新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年、令和元年、また拝殿は昭和44年、昭和50-51年、平成29年でも出ています。
(1)鳥居
左側から…… |
(2)拝殿
左側から……
|
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17581-82は令和4年10月、赤城神社の鳥居と拝殿などを撮っています。鳥居は昭和44年、令和元年、また拝殿は昭和44年、昭和50-51年、平成29年でも出ています。
(1)鳥居
左側から…… |
(2)拝殿
左側から……
|
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13977は平成29年、赤城神社の社殿と狛犬などの写真を撮っています。赤城神社の境内は建築家の隈研吾氏が設計したもので、平成22年(2010年)に完成しました。
神社の社殿とは本殿や拝殿、舞殿などといった境内の重要な建物のことです。また、本殿とは神様がいらっしゃるとされている社殿のことで、拝殿とは参拝者が拝礼を行う社殿。したがって、この写真は拝殿です。屋根には簡単な切妻屋根です。
新社殿は、旧社殿の跡に築いた人工地盤の上に建っています。鳥居から長い階段を上って、写真の拝殿前に出ます。
拝殿の下は氏子参集殿(あかぎホール)、本殿の下は人工地盤を貫く基礎になっています。
では左側から……
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9902、ID 9903、ID 9904は昭和50-51年頃、赤城神社を撮っています。
赤城神社の拝殿を正面から撮りました。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、入母屋造風で破風が正面を向いています。これは権現造と呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。鈴緒は賽銭箱に向かって垂れています。表柱(向拝柱)は4本見え、回廊の欄干には擬宝珠の飾りがあります。
狛犬は一対で、その台座に改代町の銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
右端に金網フェンスがあります。
右から赤城神社の拝殿、おそらく杉1本、赤城会館です。赤城会館には左三つ巴紋()がつけられています。会館は結婚式などを行っています。
右から赤城会館、昭忠碑の台座、鳥居、下に行く北参道。「昭忠」とは忠義を明らかにすること。日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫、しかし、平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。かわって赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社という3神社が建立。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8298とID 14161は「赤城神社」を「昭和44年頃か」に撮ったと備考で書かれています。この2枚の写真は人間がわずかに違うだけで、連続して撮影したものでしょう。
ID 8293とよく似ていますが、相違点があります。
第一に、左の玉垣の一部がないことです。ID 8293をよく見ると、玉垣の上部に黒い筋があります。この位置で計画的に除却したのか、あるいは継ぎ目が割れて外れたのか、分かりません。
第二に、このID 8298は好天で、建物の影が出ていることです。また境内の駐車車両も違っており、別の日の撮影と推測できます。
それ以外はよく似ています。看板は「昭和四十五年度園児募集」、写っている人もコート姿や厚着で、季節は冬です。ちなみにID 389とID 390は昭和44年12月でした。
では、左から見ておきます。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6869とID 6870は、1945-55年(昭和20-30年)に、赤城神社で七五三のお祝いを撮ったものです。
赤城神社は昭和20年4月13日、戦災で全てなくなりましたが、本殿は昭和26年に再建。拝殿などの再建は昭和34年なので、この撮影は拝殿の再建前の出来事でした。赤城神社の七五三は他にもID 388があり、こちらは昭和28年11月に撮影しています。この写真2枚(ID 6869とID 6870)も同じく昭和28年11月に撮影した可能性があります。
(1)ID 6869 七五三詣り
正面で神職が向き合っているのが再建した本殿です。本殿には簾(和風カーテン)、お供え、三宝(お供えを盛る台)と高坏、金襴の布などが並び、回廊には擬宝珠の飾りがあります。神職の左右は榊の枝です。
