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酒井家の名庭|矢来町

文学と神楽坂

 近藤正一氏がまとめた「名園五十種」(博文館、明治43年)です。現代語ですが、それでも「靉靆」「広濶」「都雅」「幽邃」など熟語自体が不明でした。また「めて」「ゆみて」は右手と左手でした。
 現代語には「棠檀」はなく、「棠」は「やまなし。からなし。バラ科の落葉高木」、「檀」は「山野に自生する、にしきぎ科の落葉低木」でわからず、そこで中国語「棠檀」から英語(boxwood)になおし、間違えても仕方がないけど「柘植ツゲの木」「黄楊の木」だとしています。正確な答えを知っている人は教えてください。

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。
 弥生のあしたの風かろたもとを吹く四月の七日、この園地のらんうべくを同邸にったただ見る門内は一面の花で、わずかにその破風はふ作り母屋もやづまが雲と靉靆たなび桜のこずえに見ゆる所は土佐の絵巻物にでもりさうなさま如何いかにもうつくしい……美いと云うよりも上品というべきなしつらである。この門内の様子と応接の間の装飾の優雅なるとでにわの趣味も大抵ははからるる。応接所を出て、壮麗な入側いりがわみちびがれて書院づるとここに面せるが即ち庭園にわである。
一覧 ひととおり目を通すこと。全体の内容がわかるように簡明に記したもの。一覧表
 明治43年ですから人力車でしょう。
駆った かる。速く走らせる。急がせる。
破風作り 日本建築で、屋根の造り方の一つ。両端に破風を設けたもの。「破風」とは切妻造りや入母屋造りの妻側にある三角形の部分。
母屋 寝殿造りで、ひさしに対し、家屋の主体をなす部分。
屋妻 夫婦の寝所。
靉靆 あいたい。雲がたなびくこと。
 枝の末。幹の先
構え かまえ。造り。構造。家屋などの外観。本来は「しつらう」「しつらえる」という言葉は「設う」「設える」(こしらえ設ける。備えつける)に使うもの。
入側 いりがわ。近世の書院造りで、濡れ縁と内部の部屋との間に設けられた畳敷きの廊下。縁座敷。
書院 書斎。もとは寺院の僧侶の私室。室町時代以降、武家・公家の邸の居間兼書斎。書院造りにした座敷。武家では儀式や接客に用いた。位置によって表書院・奥書院、構造によって黒書院・白書院などの名がある。
 ここ。此処、此所、此是、爰、茲。近称の指示代名詞。

参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」 明治16年(複製は日本地図センター、2011年)

上図の拡大図。中央が酒井邸。その下が当時の入り口。入って右に曲がると母屋が出てくる。

 酒井邸の母屋は現在の矢来町ハイツです。当時の入り口は南側ですが、現在はフェンスが長く続いて、人間は通れません。当時は入り口から応接所に入り、書院に行き、そこで庭園に出ています。図では母屋は板塀で囲まれ、おそらく「酒井邸」の「酒」の東側周辺か一本北の道路に出てきた所でしょう。

酒井邸の庭

 さすがだか十幾万石をりょうせられた大諸侯園地だ。地域の広濶ひろことは云うまでもなく、その結構都雅とが優麗ゆうれいで手入れの行き届いておるには先つ目を驚かすといってよかろう。如何いかにもここい庭である。陽気な……晴々とした庭である。庭というものは樹木じゅもく鬱蒼うっそう深山しんざん幽谷ゆうこくさまを写すものとのみ考えておる人には是非この庭を見せてやりたく思うた。
 庭はびろ鵞絨うどせんを敷いたような綺麗な芝生の広庭ひろにわで所々に小高い丘があって丘の上には松や紅葉やその他のときが位置よく配置され、又その間にはまりに刈り込んだつつ棠檀どうだんで以て調子抜けのせぬように配合が取ってある。ゆん見遣みやば緑の色濃き常磐木の植込でこの間には燈籠とうろうもあれば捨石すていしもある幽邃ゆうすいな木立、それがひのきの香りのするような新築の客殿に対して居る調和のいことは到底も筆には尽されぬ。
遉に さすがに。流石に。評判や期待のとおりの事実を確認し、改めて感心する。なるほど、たいしたもの。
諸侯 江戸時代の大名
園地 公園、庭園など園と呼ばれる地域。
広濶 こうかつ。ひろびろと見渡すかぎりひらけること。ひろい。空間・面積が大きい。
結構 全体の構造や組み立てを考えること。構造や組み立て。もくろみ。計画。
都雅 みやびやかなこと。
鬱蒼 うっそう。樹木が茂ってあたりが薄暗い。
深山幽谷 しんざんゆうこく。人けのない奥深い山や谷
天鵞絨 ビロード。織物の表面を毛羽または輪奈わなでおおった織物の総称
 せん。毛織の敷物
常磐木 ときわぎ。年中、葉が緑色の木。常緑樹
毬形 まりの形をして小さく丸いもの
躑躅 ツツジ科ツツジ属の植物の総称

