駅の入口まで引き返して来ると、改めて入口の上の白壁に、黒字で書いてある飯田橋駅と云ふ字を見直した。決して、自分は云ひ間違ひをしてゐない、それに磯村さんは、どこへ行かれたのだらう。あの方も、結局遊戯的な紙上恋愛で、いざそれが実際問題になると、かうも薄情に自分から逃げて行かれるのだらうか。麗子の感情は、水をかけられたやうになつてしまつた。彼女の美しい眼は血走り、色は青ざめ、飯田橋の橋の欄干に身をよせたまゝ、そこに取りつけられた塑像のやうに立つてゐた。
 重くるしい鉛のやうな時間は、それでもハツキリと経つて、一時問、一時間二十分、一時間三十分、いくら待つても、磯村の姿は見えなかつた。
二停留場 省線電車では隣の駅で、路面電車では「逢坂下」と「新見附」の次の駅でした。
泥濘 でいねい。泥が深いこと。土がぬかるんでいること。
きしる 軋る。堅い物が強くすれ合って音を立てる。きしむ。
重くるしい 重苦しい。おもくるしい。押さえつけられるようで、息苦しい。気分が晴れ晴れしない。
欄干 らんかん。てすり。人が落ちるのを防ぎ装飾とするもの

 待てども来らず

 磯村は、麗子の電話をきくと、先づ驚駭きょうがいした。しかし、麗子がそれほど思ひ切つた態度に出てくれたと思ふと、急に自分も勇気が湧いて来た。(麗子さんが、そんな大決心をしてくれる以上、俺もどんなことでもやるぞ)彼はさう、心に誓ふと電話室を飛び出して、自分の部屋へ帰つた。そして、袴をはいて帽子を被ると、寄宿舎の門を出て、砂土原町を牛込のお濠端へと馳け下つた。
 彼は、牛込見附の橋を渡つて、飯田橋駅の前へ出た。お濠端を通つてゐるとき、麗子の姿が、駅の入口の中央の鏡を入れた壁の前辺りに見えないかと注意したが見えなかつた。牛込見附の土橋の上を登り切つて、駅の前に立つたが、麗子の姿は見えなかつた。磯村は、省線に乗つたことは、一二度しかなく、この頃省線の駅が改築され、飯田橋駅は、牛込見附と飯田橋との両方に入口があることを知らなかつた。まして、麗子が牛込見附ではない、飯田橋の方の入口に自分を待つて居ようとは夢にも思ひ及ばなかつた。
(あ、麗子さんは、その辺りで何か買物でもしてゐるんたな)
 さう思つて、麗子がひょつくり現はれるのを待つてゐた。
驚駭 恐れ驚くこと。
寄宿舎 この寄宿舎は「門を出て、砂土原町の坂」を下るとお濠に出る場所だといいます。これは埼玉学生誘掖ゆうえき会でしょう。これは1902(明治35)年、渋沢栄一氏らが発起人になって創立。埼玉県出身の学生を支援し、砂土原町3丁目21の寄宿舎の運営と奨学金の貸与を行いました。誘掖は「導いて助けること」。しかし、寄宿舎は減少する入寮者と老朽化で2001年3月末をもって取り壊し、跡地はマンションに。
碑文 埼玉学生誘掖会

埼玉学生誘掖会

明治35年3月15日埼玉県の朝野の有志(渋沢栄一(青淵爺)、本多静六、諸井恒平氏等が中心となって)が埼玉学生誘掖会(明治44年財団法人の認可)を創設 都内で修学する学生のために明治37年寄宿舎を建設し昭和12年には鉄筋2階建てに改築し平成13まで存続した その後跡地は売却され財団法人埼玉学生誘掖会の奨学金事業の基金となる

砂土原町 市谷砂土原町一丁目から市谷砂土原町三丁目。本多佐渡守正信の別邸があって「佐渡原」と呼び、富裕層が多く住み、高級住宅街です。
 おそらく逢坂でしょう。
土橋 どばし。城郭の構成要素の一つで、堀を掘ったときに出入口の通路部分を掘り残し、橋のようにしたもの。転じて、木などを組んでつくった上に土をおおいかけた橋。水面にせり出すように土堤をつくり、横断する。牛込御門の場合は土橋に接続した牛込橋で濠と鉄道を越える。つちばし。牛込門。

