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神楽坂2丁目(写真)お祭り 大正10年頃

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「新宿風景Ⅱ」(2019年)の「44 神楽坂地域のお祭り 大正10年(1921)頃」で、この写真は博物館のものではなく、個人のものです。

神楽坂地域のお祭り 大正10年頃

 神輿を大勢でかついでいます。地面は砂利で、写真右奥に向かってゆるやかに上り坂のようです。
 この場所を特定する手がかりがいくつかあります。ひとつは店の前に立っている柱です。

 まず[B]は街灯で、角柱から丸い灯りが2つ突き出し、柱の上には擬宝珠のような飾りもあります。これは大正12年の神楽坂通りの[C]と同じものでしょう。
 [A]は2色塗りで背が低く、一軒に1つずつあるようです。おそらく催事の提灯かぼんぼりを掲げるための仮設のもので、類似のものは昭和10年の写真(「東京市内商店街ニ関スル調査」昭和11年)にあります。
 もうひとつの手がかりは店の看板です。神輿の一番上の鳳凰に隠れた看板は、なんとか「高等製靴舗 ◯崎屋」と読めます。現在もあるオザキヤ靴店(休店中)と思われます。
 以上から、神楽坂2丁目の坂下付近の撮影とみていいでしょう。
 もう少し写真を詳しく見ます。神輿の担ぎ棒は前後に長く、左右がないのは裏道を練り歩くのに適した形にしたのでしょう。
 神輿をかつぐ人の印半纏は、いくつかの種類が混じっています。かぶり物もハチマキ、ほおかむり、カンカン帽など統一されていません。恐らく複数の町会の混成部隊です。
 背中に「五」の字がいくつか見えます。この時代は神楽町1-3丁目までしかないので、近隣の東五軒町、西五軒町の町会かも知れません。ただし牛込町誌第1巻(大正10)によれば、当時1丁目は若宮八幡神社、2-3丁目は市ヶ谷八幡神社の氏子で、五軒町の属する筑土八幡神社とは異なっていました。
 もうひとつ、牛込町誌第1巻「若宮町之部」に興味深い記事があります。

神輿の新調 当神社(注・若宮八幡)は従来、神輿の設なかりしを遺憾とし、大正九年八月町内氏子有志は…拠金を得てこれを新調せり。大正十年より神輿渡御のことあり

 この写真が、若宮町の町内会の新たな神輿を撮影したと考えると、とても楽しいでしょう。若宮町は、わずかですが第2次大戦で焼けなかった地域があり、貴重な写真が残ったのかもしれません。

神楽坂2丁目(大正10年頃)
  1. 「芳屋」「や」「切手折詰調進」「(味)の素」(お椀形のマーク)
  2. 「新型」「高等製靴舗」「◯崎屋」「靴 崎屋」(尾崎屋)
  3. (一軒)
  4. 「砂」(砂糖屋)

新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」昭和45年

飯田橋交差点(写真)信号機 昭和28年 ID 13030

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030は、昭和28年(1953年)、飯田橋交差点(当時は下宮比町交差点)から東南から西北を、つまりしも宮比みやび町を見た写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13030 飯田橋交差点

 新宿未来創造財団の「新宿風景Ⅱ」(新宿区立新宿歴史博物館、平成31年)では……

120 飯田橋交差点 昭和28年(1953)
左手奥が大久保通りで、かすかに津久戸小学校が見える。左手建物の屋上に見える丸い建物は、東京厚生年金病院。

 交差点は五叉路(東西に目白通り、南北に外堀通り、大久保通り)ですが、見えているのは左奥に坂を上る大久保通りだけ。左に立つ電柱の右側に隠れるような黒い影が、説明文にある津久戸小学校の校舎です。
 中央の縦に並んだ信号機は交差点の中の土台の上に立っています。信号機の背面板と土台は注意喚起のゼブラ柄。「自動交通信号機設置記念」の看板は緑門のように青葉で囲まれているようです。読めない文字は自治体名か警察署名でしょう。
 同時期のID 23(昭和27年頃)では、隣接する牛込見附交差点(現・神楽坂下交差点)に信号機が見えません。都内の信号機の多くは戦災で失われました。それが復旧した記念の写真と思われます。
 しかし、もう一つ重要な意味があります。戦後、この交差点はロータリー交差点に変わったのです。しかし、「朝夕のラッシュ時には車のこう水になり、ひどいときには500台ぐらいが五つの道にひしめいて歩行者も命がけで横断する」(読売新聞、昭和28年12月1日)状態になったのです。ロータリーをやめ、代わりに普通の五叉路に戻って、それが完成したのがこの写真でした。細かくはロータリーの廃止を見てください。
 右上に煙突が2本。手前は「工場」、その奥は「クリーニング」です。この一帯は牛込台地から見ると川沿いの低地です。通りに面して店が並んでいますが、裏に回ると工場や倉庫が多く立地していました。
 大久保通りをバスが何台か下ってきています。交差点に近い黒バスは分かりませんが、少し後ろは都バスと思われます。富士TR014X-2のようです。
 飯田橋交差点は都電3系統が交わる交通の要でした。路面電車は写っていませんが、空中には縦横に架線が渡っています。車道と歩道の間はガードレールではなく歩車道分離柵でした。
 正面のひときわ偉容を放つのは東京厚生年金病院です。昭和27年10月に開設、11月に診療開始。南棟を増設し、昭和28年に完成しました。5階建てで、屋上の丸い建物の下はぐるぐる回るらせん階段でした。35年後の昭和62年に建て替えのため南棟を解体し、平成10年に東棟を解体して旧館の取り壊しが終了。平成26年、東京新宿メディカルセンターに改称。