つつじ

棠檀 どうだん。不明。「柘植ツゲの木」「黄楊の木」か?
左手 ゆんで。弓手。左手の異称。「ゆみて」は弓を持つ左手、「馬手めて」は馬の手綱をとる右手。
見遣る みやる。遠くの方を見る。その方を見る。
燈籠 戸外用の灯火器。風から守るため火炎部を囲う構造(火袋)をもつ。右図。
捨石 道ばたや、野や山にころがっている、誰も顧みない岩石。築庭で、風致を添えるために程よい場所にすえておく石。
幽邃 ゆうすい。景色などが奥深く静かなこと
 ひのき。ヒノキ科の常緑高木
客殿 きゃくでん。貴族の家や寺院などで、来客と面会する建物や部屋。

 正面の小高い芝生の丘の一方には見上みあぐる程おおいなるてつがあってこの彼方あなたたいじゅしょうじゅが高く低くえたさしかわたる間に芽出めだしのかえでや、はだうこんなどが或は赤くあるいは黄色にうつくしいろどりをしておるさまは丁度芝生に幔幕まんまくを張ったようだ。この幔幕のような美い植込の彼方あなたは一面の梅林ばいりんで見渡す限り幾百株とも知らぬばいうわっておる。花の盛りは如何どんなであろう。しかだ所々に咲き残って……残雪をとどむる一株ひともと二株ふたもとの花にかえっゆかしみの深い所も見ゆる。芝生の間につけられたる小径を右手めでに進めば刈り込んだひのきを「ぐ」の目形に二列に植えて奥殿おくでんの庭との境をかくせられている。大抵の庭はかかる所を四つ目垣建仁けんにんがきにするというのが定式のようになっておるに、それをしつらわれたのは非常に面白い趣向で、加之しかこの刈込みというのが嫌味なものであるに、茲所ここのは少しもうは見えぬ。かえって上品にだかゆるのが不思議だ。植方うえかたにもるだろうが一つは四辺あたりとの調和にも依るだろう。この植込……見切みきの植込の中程なかほどはぎ袖垣そでがきを構った風雅な庭門があって彼方に通うべく小径が付けている。垣に沿って一叢ひとむら熊笹くまざさを植え、熊笹の傍にはひいらぎ南天なんてんにしきの如にったのが立っている様子はただ美いと云う外に賞讃のことばがない。門下に立って奥庭の景容を見るに松もあり、かえでもあり、桜もあって、かねの手に植られた木立の下にまばらな生垣を結いめぐらされたるがその透間から後園こうえんさい隠見いんけんするなど飽迄あくまで和暢のびや長閑のどかな趣向の庭である。
蘇鉄 ソテツ科の常緑低木。樹勢が弱ったとき鉄分を与えると蘇える。
さし交す 差し交わす。さしかわす。両方から差し出して交差させる。
はだうこん 肌ウコン。抗酸化作用や抗炎症作用があり、肌の老化防止やニキビの炎症を抑える効果があるという。
幔幕 式場や会場などで、まわりに張りめぐらす幕
床しみ ゆかしみ。懐かしむ。興味を持つ。
右手 めて。馬手。馬上で手綱を取る方の手。
奥殿 奥のほうにある建物。
 かぎる。くぎる。わかつ。区分けする。書きかえ字は「画」
四つ目垣 よつめがき。竹垣の一種。竹を縦横に組み、すきまを方形としたもの
建仁寺垣 けんにんじがき。竹垣の一種。竹を隙間なく敷き詰めるもの
加之も 「加之」は「しかのみならず」。そればかりでなく。それに加えて。
植方 植える方法。植物の苗や苗木を位置を決めて土に植える方法。
見切り 見える限り全部。一括。先を見込んで切り捨てること。みかぎる。みすてる。よく見て判断する。情勢をみきわめる。
 マメ科ハギ属の落葉低木か多年草の総称。
袖垣 日本家屋で、玄関の脇や裏木戸の周囲などに目隠しを目的にする垣根。主材料は竹。
一叢 ひとむら。草が群がり生える。くさむら。
熊笹 くまざさ。イネ科の植物。山地に自生。葉は幅の広い長楕円形。
柊南天 ひいらぎなんてん。メギ科の常緑低木。江戸時代に渡来し、庭木で、高さ約一メートル
 二色以上の色糸や金銀糸を使って、きれいな模様を織り出した、地が厚い高価な絹織物。
曲の手 かねのて。曲尺。直角に曲がっていること。直角。かぎのて。
後園 家のうしろにある庭園
菜花 菜の花。アブラナ科アブラナ属の花の総称。
隠見 いんけん。隠れたり見えたりする。見え隠れ。
和暢 わちよう。のどやか。
長閑 静かで穏やかな。のんびりとくつろいでいる。

