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大久保通りを越えた神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 神楽坂5丁目は神楽坂の坂上を越えて、神楽坂6丁目にはいっていく場所があります。
 眼は神楽坂6丁目に向け、背中は飯田橋駅の方面に向けると、前の左側は6丁目ではなく、5丁目なのです。

坂上で6丁目を向くと左側は5丁目

  神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」ではこの5丁目の店舗を調べたもの(「MISS・URBANさんからタイヨウ堂さんまで(交差点の上)」)を書いています。

交差点上の5丁目[昔]

 また、岡崎弘氏と河合慶子氏の『ここは牛込、神楽坂』第18号「神楽坂昔がたり」の「遊び場だった『寺内』(明治40年)」では同じ五丁目を上下を変えて描くとこうなります。

明治40年「遊び場だった『寺内』」

 ほかに、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)ではこうなります。「食」、「タバコ」、「安田銀行」が見えます。 都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

 さらに1960年の国会図書館の「住宅地図」では1960年

 もう1つ、1970年の国会図書館の「住宅地図」では
1970年の極西部の神楽坂5丁目

 直近の地図は2014年の「神6なび」です。

神楽坂6丁目

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集(2008年)「肴町よもやま話②」の文章は

相川さん それであとは、亀十さんの方だな。①タイヨウ堂さんはね、昔の安田銀行の前にね、清水っていう洋酒屋さんがあった。そのあとを明治商業銀行が買って、それで銀行の合併で安田銀行牛込支店があそこにできた。 ②その銀行の隣りが「カツイ」さんという小間物屋さんで、タバコ屋をやっている。カツイソウタロウさんといってね。③その隣りが、タバコのねじめだとか袋物、財布なんかを売っていた店があった。
[私の注] ①の一階は洋酒・清水から安田銀行牛込支店、駐車場、宝石のタイヨウ、薬のセイジョー、最終的に合併で、薬のココカラファインに変わりました。場所はここ。なお、5階のタイヨウ時計店は令和4年(2022年)8月31日に閉店しています。

ココカラファイン

②+③は最終的に神楽坂商事支店に変わりました。場所はここ

神楽坂商事

山下さん キクヤさんとは違うの?
相川さん 違うの、すぐ隣り。間口が小さいんですよ。
山下さん キクヤさんといまのタイヨウ堂さんの間にあったんですか?
相川さん いえ、こっち、亀十さん寄りに。いまの大辻さんのところですね。④「電気屋ホール」って、やっぱり小さいんだけど喫茶でね。お汁粉屋みたいなことやって、なかなか流行っていたんですよ。
[当方の注]④も最終的に神楽坂商事支店になったと思います。場所はここ
馬場さん あれはいまの三好弥さんみたいな食べ物屋だよね。そんなものもあったんでしよ?
相川さん いや、ないです。電気屋ホールは食べ物はない。
馬場さん 入ってはみなかったけど、電気屋ホールなんていい名前ですよね。
[注 デンキヤホールについて] 丸山軍二氏の『ここは牛込、神楽坂』第2号「思い出の店のことなど」で

●デンキヤホール(通寺町) 硝子のコップに盛ったゆであずきが名物で五銭

とあります。デンキヤホールのあった肴町は、現在は神楽坂5丁目です。なお、浅草にあるデンキヤホールは、1903年に開店し、現在も営業中です。そのホームページでは

創業100年 変わらぬこだわり デンキヤホールは開店当時から、厳選したあずきの素材を生かした「ゆであずき」をご提供し、大変ご好評頂いております。

本店と支店といった何らかの関係があるのでしょうか? と思ったら神楽坂はその支店でした。はるか下のコメントをどうぞ。

相川さん ⑤その隣りに、肥田さんという刃物屋がありまして。肥田さんが交代になって「美好屋」といって、ダブツ(駄物?)屋さん。おもちのアレしたのなんかね。その人が輪島にいるんですよ。もう中河さん(注)のおじいちゃんが亡くなってから二年か三年経って東京へ来て、中河さんのところに寄っていったそうですよ。びっくりしてたもん。(注)中河電気の店主。現「ゑーもん」のところにあった。
[当方の注]⑤一階は最終的に三味亭に。変わっていません。上の写真を。場所はここ
馬場さん このころはもう戦後ですか?
相川さん 戦後。それから、美好屋ってお汁粉屋の隣りに⑥「京屋」っていう絵草子屋さんがあって、昔は双六とかね。それで本屋さんをやっているの。月刊誌を入れていた。そこのうちも子どもさんがいなくてね。⑦すぐその隣りが宮内さんという足袋屋さん。本店がいまの室町の宮内って足袋屋さんですよ。そこの分かれですね。⑧その隣りが亀十さん。

