市兵衛河岸」タグアーカイブ

神田川(写真)昭和51年 ID 479, 489-90, 11462-64

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 479、489-90、11462-464は、昭和51年8月、飯田橋歩道橋の上から神田川やそこにかかる橋などを撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 489高速道路下、神田川

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11462 神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 490 高速道路下、神田川

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11463 神田川(飯田橋付近)

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 491 飯田橋周辺、橋

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11464 神田川(飯田橋付近)

 ID 489とID 11462は神田川の下流方向を撮っています。左から植物に覆われて突き出しているのは文京区の「市兵衛河岸」です。小屋があり、ガラス扉の中にイスが見えます。昭和55年の住宅地図では「都市◯地再開発(事)飯田橋工区」とあり、工事の詰め所のようなものでした。
 その奥、首都高速道路の橋脚ごしに見えているのは「飯田橋公共職業安定所」(現・ハローワーク飯田橋)。さらに右にクレーンが見えているのは、中央大学の旧後楽園校舎(文学部)を解体しているのでしょう。
 神田川の右岸は千代田区です。古めかしい「釣り具」の看板が見えるのは、かつて外堀や神田川で釣りを楽しむ人がいたことを示しています。
 ID 490−491とID 11463−11464は、やや手前の橋を撮影しています。誤解されがちですが、この橋は文京区と千代田区をつなぐ「船河原橋」です。

船河原橋
 飯田橋の直ぐ東側に船河原橋がV字状にあります。外堀通りの内回り左折車の一方通行路として、交通渋滞の緩和に役立っています。もともとの船河原橋は飯田橋と「カギ形」に新宿区と文京区を結ぶ外堀通りの橋です。この橋は江戸図にも出てくる古くからある橋です。現在の橋は昭和45年(1970)に架けられたコンクリ-ト橋です。この橋から枝分かれした形で飯田橋とV字形に並んでいますので、飯田橋の一部と見られがちです。

 船河原橋は一見すると2本あります。メーンは文京区と新宿区を結ぶ大きな橋で、外堀通りの一部です。その橋が神田川の上で左にV字に大きく分岐し、千代田区につながっています。これも船河原橋です。
 飯田橋は千代田区と新宿区を結び、目白通りの一部です。ID 491では右下のコンクリート製の欄干部分が飯田橋になります。
 神田川の右側は近いところから…

  1. (一時停止)(指定方向外進行禁止)(駐車禁止)(区間内)
  2. 電柱。電柱広告「宮村歯科」「新村印刷」
  3.  Subway 地下鉄
  4. 消火栓。
  5. 千代田街ビル飲食街
  6. 資材置場
  7. (最高速度30キロ)
  8. 電柱。電柱広告「新村印刷」
  9. つり具
  10. 岡田不動産株式会社
  11. ビル
  12. ダイヤモンド航空サービス
  13. 東京アテナ

住宅地図。昭和55年

 

飯田河岸と画家2人

文学と神楽坂

 飯田河岸かしはどこにあるのでしょうか。江戸時代、飯田河岸の名前はなく、その利用も全くなく、ただの「土手」でした。明治9年にまず飯田橋が架橋され、明治22年3月、東京府の「区部共有河岸地規則」で初めて牛込橋から小石川橋までを「飯田河岸」と呼ぶようになりました。

飯田河岸(江戸期)

飯田河岸(明治22年以降)

 高道昌志「明治期における飯田河岸の成立とその変容過程」(日本建築学会計画系論文集、2016)では、当時「飯田河岸」を広大な空き地として考えられ、1号地から8号地まで分かれていました。

 明治22年、この飯田河岸は麹町区の一部になり、市町村と同等の名前になりました。ところが、昭和8年、帝都復興計画の一環としてこの河岸は飯田町二丁目に編入され、名前は廃止されています
 さて、現在は、この飯田河岸はどうなるのでしょう、橋の右側(地図では南側)は飯田河岸でいいと思います。橋の左側(南西側)では? 飯田橋ラムラがある場所です。現在、この部分は壕が暗渠になってしまったので、飯田河岸という言葉も消えてしまったものでしょう。
 さて、ではこの絵です。どこになるのでしょうか。