 若し眼を上げて西南の空を見遣みやれば参天さんてん老杉ろうさんえのき大樹たいじゅが霞の彼方に立ちて一入ひとしお庭の奥をふかからしむるにれに続く当家のだいなるちょうあんだちが小山の如くそびえ、後庭の桜が雲のようにむらむらとその裾をたちめている所はこの庭園の為には絶好の背景を作って居る。
 うらむらくはこの庭の景趣けいしゅことごとく筆にすることが出来ないのだ。セメテその十分一の景色がレンズに入ったならば……たとえ十分とは行かぬまでもその趣味の一斑いっぱんこれを読者に紹介することがらるるものをこれは特に伯爵家と読者に対し著者の深謝しんしゃせねばならぬ所である。
参天 天と肩を並べるほど高い。天まで届くこと
一入 ひとしお。ひときわ。いっそう。
菩提寺 ぼだいじ。先祖の位牌を安置して追善供養をし、自身の仏事をも修める寺。家単位で1つの寺院の檀家となり、墓をつくること。
長安寺 号は延命山。禅宗。明治の初年に廃寺に。
後庭 こうてい。建物の裏側にある庭園。おくにわ。
立ち籠める たちこめる。立込める。立籠める。 霧、煙などが一面に満ちおおう。
憾らく うらむ。憾む。恨む。怨む。望みどおりにならず、残念に思う。
景趣 おもむき。ありさま。風趣
一斑 いっぱん。全体からみてわずかな部分。一部分。意味は「ヒョウの毛皮にあるたくさんのまだら模様のうちの一つ」
深謝  心から感謝する。心からわびる

矢来町|江戸、明治、現在(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 矢来町の大部分は旧酒井若狭守の下屋敷でした。

 矢来(やらい)という言葉は、竹や丸太を組み、人が通れない程度に粗く作った柵のことです。正保元年(1644年)、江戸城本丸が火災になったときに、第3代江戸将軍の家光はこの下屋敷に逃げだし、御家人衆は抜き身の槍を持って昼夜警護したといいます。以来、酒井忠勝は垣を作らず、竹矢来を組んだままにしておきます。矢来は紫の紐、朱の房があり、やりを交差した名残りといわれました。

 江戸時代での酒井家矢来屋敷を示します。なお、酒井家屋敷の右上端から左上端(牛込天神町交差点)までを、俗に矢来下(やらいした)といっています。

矢来屋敷

 明治5年、早稲田通りの北部、つまり12番地から63番地までの先手組、持筒組屋敷などの士地と、1番地から11番地までの酒井家の下屋敷を合併し、牛込矢来町になりました。下図は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年。インターネットでは農研機構)。酒井累代墓なども細かく書いています。

