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神楽坂落語まつり

三遊亭金翁

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂落語まつり」について送ってくれました。ここで出てくる三遊亭さんゆうてい金翁きんおう氏は、落語界最古参で、唯一の戦中入門の落語家です。1970年『淀五郎』で芸術祭賞優秀賞受賞。ほかに古典落語の演目では『薮入り』『茶の湯』、正月しか口演しない『七草』など。生年は昭和4年(1929年)3月19日。

神楽坂落語まつり」というイベントが毎年、開かれています。第1回は2009年。2020年は新型コロナウイルスの影響で中止。21年に復活し、22年で第13回になります。
株式会社粋まち」が事務局となり、新宿区が共催しています。
「粋まち」のサイトには次のように書かれています。
「昭和40年代の三遊亭小金馬(現金馬)の勉強会を皮切りに、毘沙門天善國寺書院では落語会が続々開催され、人気・実力兼ね備えた多くの噺家たちが羽ばたいていった街でもあります。その伝統を受け継ぎ、神楽坂ならではの新たな話芸の魅力も加えて発信していきたいと、『神楽坂落語まつり』は地元の方々の協力を得て、2009年に始まりました」
 興業情報サイト「カンフェティ」に、第10回の「神楽坂落語まつり」の記事があります。プロデューサーである古今亭菊之丞師匠と、その時に襲名披露した二代目立花家橘之助師匠(前名・三遊亭小円歌)のインタビューです。
 この中で菊之丞師匠は
「1970年代、今の毘沙門天善国寺の舞台が新設された時に落語の会を始められたのが金馬師匠の勉強会『金馬いななく会』でした。神楽坂落語の原点が金馬師匠なんです」と話しています。
 話の主役である四代目三遊亭金馬師匠(現二代目三遊亭金翁)は、前名の三遊亭小金馬時代にNHKのコメディ番組「お笑い三人組」で大スターになりました。
 番組終了後、タレントではなく落語家として精進するために始めたのが「金馬いななく会」だそうです。新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11829には、毘沙門寄席として「金馬いななく会」の案内が写っています。四代目三遊亭金馬師匠は2020年に二代目三遊亭金翁を襲名しています。
「カンフェティ」のインタビューに出てくる立花家橘之助師匠も神楽坂と縁のある人です。学生時代に神楽坂にあった俳優養成所に通っていて、講師にきた三代目三遊亭円歌師匠にスカウトされ、芸の道に入ったことを話しています。
 立花家橘之助の初代は、女優・山田五十鈴の代表作である舞台『たぬき』の主人公です。明治から大正にかけて女流音曲師として圧倒的な人気だったと語り継がれています。その墓所である清隆寺赤城元町1-27にあることも何かの縁でしょう。
 再開後の「神楽坂落語まつり」は善国寺の毘沙門ホールではなく他の会場で開かれています。ホールが狭くて換気に問題があるからと思われますが、「毘沙門寄席」ではなくなってしまったのが残念です。
金馬いななく会 「先代金馬の家の電話番号が1779番でイナナクと読ませていたことによるものだろう」と、大西信行氏の『落語無頼語録』
清隆寺 日蓮宗。本光山清隆寺。

清隆寺。赤城元町1-27にある、全国地価マップから

松井須磨子|黒柳徹子

文学と神楽坂

 黒柳徹子氏の『トットチャンネル』(1984年)です。松井須磨子さんのことが書いてあります。

 青山先生の授業は、実際の演技指導より、昔の新劇の話や、俳優の、心がまえ、などが多かった。先生は、トットたち若い人と話すのも、楽しくて好きだ、と、よく自由に会話をした。
 そんな、ある日、卜ッ卜は、前から知りたいと思ってたことを聞いた。
松井(まつい)須磨子(すまこ)って、どういう人でしたか?」
 山田(やまだ)五十鈴(いすず)が、松井須磨子になった「女優」という映画も見ていたし、日本最初の 近代劇をやった女優として、卜ッ卜は、興味を持っていた。日本で最初にイプセンの「人形の家」のノラをやり、トルストイの「復活」のカチューシャをやり、しかも恋人の島村(しまだ)抱月(ほうげつ)のあとを追って首をつって死んだ人。その人と一緒に芝居(しばい)をした人が、ここにいる! そんな人と話をすることがあるだろうなどと、(ゆめ)にも考えたことはなかったから、トットは、ワクワクしながら、聞いたのだった。青山先生は、いつも、とても物静かだった。しゃべるとき、いつも真直(まっす)ぐに首をのばし、ゆっくりとした、口調だった。トットの質問に、青山先生は、少し微笑(びしょう)すると、いった。

トット 黒柳徹子本人のこと
山田五十鈴 やまだ いすず。生まれは1917年2月5日。死亡は2012年7月9日。女優。戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する映画女優の1人
女優 1947年(昭和22年)公開の日本映画。主演は山田五十鈴。モノクロ、115分。松井須磨子と島村抱月の恋愛事件を題材にした作品
ノラ 『人形の家』の女性主人公。弁護士の妻ノラは人形のように愛玩され、安易な生活をおくるが、秘密にしていた借金のことで夫になじられ、一個の独立した人間として家を出る過程を描く作品。女性解放運動に大きな影響。
カチューシャ おじ夫婦の下女カチューシャは貴族ドミートリイ・イワーノヴィチ・ネフリュードフ公爵の子供を産んだあと、娼婦に身を落とし、ついに殺人に関与。カチューシャが殺意をもっていなかったことが明らかとなり、しかし手違いでシベリアへの徒刑に。ネフリュードフはここで初めて罪の意識に目覚め、恩赦を求めて奔走し、彼女の更生に人生を捧げる決意を。
その人と これは「松井須磨子と青山杉作が一緒に舞台をやった」ということですが、ほんとうでしょうか。これは次の質問でも出てきます。
青山 青山杉作。あおやま すぎさく。生まれは1889(明治22)年7月22日。没年は1956(昭和31)年12月26日です。演出家、俳優。早稲田大学英文科中退。在学中より小劇場運動に参加。1917年(大正6年)2月17日、村田、関口存男、木村修吉郎、近藤伊与吉らと(とう)()(しゃ)を創立。牛込芸術倶楽部で長与善郎原作の『画家とその弟子』を公演して旗揚げ。

