市谷船河原町」タグアーカイブ

逢坂下-新見附(写真)第3系統 都電 昭和42年など

文学と神楽坂

 新宿区の外堀通りに逢坂などが交差する付近を撮影した写真が3枚あります。でも、[1]のように、写真は「牛込見附」だと名前をつけると、とんでもない!と叱られそうです。
 戦前には「逢坂下停留所」という路面電車の停留所がありました。その廃止はおそらく昭和15年で、戦後、再開はありませんでした。しかし、もし「逢坂下停留所」が今もあれば、[2][3]の地点がまさにそうですし、[1]は「新見附停留所に近い場所」でしょうか。

[1]東京都電アーカイブ③

 写真[1]にはバスの「新見附」停も見えます。新見附橋のわずか先にあったようです。なお、写真の位置は逢坂下よりも新見附に近い場所です。

3か所の停留所

3か所の停留所。法政大学エコ地域デザイン研究所『外濠-江戸東京の水回廊』(鹿島出版会、2012年)から

 右手にある楕円のマークは「ピノキオ」(子供服の店舗)。(写真と地図はページの最下部で。写真は「ピ」で、地図は「子供服/ピノキオ」)

[2]東京都交通局「わが街わが都電」

東京都交通局「わが街わが都電」平成3年 撮影日時は不明

[3]都電15番の鉄道趣味

1967年7月某日
東京都新宿区東端の牛込濠脇、東京日仏学院付近
2017品川行(飯田橋行だけどもうすぐ折返しという事で)よく見るとお客がいないらしく車掌さんが運転台に来てる。
都電3系統は品川から都心を泉岳寺、三田、神谷町、虎ノ門、溜池と抜けて赤坂見附から市ヶ谷見附、飯田橋へと走っていました。一等地を走っているようですが赤坂から飯田橋はなにやらローカルな雰囲気で運転数もとても少なかった。飯田橋停留所も他路線につながってない尻切れとんぼ。僕も乗ったことないし。
撮影した年の12月10日に静かに廃止になりました。

 写真左側は牛込濠と新見附橋、左寄りに防護柵と架線柱、電柱広告「大日本印刷」、歩道。中央には外堀通りと路面電車、その路線。写真[1]~[3]は全て「飯田橋」行き(下り)の路線です。[3]の路面電車に「品川駅」と「2017」と書いてありますが、一足早く方向板だけが「品川駅」に変わったもの。
 写真[2]と[3]の右側から左側に(参考にはID 13108を)……

  1. 逢坂があり、写真[2]に運転中の自動車。町は「市谷船河原町」
  2. 色◯ ◯◯ 写真◯◯◯◯ 尾形伊之助商店
  3. (教育図書)
  4. (軽自動車工業)
  5. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  6. (神田印刷)
  7. (2)~(3)で、新見附橋の反対側にある高いビル。昭和51年「サンエール」などが入っていた

【参考】東京都電アーカイブ③

住宅地図。1976年

牛込濠(写真)遠景 平成31年 ID 14063

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14063は、平成31年(2019)2月、千代田区の法政大学前からJR東日本の架線柱、牛込濠、外堀通り、市谷田町3丁目市谷船河原町を撮影したものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14063 法政大学前から市谷船河原町を望む

住宅地図 令和2年

 地図とGoogle Mapを調べて、これらのビルは……

  1. 神楽ビル
  2. Luft Garten
  3. Skip Boat Neo Gate
  4. 双葉ビル。看板は「週刊大衆(漫画)アクション 小説推理」「orange 双葉社 発売中」一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」(倉庫)。
  5. 市ヶ谷エスワンビル。看板は「2018年度 合格実績 小石川中 68名 都立中 785名」「ena」「日比谷高 2名 西高 4名 国立高 6名」。一階は「肉のハナマサ 市ヶ谷店」
  6. やまと運輸市谷砂土原町センター
  7. 油井工業所。2階の看板は「護國園」とイラスト「将棋の駒」
  8. パークハウス市谷田町(マンション)
  9. 龍生会館
  10. メゾン・ド・コリーヌ市ケ谷(マンション)
  11. 東京理科大学5号館
  12. マノワール古河(マンション)
  13. 船河原マウントロイヤル(マンション)