牛込門橋台石垣イメージ


両方に入口 昭和3年11月15日、牛込見附と飯田橋との両方に入口がある飯田橋駅が開業。同時に牛込駅は廃止。

石川啄木|砂土原町

文学と神楽坂


石川啄木

 石川(たくぼく)は明治19年2月20日、岩手県に生まれました。東京には5回上京しています。
 最初の上京は明治32年(13歳)夏。上野駅勤務の義兄を頼っての上京です。上野の杜と品川の海を見て帰ります。
 2回目の上京は明治35年(16歳)。10月、「明星」に歌1首が載り、そこで10月31日、盛岡中学を中退し、上野行きの列車に乗りました。11月1日、東京に着き、2回目の上京で、1回目の長期の上京です。小石川区小日向台町に住み、新詩社に出ていますが、何せ金はなく、翌36年1月『下宿を着のみのままで逐出され』、神田錦町の見も知らぬ佐山という人の安下宿に入り、紋付きを質屋に入れたりして金を作り、一膳飯屋で1日に1度か2度食いつないでいました。年が明け、2月、病気になり、郷里から来た父と一緒に帰郷します。
 3回目の上京は明治37年10月31日(18歳)。2回目の長期の上京です。向ヶ岡弥生町三に止宿。元気はいっぱい、屈託はなく、勝ち気で、明るく、飄然として、木の妹光子の話によれば、ここでも「いつも大きな法螺を吹いて」いたようでした。
 11月8日、神田駿河台袋町八に転居、11月28日、牛込区砂土原(さどはら)町3丁目22、井田芳太郎方に転居。砂土原町3丁目22は現在「朝霞荘」になっています。

朝霞荘

 金田一京助全集の第13巻「石川啄木」(三省堂)では、

 12月の初めに(或は11月分の宿料が出ない為めに、屈託をしてではなかったとも思う)、『今度の日曜に、お逢いしたい、こんな所だから』と地図まで書いたハガキを貰ったようだった。それを片手に、小石川の砂土原町を尋ねて行った。坂を上った角が、埼玉学舎で、その隣の井田という家だった。
 玄関へ入った瞬間に、何か、私を待ちながら、その私の噂を、相宿の男へでもしていた様な石川君の声(と私は睨んだが)で、『文科大学生ですよ、ええ』というのが聞えて、すぐ沈黙した。女中に通されて、その室へ入ると、石川君は、床を敷いていて、その中から、立ち上って迎えてくれたのはよいが、袴をつけて紋付羽織を着たまま寝ていたもので、羽織は、くしゃくしゃ。それよりも驚いたのは、仙台平がもう、折目がすっかり無くなって、袋を穿()いているよう。恐らくは、寝ても起きても、どこへ行くにも、朝から晩まで、この袴をつけていたものでもあろうか、1ヶ月にしかならないのに、縞なりに、もう切れて、裾からは、ぼろが下がっていたのである。
 その云うことが、振っている。一々の言葉の端は覚えていないけれど、大体こういうことだった。
 感冒(かぜ)をひいて、寝てしまって、退屈でつまらないから、蟇口を出して、倒にして振って見たら、バラッと落ちたのは、全財産、大枚十銭五厘。女中を呼んで、これで、みんな葉書を買って来いと云いつけて、葉書を買ってもらって、みんなへ手紙を書いた。一枚余った葉書を、誰へ出そうと考えた。ムム大隈伯へ出して見ようと考えついて、
『あなたのような世界の大政治家と、私のような無名の(陋巷の?)一小詩人と、一堂に会してお話をして見たら、どんなに愉快でしょう』
と書いてやったという。
 私も、呀っとばかり、開いた口が塞らなかったが、この人にしては、有りそうなことだと、興味に釣られて、『そしたら?』と聞くと、『返事が来ましたよ』『え? 大隈さんから?』と私が驚くと、『大隈さんの字ではないんでしょう。自分で書かれないそうだから、やはり代筆でしょうけれど……』『何て云って来たの?』『面白い、兎に角逢おう、やって来い、と来ましたよ』『それでは行くの?』『だってもう、電車賃も無いんですもの』。
 先程からの話で、当然すぎる程、それは当然だった。『一文も無い、それァ困るなあ』と云いながら、私は蟇口を出して、畳の上へボロンボロンと揮って、月末の勘定の残りが3円なにがしがころころ転がったのを切半して帰って来た。
 前後、幾年、凡そ私が石川君に用立てた金は、どうやら此の様な行きさつで私の手から渡るもののようだった。

