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神楽坂5丁目(写真)縁日 昭和41年 ID 12280と12282

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12280と12282では、 昭和41年(1966年)毘沙門天の縁日を撮っています。「縁日」は神社仏閣と縁のある日で、普段以上に御利益があるとされました。毘沙門天の縁日は、戦前は寅(寅毘沙)と午の日の10日に2度でしたが、戦後の昭和29年7月から毎月5日の夜店が出店し、やがて3度になり、屋台の夜店で賑わいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12280 神楽坂毘沙門天の縁日

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12282 神楽坂毘沙門天の縁日[/captio

 なお、ID 12272と73、75と76と同日の撮影と思われ、やや西側の5丁目、毘沙門天善国寺の門前です。図示した位置の屋台を狙っています。

[caption id="attachment_68285" align="aligncenter" width="1600"] 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8300 善国寺

 屋台の客は長袖で、コートを着ている人もいます。電柱にはクリスマスらしき飾りがあります。石囲いの上には小屋根を仮設し、提灯を2段に並べています。これは善国寺のイベントと思われるので、日蓮宗のお会式(10-11月ごろ)に近い日の縁日でしょうか。

善国寺(昭和41年)ID 12280と12282 左から
  1. 石囲い。戦前のもので、角柱には寄進者の紋と掘り文字(弁松?)が見える。おそらく昔の芸者屋。
  2. 小屋根と並び提灯。上段は「食料品 丸〇」。下段は「足袋 ワイシャツ 赤井商店」「山田紙店」が確認できる。
  3. 門脇には大きい字で書かれた看板「易占 毘沙門天 藤墳蕙秀 電話 269 2769番」との6本線(こう)。ここで易占えきせんとは算木さんぎ筮竹ぜいちくを用いてする易の占い。
  4. 切り花と桶。花は菊か。ここは庫裏くり(住職や家族の住む場所)に続く脇門で、日中に花屋が出ていた。この日は夜も営業していたようです。
  5. レストラン フルーツ 田原屋
  6. パチンコ おおとり
  7. 電柱 「毘沙門横 入る 料亭 松ヶ枝」「質 (大久保)」
  8. 日本勧業(信用組合)
  9. 美味栄養 七色唐がらし 江戸名物 背後に商品をしまう「茶」箱
  10. おもちゃ屋。戦車、戦闘機、ダイヤル式電話 公衆電話、鉄道の列車、オバケのQ太郎(漫画。略してオバQ)、ミニカー類(パトカー、救急車、タクシー、ミキサー車)が確認できる。オバQの前にあるのは大魔神か。電話の向こうの操作卓のようなものは分かりません。
  11. 街灯に突き出し看板「神楽坂」。星、クリスマスの飾り
  12. (駐車禁止)12-24
  13. 富士フイルム(尾沢写真材料)

善国寺(写真)昭和44年 ID 8271-ID 8272

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8271とID 8272を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8272 善国寺

 地元の方から解説を送ってくれました。

 街ゆく人はコートを羽織っているので、季節は冬でしょう。
 3-4階と思われる高い位置から境内全体を撮影しています。門前の店は2階建てばかりだったので、どこから撮影したのか分かりません。同時代のID 101を見ると可能性があるのは尾澤薬局の屋根の上でしょうか。
 境内は多目的に利用されています。
 入口は3カ所。本堂(毘沙門堂)に続く正門(A)、その西側の庫裏くりに続く門(B)、毘沙門横丁から入る脇門(C)です。本堂と庫裏は渡り廊下で結んでいます。
 境内は未舗装ですが、主要施設の間には敷石があります。西門の階段など、場所によってはかなり傷んでいます。毘沙門横丁の敷石は、おそらく左(1)が浄行菩薩、右(2)は建屋がある出世稲荷でしょう。
 正門前の左側に台のようなもの(3)が置いてあります。献灯のローソク台ような感じです。その後ろの石囲いは壊れていて、ナナメの棒のようものも見えます。「1960年代の東京」(毎日新聞社)の1965年の写真では石囲いは正常なので、何かあったのかも知れません。
 正門内の左(4)と本道の左手前(4)は建物の基礎の跡のようになっていて、大きな石も見えます。戦前にあった大道芸や見世物小屋などの常設店の跡かも知れません。語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年、下を参照)には、戦後も境内にダガシヤなどの店があったことが書かれています。
 この写真の空地はイベントやお祭りの御神酒所などに使われたようです。よく考えると神輿の御神酒所を日蓮宗のお寺の境内に置くのはおかしいと思いますが、そんなことは誰も気にしていません。今も4丁目の御神酒所は毘沙門様の中です。地方の名産品セールや6月4日の歯科医師会の無料検診会のようなイベント、選挙の演説会などにも使われています。
 2カ所、旗の掲揚塔(5)が立っています。寺の行事や街のイベントなどでのぼり旗を掲げていたのでしょう。また西の門脇には「易占えきせん/毘沙門天/易断所/藤墳蕙秀」(6)の看板があります。
 境内のかなりの部分は区の児童遊園として貸し出されていて、石造りの滑り台(7)、日よけ(夏場によしずをしく)を備えた砂場(8)、藤棚(9)、ベンチや水飲み場(10)、右下のブランコ(11)が確認できます。
 ID 8245に見うる鈴蘭灯はじめ、雑多な屋外照明(六角形で囲ったもの)(12)が見えます。参拝者用や児童遊園用など、目的に応じてバラバラに整備したのでしょう。
 毘沙門堂は1971年(昭和46年)に建て替えられました。この写真は建て替え直前の様子を残す目的だったかも知れません。児童遊園は小さくなって今もあり、藤棚も形を変えて本堂の手前に残っています。