その前に神主が座り、さらに手前に七五三詣りの家族たちが並んで座っています。これは仮設の拝殿であり、木造がわかる安普請であり、天井からは裸電球が下がっています。柱の前には賽銭箱が置かれ、通常はここで参拝するのでしょう。この仮拝殿はID 388でも確認できます。右の手前には母親の手を握る子供もいて、早く見たいといっているようです。
高札様の看板(屋根付きの看板)では「復興瓦奉納受付/御奇篤の方は復興計画中の拝殿の/瓦を御寄進願います/御氏名記入の上葺上げます/1枚金五拾圓」、下には「富◯冩眞舘で/神楽坂五ノ三二」。左の立て看板は「七五三お祝いの方は/御祈祷料を添へて/受付之お申出で/下さい」。「葺上げ」は 屋根を仕上げることです。
(2)ID 6869 露店
石敷の参道の左右に露店が連なっています。参道の奥の仮設拝殿の屋根の下に参拝者が並んでいます。参道の左右に狛犬。右の台座は「改代町」と読むのは、ID 389と同じです。
右の狛犬の背には鉄製の天水桶が見えます。また、左の狛犬のやや左上に石碑がありそうで、茂みから頭をのぞかせています。昭忠碑と同時期にあった少し低い石碑かもしれません。
写真の右端に小さな鳥居があり、参道が分かれています。その先には出世稲荷神社があります。
露店では香具師がさまざまなものを売っています。右手前の黒い服の人は風船、その次の白い服の人はおそらく菓子、その次は千歳飴の屋台です。さら奥に見える壺は甘酒売りでしょうか。左手前は刀や人形などのおもちゃを並べ、奥にも露店が続きます。風船の影はまるで「日の丸」のようです。
参道には親子連れなどが行き交い、振袖と髪飾りをつけた女の子もいます。
左奥は木造の簡素な民家が並びます。その前の枯れたような木は「巨大なやけぼっくいになった大銀杏」でしょうか。さらに左に行けば赤城下町へ下る北参道の階段があるはずですが、この写真には写っていません。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。
(1)赤城神社拝殿
ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、入母屋造風で破風が正面を向いています。これは権現造と呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒が左三つ巴()の賽銭箱に向かって垂れています(図)。表柱(向拝柱)は4本見え、回廊の欄干には擬宝珠の飾りがあります。
狛犬は一対で、その台座に改代町の銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。
(2)神門と鳥居
門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号標(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居の礎石の「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。
(3)赤城神社の遠景
さらに赤城神社から遠くなります。左から。
住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8255, 8258, 8259, 8260, 8290, 14156, 14157は筑土八幡神社境内の写真です。撮影は昭和44年ごろ。
1枚ずつ見ていきます。最初はID 8255です。
左手には神輿を格納する神輿庫。その奥の囲いは純米大吟醸「白鷹」の積み樽です。白鷹は灘の蔵元の清酒ですが、明治19年、神楽坂の酒問屋・升本総本店の店主、升本喜兵衛に見出され、神楽坂の料亭などで広く販売しました。
左奥に駐車車両2台。表参道は石の階段ですが、左手の裏参道では車が通行可能です。
正面は玉垣と拝殿。玉垣の石柱には寄進者の名前が刻まれています。玉垣の内に狛犬が一対。拝殿は昭和20年の戦災で焼失し、しかし、昭和38年、氏子の浄財で再建されました。また神前幕で前を覆われています。
右には筑土会館。会合のための施設です。手前に自動車があり、その前に注連縄をかけた銀杏の樹。銀杏の根本には百度参りをする時に標識する百度石。
右端は手水鉢。現在は手水舎が建っていますが、この時はなかったようです。
一番手前は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。古札は初詣の参拝者が納めることが多いので、正月明けの撮影でしょうか。
続いてID 8258です。
左手前から拝殿と筑土会館を狙っています。拡大すると玉垣に書かれた寄進者もよく読めます。寄進額の多い角柱は「氏子総代 牧田甚ー」「崇敬会会長 升本喜兵衛」。その他の太い柱は「筑土自治会」「新小川町自治会」「飯田橋自治会」と読めます。
左右の柱に竹を1本ずつくくりつけてあるのは門松の一種でしょう。
田口氏「歩いて見ました東京の街」 05-00-10-2 筑土八幡社殿の遠景 (1968-07-13)では、この玉垣はありません。撮影はそれ以降で、おそらく昭和44年(1969年)1月でしょう。
次のID 8259は、玉垣のすぐ手前から右側の狛犬(阿形)をアップで撮影しています。