牛込濠(写真)昭和45年 ID13108-15

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 13108-15は、昭和45年(1970)3月、牛込堀をはさんだ千代田区側から市谷船河原町神楽坂1丁目を撮ったものです。ID 486(昭和56年頃)よりやや右側、外濠公園あたりにカメラがありました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13108 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13109 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13110 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13111 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13112 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13113外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13114外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13115 外堀通り 市谷船河原町 神楽坂一丁目

 この8枚はほとんど同じ写真です。ここでは、ID 13108を詳しく見ていきます。

外堀通り・解説

 写真右側に東京理科大学の校舎群が見えます。一番高い②の7号館は、雑誌「ミスターダンディー」(1974年)の写真で数えると9階建てです。この建物は改修を経て現存しますが、手前➃の1号館(ID 12201の「理大薬学部」)と反対側が両方とも高層の校舎になり、目立たなくなってしまいました。
 この場所は牛込台地に上がる急斜面で、いくつもの坂があります。坂の上の建物も見えていますが、よく分かりません。ひとつだけ推測すれば➆は神楽坂上の菱屋ビルの可能性が高いでしょう。
 外堀通りの都電牛込線(外濠線)は昭和42年(1967)年に廃止、都バスが走っています。「美濃部カラー」と呼ばれた青白塗装でした。

美濃部カラー 昭和43年6月に美濃部知事(当時)の提唱でバスの塗装を改めることになり「クリーム色と青帯の通称『美濃部カラー』は昭和43年のR代とともに現れ、以来12年間一般車の標準色として親しまれてきた。それが、昭和55年8月に車体を入れ替えたミニバス13輌に対して黄色に赤帯の車輌が試験的に導入され、昭和56年3月導入のH代一般車から全面的に採用された(鈴木カラー騒動)」としています。

http://toeibus.com/wp-content/uploads/2017/01/da658f58c676c090be7454023a3ba4ef.jpg

  1. 双葉ビル(双葉社)か?
  2. 東京理科大学7号館
  3. 東京理科大学3号館
  4. 東京理科大学1号館
    ーーーー若宮公園に上がる坂
  5. 研究社旧館
  6. 研究社新館
  7. 菱屋ビルか?
  8. 三幸工業
  9. 三幸工業
    ーーーー庾嶺坂。ここから船河原町
  10. 塩原ホテル 寿苑 東京
  11. 家の光会館
  12. スナックベルなど
  13. 個人宅
    ーーーーここは逢坂
  14. 丸谷石油(ガソリンスタンド)
  15. 尾形伊之助商店
  16. 日仏学院
  17. 教育図書
  18. 軽自動車工業
  19. 渋谷ガラス「日本ペイント」
  20. 神田印刷
  21. 東京理科大学体育館

住宅地図。1973年

逢坂(写真)市谷船河原町 昭和50~51年 ID 9921

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921は昭和50~51年頃、市谷船河原町の逢坂おうさかを坂下の東向きに撮影しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9921 市谷船河原町 逢坂

 遠くに千代田区のビル群や日本国有鉄道の中央・総武線があります。
 逢坂には円形のくぼみが沢山見えますが、これはオーリングといって、自動車等の滑り止めです。
 女性が10人ほど坂を登ってきます。全員が若く見えて長袖で、コートやセーターを着ています。中央線の奥の土手のサクラが落葉していないので、季節は秋でしょう。全員日仏学院に行く場合もありますが、左端の女性が左手に靴を持っているので、理科大の柔道館に行く場合も考えられます。

逢坂(昭和50-51年頃)
  1. 丸石自転車。看板(自転車に乗っている人)
  2. 柵。その左の築土神社は見えない
  3. 日仏学院の石垣
  4. 民家と段差スロープ
  1. (右・指定方向外進行禁)。自転車を除く/一方通行路。 (始まり)
  2. 垣根と民家

昭和51年 住宅地図

逢坂入口(写真)市谷船河原町 昭和41年頃 ID 7809-7811

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809-7811は市谷船河原町の逢坂の坂下付近を撮影したものです。新宿歴史博物館の写真説明は「逢坂入口 昭和41年頃か?」としています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7809 市谷船河原町 逢坂入口付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7810 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7809-10では、男女10数人が坂の途中で何かを見ています。男性は背広、女性は着物が多く、子供はいません。手にした資料のようなものに目を落とす人もいます。