『ここは牛込、神楽坂』第6号の「丸岡陶苑 岡崎弘さん」では

通りの向こうのいまタイヨウがある先のところには牛乳屋とか絵草紙屋があって。絵草紙屋は日清戦争の絵とか美人画とか、きれいな折紙なんか売ってて、ここのおばさんが美人でね。それからそばの煙草屋さんに看板娘がいて、みんな大騒ぎしたもんですよ。
[当方の注]⑥+⑦の一階は最終的に三好弥から神楽坂菓宴に。場所はここ

神楽坂菓宴

馬場さん その絵草子屋さんと足袋屋さん(⑥+⑦)がいまの「三好弥」さんになってきたの?
相川さん そうそう。足袋屋さんを三好弥さんが買ったんです。
馬場さん 買ったのは戦前? 戦前ですよね。
相川さん いや、戦後ですよ。なぜそうかっていうと、町内の俳句をやったときに私か手助けにそこの娘さんを借りたから。
馬場さん じゃあ、三好弥さんが来たのは戦後?
相川さん 三好弥さんは戦前なんですよ。戦前といっても、あそこへ来てからじきに戦争になった。だから戦争のはじまりですから、昭和十四、五年ですよ。江戸川橋からここへ来た。 亀十さんの前が「日の丸食堂」っていったかな。食堂だったのを亀十さんのお父さんが買ってあそこへ来たわけ。その食堂になる前が、安井さんって荒物屋さん。あの通りでは安井さんが幹事をやっていてね。それとカツイソウタロウさんが幹事をやっていた。あの当時は役員さんが二人いた。
[当方の注]⑧の一階は亀十パンから最終的に「おかしのまちおか」に。場所はここ

⑧おかしのまちおか

馬場さん 亀十さんは何年ぐらいに出てこられたの?
相川さん あれは七年だと思う。
山下さん 私がいちばん記憶があるのはね、ほら、田舎から出てきたでしょう。おたくのお菓子が珍しくってね。おたくで買い物したことをいまでも覚えているの。
馬場さん いまの店とほぼおんなじような店でしたね。
一同   同じだよね。
相川さん 真ん中に座敷があってね。亀十さんの今あそこは工場(こうば)になったから、あそこから汲み収り屋さんがみんな入ったの。
馬場さん 戦前も、あの回転の扇風機がなかったですか?
佐藤さん 戦後ですよ。
馬場さん 戦前はなかった?
相川さん どうだったかねえ。

大東京繁昌記|早稲田神楽坂07|通寺町の発展

文学と神楽坂

 1927(昭和2)年6月、「東京日日新聞」に乗った「大東京繁昌記」のうち、加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』の一部、「通寺町の発展」です。

通寺町の発展

 普通神楽坂といえば、この肴町の角から牛込見附に至る坂下までの間をさすのであるが、今ではそれを神楽坂本通りとでもいうことにして、通寺町の全部をもずっと一帯にその区域に加えねばならなくなった。その寺町の通りは、二十余年前私が東京へ来てはじめて通った時分には、今の半分位の狭い陰気な通りで、低い長家建の家の(ひさし)が両側から相接するように突き出ていて、雨の日など傘をさして二人並んで歩くにも困難な程だったのを、私は今でも徴かに記憶している。今活動写真館になっている文明館が同じ名前の勧工場だったが、何でもその辺から火事が起ってあの辺一帯が焼け、それから今のように町並がひろげられたのであった。
肴町 現在の神楽坂五丁目です。
牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といい、この名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。ここでは市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所を示すと考えます。
通寺町 現在の神楽坂六丁目です。
長家建 共有の階段や廊下がなく、1階に面したそれぞれの独立した玄関から直接各戸へ入ることのできる集合住宅。
 ひさし。窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す小さな屋根。出入り口や窓の上部に設けることで、日差しや雨から守ることができるようになる。
勧工場 かんこうば。現在「スーパーよしや」が建っています。明治20年5月、牛込勧工場のスタートでした。
 工業振興のため商品展示場で、1か所の建物の中に多くの店が入り、日用雑貨、衣類などの良質商品を定価で即売しました。1店は間口1.8メートルを1〜4区分持つので、規模は小さく、また、多くは民営で、商人達の貸し店舗の商店街でした。入口と出口は別々にするのが一般的ですが、牛込勧工場は入口と出口が同じでした
 明治11年、東京府が初めて丸の内にたつくち勧工場を開場し、明治20~30年代にかけ全盛期を迎えます。明治40年以後になると、百貨店の進出があり、「勧工場もの」という言葉が安物の代名詞として広がり始め、大正3年(1914)にはわずか5か所に減り、衰退していきます。
 辰ノ口勧工場は明治15年の松斎吟光氏の「辰之口勧工場庭中之図」(発売元は福田熊次郎)で見ることも可能です。

