大日本印刷」タグアーカイブ

逢坂下-新見附(写真)第3系統 都電 昭和42年など

文学と神楽坂

 新宿区の外堀通りに逢坂などが交差する付近を撮影した写真が3枚あります。でも、[1]のように、写真は「牛込見附」だと名前をつけると、とんでもない!と叱られそうです。
 戦前には「逢坂下停留所」という路面電車の停留所がありました。その廃止はおそらく昭和15年で、戦後、再開はありませんでした。しかし、もし「逢坂下停留所」が今もあれば、[2][3]の地点がまさにそうですし、[1]は「新見附停留所に近い場所」でしょうか。

[1]東京都電アーカイブ③

 写真[1]にはバスの「新見附」停も見えます。新見附橋のわずか先にあったようです。なお、写真の位置は逢坂下よりも新見附に近い場所です。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

 右手にある楕円のマークは「ピノキオ」(子供服の店舗)。(写真と地図はページの最下部で。写真は「ピ」で、地図は「子供服/ピノキオ」)

[2]東京都交通局「わが街わが都電」

東京都交通局「わが街わが都電」平成3年 撮影日時は不明

[3]都電15番の鉄道趣味

1967年7月某日
東京都新宿区東端の牛込濠脇、東京日仏学院付近
2017品川行(飯田橋行だけどもうすぐ折返しという事で)よく見るとお客がいないらしく車掌さんが運転台に来てる。
都電3系統は品川から都心を泉岳寺、三田、神谷町、虎ノ門、溜池と抜けて赤坂見附から市ヶ谷見附、飯田橋へと走っていました。一等地を走っているようですが赤坂から飯田橋はなにやらローカルな雰囲気で運転数もとても少なかった。飯田橋停留所も他路線につながってない尻切れとんぼ。僕も乗ったことないし。
撮影した年の12月10日に静かに廃止になりました。

 写真左側は牛込濠と新見附橋、左寄りに防護柵と架線柱、電柱広告「大日本印刷」、歩道。中央には外堀通りと路面電車、その路線。写真[1]~[3]は全て「飯田橋」行き(下り)の路線です。[3]の路面電車に「品川駅」と「2017」と書いてありますが、一足早く方向板だけが「品川駅」に変わったもの。
 写真[2]と[3]の右側から左側に(参考にはID 13108を)……

  1. 逢坂があり、写真[2]に運転中の自動車。町は「市谷船河原町」
  2. 色◯ ◯◯ 写真◯◯◯◯ 尾形伊之助商店
  3. (教育図書)
  4. (軽自動車工業)
  5. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  6. (神田印刷)
  7. (2)~(3)で、新見附橋の反対側にある高いビル。昭和51年「サンエール」などが入っていた

【参考】東京都電アーカイブ③

住宅地図。1976年

赤城神社(写真)昭和50-51年 ID 9899‐9901

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899、ID 9900、ID 9901は昭和50-51年頃、赤城神社からの眺めを撮っています。天気は曇りで、遠くがよく見えません。トタン屋根が光っているので、雨上がりかもしれません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9899 赤城神社からの眺め

 ID 9899で目立つのは、中央にある「大日本印刷」の広告です。左手前には電柱から街灯がつき出していて、その街灯は消えていません。この下に道路があるのでしょう。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9900 赤城神社からの眺め

 ID 9900では、左端の石柱に「大正十一(年)」と彫られています。その右のビルの塔屋に「はいばら」の広告看板。煙突が何本かあり、右には「竹の湯」とあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9901 赤城神社からの眺め

 ID 9901は、少し引いた位置からの撮影です。石柱は屋根つきで、門灯のようなデザインです。「竹の湯」の煙突も確認できます。遠くの集合住宅の上には広告がありますが「日本火災」以外は読めません。
 さて以上です。撮影場所の特定は難しい。ところがわかりました。

ID 9899は赤城神社から西に、ID 9900とID 9901は北西で撮りました。

 赤城神社から西の方角に「大日本印刷㈱榎町工場」、北西に「竹の湯」があります。屋根つきの石柱は赤城神社北参道の門柱です。北参道から境内に入ったところ、鳥居の下あたりから撮影したのでしょう。

TV「気まぐれ本格派」29 神社の恋の物語 1978年

鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候

この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂


 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。

春の嵐|野田宇太郎氏『灰の季節』|東京大空襲

文学と神楽坂

 野田宇太郎氏の『灰の季節』(修道社、昭和33年)は、第二次世界大戦中から大戦以降を綴った日記です。たとえば、昭和20年(1945年)4月12日、昼食前にフランクリン・ルーズベルト大統領が脳卒中で死去し、これを受けて、野田氏は4月13日の日記で簡単に書き留めています。その翌日、神楽坂にとっては東京大空襲を受けた日でした。