逢坂(昭和39年と43年)

 右側から……

  1. 外堀通り
  2. 民家と(一時停止)
  3. 自転車の図。自転車店 水谷の自転車、協◯輪車 古川自転車店 TEL 千代田火災 SS
  4. ナショナル ポンプ 上下水道衛生工事◯◯ アルプスポンプ
  5. 古い家
  6. 左端にも家

参考 昭和51年 住宅地図。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7811 市谷船河原町 逢坂入口付近

 ID 7811は一転して無人で、普通の民家(現、階段と堀兼の井)と坂の脇のコンクリート敷きの部分が写っています。何を撮影したのか分かりません。左側には日仏学院があるようです。
 この家には船河原町々会のポスターがあります。「くらしに生かそう/カギとベル」「くらしに生かそう カギとベル」「カギ◯/あなたの◯」

現在の地図

CKT7415 コース番号C27B 写真番号10 撮影年月日 1975/01/19(昭50)

 この場所には、筑土神社(千代田区九段北)の摂社である船河原町築土神社と「堀兼の井」がありますが、神社はうつっておらず、ID 7811でも堀兼の井は確認できません。
 筑土神社の社伝では「この井戸は、昭和40年代の地下鉄工事の折に一時枯渇したものの、平成21年には、当時とほぼ同じ位置に再整備されている」とあります。
 これから全くの想像ですが、堀兼の井が枯れ、埋もれてしまったことを文化財関係者や氏子らが調べ、今後の対策を協議している様子でしょうか。または、一人は史跡やその歴史を解説し、残りの全員が話を聞いている場合もあります。全員が都や国の歴史関係の委員である可能性もあり、さらに以上と違って、全く別の可能性もあります。ただし、新修新宿区史編集委員会「新修 新宿区史」(新宿区、昭和42年)では昭和41年以前に委員が築土神社か堀兼の井、その周辺を解説したという話はありませんでした。

市谷船河原町 (写真)地下鉄 昭和48年 ID 535-36

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535-36は昭和48年(1973年)5月、地下鉄工事のため牛込濠を大きく掘削したものです。カメラは新見附橋の上で、市谷田町三丁目、市谷船河原町、神楽坂一丁目などに向いています。翌49年(1974年)に地下鉄・有楽町線が開通しました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 535 市谷船河原町付近

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 536 市谷船河原町付近:市谷見附より牛込

 メトロ アーカイブ アルバムの「有楽町線の歴史」では……

有楽町線は、飯田橋・市ヶ谷間で皇居外濠の牛込濠、新見附濠の一部を通過します。この区間は両側に本線、中央に2本の留置線検車用ピット線を設けた幅17~17.5m の4線型及び3線型のトンネルで、工事は濠内に工事用桟橋架設築堤仮締切り鋼矢板打ちを施工、掘削用支保工土留めアンカーを施工して、大規模な機械掘削により行いました。
留置線 駅などにおいて、列車を一時的に停め置くための線路。
検車用ピット線 検車とは車両を検査すること。ピット(pit)とは車の下部の検査や修理ができるよう低くなっている場所
桟橋架設 桟橋とは谷間などに高くかけた橋。架設とは線路を一方から他方にかけわたすこと
築堤 堤防をきずくこと
仮締切り 一時的に戸・窓などを、閉じたままにすること
鋼矢板 鋼製の平らな板
支保工 しほこう。坑道やトンネルなどの工事で、掘削してから覆工するまで土圧を支持する仮設の足場
土留め どどめ。高低差のある敷地で、土が低い土地に崩れてこないように止めること。
アンカー 部材や器具などを建物へ取り付けるために打つ鋲で、抜けにくい構造をもつ。

 写真の中央左、外堀通りから工事現場に下りる仮設の斜路の上に看板があり、「営団地下鉄8号線牛込第二工区土木工事」「企業者 帝都高速度交通営団」「施工業者 鉄建建設株式会社◯」とあります。
外堀通りには高層の建物は少なく、二階建てが目立ちます。昭和45年のID 13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に左から見ていくと……
 その奥に外堀通りがあり、高層の建物は少なく、二階建ての建物が目立ちます。参考は昭和45年のID13108、昭和56年頃のID 486、当時の住宅地図を参考に、左から見ていくと……