 以下、左から右に。

    大久保通り手前側

  1. 質王 陣屋 質と金融
  2. 立て看板「横断(歩道)/見」
    大久保通り向こう側

  1. 大野屋武道具店
  2. 第一銀行(現・みずほ銀行飯田橋支店)
  3. や〇處
  4. 〇マニ(ヤマニ飲食店?)
  5. 不明
  6. 建屋越しの看板「旅館タカラ」(多加良)
  7. 不明、2階窓に干し物
  8. 電柱広告「たから」(多加良)
  9. 不明
  10. 山口のパン
  11. 飯田橋ビヤホール 中華料理 キリン
  12. パーマネント (L)ady
  13. 森永キャラメル づぼ屋

下宮比町。人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

豊来亭?|大正時代

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「新宿風景Ⅱ」(新宿歴史博物館、平成31年)に「関東大震災前の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」と「震災後の神楽坂の西洋料理店・豊来亭」がでています。個人が提供したものです。なお、関東大震災は大正12年9月に起こりました。

 これについて地元の方は……

「豊来亭」の名は「神楽坂通りの図。古老の記憶による震災前の形」をはじめ各種資料では見かけません。また、この写真では場所を特定できません。ただ26の右ののれんの上の横書き看板は、無理に読むと「洋食屋/豊来亭」のようにも見えます。

 国立国会図書館デジタルコレクションで公開している「職業別電話名簿 東京・横浜」の大正11年版で調べてみました。西洋料理業の項に「寶来軒」があります。新字体なら「宝来軒」ですが、旧字の「寶」は「豊」と誤読しやすいです。

職業別電話名簿 東京・横浜。大正11年

 この店の所在地は「牛、矢来26」-すなわち牛込区矢来町26番地です。現在の地下鉄神楽坂駅あたりですが、ここに「寶来軒」がありました。ただし大正11年の地図では、このあたりは非常に細かく区画されていて、26番地は角地でもないようです。複数の区画に建つ人気店だったかも知れません。

東京市牛込区。大正11年。(地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会)ただし


 では27はどうでしょうか。

「震災後に再建した店の様子」と説明がありますが、そもそも神楽坂は関東大震災では被災せず、それが戦前の繁栄につながりました。
 26が左右に出入り口を持つ角店なのに対して、27は間口が狭く、同じ場所には見えません。27の店名看板は「西洋料理 御〇」「御国洋食部」、正面電柱の左側の看板も「御国洋食部」と読めます。
 さらに店名の左右には「電話本所 五九九一番」と書いてあります。つまり27は本所区(現・墨田区)にあった洋食店で、神楽坂ではありません。本所は関東大震災で大きな被害を受けた地区なので「再建」もしっくりきます。
 なぜ、これらの写真が「豊来亭」になったのでしょう。実は職業別電話名簿の「寶来軒」の隣に「寶来亭」が掲載されています。所在地は「本所、中ノ郷八軒23」-本所区中ノ郷八軒町23番です。
「寶来軒」と「寶来亭」の間にのれん分けなどの関係があったのか、「寶来軒」の料理人が震災後に「御国洋食部」に転職したのか。それとも単純ミスか。真相は分かりません。
 なお関東大震災後の「職業別電話名簿」大正15年版にも「寶来軒」「寶来亭」は両方とも掲載されています。

 矢来町26番地について。昭和初期に矢来町だけが番地の分配や再分配を行いました。もともとは明治35年の「夜の矢来」の訳では「君はどちらから来たのですかと他人に問われて、矢来ですと答えると、その人が二の句を発し、矢來は広い所ですねえと必ずいう。でも、そんなに広い所ではないのです。ただ本鄕の西片町と同様で、一か所、番地のなかは中々広い、家が数百ケ戸もある番地があります」。つまり、旧酒井若狭守の下屋敷です。
 明治時代には下屋敷は巨大で過疎地域になり、逆に庶民は小さな平屋に住んでいました。昭和12年になると、この庶民の町は小さな家屋や店舗が一杯に並んだ地域となり、新しい番地が告示され、下の地図も登場します。矢来町26番地はおそらく矢来町126番地になったのでしょう。しかし厳密にいえば、矢来町26番地はどこにあったのか分からない時代になります。しかし、写真26はどう見ても26番地とは違うと感じます。

矢来町。都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和12年