昼の東京 飯田橋

 解説があります。

文京区境界道をグルリ一周
「昼の東京 飯田橋」吉田遠志 画 1939〔昭和14年〕
 手前から外堀からの流れ(現在は埋め立てられている)、一方神田川が突き当たりの左から流れてきて合流し、右の水道橋方向に流れて行く合流地点を描いている。つまり現在では左岸が新宿区で右岸が千代田区、そして突き当たりが文京区になる。とすると現在は左岸の手前にJR飯田橋駅、正面には首都高速道路の高架が見えていることになる。

 しかし、少しだけ地図と一致しません。飯田橋の上から小石川方向を描いているので、神田川の合流点は画面の左で見切れている場所です。左岸は文京区です。JR飯田橋駅は右岸の手前になります。

 もう一つ同じ絵を描いた解説もあります。平松南氏が「神楽坂 まちの手帖 第11号」(2006年、けやき舎)の「神楽坂まちかど画廊11」です。

 ちょうど1年前の弊誌7号で、わたしは、「堀潔が描いた飯田濠」を取り上げた。
「昼の東京 飯田橋」は、それより5年前、同じ場所で描かれたものである。
 わたしは神楽坂下(1丁目)育ちであるから、飯田濠はいたってちかしい存在である。セントラルプラザという20階建の駅ビルが建つ前はそこに水面があり、水の生活があったことを鮮明に記憶している、いまでは数少ない住人である。
 飯田濠は埋め立てられて、いまはない。いまはないということは、永遠にないということではない。世の中には、復元ということもある。復元しないまでも、ひとの記憶のなかで、生き続け、また作品のなかで、繰り返し命を吹き込まれ、甦る。
 わたしが知る飯田濠は、美しい水辺ではなかった。しかし、ひとは、現実の光景だけを見ているわけではない。背後に、かっての姿を想像するのである。ひとりの画家が風景を描く。画家は、現存する風景を画布に定着させたいという強い動機に突き動かされる。飯田橋の水面は、昭和10年代には、ふたりの画家の絵筆を動かさしめた。風景が、さらにいえば、水辺が、それだけ豊かだった。
 ところで、吉田遠志の父は、これも風景版画家として高名だった吉田博である。堀潔もまた、吉田博に学んでいる。(平松南)

「堀潔が描いた飯田濠」の両岸の建物は、「昼の東京 飯田橋」とよく似ています。もし、これが同じ場所を描いたとすれば「飯田壕」ではなく「飯田河岸」でしょう。流れている川は神田川になるはずです。
 電車が走っていますが、これは路面電車です。

堀潔が描いた飯田濠

 堀潔は路上の画家である。
 つねに町をあるき、建物、路面電車、橋、川、空、人ごみ、野原−−目に留まったものはなんでも描く対象にした。
 滾る好奇心、エネルギー、力の根源は、堀自身の生きることへの渇望からきているようにおもえる。
 堀は広島出身だが、大正5年牛込の喜久井町に転居している。
 太平洋画会研究所で、石井柏亭、中村不折、吉田博らに学んだ。
 昭和20年5月25 日馬場下町で空襲にあい、全身に大火傷をおって、九死に一生をえた。母と妹は、そのとき焼死している。
 戦後、下落合の日本聖書神学校の管理人を勤めながら、「アイ・ラブ・TOKYO」「懐かしの東京風物百景」などを発表していくが、世に出る野望は希薄だった。
 戸山ハイツで 10数年前77歳で没したが、東京を描きつくした2000枚に絵は、いま新宿区歴史博物館に眠っている。わたしは彼の偉業を編集者として、世に問いたいと思っている(みなみ)。

