明治初年、警察署の前身である大区役所と羅卒屯所が設置(昭和5年『牛込区史』東京市牛込区役所。復刻版は臨川書店『東京都旧区史叢刊』昭和60年)。明治5年、大区役所を大区警視出張所に、明治7年、羅卒屯所を巡査屯所に改称。牛込区の役所は箪笥町南蔵院に設置。
明治8年、牛込区の警察署を警視第3分庁第4署として神楽坂一丁目八番地に設置(下図)。南蔵院にあった役所は廃止。
渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007年)では、明治8年に神楽河岸に警察署が創設されたとなっていますが、これはおそらく間違いです。明治8年頃、神楽河岸は一部を除いてまだただの川岸で、大きな建物はありませんでした。
明治14年、警視庁を再設置、牛込区では神楽町警察署と原町警察署を設置。3月、1署に改編し、牛込警察署と改名。明治26年、ここで初めて神楽河岸に移転します。
明治40年、牛込署早稲田分署が発足、明治43年、早稲田警察署に昇格。大正6年、牛込神楽坂警察署と牛込早稲田警察署に改名(『牛込区史』昭和5年)。
昭和35年(1960年)、この2署は合併し、牛込警察署に改称、南山伏町1番15号に新築移転(牛込警察署『牛込警察署の歩み』昭和51年)
神楽河岸の旧警察署
神楽河岸の旧警察署について、昭和37年の住宅地図ではまだ神楽坂警察署があるようになっていますが、昭和38年の住宅地図になると、神楽河岸は警視庁第2機動捜査隊や神楽坂下巡査派出所などが建った土地になります。
昭和47年、東京都は飯田橋駅西側の都市計画を決定(東京都建設局「飯田橋夢あたらし」平成8年)。昭和53年、この計画に反対する「守る会」が種々の審査を請求し、昭和56年11月、裁判所は和解勧告。同月、都と住民の覚え書きは完結。神楽河岸にあった機動隊や派出所は完全になくなり、昭和59年、飯田橋駅西側の飯田橋セントラルプラザや総合ショッピングセンター・ラムラが完成しました(東京都建設局「飯田橋夢あたらし」平成8年)。
最悪の寿産院事件
おそらく神楽坂警察署があるときに起きた最悪事件は、昭和23年1月の寿産院事件でしょう。嬰児約100人が殺害されたものです(牛込警察署『牛込警察署の歩み』昭和51年)。
1944年4月から1948年1月15日まで、牛込柳町の寿産院は、里子としてあずかった乳幼児200人以上のうち、85-169名(103人が有力)を凍死、餓死、窒息死させた事件です(ウィキペディア)。親から1人つき4~5000円の養育費、東京都からは補助金と配給品を受けとり、配給品は闇市に横流して、100万円以上を稼いでいました。
1948年(昭和23年)1月12日夜、巡回中の警官2人が新宿区弁天町でみかん箱を運ぶ葬儀屋に事情聴取を行い、驚いたことに、このみかん箱に嬰児死体4体が入っていました。
1月15日、新宿区柳町で「寿産院」を経営する主犯の産婆(現在の用語は助産師)石川ミユキ(当時51歳)と夫の猛(当時55歳)を殺人容疑で逮捕。1952年(昭和27年)、東京高等裁判所は妻に懲役4年、夫には懲役2年の判決を下しました。