文学と神楽坂
磯部鎮雄氏が描いた『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』のうち「揚場町」について書いています。実は揚場町の歴史は華美であり、江戸時代は、昭和時代の濁水ではなく、本当に綺麗な水が流れ、荷揚げの人足で混雑したようです。
揚場町(Google)
揚場町 (あげばちょう) 牛込御門 下まで船入にしてここを荷揚場 にしたことは、今でもある通り、ここに市ヶ谷方面の濠から落下する水の堰 が設けてあって、どうしても船はここまでしか入れないからである(元牛込警察署 の裏)。であるからここを揚場といい、市ヶ谷尾州 侯 邸(その他旗本や町方の物資もあったが)の荷揚場とした。揚場町の名の起りとするところである。
揚場町 新宿区北東部の町。北は下宮比町に、東は外濠(現在は神楽河岸)に、南は神楽坂1丁目と二丁目に、西は津久戸前町(現在は津久戸町)に接する。
明治20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。
荷揚場 にあげば。船から積荷を陸に揚げる場所。陸揚げ場。
高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。
尾州 尾州は尾張国の別名。
侯 五爵(公侯伯子男)で第二位の爵位。世襲制。
“備考 ”にも、町方起立相分らず 、昔から武州豊島郡野方領牛込村の内にして武家屋敷や町方発達し、神田川の川尻にて 山の手の諸色 運送の揚場となり、したがって揚場町の名が生じた、といっている。そこで荷物揚場の軽子 が町の中央 を貫く坂は神楽坂ほど急坂でないので、主にここを利用したので軽子坂 の名が付けられた。(軽子とは篭に物を入れたり、馬を駆って荷物を運搬する者をいう)
備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
町方起立相分らず 町の由来は全くわからない。
神田川の川尻 御府内備考によれば「神田川附ニ而山之手諸色運送」。川附とは「川の流れに沿った。その土地。川ぞい。」つまり「神田川に沿い、かつ、山の手で種々の品物を運送する」。川尻は「川下、下流」あるいは川口と同じと考えて「川が海や湖に注ぐ所。河口」。「神田川の川尻」ではちょっと難しいけれど「以前の江戸川の川尻」なら正しい。
諸色 いろいろな品物
中央 本当は町の南端です。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。
軽子坂 軽子坂の標柱は「この坂名は新編江戸志や
新撰東京名所図会 などにもみられる。軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた」
坂は登りおよそ半丁 程で幅は3間 ばかり、抜け切ると津久戸前 へ出る。当時の物揚場 は二ヶ所に分れていて、河岸の南の方は間口9間5尺奥行12間 、北の方は間口17間奥行12間 あった。普段は荷物揚場として用いられたが、将軍家御用のため神田川筋の鴨猟や江戸川鯉の猟(ここは御留川 で、船河原橋 より上は庶人の猟は禁鯉 といって禁止されていた)のため御鳥見 や狩猟の役人が出張する日は前々より役人から命ぜられて、荷物を物揚場に積荷しておく事は許されず、すべて取払いを命ぜられた。物資揚場許可は享保17年 からであるが、文政7年 頃から冥加金 (税金)を上納すれば自由に使用することが出来るようになった。この他、尾州 侯専用の物揚場があり、大きさは間口30間巾9間5尺 で尾州侯の市ヶ谷藩邸で使用する物資がここより揚った。
半丁 半丁は約60m。
3間 約5.45m。
津久戸前 明治時代は津久戸前町、現在は津久戸町です。
物揚場 ものあげば。船荷を陸にあげるところ。表に出ている「惣物」は盆・暮れに主人が奉公人に与える衣類などで、お仕着せ。ここでは町方揚場と同じ。
神楽河岸の利用方法。高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。
明治18-20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。
間口9間5尺奥行12間 17.6m × 21.8m
間口17間奥行12間 31m × 21.8m
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。昔は文京区後楽2丁目と新宿区下宮比町をつなぐ橋(上図を参照)
禁鯉 きんり。鯉の料理は不可
御鳥見 おとりみ。江戸幕府の職名。鷹場の維持・管理を担当した。
享保17年 1732年
文政7年 1824年
冥加金 みょうがきん。江戸時代の雑税。商工業者などが営業免許や利権を得た代償として、利益の一部を幕府や領主に納めた。のちに、一定の率で課されることが多くなった。
尾州 尾張藩の別名。
間口30間巾9間5尺 54.5m × 17.6m
坂の入口には田町 より流れて来る大下水 があり、その巾一間。軽子坂登り口に長さ9尺、幅1丈1尺3寸 という石橋が架っていた。この下水は船河原橋際の江戸川 へ落ちていた。坂は揚場町の町内持 である。 明治になってからこの川岸は俗に揚場河岸 と唱えられていた。だが明治末年 にはこの揚場河岸をも含めて神楽河岸 となっている。古くは市兵衛河岸とか市兵衛雁木 (雁木は河岸より差出した船付けの板木)といい、昔此所に岩瀬市兵衛のやしき在りしに囚る、と東京名所図会に出ているがこれは誤りであろう。市兵衛河岸 はもっと神田川を下って、船河原橋際より小石川橋にかけていったものである。「明治六年 東京地名字引 」(江戸町づくし)にも小石川御門外と記されてある。
田町 市谷田町のこと。
大下水 町方や武家屋敷から小下水を集めてから、堀や川の落口にいたるまでの水路。
長さ9尺、幅1丈1尺3寸 長さ2.7m、幅3.4m
江戸川 現在の神田川
町内持 町入用まちにゅうよう と同じでしょうか。町入用とは、江戸時代、町人の負担による町の経費のこと。
揚場河岸 江戸時代、河岸地は牛込揚場町に伴う河岸だけであり、揚場河岸と呼ばれたといいます。
明治末年 別の「神楽河岸」の説明では、磯部鎮雄氏は「明治の終りか大正の始めまで神楽河岸の地名はなかった。揚場河岸の続きとしていたらしい」と説明します。
神楽河岸 近世になって、揚場河岸を含めた一帯の地域を神楽河岸と総称し、さらに、昭和63年、住居表示でも実施した。
神楽河岸の利用方法。高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。
雁木 道から川原などにおりるための、棒などを埋めて作った階段。船着き場の階段。桟橋さんばし の階段。
市兵衛河岸 現在、市兵衛河岸について、船着場の位置はここです。また、市兵衛土手とは船河原橋を越えてから水道橋に達するまでの土手でした。
市兵衛河岸船着場(http://www.zeal.ne.jp/file/file_pia/pia_suidoubashi.pdf)
明治六年 東京地名字引 国会図書館で、駅逓寮が書いた「地名字引 東京之部」(御書物所、明治6年)41頁では、市兵衛河岸の「町名、別名、区別、総名、近傍、新名、旧名、区分」は、「市いち 兵べ 衛え 河岸かし 、ー、ー、小石川、小石川御門外、小石川町、ー、第4大区1小区」となっています。
揚場町