  1. 看板「三平ストア 食堂三平」
  2. 看板「タケヤみそ」
  3. 八木医院
  4. 看板「雪印牛乳」
  5. 奥山歯科
  6. 新益塾
  7. 恵◯社マイクロフィルム
  8. 週刊大衆 双葉社
  9. 龍生会館(いけばな龍生派)
  10. 東京理科大学 薬学部
  11. 東京理科大学(体育館)

  1. 双葉社
  2. 日本不動産短期大学校
  3. 三興製本
  4. 油井工業所
  5. 神田印刷㈱
  6. 渋谷ガラス㈱、看板「日本ペイント」
  7. ◯◯自動車工業㈱
  8. 教育図書㈱
  9. 尾形伊之助商店
  10. 丸善石油(ガソリンスタンド)
  11. 日仏学院
  12. 家の光会館(農協の出版・文化団体)

  1. 家の光会館
  2. 研究社新館
  3. 研究社旧館
  4. 東京理科大学
  5. 東京理科大学
  6. 東京理科大学
  7. 飯田橋東海ビル(現、飯田橋御幸ビル 下宮比町)
  8. 首都高速道路5号線(池袋線)
  9. 貸ボート乗り場(現、カナルカフェ)

庾嶺坂

文学と神楽坂

 外堀通りを飯田橋駅から市谷駅に向かい、神楽坂1丁目と市谷船河原町の間で北西に入ります。この坂を庾嶺坂といいます。この坂は明治にはもう何個も名前が付いています。

()(れい)
江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念(ゆうねん)坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。
庾嶺坂1

 中国の梅の名所とは、(たい)()(れい)といいます。庾とは屋根のない米倉、あるいは野外にある倉庫です。岭の旧名は嶺で、峰、尾根、山脈になります。大庾岭(大庾嶺)は「大きな米倉がある山脈」になるのでしょうか。この山脈は中国江西省と広東省との境にあります。唐代に張九齢は梅を植えその場を「梅嶺」と名づけました。

 なお、「庾」は漢字配当はなく、JISの文字コードはなく、第3水準の漢字です。さらになぜか中国でも大庾県の「庾」は現在では「余」に変えて使い、大余県が正式な言葉になっています。いずれにしても、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名前を付けたので、本来は庾嶺「ゆれい」があり、それが変化して「ゆうれい」になりました。

 しかし、別の解釈もあります。「新撰東京名所図会」では違った説明を取り、昔唯念(ゆうねん)という僧が小庵を建てて住み、ゆうねん坂といい、それが転じて幽霊坂になったといいます。「往昔此辺に唯念といふ僧小庵を結びて居住せし唯一名をゆうねん坂といひしを、後にあやまりてゆうれい坂といふに至れるよし。行人坂ももと此僧のことより出たるものなるべし」。つまり「ゆうねん」から「ゆうれい」になったのです。また「行人坂」の行人(ぎょうにん)は本来の言葉は修行者で、寺院で世俗的な雑務に行う僧侶です。唯念坂と行人坂は同じ僧の名前から来たものです。

 さらに、ゆう(祐・幽)玄(元・源)が住んでいたことからゆう玄坂と名前が付いたともいいます。「むかしゆう玄といへる医師この所におりし故の名なり」。ただし、新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では同じ僧侶・唯念をさすものだとしています。

「幽霊坂」について「ゆれい」や「ゆうねん」は訛って幽霊坂になったのか、実際に幽霊がこの坂から出たのか、ここにも諸説があります。
 坂の上に若宮八幡があり、「若宮坂」ともいわれていました。また、江戸切絵図には「シンサカ」と書いています。庾嶺坂2
 赤レンガの壁から石垣の塀になり、オコメヅタの緑を左に見てあがって行き…あっという間に上がるのは終わってしまいます。逢坂のほうが庾嶺坂よりも距離も長く、高低差も大きいのでしょう。
 大仏次郎氏の『照る日曇る日』(大正15年)では