狛犬は1810(文化7)年に奉納されました。台石には「津久戸」と「奉」が刻まれています。写真には見えませんが、対になる左側の吽形の台石は「津久戸」と「納」です。門柱では「崇敬会々長 升本喜兵衛」。「崇敬」とは神仏や立派な人などをあがめること。
ID 8260ではやや引いて、参道から境内の右側を見ています。
左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まい。銀杏の木の向こう、白い雨戸が閉じているのが神楽を奏する神楽殿。神楽殿の手前は境内社の宮比神社と鳥居。銀杏の根元の百度石と庚申塔。庚申塔は現在は銀杏に向かって右側に移されました。屋根のない手水鉢には白銀町と掘ってあります。一番右は古札などの「お焚き上げ」用ドラム缶。
ID 8297はID 8260の左側に寄った写真です。
左端が筑土会館。その右は社務所か神職の住まいで、御守りの言葉「一陽来復/〇〇〇」が見える。その右に伝言板。竹2本と切った木々と葉。黒い壁と民家があり、白い壁の神楽殿。庚申塔と鳥居があり、その前に注連縄がある御神木と、葉がない木々。
次はID 14156とID 14157です。
手水舎の裏に御供水が見えます。「ごくうすい」「おこうすい」と読むようです。御供水とは神仏に供える水のこと。八角形の石とフタからできていて、新宿文化観光資源案内サイトでは天保5年(1834)8月に奉納されたのこと。
ID 14157の陰刻とは文字や模様をくぼませた彫り方。ID 14157の真ん中に「川喜田新右ェ門」という陰刻があります。また文政10年(1827年)に提出した「牛込町方書上」では神楽坂5丁目と6丁目の間に川喜田屋横丁があって「川喜田屋久右ェ門」がそこに住んでいたといいます。この2件は7年しか離れていないし、2人はなにか関係があれば面白いと思います。また、ほかの氏名でも「〇〇屋」が多く、奉納する人は商人が多かったことがわかります。
最後はID 8290です。
参道の石段を登り切ると、最初に左側にこの「田村虎藏先生をたたえる碑」があります。昭和40年12月に設置したものです。
この碑には他に「まさかりかついで きんたろう」の「金太郎」五線譜、「1965 田村先生顕彰委員会」があります。顕彰とは「隠れた善行や功績などを広く知らせ、表彰すること」。碑文は「田村先生(1873~1943)は鳥取県に生れ東京音楽学校卒業後高師附属に奉職 言文一致の唱歌を創始し多くの名曲を残され また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました」。視学とは、旧制度の地方教育行政官。学事の視察や教育指導に当たること。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14124と14125は、若宮公園(若宮八幡神社と境内)の写真を撮ったものです。写真と撮った年月日は「昭和44年頃か」と書かれています。
以下について地元の人は……
同時期の昭和44年秋に若宮八幡神社を撮ったID 8245~ID 8252があります。全体の雰囲気はよく似ていますが、以下の点が違います。 ・陽差しが違う。ID 14124-25は曇天らしく影がない。 ・稲荷社の神前幕、内陣を仕切る木柵、三宝の供物や御幣などが細かく違う。 これから撮影時期は異なると推測できます。 ID 14124 写真の正面左は流造の拝殿。左はおそらく松の木で、右は裸木。左に見える「自動車 駐車禁止」の看板は道路を挟んで向こう側の家のブロック塀にあるもの。つまり神社と公園には塀も柵もない。写真の右手前にはブランコ、奥にすべり台。数人の子どもが冬服を着ている。中央に1本の屋外灯があり、ランプは下がやや狭い直円錐で丸い傘がある。 |
ID 14125 左にブランコとすべり台。正面には摂社の「正1位稲荷大神」の稲荷神社。奥に丸紅(株)若宮寮。右側に社務所。針葉樹と広葉樹が混ざっている。 |
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で若宮八幡神社(若宮公園)のID 13987、ID 13988、ID 13990を見ましょう。撮影時期は1961年(昭和36年)の秋です。
8年後の1969年(昭和44年)秋のID 8248と比較します。正面に流造(ながれづくり)の簡素な拝殿、狛犬と石灯籠が左右に1対ずつ。3列の敷石の参道。向かって右には笠をかぶった境内灯と、滑り台とブランコの遊具。敷地の奥には丸紅(株)若宮寮など、ほとんど同じです。
昭和36年の場合は、区の「若宮児童遊園」の看板が右側の狛犬の向こうにあること。参道の左右に柳らしい木が見えますが、8年後にはなくなっていて別の木が大きく育っています。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で若宮八幡神社(若宮公園)のID 8245~ID 8252を見ましょう。撮影時期は1969年(昭和44年)の秋。なお、多くのことを教えて下さった地元の方に感謝します。