火事が起って 牛込勧工場は通寺町で明治20年5月に販売開始。火災や盗難などがあれば、出品者に分担。地図を見ると、明治43年、道路は従来のままで、明治44年には拡幅終了。おそらく火災による道路拡幅は明治43年から明治44年までに行ったのでしょう。

通寺町の拡幅。明治43-44年

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青の色ガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑抑私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかゝるかと内心非常にびくくしながら箸を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭出してお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

安田銀行聖天様いろは 下図の「火災保険特殊地図」(昭和12年)を見てみましょう。最初に、上下の大きな道路は神楽坂通り、下の水平の道路は大久保通り、2つの道路が交わる交差点は神楽坂上交差点です。
「安田銀行」は左にあります。その右には「聖天様」、つまり安養寺があり、そして昔の「いろは」(牛肉料理店)があります。 これは「牛肉店『いろは』と木村荘平」で詳しく検討しています。

第十八いろは(新宿区道路台帳に加筆)

 現在の写真では「安田銀行」は「セイジョー」から薬販売の「ココカラファイン」に、安養寺は同じく安養寺で、「いろは」はなくなりました。

 それから少し行ったところの寄席の牛込亭は、近頃殆ど足を運んだことがないが、一時はよく行ったものだった。つい七、八年か十年位前までは、牛込で寄席といえばそこが一等ということになっていた。落語でも何でも一流所がかゝっていつも廊下へ溢み出すほどに繁盛し、活動などの盛にならない前は牛込に住む人達の唯一の慰楽場という観があった。私が小さん円右の落語を初めて聞いたのもそこであった。綾之助小土佐などの義太夫加賀太夫紫朝新内にはじめて聞きほれたのも、矢張りその牛込亭だったと思う。ところがどういうわけでか、数年前から最早そういう一流所の落語や色物がかゝらなくなって、八幡劇だの安来節だのいうようなものばかりかゝるようになった。それも一つの特色として結構なことであるし、それはそれとして又その向々の人によって、定めて大入繁昌をしていることゝ思うが、私としては往時をしのぶにつけて何となくさびしい思いをせざるを得ないのである。場所もよし、あの三尺か四尺に足らない細い路地を入って行くところなど、如何にも古風な寄席らしい感じがしたし、小さんや円右などの単独かんぱんの行燈が、屋根高く掲げられているのもよく人目を引いて、私達の寄席熱をそゝったものだった。今もその外観は以前と少しも変らないが、附近の繁華に引換え、思いなしかあまり眼に立だなくなった。今では神楽坂演芸場の方が唯一の落語の定席となったらしい。

牛込亭 この地図では「寄席」と書いています。現在の地図は、牛込亭は消え、ど真ん中を新しい道路が通りました。なお、この道路の名前は特に付いていません。
小さん 1895年3月、3代目襲名。1928年(昭和3年)4月、引退。
円右 1882年に圓右、1883年真打昇進。1924年10月、2代目圓朝に。一般的に「初代圓右」として認識。
綾之助 女性。本名は石山薗。母から義太夫の芸を仕込まれ、1885年頃、浅草の寄席で男装し丁髷姿で出演。竹本綾瀬太夫に入門し竹本綾之助を名乗る。1886年頃に両国の寄席で真打昇進。端麗な容姿と美声で学生等に人気を呼び、写真(プロマイド)が大いに売れたといいます。
小土佐 女性。竹本(たけもと)小土佐(ことさ)。女義太夫の太夫。明治の娘義太夫全盛期から昭和末まで芸歴は長大。
義太夫 義太夫節、略して義太夫は江戸時代前期から始まる浄瑠璃の一種。国の重要無形文化財。
加賀太夫 男性。富士(ふじ)(まつ)加賀(かが)太夫(たゆう)は、新内節の太夫の名跡。7代目は美声の持ち主で俗に「七代目節」と言われる。明治末から大正時代の名人。現在に通じる新内の基礎はこの人物がいたため。
紫朝 富士松ふじまつ紫朝しちょう。男性。明治大正の浄瑠璃太夫。
新内 新内(しんない)(ぶし)は、鶴賀新内が始めた浄瑠璃の一流派。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげる新内節は、遊里の女性たちに大いに受けたといいます。
色物 寄席において落語と講談以外の芸。寄席のめくりで、落語、講談の演目は黒文字、それ以外は色文字(主として朱色)で書かれていました。
八幡劇 大衆演劇の劇団でしょうか。よくわかりません。
安来節 やすぎぶし。島根県安来地方の民謡。