 しかし、地元の方の意見では……

 吉田遠志の「昼の東京 飯田橋」は、牛込橋側から飯田壕を眺めたように見えます。壕幅が広く、左岸の石垣が高く切り立っています。また左岸の建物の向こうに高台の上の建物があります。これは揚場町の高台(現在のセントラルコーポラスのあたり)ではないでしょうか。少なくとも文京区側には、この高台はありません。
 一方、「堀潔が描いた飯田濠」は、飯田橋から小石川方向の神田川のようです。飯田壕に比べると神田川の方が幅が狭い。市電も飯田壕からは見えません。
 また正面左には石垣から川に下りる坂がありますが、これは飯田壕にはなく、小石川側にはありました。(「飯田河岸の写真」)
 両者は構図がよく似ていますが、写実的に描いたのだとすれば別の場所である可能性を考えるべきです。

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考3|揚場町

文学と神楽坂

 磯部鎮雄氏が描いた『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』のうち「揚場町」について書いています。実は揚場町の歴史は華美であり、江戸時代は、昭和時代の濁水ではなく、本当に綺麗な水が流れ、荷揚げの人足で混雑したようです。

揚場町

揚場町(Google)

揚場町(あげばちょう) 牛込御門下まで船入にしてここを荷揚場にしたことは、今でもある通り、ここに市ヶ谷方面の濠から落下する水の堰が設けてあって、どうしても船はここまでしか入れないからである(元牛込警察署の裏)。であるからここを揚場といい、市ヶ谷尾州邸(その他旗本や町方の物資もあったが)の荷揚場とした。揚場町の名の起りとするところである。

揚場町 新宿区北東部の町。北は下宮比町に、東は外濠(現在は神楽河岸)に、南は神楽坂1丁目と二丁目に、西は津久戸前町(現在は津久戸町)に接する。

明治20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

明治20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

荷揚場 にあげば。船から積荷を陸に揚げる場所。陸揚げ場。

神楽土手と市兵衛土手

高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。

尾州 尾州は尾張国の別名。
 五爵(公侯伯子男)で第二位の爵位。世襲制。

備考”にも、町方起立相分らず、昔から武州豊島郡野方領牛込村の内にして武家屋敷や町方発達し、神田川の川尻にて山の手の諸色運送の揚場となり、したがって揚場町の名が生じた、といっている。そこで荷物揚場の軽子が町の中央を貫く坂は神楽坂ほど急坂でないので、主にここを利用したので軽子坂の名が付けられた。(軽子とは篭に物を入れたり、馬を駆って荷物を運搬する者をいう)
備考 御府内備考。ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
町方起立相分らず 町の由来は全くわからない。
神田川の川尻 御府内備考によれば「神田川附ニ而山之手諸色運送」。川附とは「川の流れに沿った。その土地。川ぞい。」つまり「神田川に沿い、かつ、山の手で種々の品物を運送する」。川尻は「川下、下流」あるいは川口と同じと考えて「川が海や湖に注ぐ所。河口」。「神田川の川尻」ではちょっと難しいけれど「以前の江戸川の川尻」なら正しい。
諸色 いろいろな品物
中央 本当は町の南端です。
軽子 魚市場や船着き場などで荷物運搬を業とする人足。
軽子坂 軽子坂の標柱は「この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた」
 坂は登りおよそ半丁程で幅は3間ばかり、抜け切ると津久戸前へ出る。当時の物揚場は二ヶ所に分れていて、河岸の南の方は間口9間5尺奥行12間、北の方は間口17間奥行12間あった。普段は荷物揚場として用いられたが、将軍家御用のため神田川筋の鴨猟や江戸川鯉の猟(ここは御留川で、船河原橋より上は庶人の猟は禁鯉といって禁止されていた)のため御鳥見や狩猟の役人が出張する日は前々より役人から命ぜられて、荷物を物揚場に積荷しておく事は許されず、すべて取払いを命ぜられた。物資揚場許可は享保17年からであるが、文政7年頃から冥加金(税金)を上納すれば自由に使用することが出来るようになった。この他、尾州侯専用の物揚場があり、大きさは間口30間巾9間5尺で尾州侯の市ヶ谷藩邸で使用する物資がここより揚った。
半丁 半丁は約60m。
3間 約5.45m。
津久戸前 明治時代は津久戸前町、現在は津久戸町です。
物揚場 ものあげば。船荷を陸にあげるところ。表に出ている「惣物」は盆・暮れに主人が奉公人に与える衣類などで、お仕着せ。ここでは町方揚場と同じ。