……すたすたと牛込うしごめ御門ごもんの方角へ歩いて行く。夜は更けていても星明かりがある。(中略)
 武士の姿の隠れたのは、俗に幽霊坂ゆうれいさかという坂へ出る町角、(かど)は武家屋敷の土塀、それに沿って小走りに勢いよく道をまがった刹那、男はぎょっとしてたちすくんだ。意外にも武士は、その角に隠れて自分の来るのを待っていた。ひやりとしてぱッと鳥の立つように逃げ出そうと伸びた背を追いざまに木下闇に銀蛇のように躍ったものがある。

逢坂|市谷船河原町(360°)

文学と神楽坂

 石川悌二氏の『東京の坂道-生きている江戸の歴史』(新人物往来社、昭和46年)では

逢坂(おうさか) 大坂ともかき、美男坂とも称した。新坂(痩嶺坂)南を市谷船河原町から西方に上る急坂で坂側に日仏学院がある。「新撰東京名所図会」は「市谷船河原町の濠端より西北へ払方町と若宮町の間に上る坂あり、逢坂といふ。即ち痩嶺坂の西の坂なり。」と記す。
 場所はここ。明治20年でも逢坂(おうさか)がでてきます。その周辺をみてみましょう。坂上から坂下に見ていきます。
 最初は最高裁判所長官公邸です。約1200坪の敷地に、約980平方メートル(約300坪)の木造2階建て。
 1928年(昭和3年)に馬場家の牛込邸として建築し、第2次世界大戦でも焼けなかった家ですが、財産税で物納され、1947年(昭和22年)から最高裁判所長官公邸として使用していました。
 伝統的な数寄屋造りや書院造り、庭園も広く、年に数回、海外の司法関係者らをもてなす場でした。
 近年は老朽化で雨漏りや漏電が頻発し、耐震診断でも「大規模地震が起きれば倒壊の可能性が高い」といわれ、現在、人間は住んでいません。
最高裁判所長官長官
 空中写真は長官邸 この建築物は26年5月16日に、重要文化財に指定されました。
①都心に残された希少な大規模和風建築(近代/住居)
 旧馬場家牛込邸 1棟
  土地
      東京都新宿区
        国(最高裁判所)
 旧馬場家牛込邸は,富山で海運業を営んだ馬場家の東京における拠点として、昭和3年に牛込台地の高台に建てられた。昭和22年以降は最高裁判所長官公邸となっている。
 設計は逓信省営繕技師であった吉田鉄郎(てつろう)である。南の庭園に面して和洋の客間や居間などを雁行形(がんこうがた)に連ね、和洋の意匠や空間の機能を巧妙な組合せと合理的な平面構成でまとめており、入母屋屋根や下屋庇を駆使した外観も絶妙に庭園と調和している。旧馬場家牛込邸は、東京に残された希少な大規模和風建築である。洗練された比例や精緻な造形,装飾的な細部を押さえつつ上質の良材を効果的に演出した設計手法など,昭和初期を代表する和風建築として高い価値を有している。
 さて、道は十字路になります。ここで道路を右に曲がって進むと、超豪華な和風住宅が現れます。「朝霞荘」です。地下1階、地上2階、塔屋1階、建築家は黒川紀章。昭和62年(1987)12月に竣工しました。中庭は桂離宮の紅葉山からの引用で、(くすのき)の大木は保存しています。駐車場の床は障子の組子、花、鳥、風、月の各パターンを御影石にて表現し、外壁はベンガラ色。現在は損害保険ジャパンが所有する厚生施設です。
 ベンガラ色は土から取れる成分(酸化鉄、三酸化二鉄Fe2O3)で紅殻、弁柄とも書き、インド・ベンガル地方から来ています。無害なので天然素材として使っても平気です。朝霞荘