四月十四日

 単機あて帝都、関東東部、東北部等に侵入、主として帝都は爆弾焼夷弾取り混ぜの攻撃をうけた。熱を押して仕方なく起きる。都心の焼けのこりの部分を中心に空が東北へかけてまつかになつてゐる。そして中央線ぞひに爆発音が近まり、むくむくと黒煙が立ちのぼる。爆弾の無気味な落下音も幾度となくきこえ、敵機が撃墜されるのも数機みる。あとで機数約百七十、四十機位撃墜の発表あり。……眠る。
 中央線は荻窪までであとは不通のため帝都線で渋谷に出、地下鉄で神田に出る。下車しようとすると、どつと乗り込む避難者の群に押し返される。皆真青な顔をして相手が見えないやうなうろたへ方である。やつとの思ひで外に出て神田の河出書房仮事務所まで歩く。
 神田から飯田橋まで見透しに焼け落ちてゐる。飯田橋で不発弾の爆発にあふ。筑土八幡のあたりから新小川町 大曲もずらりと無残に焼けてゐる。神楽坂も家が大半なくなり、飯田橋交叉点から電車通を牛込肴町へ行く途には電線がばらばらに切れ落ち、まだごんごんと音を立てて燃えのこりの家が焔をあげてゐて、焦熱地獄のやうにあつい。そこら中形容し難い悪臭がむんと鼻をつく。人間の焼ける臭ひも混つてゐるやうだ。息をとめて一気に通りぬけようとするが駄目で、途中で立停り、叉熱気のなかを走つた。平時は賑やかな肴町交叉点通寺町側にトタン板が落ちてゐて、何気なく歩きながら蹴ると、下に屍体がかくしてあつた。防護団員の姿もみえず、地獄のなかでも歩いてゐる白昼夢のやうな気持。
 其儘足を早めて大日本印刷に行つた。近づくと今度は大日本印刷が一面の火焔に包まれて、盛んにまだ燃えつゞけてゐる。しまつた! と思ひ、第四中学の焼跡前から夢中で坂を下りて正面に出ると、焔の背後に印刷会社の建物はどうやら無事なやうである。燃えてゐるのは前庭に置かれた軍用の洋紙の山だけである。玄関にゆくと、防護団服を着た人が一人佇んでゐる。思はず「大丈夫ですか」と叫ぶやうに云うと、「ありがたうござゐました。工場の方は大丈夫です……」とその人は私に礼を云つた。あとで重役だつたと判る。消火する人手がなくて焼けるにまかせてゐるのだといふ。
 事務所に入ると、さすがに人はすくないが工場の方は動き続けてゐるやうなので、やつと安心した。これでまだ文藝は出せると思ひ、すぐに火野氏の「」を四月号の組版に廻してもらふ。
 まだ熱があつて、ふらふらとする。避難者の列に加り、やうやく渋谷に出て帝都線で夕暮に家にかへり着いた。
 この日は板橋、豊島、足立方面の被害がとくにひどく、明治神宮本殿も遂に焼失した。また宮城、大宮御所、赤坂離宮の一部にも火災が起つた。



単機 編隊を組まないで、単独で飛行する軍用機。単独飛行。
あて 配分する数量・割合を表す。あたり。送り先・差し出し先を示す。
焼夷弾 敵の建造物や陣地を焼く爆弾
帝都線 京王井の頭線のこと。渋谷と吉祥寺を結んだ。
河出書房 文芸書や思想書を中心に販売する出版社。1945年(昭和20年)の東京大空襲で被災、千代田区神田小川町に移転する。
見透し さえぎるものがなく遠くまで見えること。その場所
飯田橋、筑土八幡、新小川町、大曲、牛込肴町、肴町交叉点、通寺町、大日本印刷 下図を参照。牛込肴町と肴町交叉点は現在「神楽坂上」交差点、通寺町は現在神楽坂六丁目
防護団 軍部の強い指導のもとで満州事変勃発ごろから地域住民の防空業務(灯火管制、警報、防火、防毒、交通整理、救護等)を行わせる防護団と称する組織が全国各地に設立された。
第四中学 現在は牛込第3中学校です。
文藝 1944年11月創刊。発行所を改造社から河出書房に移して継承した雑誌。第2次世界大戦下のほぼ唯一の文芸雑誌。戦後は戦後派の作家を起用。86年からは季刊誌。
火野 火野葦平。ひのあしへい。日中戦争で従軍前に「糞尿譚ふんにょうたん」で芥川賞受賞。生年は明治39年12月3日、没年は昭和35年1月24日で自殺。享年は満53歳
 「海南島記」(改造社 1939年)。国立国会図書館デジタルコレクションとして入手可。

昭和22年の神楽坂