神楽河岸の利用方法

神楽河岸の利用方法。高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。

明治18-20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

明治18-20年。東京実測図。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

間口9間5尺奥行12間 17.6m × 21.8m
間口17間奥行12間 31m × 21.8m
御留川 おとめかわ。河川・湖沼で、領主の漁場として、一般の漁師の立ち入りを禁じた所。
船河原橋 ふなかわらばし。ふながわらばし。昔は文京区後楽2丁目と新宿区下宮比町をつなぐ橋(上図を参照)
禁鯉 きんり。鯉の料理は不可
御鳥見 おとりみ。江戸幕府の職名。鷹場の維持・管理を担当した。
享保17年 1732年
文政7年 1824年
冥加金 みょうがきん。江戸時代の雑税。商工業者などが営業免許や利権を得た代償として、利益の一部を幕府や領主に納めた。のちに、一定の率で課されることが多くなった。
尾州 尾張藩の別名。
間口30間巾9間5尺 54.5m × 17.6m

 坂の入口には田町より流れて来る大下水があり、その巾一間。軽子坂登り口に長さ9尺、幅1丈1尺3寸という石橋が架っていた。この下水は船河原橋際の江戸川へ落ちていた。坂は揚場町の町内持である。
飯田壕全景 明治になってからこの川岸は俗に揚場河岸と唱えられていた。だが明治末年にはこの揚場河岸をも含めて神楽河岸となっている。古くは市兵衛河岸とか市兵衛雁木(雁木は河岸より差出した船付けの板木)といい、昔此所に岩瀬市兵衛のやしき在りしに囚る、と東京名所図会に出ているがこれは誤りであろう。市兵衛河岸はもっと神田川を下って、船河原橋際より小石川橋にかけていったものである。「明治六年 東京地名字引」(江戸町づくし)にも小石川御門外と記されてある。

田町 市谷田町のこと。
大下水 町方や武家屋敷から小下水を集めてから、堀や川の落口にいたるまでの水路。
長さ9尺、幅1丈1尺3寸 長さ2.7m、幅3.4m
江戸川 現在の神田川
町内持  町入用まちにゅうようと同じでしょうか。町入用とは、江戸時代、町人の負担による町の経費のこと。
揚場河岸 江戸時代、河岸地は牛込揚場町に伴う河岸だけであり、揚場河岸と呼ばれたといいます。
明治末年 別の「神楽河岸」の説明では、磯部鎮雄氏は「明治の終りか大正の始めまで神楽河岸の地名はなかった。揚場河岸の続きとしていたらしい」と説明します。
神楽河岸 近世になって、揚場河岸を含めた一帯の地域を神楽河岸と総称し、さらに、昭和63年、住居表示でも実施した。

神楽河岸の利用方法。高道昌志「明治期における神楽河岸・市兵衛河岸の成立とその変容過程」日本建築学会計画系論文集。2015年。

雁木 道から川原などにおりるための、棒などを埋めて作った階段。船着き場の階段。桟橋さんばしの階段。
市兵衛河岸 現在、市兵衛河岸について、船着場の位置はここです。また、市兵衛土手とは船河原橋を越えてから水道橋に達するまでの土手でした。

市兵衛河岸船着場

市兵衛河岸船着場(http://www.zeal.ne.jp/file/file_pia/pia_suidoubashi.pdf)

明治六年 東京地名字引 国会図書館で、駅逓寮が書いた「地名字引 東京之部」(御書物所、明治6年)41頁では、市兵衛河岸の「町名、別名、区別、総名、近傍、新名、旧名、区分」は、「いち河岸かし、ー、ー、小石川、小石川御門外、小石川町、ー、第4大区1小区」となっています。