 さてここは砂土原町三丁目22番地ですが、ここに明治37年11月から翌年3月まで石川啄木が下宿しています。彼の書簡では

11月28日牛込より 金田一京助宛
本日左記へ転ず
牛込区砂土原町三丁目廿一番地 井田芳太郎方 石川啄木
堀合兄御同道にて近日中に御来遊如何。
金田一花明様
 翌日は
廿一番地は廿二、の誤なり、兄がたづねたる埼玉学生誘掖会の隣り、大名屋敷の様な大きい門のある家は乃ち我今の宿也。一字の誤りにて大に兄を労せしめたる、罪万死に当る、多謝。明二日、日没頃より在宅。
 さて元の道路に戻って、真ん中の急坂は逢坂(おうさか)です。永井荷風の『日和下駄』の中で、
もしそれ明月皎々こうこうたる夜、牛込神楽坂うしごめかぐらざか浄瑠璃坂じょうるりざか左内坂さないざかまた逢坂おうさかなぞのほとりにたたずんで御濠おほりの土手のつづく限り老松の婆娑ばさたる影静なる水に映ずるさまを眺めなば、誰しも東京中にかくの如き絶景あるかと驚かざるを得まい
と絶賛しています。

 実は理科大学も階段を持っているので、安全を考えると、ここは階段を使おうとなりますが、まあ、ここは急坂を使って下に行きましょう。ちなみに階段はここ↓です。

逢坂 階段

渋沢篤二 著「瞬間の累積」(渋沢敬三、1963)明治41年の写真

 道路の側に標柱があります。逢坂の標柱

 上から見ると

逢坂(おうさか)
 下から
昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。
 奈良時代の昔、都から小野(おのの)美作吾(みさご)という人が武蔵国の国司として赴任しました。そこで、美しいさねかずらという名の娘と出合い、二人は相愛の仲に。美作吾に帰還の命令が出て、やむなく都に帰って、死亡しています。さねかずらは美作吾の霊とこの逢坂の上で再会しましたが、生き甲斐を失い、坂下の池に身を投げて死んだといいます。

 昭和44年『新宿と伝説』で新宿区教育委員会は

 「江戸名所図会」にも書いているが、好事家のつくった話である。「後撰」の中に、三条右大臣が
  名にし負はば逢坂山のさねかづら
   人に知られで来るよしもがな
とうたっている。この歌の「逢坂」と「さねかづら」をとって悲恋ものに創作したものだろうといわれている。

 大坂といわれていた坂を逢坂と書くようになり、またモクレン科の常緑蔓性低木、サネカズラはビナンカズラともいうので、この坂を美男坂と呼ぶ別称もあります。

さねかずら

 若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では「逢坂は六坂とも書き、美男坂ともいいました。奈良時代の「小野美佐吾」と「さねかづら」との悲恋物語から名が付きました」と書いています。

 切絵図をみると、逢坂の坂上から北側に、楕円形の湾曲した道筋があり、「ナベツルト云」の文字が書かれています。ナベツルは鍋鉉(なべつる)、あるいは鍋釣(なべつり)のことで、鍋に取り付けてある取っ手(正確な漢字を使えば、(つる))のことです。

鍋鉉

 道の場合は鍋やヤカンの取っ手のように湾曲する道ですが、この道は現在1部を除いてありません。

逢坂 地図 江戸時代

 さらに下に行くと、日仏学院を通り越します。日仏学院にも石畳があります。

 そして築土神社にやってきます。築土神社

文化財愛護シンボルマーク文化財愛護シンボルマーク
史   跡
掘兼(ほりかね)()
所在地  新宿区市谷船河原町九番地
 掘兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。
   平成三年十一月
東京都新宿区教育委員会

 昭和44年『新宿と伝説』で新宿区教育委員会は

「掘兼の井」とは、井戸を掘ろうとしても水が出ない井戸とか、水が出ても掘るのに苦労した井戸という意味である。中でも有名なのは、埼玉県狭山市入曽の「掘兼の井」である。有名な俊成卿の歌に
  むさしには掘かねの井もあるものを
    うれしく水にちかづきにけり
とある。「御府内備考」によると船河原町には、“その井戸はない”と書いてある。しかし逢坂下の井戸はそれだとも云い伝えられ、後世そこを掘り下げて井戸にした。それは昭和10年ころまでは写真のとおりであった。戦時中はポンプ井戸になり、昭和20年5月24日の空襲のあと、使用しなくなった。今は、わずかにポンプの鉄管の穴がガードレール下に残っている。
堀兼の井戸-new