庫裏 くり。住職やその家族の住む場所

 語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年)では、写真よりも、つまり昭和44年よりも、少し昔に起こったのでしょう。

おびしゃ様のこと
 毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。
 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。
 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行善薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に「頭がよくなりますように」と無理なお願い。
 節分のときは、子守さんと一緒にミカンを拾いに参りました。渡り廊下のところでお顔見知りの小父さんたちが、いつもと違ってちょっと気取った紋付袴姿で(父もその中に)、豆とミカンを投げるのです。それを家へ持って帰り、ミカンを火鉢で焼いていただきます。風邪をひかないオマジナイでした。
 そう、おびしゃ様は神楽坂の子供のディズニーランドだったのです。
 母が子供の頃は、右の御門を入って右手に「万長」さんの箱車が幾つか並ぺて置いてあったそうです。その中で母はおままごとをしていて扉を閉められ「ごめんなさい!」と泣き叫んだとか。私か幼い頃もまだ箱車があったような気がします。 
 これも母の話ですが、裏手には墓所があり夏の夜はお化けごっこをしたとか。また明治か大正の始め頃には、境内に見世物小屋が出ていたとのことでした。
新宿区新小川町ますだふみこ


神楽坂通り|大宅壮一

文学と神楽坂

 大宅壮一大宅(おおや)壮一(そういち)氏が書いた『モダン層とモダン相』(大鳳閣書房、昭和5年、1930年)の1章「神楽坂通り」です。この「神楽坂通り」、もともとは新潮社の「文章倶楽部」(昭和3年、1928年)に出したものでした。
 氏はジャーナリスト、ノンフィクション作家、毒舌の社会評論家です。生年は1900年(明治33年)9月13日。没年は1970年(昭和45年)11月22日です。

     神樂坂通り
 神樂坂の通りを歩く度毎に、僕の頭にはいつも一つの思ひ出が生々と甦つて來るのである。
 それは震災の年の暮に近い頃のことである。(中略)
 汽車が甲府を過ぎて信州に入つた頃、僕はふと通路をへだてた隣席でしきりに得意さうに話してゐる東京人らしい老人の話に耳を傾けた。
 その話によると、彼は大變な好きで、千圓以上もする犬を何匹も飼つてゐるのであるが、その中でも一番大切だのを震災でなくしてしまつた。その犬は純日本種で、狸の穴をどんな遠方からでも嗅ぎつける不思議な能力を持つてゐるのであるが、さういふ犬は日本中を探しても數へる程しかゐない。幸ひ信州の山奥の何村の某が、その種の犬を一匹飼つてゐることを耳にしたので手離すかどうか分らないが、何千圓出してでも是非手に入れるつもりで、わざわざ東京から出かけるところだといふのである。
 それから老人は、その犬の飼育費が東京だと月に百圓位はかゝるといったやうな景氣のいゝ話をして、感心して聞いてゐる粗朴さうな土地の人々を煙に卷いてゐた。
 彼は澁い凝つた着物を着て、ロシヤ人の冠るやうな毛皮の頭巾を冠り、態度からいつても、ものゝ言ひつぷりからいつても、いかにも豪家の御隠居然としてゐた。たゞ一つ、僕にとつて疑問だつたのは、さういう御隠居様がどうして三等に乗つて長旅をするのだらうといふ一點であつた。
      *
 その後數日を經て、空つ風の吹く或る寒い晩、僕は懐手をして神樂坂の通りを歩いてゐた。支那ソバかヤキトリでも食ひたいと思つて、十二三銭入つてゐる財布を握りながら、周圍を見廻したけれど、場末と違つて、この上品な古めかしい通りには、僕の求めてゐる屋臺店は見當らなかつた。
      *
 その時僕は、自分の眼の前に全く思ひがけない人間がつてゐることを發見した。
 毘沙門樣の石垣の前で、小さな楊子店を出して、頭から毛布をすつぽり冠り、寒さうに火鉢を抱いてゐるのは、數日前中央線の汽車の中で豪奢な獵犬の話をしてゐたその老人であつた!
      *

