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若宮八幡神社(写真)昭和44年 ID 14124~25

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14124と14125は、若宮公園(若宮八幡神社と境内)の写真を撮ったものです。写真と撮った年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14124 若宮公園(若宮八幡神社)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14125 若宮公園、若宮八幡神社境内

 以下について地元の人は……

 同時期の昭和44年秋に若宮八幡神社を撮ったID 8245~ID 8252があります。全体の雰囲気はよく似ていますが、以下の点が違います。
 ・陽差しが違う。ID 14124-25は曇天らしく影がない。
 ・稲荷社の神前幕、内陣を仕切る木柵、三宝の供物や御幣などが細かく違う。
 これから撮影時期は異なると推測できます。
ID 14124
 写真の正面左は流造ながれづくり拝殿。左はおそらく松の木で、右は裸木。左に見える「自動車 駐車禁止」の看板は道路を挟んで向こう側の家のブロック塀にあるもの。つまり神社と公園には塀も柵もない。写真の右手前にはブランコ、奥にすべり台。数人の子どもが冬服を着ている。中央に1本の屋外灯があり、ランプは下がやや狭い直円錐で丸い傘がある。
拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。

ID 14125
 左にブランコとすべり台。正面には摂社の「正1位稲荷大神」の稲荷神社。奥に丸紅(株)若宮寮。右側に社務所。針葉樹と広葉樹が混ざっている。
摂社 せっしゃ。神社の格式の一つ。本社に付属し、その祭神と縁故の深い神をまつった神社。本殿に祀られている神様がメインの神様(主祭神)。境内にあるほこら、つまり小さな社殿にあるのはサブの神様。サブの神様を祀る小規模の社殿を「摂社」または「末社まっしゃ」と呼ぶ。

善国寺(写真)昭和44年 ID 8271-ID 8272

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8271とID 8272を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8271 善国寺

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8272 善国寺

 地元の方から解説を送ってくれました。

 街ゆく人はコートを羽織っているので、季節は冬でしょう。
 3-4階と思われる高い位置から境内全体を撮影しています。門前の店は2階建てばかりだったので、どこから撮影したのか分かりません。同時代のID 101を見ると可能性があるのは尾澤薬局の屋根の上でしょうか。
 境内は多目的に利用されています。
 入口は3カ所。本堂(毘沙門堂)に続く正門(A)、その西側の庫裏くりに続く門(B)、毘沙門横丁から入る脇門(C)です。本堂と庫裏は渡り廊下で結んでいます。
 境内は未舗装ですが、主要施設の間には敷石があります。西門の階段など、場所によってはかなり傷んでいます。毘沙門横丁の敷石は、おそらく左(1)が浄行菩薩、右(2)は建屋がある出世稲荷でしょう。
 正門前の左側に台のようなもの(3)が置いてあります。献灯のローソク台ような感じです。その後ろの石囲いは壊れていて、ナナメの棒のようものも見えます。「1960年代の東京」(毎日新聞社)の1965年の写真では石囲いは正常なので、何かあったのかも知れません。
 正門内の左(4)と本道の左手前(4)は建物の基礎の跡のようになっていて、大きな石も見えます。戦前にあった大道芸や見世物小屋などの常設店の跡かも知れません。語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年、下を参照)には、戦後も境内にダガシヤなどの店があったことが書かれています。
 この写真の空地はイベントやお祭りの御神酒所などに使われたようです。よく考えると神輿の御神酒所を日蓮宗のお寺の境内に置くのはおかしいと思いますが、そんなことは誰も気にしていません。今も4丁目の御神酒所は毘沙門様の中です。地方の名産品セールや6月4日の歯科医師会の無料検診会のようなイベント、選挙の演説会などにも使われています。
 2カ所、旗の掲揚塔(5)が立っています。寺の行事や街のイベントなどでのぼり旗を掲げていたのでしょう。また西の門脇には「易占えきせん/毘沙門天/易断所/藤墳蕙秀」(6)の看板があります。
 境内のかなりの部分は区の児童遊園として貸し出されていて、石造りの滑り台(7)、日よけ(夏場によしずをしく)を備えた砂場(8)、藤棚(9)、ベンチや水飲み場(10)、右下のブランコ(11)が確認できます。
 ID 8245に見うる鈴蘭灯はじめ、雑多な屋外照明(六角形で囲ったもの)(12)が見えます。参拝者用や児童遊園用など、目的に応じてバラバラに整備したのでしょう。
 毘沙門堂は1971年(昭和46年)に建て替えられました。この写真は建て替え直前の様子を残す目的だったかも知れません。児童遊園は小さくなって今もあり、藤棚も形を変えて本堂の手前に残っています。