 そんな懐旧談をしていたら限りがないが、兎に角寺町の通りの最近の発展は非常なものである。元々地勢上そういう運命にあり、矢来方面早稲田方面から神楽坂へ出る幹線道路として年々繁華を増しつゝあったわけであるが、震災以後殊に目立ってよくなった。あの大震災の直後は、さらでだに山の手第一の盛り場として知られた神楽坂が安全に残ったので、あらゆる方面の人が殺到的に押し寄せて来て、商業的にも享楽的にも、神楽坂はさながら東京の一大中心地となったかの如き観があった。そして夜も昼も、坂下からずっとこの寺町の通り全体に大道露店が一ぱいになったものだったが、それから以後次第にそれなりに、私のいわゆる神楽坂プロパーと等しなみの殷賑を見るに至り、なお次第に矢来方面に向って急激な発展をなしつゝある有様である。

兎に角 他の事柄は別問題として。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。
さらでだに 然らでだに。そうでなくてさえ。ただでさえ。
殷賑 いんしん。活気がありにぎやかなこと。繁華

いろは[昔]|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 牛肉「いろは」は6丁目にありました。
 森銑三氏の「明治東京逸聞史1」(平凡社、昭和44年)によれば……

牛肉店いろは  「読売新聞」明治24年12月25日から
 牛肉店のいろはは、すべて48の支店を作ることを目標としていた。その第18支店いろはが、牛込神楽坂上に出来て、新しく開店することを広告している。48作ることは、一つの夢として終ったが、当時のまだ狭かった東京に、18の店を持つたというだけでも、その盛んだったことが思い遣られる。

 また、泉鏡花氏が書いた「神楽坂七不思議」で「いろは」のことがでています。

神樂坂七不思議

奧行おくゆきなしの牛肉店ぎうにくてん。」
(いろは)のことなり、()れば大廈たいか嵬然(くわいぜん)としてそびゆれども奧行おくゆきすこしもなく、座敷ざしきのこらず三角形さんかくけいをなす、けだ幾何學的きかがくてき不思議ふしぎならむ。
        明治二十八年三月

 単に
大廈 たいか。大きな建物。りっぱな構えの建物。
嵬然 かいぜん。高くそびえるさま。つまり、外から見ると大きな建物なのに、内部は三角形で小さい。

 島崎藤村ほかの『大東京繁昌記 山手篇』(講談社)で加能作次郎氏の「早稲田神楽坂」ではこう書きます。

 その頃、今の安田銀行の向いで、聖天様の小さな赤い堂のあるあの角の所に、いろはという牛肉屋があった。いろはといえば今はさびれてどこにも殆ど見られなくなったが、当時は市内至る処に多くの支店があり、東京名物の一つに数えられるほど有名だった。赤と青のいろガラス戸をめぐらしたのが独特の目印で、神楽坂のその支店も、丁度目貫きの四ツ角ではあり、よく目立っていた。或時友達と二人でその店へ上ったが、それが抑々そもそも私が東京で牛肉屋というのへ足踏みをしたはじめだった。どんなに高く金がかかるかと内心非常にびく/\しながら(はし)を取ったが、結局二人とも満腹するほど食べて、さて勘定はと見ると、二人で六十何銭というのでほっと胸を撫で下し、七十銭だしてお釣はいらぬなどと大きな顔をしたものだったが、今思い出しても夢のような気がする。

 では、どこにあったのでしょうか。まず 間違えていた論点を見てみます。『ここは牛込、神楽坂』第18号の『遊び場だった「寺内」』では、

岡崎(丸岡陶苑) でも、ほんとうに遊ぶのは、安養寺の方で、狭いとこに駄菓子屋が二軒あったんで、そっちの方がわりあいにぎやかだった。安養寺の境内の往来に面したところに街灯があって、あそこはクルマ(人力車)がいつも二、三台、年中たむろしていたから。そこに「いろは」があった。牛鍋屋の。

地図1

「岡崎さんがお話ししながら描いてくださった明治40年前後の記憶の地図を描きおこしました」と書いてあり、図のような神楽坂の6丁目(昔の通寺町)の絵が書いてあります。図の左端の半分に「トケイ」や「安養寺」と書いてあり、その下に「いろは」が書いてあります。

 昭和12年の「火災保険特殊地図」を見てみるとかなり今とは違います。

神楽坂上2

「いろは」は昭和12年「火災保険特殊地図」の「精進寮」と同じ場所です。よく見ると三角形で、ここで名残をとどめています。このほかの建物はここにでています。

 しかし、まったく違ったように見える写真が出てきました。下右端の建物は「第十八いろは」(牛込区寺町)です。(「第六いろは」は神田区連雀町なので、違います)。

 最初は、上の写真でいうと、建物「3」と思っていました。困っていましたが、よくよく見ると、写真の左側には道路はありません。つまり、上図の右中央から見た写真、つまり「精進寮」の方から見た写真だと思っています。

 以上は間違えていた議論です。正しくは牛肉店『いろは』と木村荘平を見てください。