 意味がわからない語句がまずありません。

 猟
千円 5円が2-3万円でしたので、千円は数百万円になります。
渋い 落ち着いた趣、地味で深い味わい
懐手 ふところで。和服を着たとき、手を袖から出さずに懐に入れていること
屋臺 屋台
蹲む 辞書には「つくなむ」しか書いてありませんが、意味は「しゃがむ」です。ひざを折り曲げて腰を落とす。かがむ。
楊子 歯を掃除する用具。現在では歯間用の(つま)楊枝(ようじ)(爪楊枝)をさす場合がほとんどですが、本来は歯ブラシまでも含んでいました。

 お金を持っている屋台の主人。現実に屋台からビルになることもあったので、決して嘘ではないと思います。さて、(2)で悪い神楽坂がでてきます。

『露店研究』|神楽坂

文学と神楽坂

 著者・横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章で「牛込神楽坂の露店」を書いています。以下はそのコピーです。1つ、重要な事実があります。ここにはいろいろな露店はありますが、今川焼の一種である熊公焼はありません。

 ところが、色川武大氏は同じ本を使って『怪しい来客簿』を書き、「露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、(中略)、さびない針(錆ビヌ針)、万年筆、人形、熊公焼、花(ハナ)、(色川武大氏はミカンは書いていない)、玩具(オモチャ)(後略)」と説明します。この熊公焼は色川氏が加えたものでした。

露店1

熊公焼|神楽坂

文学と神楽坂

 熊公焼も夜店で売られる一種の今川焼、アンコ巻きです。三遊亭円生氏の「円生 江戸散歩」(集英社、1978年)では…

 坂をあがったところの左に、私の子供の時代には今川焼をうってる店があったんです。勿論、これは屋台店ですがたいへんにはやったもんで。子供時代にこの今川焼を買ってもらった事をおぼえているのですが、のちにその今川焼がなくなってしまったら、今度は“くまこうやき”てえのがはやったんです。うどん粉でこう平ったくしておきまして中へ餡をこうすーっと巻いたもんですが、まあいえば餡巻きですか、これにくまこうやき、という名前をつけた。これが大変繁昌をした。わざわざ遠いところからこれを買いに来たという人があるんですから、ふしぎなもんですね。
 今川焼とは草薙堂でした。さて、問題は熊公焼です。この夜店はどこにあったのでしょうか。

 最も古い記事は「製菓実験」昭和12年8月号に出ています。

新聞などにも度々出て、可成り有名な神樂坂の熊公と、その唯一の商品である都巻。鐵板の上に薬の利いた中華種を四角な口付のブリキ型で流し、中に棒にした飴を巻いたものです。生憎手許が見えないが、鐵板は四ッに仕切つてあつて廻轉式になつてゐる所は、如何にも屋臺向です。一個四十匁平均で、一個の値段は金五錢也。

 新宿区立図書館著『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』の「古老談話・あれこれ」では

「熊公焼」は永楽銀行の前にありました。(中略)
 これはやや高級品で品物はアンコ巻なんですが1本5銭、巻いてある皮にはほんとうの玉子がたっぷり入っていました、やっぱり屋台店でして売れることは今川焼やと同じに飛ぶように売れました。熊公焼は今川焼がなくなって、震災後しばらくしてから出たものです。(中略)このアンコ巻を焼いていたおやじさんの顔が又、その気になって顔にいっぱい髯をはやしてしまって、恐ろしい顔をますます恐ろしくして「熊公焼」の名を高からしめたってわけです。

「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」によれば昔の「永楽銀行」は現在青柳LKビルが入る場所でした。ちなみに青柳寿司は数年前になくなり、しかしビルは残り、代わって14年版「神楽坂」(神楽坂通り商店会)では「叶え」、「Mumbai」、「えちご」、「神楽道」が入っています。1階は平成26年9月で「沖縄麵屋、おいしいさあ」です。これはちょうど神楽坂通りを上にあがった場所です。