五千分一東京図測量原図(農研機構)
https://www.arcgis.com/home/item.html?id=c864ac7332e1423f81b154bc56105c23

 明治18年ごろは下図。池があるので、かろうじて同じ場所だと分かります。何もない荒れた土地でした。なお、以下の地図は『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会、昭和57年)を使っています。

矢来町 明治

 明治28年頃(↓)になると、番号が出てきて、新興住宅らしくなっていきます。1番地は古くからの宅地(黄)、3番地は昔は畑地。7番地(水色)は長安寺の墓地だったところ。8、9番地(赤とピンク)は山林や竹藪、11番地は池でした。それが新しく宅地になります。

矢来町color

 3番地には(あざ)として旧殿、中の丸、山里の3つができます。旧殿は御殿の跡(右下の薄紫)、中の丸は中の丸御殿の跡(右上の濃紫)、山里は庭園の跡(左の青)でした。

矢来町の3個の字

矢来町の3個の字

 11番地は庭園で、ひたるがいけ(日下ヶ池)を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚などの由緒ある建物や、古跡などがありました。将軍家の御成も多かった名園でした。 矢来倶楽部は9番地(ピンク)にあり、明治二十五年頃に設立しました。

矢来倶楽部。東陽堂編『東京名所図会』第41編(1904、明治37年)

 最後に現代です。矢来町ハイツは日本興業銀行の寮からみずほ銀行社宅になっていきます。

矢来町 現在

 牛込中央通りを見た360°写真。上下左右を自由に動かすこともできます。正面が矢来ハイツ。

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袋町の櫻

文学と神楽坂

CCF20140518_0000000.0 『牛込華街読本』(昭和12年)の最初の半分は芸者の心構えが書いてあります。後半は歴史やいわれが書いてあります。この「袋町の桜」は後半の一部で、全く聞いたこともない言葉や熟語がでてきます。でも、辞書を片手に読むと、袋町はなかなか綺麗だったとわかってきました。

 遠藤但馬守の館には桜が何十本も植えられて、築山、亭、茶園などを配する庭園があったのでした。現在は普通の家ばかりが並んでいますが、明治時代では、矢来町の酒井家の下屋敷と比べると、遠藤但馬守の下屋敷のほうが遥かによかったのではと思ってしまいます。

 実はこれより早く『新撰東京名所図会第42編』に同じ項が書いてありました。でも『牛込華街読本』を引用します。

袋町25番地は遠藤但馬守江州三上の藩主13000石)の下屋敷の跡ですが、其地續き及び26番地の(ほとり)は光照寺の境内地と幕士宅址でした。明治以後、いたく荒れ果てゝ、人の顧みるものも無かつたのを、牧野(はたす)(故陸軍少將)が此一廓を買取り、修理して庭園といたしました。そして吉野の種を(ここ)に移して、櫻雲搖曳、盆地あり、假山(つきやま)あり、山上に(てい)ありといふ具合に風雅なものにいたしまして、北の方光照寺の墓地に接して()(ゑん)を作り、自ら娯んでゐられたのみか、但馬守の(ふるい)(やしき)に住んでゐられました。開花の候ともなりますと、林泉遊覧を一般に開放して、亭に、(みぎは)に、花を賞して逍遙自在だったといふことです。だか平時(ふだん)は園門を堅く鎖してありました。