仙台平 せんだいひら。宮城県仙台市特産の絹の高級袴地「精好仙台平」の通称。
大隈伯 大隈重信。おおくま しげのぶ。政治家としては参議、大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任し、早稲田大学の初代総長。

 この上京では長詩をたくさん作っています。詩人として名前は高くなりますが、生活は全くできない。3月10日、牛込区払方町25の大和館に転宿。5月10日、詩集『あこがれ』をだし、上田敏氏の序詩、与謝野氏の(ばつ)(後書き)。しかし、これが売れない。印税で家族を養うはずだったのに。金はなく、縁故もなく、スポンサーもパトロンもない。5月20日、帰郷の途に就きます。
 ここで牛込区砂土原町3丁目22と牛込区払方町25の場所を見ておきます。青で書いてある場所です。現在も変わっていません。牛込区払方町25についてはここに詳しく書いてあります。

啄木の場所

 なお、右の青の隣り、薄緑の場所は現在はマンション数棟ですが、以前は埼玉学生誘掖会埼玉寮でした。100人を超える寮生が生活していました。「誘掖」とは、導き助けるという意味だそうです。
 四回目の上京は明治39年6月。第2詩集を相談するため、また、父の問題で東京の宗務局に行きますが、宗務局の運動はだめ。よかったのは「俺だって書ける」と考えて帰ったこと。これが四回目の東京行きです。
 五回目は明治41年(22歳)。長期の上京としては三回目。北海道を離れ、4月28日、東京に到着。4月29日、金田一京助氏を訪ね、金田一氏の下宿に住んでいます。
 石川木と金田一京助の住所は文京区ですが、しかし(しん)()(しゃ)の友人、1歳上の北原白秋氏は北山伏町33番と神楽坂2丁目に住んでいました。木はここを訪れています。なお、新詩社とは明治32(1899)年、()()()鉄幹(てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体しています。

 明治41年7月27日 木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍って、耳が-左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴ってゐた。
いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言ってゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなってから辞した。途中まで送って、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。

 もうすこし駅に近い場所がよかったのでしょうか。北原白秋氏は物理学校のそばに転居します。

 明治41年10年29日 木の日記から。

 北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一曰の談話につかれてゐてすぐ床についた。

 物理学校は現在の東京理科大学です。私立大学で本部は新宿区神楽坂1-3。北原氏は明治41年10月にここ神楽坂2丁目に転居し、一年後の明治42年10月、本郷動坂に転居します。北原氏はここで「物理学校裏」という詩をつくっています。

 また木は、相馬屋の原稿用紙を買っています。これから2か月半後の4月13日、死亡しました。

 明治45年1月30日。木27歳の日記から。

 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのって神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひ出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかった。
 本、紙、帳面、俥代すべてゞ恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送ってゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。

ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン Пётр Алексе́евич Кропо́ткин (1842/12/9-1921/2/8)。ロシアの革命家、政治思想家、地理学者、社会学者、生物学者。近代アナキズムの発展に尽くした人物で、無政府共産主義を唱えた。

 これについては金田一京助氏は『啄木の美点』でこう書いています。

死ぬ直前、金も米もつきたところへ、朝日新聞社から編集長の好意の見舞金が届いた。何を買うかと思ったら、人力車に乗って神楽坂の本屋にいって本をあさり、結局、彼が人間性の可能の限界をきわめる最高の哲学だとするクロポトキンを買って帰った。この熱度、この真剣さ、妥協を拝する一本気と貧苦にめげない強気と、それに恩愛にすら束縛を感じ、童貞にも圧迫をおぼえる鋭い内省、ついに病の小康とともに天才主義から民衆主義へ、百八十度の転換を完成して、しばらくぶりに長詩ができた6月下旬、やはりしばらくぶりに、二人の間の久しい難問解決の喜びを分かちに来てくれたあの最後の訪問、恩讐(おんしゅう)をこえた、二人の交遊の総決算のような美しい訪問、啄木のこんな真実性に目をふさいで、伝記学者、地下の啄木にそれですむか。