画家とその弟子

画家とその弟子

 一応、さらに伝記を読むと

1918年(大正7年)4月、イプセン原作の『幽霊』にマンデルス牧師を演じ、好評を。映画芸術協会に参加。1924年(大正13)、築地小劇場の創立とともに参加。その後、昭和5~15年松竹少女歌劇団、昭和17~28年NHK放送劇団の指導に。この間、昭和19年俳優座同人、昭和24年俳優座養成所所長に。新劇、映画、放送劇、オペラなどの演出に幅広く活躍しました。

 あれ、どこにも松井須磨子の名前はでてきません。
 氏の生涯を描いた本『青山杉作』(昭和57年)があります。500冊の限定出版です。読んでみましたが、やはり松井須磨子氏はほとんどでません。
 ただし、2人は1か所、同じ場所に行ったことはあります。それはここ芸術倶楽部でした。ここで踏路社が旗揚げしたと書いてあります。
この芸術倶楽部は島村抱月氏がつくったものです。大正2年に島村抱月氏が芸術座を作り、大正4年に研究所兼劇場の芸術倶楽部を誕生させたのです。
 大正6年に、青山杉作氏は27歳、松井須磨子氏は31歳でした。
 松井須磨子氏とよく似たところを歩いていますが、完全に違う場所などです。この2人はやっていることは同じ芝居ですが、台本も違うし、師匠も違う。友人も違う。松井須磨子氏にとっては、年齢が4年も下の青山杉作氏については、おそらく紹介があれば名前はわかっていても、あとはなにも知らないのではなかったでしょうか。「一緒に芝居をした人が、ここにいる」といえなかったと思います。

「あなたが、あの時代に女優になってたら、もっと有名になってたかも知れませんよ。つまり、それまで、男の役者が女形として、やってた中に、女が入っていって、しかも西洋の芝居をやったんですから、新らしい、というか、変ってるというか、そういうことで、もてはやされたのであって、あなたのように、個性的じゃありませんでした。ふつうの人でしたよ」
……トットは、びっくりした。はじめは、卜ッ卜の元気がいい事を、皮肉って、先生がいったのか、と思ったくらいだった。でも先生の表情も話しかたも、そういう風には見えなかった。でも、映画の主人公になるような情熱的で、美しく、常人とは(ちが)う人、と思っていたそれか、ふつうの人だったなんて……。
「そう、本当に、ふつうの人でした」
 青山先生は、くり返した。それは、まるで、女優としては、すぐれてはいない、とでもいうように聞こえた。たしかに、ドットかその前にラジオで聞いた松井須磨子のカチューシャのセリフや、「羊さん/\」とかいう歌を思い出してみると、当時の録音技術のせいもあるかもしれないけど、女優らしいメリハリはなく、歌の音程も悪く、素人(しろうと)のようだった。でもやっぱり、(だれ)もやっていないことを始めたのだから、(えら)い人だ、と、ドットは考えた。

ふつうの人 松井須磨子が「ふつうの人」でしょうか。実際に同時代人は「ふつうの人」とはいわず、むしろ「我が儘」「傲慢」だと書いています。たとえば、秋田雨雀と仲木貞一合著の『愛の哀史 須磨子の一生』(大正8年)では
舞台に於いては飽くまでも華やかに、旅宿にあっては益々放縦に、そうして散歩などの時には何処までも自由な気分で、旅に於ける須磨子の生活は、実に/\我儘(わがまヽ)の仕通しであった。今では()う抱月氏の心をも支配し得た彼女は、其の(てつ)を以て多くの座員も、自分の意の(まヽ)だと思うようになった。

河竹繁俊氏の『逍遙、抱月、須磨子の悲劇』(昭和41年)では
いったい須磨子という人間は、のちに諸家が言うように野性的な自我性狂暴性を発抑するようになったのは、「故郷」(マグダ)の初演あたりからである。わたくしどもが「まアちゃん」の愛称で呼んでいたころは、飾りけのない、さっぱりとした丸顔で、バッチリとした眼の示しているとおりの女性であった。打ち前の勝気と捨て身の態度とを、舞台にも楽屋でもさらけ出すようにだったのはそれ以後のことで、抱月に()れ、甘え、わがままを張り通させたから、傲慢な女王気取りにもなったのであった。

 ではなぜ青山杉作は松井須磨子を「ふつうの人」と呼んだのでしょうか。結局女優ではなく、一つの女性としてみると「ふつうの人」になるのでしょう。傲慢、横柄、威圧といった性徴を全部剥ぎ取ってみると「ふつうの人」だけが残る。松井須磨子ではなく、本名の小林正子が残る。青山杉作氏にとっては女優の松井須磨子氏は美人でもなく、知的でもなく、いい点はつけられなかった。純粋で、無邪気で、ふつうの人で、いわゆる女優ではなかったのでしょう。
 しかし、開始日でも最終日でも全く同じ芝居を全く同じように見せるのは普通はできません。本当に「誰もやっていないことを始めたのだから、偉い人だ」と私も考えます。