 同じように2005年『神楽坂まちの手帖』第8号で「石濱朗の神楽坂界隈思い出語り」というエッセイがあり、そこに「子供に大人気の熊公焼って?!」として書いてあります。

 それはまだ大東亜戦争の始まる前だった。
 神楽坂を上がり切った左側に「玩具屋」があった、その近くにその店は出ていた。
 何時頃から出るようになったのか、まだ小さかった僕にはわからない。
 厚い鉄板の上にうどん粉を溶かしたものをたらして焼き、小豆餡を上に載せてくるりと巻いたものを売っていた。
 菓子の名前は「熊公焼き」、売っている人の顔が熊に似ているからか、熊吉とか熊太郎と言う名前のせいか、その由来は判然としない。兎に角美味かったので良く売れていた。

 同じような場所で、坂上で、上を向いて左側でした。

 では色川武大氏の「怪しい来客簿」では

今、私の机の上に、昭和六年刊『露店ろてん研究』という奇妙きみような書物がのっている。著者は横井弘三氏。(中略)
……ここで肴町(さかなまち)の電車路(現在の大久保(おおくぼ)通り)にぶつかり、ここから先、神楽坂下までは毎夜、車馬通行止めで、散歩の人波で雑踏(ざつとう)した。
 で、露店も両側になる。右側が、がまぐち、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キャラメル、古本、表札、切り抜き、眼鏡、古本、地図、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホオズキ、古道具、寿司、焼鳥、おでん、おもちや、南京豆(なんきんまめ)、寿司、古道具、半衿(はんえり)、ドラ焼、(かなばさみ)(のこぎり)唐辛子(とうがらし)、焼物、足袋(たび)、文房具、化粧品(けしようひん)、シャツ、印判、ブラッシュ石膏細工(せつこうざいく)、ハモニカ、メリヤス、古本、茶碗(ちやわん)(かばん)玩具(がんぐ)煎餅(せんべい)、古本、大理石、さびない針、万年筆、人形、熊公焼、花、玩具、(くし)類、古本、花、種子、ブラッシュ、古本、ペン字教本、鉛筆(えんぴつ)、文房具、万年筆、額、足袋、ミカン、古本、古本、シャツ、帽子(ぼうし)洗い、焼物、植木、植木、寿司。(中略)
 有名だったのは熊公焼で、鍾馗(しょうき)さまのような(ひげ)を生やしたおっさんが、あんこ(まき)を焼いて売っていた。これは神楽坂名物で、往年の文士の随筆にもよく登場する。戦時ちゅうの砂糖の統制時に引退し、現在は中野の方だったかで息子さんが床屋をやっているそうである。

白布 白いぬの。白いきれ。
切り抜き 「切り抜き絵」「切り抜き細工」。物の形を切り抜いてとるように描かいた絵や印刷物。
メリヤス ポルトガル語のmeias(靴下)から。機械編みによる薄地の編物全般。
風船ホオズキ ホオズキの実から中身を取り代わりに実に空気を入れると、風船様になる。
南京豆 ピーナッツのこと
半衿 装飾を兼ねたり汚れを防ぐ目的で襦袢じゅばんなどのえりの上に縫いつけた替え襟。
 かなばさみ。金鋏。金鉗。金属の薄板を切る鋏。
ブラッシュ ブラシのこと。はけ。獣毛や合成樹脂などを植え込んだ、ごみを払ったり物を塗ったりする道具。
さびない針 現在ならばプラスチック製。当時はアルミ製か、日本に入ってきたばかりのステンレス製。おそらくステンレス製でしょう。

 右側は上から下に見ているので、西北西から東南東の方面を向いて流しています。新宿区郷土研究会二十周年記念号の『神楽坂界隈』「神楽坂と縁日市」を参考にして(ただし、「神楽坂と縁日市」は道の右側と左側は逆)、これから読むと熊公焼は以前の喫茶パウワウ、現在はボルタ店のあたりにでてきたようです。

