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西江戸川橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋 生きている江戸の歴史』(昭和52年、新人物往来社)の「西江戸川橋」についてです。

西江戸川橋(にしえどがわばし) 文京区水道二丁目から新宿区西五軒町江戸川に架され、石切橋中之橋の間にある。この間にはざくら橋(西江戸川の下手)もあるが、いずれも江戸時代にはなかった橋で、西江戸川町から西五軒町に渡されたので西江戸川橋と命名したもので、新撰東京名所図会はこれを「西江戸川橋 西江戸川町(小石川区)より牛込五軒町に通ずる木橋にして、江戸川に架せり、即ち石切橋と中之橋との中間に位し、前記の諸橋に比し最も後れて架設せられたる橋なり、万延元年秋改の小日向絵図に載せず、明治後の架橋なり、又前田橋ともいう。」としているが、東京府志料(明治7年編)にはこの橋の記載がないので、それ以後の創橋であろう。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰から船河原橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
西江戸川町 江戸川(現在の神田川)に沿った武家屋敷地でしたが、明治5年(1872)、江戸川町に対して西江戸川町と命名。昭和39年8月1日、半分は水道一丁目、昭和41年4月1日、残る半分は水道二丁目になりました。

文京区教育委員会『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)以前の住居地

文京区教育委員会の『ぶんきょうの町名由来』(昭和56年)現在の住居地

新撰東京名所図会 明治29年9月から明治42年3月にかけて、東京・東陽堂から雑誌「風俗画報」の臨時増刊として発売された。編集は山下重民など。東京の地誌を書き、上野公園から深川区まで全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが図版や写真入りで記載。牛込区は明治37年(上)と39年(中下)、小石川区は明治39年(上下)に発行。
西江戸川橋 不思議ですが、この文章で始まるものは「新撰東京名所図会」牛込区や小石川区に全くありません。
小日向絵図 嘉永5年(1852)、外題「小日向絵図」、内題「礫川牛込小日向絵図」が刊行され、それに手を加えて改訂された切絵図「小日向絵図全 礫川牛込小日向絵図」(万延元年、1860年、作者は戸松昌訓、金鱗堂 尾張屋清七)です。
前田橋 昭和28〜29年の間、初めて「前田橋」が架橋され、約25年後の大正11年になると「西江戸川橋」になっています。

1. 東京実測図(明治20年)2. 東京実測図(明治20年)3. 東京実測図(明治28年)4. 東京市牛込区全図(明治29年8月調査)5. 東京市牛込区全図(明治40年1月調査)6. 地籍台帳・地籍地図(大正元年)7. 東京市牛込区(東京逓信局編纂. 大正11年)

(1) 明治20年は中之橋と石切橋の間には何もありません。(2)同じ明治20年ですが、新しい架橋があり、しかし、橋の場所が違っています。(3) 28年もほぼ同じ絵ですが、(4)明治29年になって、初めて地図とほぼ同じ場所になりました。しかし、橋の名前は「前田橋」でした。(5)明治40年、(6)大正元年も「前田橋」ですが(7)大正11年となると「西江戸川橋」と変更、現在と同じ名前になりました。さらに新しく橋が1つ、「西江戸川橋」の東側で「小桜橋」と同じ場所に登場します。
 なお、(2)と同じ橋が下の図でも出ています。

西江戸川橋の由来

東京府志料 明治5年、陸軍省は各府県勢を把握するため、地図・地誌の編纂を企画し、これに応じて東京府が編纂した地誌。人口・車馬・物産等は明治5年、田畑数・貢租の額等は6年、区界町名の改正等は7年に基づいて編纂。

明治後期の「西江戸川橋」。三井住友トラスト不動産

明治33年(1900年)、花見客で賑わう江戸川橋。この絵は江戸川小同窓会長 石川省吾氏

矢来下

 「矢来下」ははるか江戸時代から使っている言葉です。万延元年の「市ヶ谷牛込絵図」では「矢来下ト云」と、「小日向絵図」では「矢来下」と書かれています。場所ははっきりとしませんが、「さとし歯科クリニック」「hurakoko」や「肉和食居酒屋 からり」の三叉路の西側から、「牛込天神町交差点」まで、あるいは「牛込警察署 矢来町地域安全センター」まででしょう。なお「牛込中央通り」は江戸時代にまだできていません。
 「牛込天神町交差点」から北の道路は現在「江戸川橋通り」と呼んでいます。
 しかし、「矢来下」の通りは別の観点から見たものもあります。佐多稲子氏の「私の東京地図」の「坂」(新日本文学会、1949年)では、

戦災風景

戦災風景 牛込榎町から神楽坂方面。堀潔 作

高台という言葉は、人がここに住み始めて、平地の町との対照で言われたというふうにすでにその言葉が人の営みをにおわせているが、今、丸出しになった地形は、そういう人の気を含まない、ただ大地の上での大きな丘である。このあたりの地形はこんなにはっきりと、近い過去に誰が見ただろうか。丘の姿というものは、人間が土地を見つけてそこに住み始めた、もっとも初期の、人と大地との結びつく時を連想させる。それほど、矢来下から登ってゆく高台一帯のむき出された地肌は、それ自身の起伏を太陽にさらしていた。

 この「矢来下」は文字通り「矢来の下」あるいは「矢来町の下」から「高台」に登っていく状況を描いています。まあ「矢来町の下」と「矢来下」とはその意味が違っています。
 さらに昭和5年の「牛込区全図」を見てみると……

昭和5年 牛込区全図

と、路面電車の停留所「矢来下」はまさに「矢来町の下」の意味で使っています。つまり「矢来下」は「矢来町の下」の意味に変わりました。ちょうど「牛込見附」が本来の意味から「駅」や「駅の周辺」という意味に付け変わっていくように。
 しかし、本来の「矢来下」は「牛込天神町交差点」から「さとし歯科クリニック」などの「三叉路」までの道路を指し示すものでした。