 なお「堀ねの井」と「が」を使っていますが、船河原町築土神社によれば…

この地には江戸時代より「堀兼(ほりがね)の井」と呼ばれる井戸があり、幼い子どもを酷使して掘らせたと伝えられるが、昭和20年戦災で焼失し今はない。
 上は昭和初期の「堀兼(ほりかね)の井戸」(牛込区役所 『牛込区史』)、下は『風俗画報』です。堀兼の井 なお、平成21年、手前に「堀兼の井」(現代版)ができました。

掘兼の井

防災井戸 掘‵兼井戸

 区の説明は、神社前の説明板の通りであるが、その後井戸は掘られ、共同井戸として長い間使われてきた。
 地下鉄工事等の影響で一時枯れたが、平成21年に市谷船河原町町会により、防災井戸として現在の形に整備されている。(ちなみに、船河原町の町名は江戸期から続く名称で、この牛込・箪笥地域には多数現存している)
        (写真)

    明治39年(1906年の「逢坂」と「堀兼の井戸」
    レンガ塀のあたりに現在の神社がある。
㊟ 水をだすときは、周囲に多量に流れ出さないようお気をつけください。 この水は飲めません。
令和2年1月  新宿区市谷船河原町町会

 若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』では

逢坂の下(現・東京日仏学院の下)にある「堀兼の井」は、飲料水の乏しい武蔵野での名水として、平安の昔から歌集や紀行に詠まれていたようです。これは、山から出る清水をうけて井戸にした良い水なので遠くからも茶の水として汲みに来たという事です。
 また『紫の一本』には
堀兼の井 牛込逢坂の下の井をいふといへり。此水は山より出る清水を請けて井となす。よき水なるゆへ遠き方よりも茶の水にくむ。よごれたる衣を洗へばあかよく落て白くなるといふ。
 なお、『拝啓、父上様』の第5話で

脇道
  とびこんだ2人、走り出す。
  叉、角を曲がる。
坂道
  2人、坂道をかけ上がる。
日仏学院
  その構内にかけこむ2人。

 この坂道は逢坂で、ここですね。逢坂 下から
 また『拝啓、父上様』第一話が始まってから30秒ほど経ってからこれも逢坂が登場します。
逢坂 拝啓父上様

 なお、前にも言ったことですが、ここを左手に行くと、理科大学11号館の裏、5号館(化学系研究棟・体育館)の手前を通って上下をつなぐ階段があります。

逢坂 階段日仏学院 新坂 庾嶺坂


石畳|日仏学院

文学と神楽坂

『東京日仏学院』です。もとい、「2012年9月1日、東京日仏学院、横浜日仏学院、関西日仏学館、九州日仏学館が、フランス大使館の文化部と統合してアンスティチュ・フランセ日本グループが誕生し」たそうです。したがって、かつては「東京日仏学院」でしたが、現在は「アンスティチュ・フランセ東京」です。ところが、また変更。2023年、「東京日仏学院」のほうがいいとして、日本語では「東京日仏学院」を正規に使っています。

日仏学院
東京日仏学院日仏学院1
 昭和29年4月15日、著者ノエル・ヌエット (Noël Nouët)氏、訳者酒井傳六氏による「東京のシルエット」が出ています。定価は430円。ヌエット氏の当時の住所は新宿区矢来町12-4でした。

日仏学院 ここも石畳がきれいです。なんとなく紅小路の石畳と似ています。

石畳と日仏学院

『拝啓、父上様』でもでています。第5話で

日仏学院
  その構内にかけこむ2人。
  荒い息ついてハアハアと向き合う。
  2人とも息が上がり、ものがしゃべれない。
  しゃべれないまま少女、ニッと笑う。
  一平。
 り「拝啓。父上様。
  ――とうとう逢えました!」
  音楽――静かにイン。B・G。
日仏学院・カフェテラス
  枯木立ちのカフェに向き合っている二人。
少女「パハドン。ジュ・トゥ・デランジュ」
一平「――」
少女「ジュ・テ・デランジュ・ドゥ! フォワ!」
  間。
一平「あなたどこの人?」
少女「――」
一平「国」
少女「ジャポネーズ」
  間。


日仏学院と拝啓父上様