遠藤但馬守 遠藤但馬守の敷地は青い場所です。邸宅は左下の赤で指した場所なのでしょう。

明治18-20年

明治18-20年

三上 三上藩。みかみはん。琵琶湖の南東部、滋賀県野洲市を領有した藩。
下屋敷 しもやしき。したやしき。郊外などに構えた控えの大名屋敷の別邸
地續き 地続き。じつづき。土地と土地とが、海や川で隔てられることなく続いていること。
幕士 幕府の武士の意味でしょう。
宅址 たくあと。住居の跡。建造物には「址」も使います。
江州 ごうしゅう。近江国(おうみのくに) と同じ。現在の滋賀県。
顧みる 心にとどめ考える。気にかける
一廓 いっかく。あるひと続きの地域
吉野 奈良県中部、吉野郡の地名。桜の名所。よしのざくらは、吉野桜で、吉野山に咲くヤマザクラやソメイヨシノの別名。ソメイヨシノの名前は江戸末期に染井(ソメイ)の植木屋が広めた吉野桜から
 ここ。現在の時点・場所を示す語。この時・この場所で。
櫻雲 桜雲。おううん。桜の花が一面に咲きつづいて、遠方からは白雲のように見えること。花の雲
搖曳 揺曳。ようえい。ゆらゆらとたなびくこと
假山 築山(つきやま)と同じ。人工的に作った山
 屋根だけで壁のない休息所。休憩したり、雨や日光を避けて涼んだり、景色や季節の移ろいを眺めたりする。東屋

尖亭

茶園 茶を栽培している畑。茶畑。 茶を売る店。茶舗。
makinoharadaityoenn娯んで 楽しい、愉しい、娯しい、たのしい。
林泉 りんせん。林や泉水を配して造った庭園
遊覧 ゆうらん。あちこち見物してまわること。
 みぎわ。海・湖などの水と、陸地と接している所。みずぎわ。なぎさ
逍遙 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回ること。そぞろ歩き。散歩
自在 自分の思うとおりにできること

明治20年頃、始めて神樂町三丁目から中町に通する邸内を横貫する新道を開きましたので、新道開鑿以来、樹木は伐去られ、次第に人家が立て込みましたので、漸く其風致を損ひましたが、牧野氏が引拂つた後は子爵土井家(越前大野の藩主四萬石)この地所を購入され、叉但馬守の邸址に(やかた)を作られました。
 その頃土井家の後園、新道の邊及び近傍に散在した櫻の樹はみな牧野將軍の遺愛の名花で、殊に若宮町に面する土井家の石垣と黒板塀に添って列植せられてあつたものなどは、其數7,80本にも及び、連梢吉野のを呈して、春の眺めは一入だったとのことです。

新道 ここでしょう。

明治28年

明治28年の地図

開鑿 開削。かいさく。土地を切り開いて道路を作ること。明治28年には新道ができました。
伐去 伐。ばつ。きる。うつ。刃物で木などをきる。 去。きょ。さる。その場から離れていく。「うちさられ」と読むものでしょうか。
風致 ふうち。おもむき。あじわい。特に自然のおもむき。風趣
 旧。きゅう。古いこと
越前 ほぼ福井県中・北部に相当します
後園 こうえん。家のうしろにある庭園や畑
列植 れっしょく。植物を並べて植えること
連梢 連。れん。つれ、仲間、連中。 梢。しょう。こずえ。木の先端。これで「れんしょう」になるのでしょうか。こずえが何本も植わっていること
 えん。色あざやかな、あでやかな
一入 ひとしお。いっそう。ひときわ

酒井家矢来屋敷|矢来町

文学と神楽坂

 矢来町については別に書き、ここでは矢来屋敷を書いています。寛永5年(1628)、徳川将軍家より小浜藩酒井家は牛込矢来屋敷を拝領しました。

小浜藩 若狭わかさ国(福井県)遠敷おにゅう郡小浜に置いた藩。

小浜藩

 安政4年(1857)から幕末までの矢来屋敷は下図の通りでした。北側が上です。この時代、小浜藩の上屋敷(右下の御上屋敷)としも屋敷(それ以外)が接近して建っています。黄色で書いた場所は御殿表向(おもてむき)(政務や公式行事を行う場所)、赤は奥向(おくむき)(藩主の私的な場所)です。他の茶色で書いた場所は家臣や武士の長屋が多く、ほかにもいろいろなことを行いました(たとえば学問所)。
矢来屋敷

 この図は新宿歴史博物館の『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』(2010年)を参考にして作ったものです。博物館のものは無断転載ができませんので、この文書を参考にして新たに自分で作りました。間違いと思われる場所はなおしています。ダブルクリックするとpdfでも簡単に手に入ります。どうぞ使って下さい。

 また竹矢来も×で書きました。ただし、この「竹矢来」は37頁の「下屋敷図」(1697年)の竹矢来を拡大したものです。

竹矢来1

竹矢来

『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』31頁の「竹矢来図」(1837年)(↓)は、約140年も月日がたったため、全く普通の竹垣や門が描かれています。