庫裏 くり。住職やその家族の住む場所

 語らい広場(牛込倶楽部「ここは牛込、神楽坂」第3号、平成7年)では、写真よりも、つまり昭和44年よりも、少し昔に起こったのでしょう。

おびしゃ様のこと
 毘沙門様で、一番始めに思い出すのは、はずかしながら御門を入って左右にあった「ダガシヤ」さん。両方ともおばあさんが一人でお店番。焼麩に黒砂糖がついたのが大好物でした。
 塀のところには「新粉ざいく」の小父さん。彩りも美しい犬や鳥、人物では桃太郎、金太郎などが、魔法のように小父さんの指先から生まれてきます。
 それから御門の脇のお稲荷さんにちょっと手を合わせ、次は浄行善薩様のおつむを頭がよくなるようにタワシでゴシゴシ。虎さんの足をちょんちょん。一番最後にごめんなさい、御本尊様に「頭がよくなりますように」と無理なお願い。
 節分のときは、子守さんと一緒にミカンを拾いに参りました。渡り廊下のところでお顔見知りの小父さんたちが、いつもと違ってちょっと気取った紋付袴姿で(父もその中に)、豆とミカンを投げるのです。それを家へ持って帰り、ミカンを火鉢で焼いていただきます。風邪をひかないオマジナイでした。
 そう、おびしゃ様は神楽坂の子供のディズニーランドだったのです。
 母が子供の頃は、右の御門を入って右手に「万長」さんの箱車が幾つか並ぺて置いてあったそうです。その中で母はおままごとをしていて扉を閉められ「ごめんなさい!」と泣き叫んだとか。私か幼い頃もまだ箱車があったような気がします。 
 これも母の話ですが、裏手には墓所があり夏の夜はお化けごっこをしたとか。また明治か大正の始め頃には、境内に見世物小屋が出ていたとのことでした。
新宿区新小川町ますだふみこ


若宮八幡神社(写真)若宮公園 昭和44年 ID 8246~8252

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で若宮八幡神社(若宮公園)のID 8245~ID 8252を見ましょう。撮影時期は1969年(昭和44年)の秋。なお、多くのことを教えて下さった地元の方に感謝します。

➀ 手前の西の参道の右に看板「公園入口 児童多し/駐車をしないで下さい/牛込警察署」。門柱に「若宮町」と「氏子中」。境内に入って右脇に手押しポンプと水盤。さらに右は「牛込神楽坂若宮町小史」によれば銀杏の切り株。左に木標「神楽坂若宮八幡神社」。その左に新たな屋外灯。手水舎はこの写真では確認できないが、1974年(昭和49年)の雑誌「ミスターダンディー」の写真によれば西参道の左側にあったよう。
 境内の向こう側、突き当たりの東の参道に鳥居。脇に神輿倉と思われる町会の倉庫「神楽坂2丁目/町會倉庫」。狛犬2頭の間に「犬を砂場に入れぬこと」の杭が見える。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8246 若宮公園(若宮八幡神社)

氏子中 うじこじゅう。 同じ氏神をまつる人々。氏子一同。氏子の仲間。


➁ 看板「児童遊園地あり/神社周辺に駐車を禁ず/牛込警察署」。新宿区役所の掲示板(めくれているポスター)「〇期(月?)間/44年11月1日より11月30日」「たくましく/心とからだを/きたえよう!」「誘かいから/子どもを/守ろう」「みんなそろって/ねずみ(駆除)/11月27日から12月3日まで/新宿区役所」「自衛官募集」など。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8247 若宮公園(若宮八幡神社)


➂ 戦後に再建された拝殿を正面から写真。いわゆる流造(ながれづくり)で、石灯籠や狛犬に比べると簡素で小ぶり。拝殿の右隣には稲荷神社。石灯籠の手前に大きな一対の礎石があり、かつての鳥居の跡とも。看板には「新宿区/若宮児童遊園」。その上に「燈」と「籠」。奥に拝殿。右には児童遊園(ブランコと滑り台)。奥には丸紅(株)若宮寮。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8248 若宮公園(若宮八幡神社)

拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。


➃ 中央に狛犬、児童遊園としてはブランコと滑り台、右奥に会社員3人。1人はコートを着用、1人は読書中。狛犬では阿形と吽形のどちらかを出す。阿吽あうんの初めにある阿(口を開いて出す音声)と終わりにある吽(口を閉じて出す音声)があり、密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴する。阿形あぎょうは口を開いた音を出す 。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8249 若宮八幡神社 狛犬(阿形)


➄ 中央に別の狛犬。吽形うんぎょうは口を閉じた音を出す。右に手押しポンプと水盤。左に石灯籠。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8250 若宮八幡神社 狛犬(吽形)