➀ 手前の西の参道の右に看板「公園入口 児童多し/駐車をしないで下さい/牛込警察署」。門柱に「若宮町」と「氏子中」。境内に入って右脇に手押しポンプと水盤。さらに右は「牛込神楽坂若宮町小史」によれば銀杏の切り株。左に木標「神楽坂若宮八幡神社」。その左に新たな屋外灯。手水舎はこの写真では確認できないが、1974年(昭和49年)の雑誌「ミスターダンディー」の写真によれば西参道の左側にあったよう。 境内の向こう側、突き当たりの東の参道に鳥居。脇に神輿倉と思われる町会の倉庫「神楽坂2丁目/町會倉庫」。狛犬2頭の間に「犬を砂場に入れぬこと」の杭が見える。 氏子中 うじこじゅう。 同じ氏神をまつる人々。氏子一同。氏子の仲間。 |
➁ 看板「児童遊園地あり/神社周辺に駐車を禁ず/牛込警察署」。新宿区役所の掲示板(めくれているポスター)「〇期(月?)間/44年11月1日より11月30日」「たくましく/心とからだを/きたえよう!」「誘かいから/子どもを/守ろう」「みんなそろって/ねずみ(駆除)/11月27日から12月3日まで/新宿区役所」「自衛官募集」など。 |
➂ 戦後に再建された拝殿を正面から写真。いわゆる流造(ながれづくり)で、石灯籠や狛犬に比べると簡素で小ぶり。拝殿の右隣には稲荷神社。石灯籠の手前に大きな一対の礎石があり、かつての鳥居の跡とも。看板には「新宿区/若宮児童遊園」。その上に「燈」と「籠」。奥に拝殿。右には児童遊園(ブランコと滑り台)。奥には丸紅(株)若宮寮。
拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。 |
➃ 中央に狛犬、児童遊園としてはブランコと滑り台、右奥に会社員3人。1人はコートを着用、1人は読書中。狛犬では阿形と吽形のどちらかを出す。阿吽の初めにある阿(口を開いて出す音声)と終わりにある吽(口を閉じて出す音声)があり、密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴する。阿形は口を開いた音を出す 。 |
➄ 中央に別の狛犬。吽形は口を閉じた音を出す。右に手押しポンプと水盤。左に石灯籠。 |
➅ 拝殿の左にある「正1位稲荷大神」の稲荷神社。手前に滑り台。奥に丸紅(株)若宮寮。 |
➆ 東の参道に鳥居。柱に「奉」と「献」。門柱に「神楽一」と「氏子中」。「みちはばがなく曲りかど/軽自動車以外通行できません/牛込警察署」。右にベンチとブランコ。左は雲梯とシーソー、箱型ブランコ、砂場。中央に屋外灯。 |
では地元の方の発言から……
江戸期の絵図や明治期の写真に比べて、衰微している様子がうかがえます。境内は石段が組まれて周囲の道より高くなっていますが、これは明治期のものがそのまま残ったものでしょう。 石組みの上に何本かの石柱を立てていますが、塀や柵はありません。参道は東・西・南にあり、鳥居を備えるのはID 8246の向こう側に見える東側のみです。 境内のかなりの部分を区の児童公園として貸しており、遊具やベンチが見えます。屋外照明も、おそらく公園の施設として整備したものてしょう。 |
明治期の写真 右側に若宮八幡神社が見えます。(若宮小路「新撰東京名所図会」第42編)
社殿はその後、明治期に似たデザインに建て替えられ、鳥居や狛犬、石灯籠、石標を一新しました。
現在の鳥居には「建立 平成10年12月吉日」とあります。 また現在の拝殿の右手前には「長㐂火防稲荷神社」があり、これはID 8251の稲荷社の再建でしょう。 左の階段脇には防火井戸があり、これはID 8246の手押しポンプのなごりと思われます。 防火井戸の隣に使われなくなった石盥盤が残っており、享保14年の字が掘ってあることが確認できます。「牛込神楽坂若宮町小史」によれば建て直し前の手水鉢であったとのことです。 |
石盥盤の読み方は「せっかんばん」「せつかんばん」「いしたらいばん」などで、手を洗い身を清めること。
若宮会「牛込神楽坂若宮町小史」(若宮会、1997年)では
文治5年(1189年)に建立された若宮八幡宮は、文明年間(1469年~1489年)に太田道灌が江戸城鎮護のため、当社を再興し社殿を江戸城に相対して築きました。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。 明治2年(1869年)の神仏混合禁止令により若宮八幡神社となりました。 境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木がありました。関東大震災(大正12年・1923年9月1日)で黒塀は倒壊し、楠と銀杏は昭和20年5月25日(1945年)の東京大空襲により社殿とともにすべて焼失しましたが、御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)に拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。 のちに神楽坂2、3丁目が編入され神社名も「神楽坂若宮八幡神社」と変更されました。 |