 一方、横井弘三氏は『露店研究』(昭和6年刊)の一章「牛込神楽坂の露店」を書き……

ガマ口、文房具、古道具、ネクタイ、ミカン、ナベ類、古道具、白布、キヤラメル、本、表札、キリヌキ、眼鏡、古本、地圖、ミカン、メタル、メリヤス、古本、額、眼鏡、風船ホーズキ、古道具、壽司、焼鳥、おでん、オモチヤ、南京豆、壽司、古道具、xx、半衿、ドラ燒、カンナ、ノコギリ、唐辛子、焼物、足袋、文房具、化粧品、シヤツ、印判、ブラツシユ、石膏細工、ハモニカ、xx、メリヤス、古本、茶碗、カバン、オモチヤ、煎餅、xx、古本、大理石、錆ビヌ針、萬年筆、人形、ハナ、ミカン、オモチヤ、櫛(略)

 まったく熊公焼はどこにも書いてありません。人形とハナ(花)の間にはなにもありません。そのコピーもあります。

『神楽坂まちの手帖』第2号の『神楽坂の「マチの魅力」を考える』では

元木 クマコウ焼ってのがあったんだけど知ってますか? 今のパウワウの辺りで人形焼みたいのがあって。そのオヤジが、当時殺人犯で有名だった「熊公」に似てて、それでクマコウ焼っていうのが流行ったんだよ。

 次はサトウハチローの『僕の東京地図』です。神楽坂3丁目になると真っ先になると出てくる白木屋が熊公焼の後で紹介されているので、熊公焼はおそらく神楽坂2丁目です。

 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公というのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さが六寸、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たッて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。(後略)

 以上は白木屋よりも前なので坂下です。上を向いて左側にあったというものです。

 もう1つ。『ここは牛込、神楽坂』第18号で鵜澤紀伊子氏は「親子3代神楽坂(四)」を書き

坂下の左側に熊公焼きの夜店が出た。鉄板の上で小麦粉をといたのを長方形にのばし、飴をのせて一巻きしただけの単純な物だったが、結構お客がついていた。1組の親子のお父さんが焼いていた。美味しいよと言ったら、照れ笑いをしたことがあったっけ。戦時中粉や小豆が入手困難となってべっ甲飴を売るようになり、そのうち夜店も出なくなった。お父さんは軍需工場に入ったと聞いた。

 やはり、坂下の左側にその店は出ていたといいます。

 次は渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」では

神楽坂が牛込一の繁華街と呼ばれていたころの縁日で、はじめは今川焼が坂上の左側の屋台で売られ繁盛していた。その今川焼に変わって、超人気の「熊公焼」が登場したのである。熊公焼はその当時の神楽坂の縁日を抽いた文学作品やエッセーにたびたび登場している。熊公焼の露店の場所は、神楽坂二丁目、割烹志満金のまえあたりが屋台の定位置のようだ。鉄板の上で、どら焼に似た玉子入りのうすい四角い皮に、あんこをのせて巻いたもの。今川焼が二銭で、このあんこ巻は一本五銭と高額であったが、いつも黒山の人だかりで、わざわざ遠くから買いにくるほどの人気だった。それは、この露店の店主岩木さんが、当時、日木中の注目をあつめた「鬼熊事件」の凶悪犯人に笑ってしまうほとよく似ていることを逆手にとり、「熊公焼」と名付けて売り出し、その犯人を一目見ようと押しかけた客で大繁昌してしまったのである。

 やはり坂下の左側で、「志満金のまえあたり」と、これから坂がまだ上に向かってもいない所で出ていたと言います。

 さらにもう1つ。都筑道夫氏が阿佐田哲也全集の第十三巻付録に書いた「神楽坂をはさんで」では

有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしよに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。

 これは熊公焼は毘沙門のそば、坂上にあったといいます。

 さらにもう1つ。水野正雄氏が「神楽坂を語る」(「神楽坂アーカイブズ 第1集」)では

その山本コーヒーの前に「熊公焼き」というあんこ巻きを売る夜店がありました。これは普通の人形巻きが二銭だったころ、八銭で売られていました。

 これも熊公焼は山本コーヒーのそば、現在の「うおさん」のそば、つまり坂上にあったといいます。

 次は坂下で、なんと右にありました。平成7年『ここは牛込、神楽坂』第3号「懐かしの神楽坂」に小菅孝一郎氏が書いた「思い出の神楽坂」です。

いまの甘味の「紀の善」はもとは寿司屋で、その前に屋台を出していたのが、この雑誌の二号にもあった、熊公焼きである。これは要するにお好焼きのあんこ巻きなのだが、二、三人待たないことには買えなかった。焼きたてを紙に包んで急いで家に帰って食べると、まだほかほかとしていて何ともいえずおいしかった。

 結局20年以上も続くと常設夜店もその場所が変わるのでしょうか。ただし、草薙堂という今川焼き屋と混乱しているものもあるように思います。