➅ 拝殿の左にある「正1位稲荷大神」の稲荷神社。手前に滑り台。奥に丸紅(株)若宮寮。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8251若宮八幡神社 稲荷社


➆ 東の参道に鳥居。柱に「奉」と「献」。門柱に「神楽一」と「氏子中」。「みちはばがなく曲りかど/軽自動車以外通行できません/牛込警察署」。右にベンチとブランコ。左は雲梯とシーソー、箱型ブランコ、砂場。中央に屋外灯。新宿区文化財総合調査報告書2」(都新宿区教育委員会、昭和51年)によれば、「鳥居 寸法 高さ310センチ、幅240センチ。造時 大正15年12月1日建之。銘文 奉(右柱)、納(左柱)」

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8252 若宮公園(若宮八幡神社)

神楽坂若宮八幡神社(1973年)

 では地元の方の発言から……

 江戸期の絵図明治期の写真に比べて、衰微している様子がうかがえます。境内は石段が組まれて周囲の道より高くなっていますが、これは明治期のものがそのまま残ったものでしょう。
 石組みの上に何本かの石柱を立てていますが、塀や柵はありません。参道は東・西・南にあり、鳥居を備えるのはID 8246の向こう側に見える東側のみです。
 境内のかなりの部分を区の児童公園として貸しており、遊具やベンチが見えます。屋外照明も、おそらく公園の施設として整備したものてしょう。

江戸期の絵図 『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。

江戸名所図会の若宮八幡
明治期の写真 右側に若宮八幡神社が見えます。(若宮小路「新撰東京名所図会」第42編)

「新撰東京名所図会」第42編 若宮小路。右側に若宮八幡神社が見える。

 社殿はその後、明治期に似たデザインに建て替えられ、鳥居や狛犬、石灯籠、石標を一新しました。

現在の若宮

 現在の鳥居には「建立 平成10年12月吉日」とあります。

若宮神社 鳥居

 また現在の拝殿の右手前には「長㐂火防稲荷神社」があり、これはID 8251の稲荷社の再建でしょう。

若宮神社 境内社

 左の階段脇には防火井戸があり、これはID 8246の手押しポンプのなごりと思われます。

若宮神社 防火井戸

 防火井戸の隣に使われなくなった石盥盤が残っており、享保14年の字が掘ってあることが確認できます。「牛込神楽坂若宮町小史」によれば建て直し前の手水鉢であったとのことです。新宿区文化財総合調査報告書2」(都新宿区教育委員会、昭和51年)によれば、「手水鉢、寸法高さ44.5センチ(台石24センチ)、幅75センチ、奥行42センチ、造時 享保14年己酉年2月日(1729)。銘文(正面)石盥盤、享保14 己酉年2月日」

若宮神社 石盥盤

 石盥盤の読み方は「せっかんばん」「せつかんばん」「いしたらいばん」などで、手を洗い身を清めること。

 若宮会「牛込神楽坂若宮町小史」(若宮会、1997年)では

 文治5年(1189年)に建立された若宮八幡宮は、文明年間(1469年~1489年)に太田道が江戸城鎮護のため、当社を再興し社殿を江戸城に相対して築きました。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。
 明治2年(1869年)の神仏混合禁止令により若宮八幡神社となりました。
 境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木がありました。関東大震災(大正12年・1923年9月1日)で黒塀は倒壊し、楠と銀杏は昭和20年5月25日(1945年)の東京大空襲により社殿とともにすべて焼失しましたが、御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。
 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)に拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。
 のちに神楽坂2、3丁目が編入され神社名も「神楽坂若宮八幡神社」と変更されました。

善国寺(写真)昭和44年 ID 8245

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8245を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 ここで見られる一代昔の善国寺ですが、蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も健在です。
 賽銭箱には「奉納 神楽坂振興会」と書かれています。神楽坂振興会は後の神楽坂通り商店会です。
 右上に屋外灯があり、手前にもポールが立っています。下の1965年の写真(池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008年)を見ると、堂の前に向かい合わせに鈴蘭すずらん灯が立っているのが分かります。

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

 ID 5189ID 5190の神楽坂通りの街灯と比べると、照明部分の形状、柱のすその広がり具合や途中の飾り金物の位置が酷似しており、おそらく同じものでしょう。
 この写真の撮影当時の街灯は大型蛍光灯に更新されています。鈴蘭灯の使用期間は昭和28年(1953)~37年(1962)と短かったので、あるいは更新時に程度のいい鈴蘭棟を毘沙門天の屋外灯に再利用したものかもしれません。

 善國寺住職も「昭和20年の東京大空襲は、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と書いていました。

 さらにその前の、戦前の善國寺です。

新撰東京名所図会第四十一編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)