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矢来下

 「矢来下」ははるか江戸時代から使っている言葉です。万延元年の「市ヶ谷牛込絵図」では「矢来下ト云」と、「小日向絵図」では「矢来下」と書かれています。場所ははっきりとしませんが、「さとし歯科クリニック」「hurakoko」や「肉和食居酒屋 からり」の三叉路の西側から、「牛込天神町交差点」まで、あるいは「牛込警察署 矢来町地域安全センター」まででしょう。なお「牛込中央通り」は江戸時代にまだできていません。
 「牛込天神町交差点」から北の道路は現在「江戸川橋通り」と呼んでいます。
 しかし、「矢来下」の通りは別の観点から見たものもあります。佐多稲子氏の「私の東京地図」の「坂」(新日本文学会、1949年)では、

戦災風景

戦災風景 牛込榎町から神楽坂方面。堀潔 作

高台という言葉は、人がここに住み始めて、平地の町との対照で言われたというふうにすでにその言葉が人の営みをにおわせているが、今、丸出しになった地形は、そういう人の気を含まない、ただ大地の上での大きな丘である。このあたりの地形はこんなにはっきりと、近い過去に誰が見ただろうか。丘の姿というものは、人間が土地を見つけてそこに住み始めた、もっとも初期の、人と大地との結びつく時を連想させる。それほど、矢来下から登ってゆく高台一帯のむき出された地肌は、それ自身の起伏を太陽にさらしていた。

 この「矢来下」は文字通り「矢来の下」あるいは「矢来町の下」から「高台」に登っていく状況を描いています。まあ「矢来町の下」と「矢来下」とはその意味が違っています。
 さらに昭和5年の「牛込区全図」を見てみると……

昭和5年 牛込区全図

と、路面電車の停留所「矢来下」はまさに「矢来町の下」の意味で使っています。つまり「矢来下」は「矢来町の下」の意味に変わりました。ちょうど「牛込見附」が本来の意味から「駅」や「駅の周辺」という意味に付け変わっていくように。
 しかし、本来の「矢来下」は「牛込天神町交差点」から「さとし歯科クリニック」などの「三叉路」までの道路を指し示すものでした。

納戸町

文学と神楽坂

 納戸なんどはそもそも天龍寺の門前町(下図の青色)でした。下図で江戸時代の延宝年間(1673-1681年)です。この時代、将来の納戸町になる青色の町が三つありました。なお、納戸とは物置部屋で、服や調度類、器財など物品を収納します。また、天龍寺は天和3年(1683年)に火事で類焼し、新宿四丁目に引っ越しします。

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。延宝年間(1673年から1681年まで)

 町方書上(文政8年、1825。再版は新宿近世文書研究会、平成8年)では

町内里俗之唱
一 町内東之方北側片側町之所、里俗木津屋町唱申候、年代不知、先年木津屋申、太物、醤油類渡世仕候者罷在候付、里俗右之如く唱候由
一 同中御徒町通南側、里俗竹町唱申候、寛永十二亥年 天龍寺御用付、被召上候跡竹薮有之候場所故、竹町唱候由
一 同所飛地、弐拾騎町続之所、里俗墓町唱申候、天龍寺墓所有之候由
一 同所裏通り、御細工町隣り候処、表大門里俗唱申候天龍寺大門有之候由申傅候


太物 太物は呉服(絹織物)と正反対で、太い糸の織物の総称。綿織物や麻織物など。

 つまり、納戸町の東方は木津屋町、中御徒町(現在の中町)と同じ通りを竹町、飛地は墓町、御細工町と隣り合った通りを表大門と呼んでいます。

 また、「市ヶ谷牛込絵図」(安政6年、1857年)では…

 通りは表大門だけではなく、裏大門も出ています。さらに通りには木ヅヤ丁、タケ丁もでて、合計で3つの通りが出てきました。木ヅヤ丁は、木津屋丁に、タケ丁は竹丁に変えることができます。現在の言葉では木津屋路地、竹路地でしょうか。

 新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば、慶応四年(1868)、牛込御納戸町は「御」の字を削除して牛込納戸町に、明治44年(1911)牛込も省略し、納戸町となったようです。

 さらに牛込中央通りの一部を通り、銀杏坂通り中根坂鼠坂は納戸町から出ます。以上をまとめて……。なお、士邸とは武士の邸宅です。