竹矢来

竹矢来

新撰東京名所図会」では酒井家矢来屋敷について「藩邸の坂 三条あり、辻井の坂、鍋割坂、赤見の坂」があるといっています。この辻井つじいの坂、鍋割なべわり坂、赤見あかみの坂がどこにあるのか、その所在はわからなくなっています。

 中央やや右寄りで上下の道路は「牛込中央通り」とほとんど一緒です。

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』(三交社、昭和47年)では

 酒井邸の庭園は、築山山水式の優れたものであったが、戦後なくなった。旧庭園の様子は「名園五十種」にでている。

 この「名園五十種」は自宅のインターネットを使って国立図書館から無料で見ることができます。発行は1910年(明治43年)、編集は近藤正一氏です。ごく一部を紹介すると

 矢来の酒井家の庭といへば誰知らぬ人のない名園で梅の頃にも桜の頃にも第一に噂に上るのはこの庭である。
 弥生の朝の風軽く袂を吹く四月の七日、この園地の一覧を乞ふべく車を同邸に駆った。唯見る門内は一面の花で、わづかにその破風はふ作りの母屋の屋妻やづまが雲と靉靆たなびく桜の梢に見ゆる所は土佐の絵巻物にでも有りさうな樣で如何にも美い………(中略)
 如何にも心地の好い庭である。陽気な…晴れ晴れとした庭である。庭というものは樹木じゅもく鬱蒼うつさうとして深山しんざん幽谷いうこくの様を移すものとのみ考えている人には是非この庭を見せてやりたく思うた。

 新たに「酒井邸の名園」として全文を載せる予定です。

 では『新宿の散歩道 その歴史を訪ねて』に戻ります。

 酒井讃岐守忠勝が、三代将軍家光から牛込村に下屋敷を貰ったのは、寛永5年(1628)3月であった。周囲に土手を築き、表門の石垣から東の方42間(約83メートル)、西の方263間(約510メートル)を竹矢来にしていた。このため矢来町という町名の起りになった。これは寛永16年(1639)江戸城本丸の火災で、家光がこの下屋敷に難を避けた時に、まわりに竹矢来をつくり、御家人衆は抜身のやりをもって昼夜警護したことによるのである。
 それ以後酒井讃岐守忠勝は、これを永久に記念するために垣を造らず、塀を設けないで竹矢来にしたのである。その結び放した繩も、紫の紐、朱のふさ、やりとを交差した最初の名残りであるといわれ、江戸の名物の一つとなっていた。なお家光が、初めて酒井邸に立ち寄られたのは寛永12年8月22日で、以来数回訪問されたことがある。
 矢来町71番地あたり一帯は、明治末期まで、ひょうたん形の深くよどんだ池であった。これを「日下が池」とか「日足が池」とも書いて「ひたるがいけ」と読ませていた。長さが約108メートル、幅約36メートル、面積80坪(26.4アール)であった。池の周りには、沢桔梗、芦葦などが繁茂していた。これに長さ約12.6メートルの板橋があった。ここで家光は水泳、水馬、舟遊びに興じられたのである。

 いまではひたるが池は干上がり、池があったと分かりません。残るのは階段だけですが、確かに深くよどんだ池だったのでしょう。

ひたるが池

 明治になると、この巨大な酒井家の屋敷の敷地は縮小、南側だけになっていきます。最後の庭も戦後には日本興業銀行の社宅になり、統合のため、みずほ銀行社宅「矢来町ハイツ」になりました。コメントの指摘により、日本興業銀行の社宅になったのは昭和24年以前だと思えます。矢来町ハイツの門の場所には「造庭記念碑」が建っています。

造園碑

『名園五十種』にかかれた明治43年の酒井邸の庭園は遠州流で、武家茶道の代表です。茶室は江戸中期の書院造りで、幕末に水屋・手前席などを増築したものです。茶室は林丘亭として杉並区立柏の宮公園にあり、牛込屋敷が日本興行銀行の社宅となった時に当時の頭取がここに移築しました。名園1