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わが青春の記|長田幹彦

文学と神楽坂

 長田幹彦全集別巻にある「わが青春の記」(中央公論、昭和11年)です。氏がこれを書いたのは49歳。「スバル」の発行は22歳、明治42年です。ある出版社では、ボツになった氏の原稿をトイレットペーパーとして使用したという話です。

 新詩社しんししゃは中堅詩人の脱退によつて、それから間もなく崩壊してしまつた。それは與謝野氏の力が足りなかつたゝめでも何んでもない。時代は刻々こく/\轉換てんくわんして、詩そのものが既に貧困時代に入つてきたためであつた。
 脱退組はそれから辯護士だつた平出修氏の盡力じんりよくによつて、森鷗外先生を盟主にあをいで、「スバル」を發行はつかうし、それを牙城がじやうとして、更に一段の躍進をげた。僕も今度こそは出直でなほして、いよいよ小説を書かうと思ひ立ち、一生懸命になつて、「うみまち」といふものを仕上げた。明星時代と違つて、今度は僕もいくらか認めてもらへるだらうと自惚うぬぼれて、その「海邉の街」を「スバル」へもつていくと、これは編輯へんしふ委貫の吉井よしゐ君の手にひつかゝつてまんまと没書ぼつしよになつてしまつた。あんまり腹が立つたから、後年新進作家になつてから、そのまゝそつくり「太陽」へ出してやつた。これは相當さうとう評判のよかつた作品であつた。
 もうひとつほかに「へびつかひ」といふものをかいて某誌へ持ち込んだが、この作品位悲慘な最期をとげたものはない。持ち込んでから三つきたつても、四つきたつても、うんだともつぶれたともいつて來ないので、おそる恐る催促にいつてみると、編輯當事者とうじしやは、そんな原稿は受け取つた覺えはないと、劍もほろゝな挨拶である。そこで仕方がなしに、すごすご歸つてきたが、その時便所をかりくなつたので、その店の便所へ入つてみると、どうだらう、僕がずにかいた作品が無慘にも四ツりにされて尻を拭く紙になつてゐるではないか。僕はこゑをあげて號泣がうきふしたいほど無名作家のなさけなさを感じて、全くほねきざまれるやうな思ひがした。で、殘つてゐる分を切り取つてもつてかへり、そのまゝ今でも保存してゐるが、心のゆるむ時には、それを取出して今だに發奮はつぷんよすがとしてゐるのである。尤もその時分は改良半紙手刷でずけいをおいた原稿用紙だつたから、尻を拭くにはもつて來いだつたかも知れない。
 それから何年かの後、僕がいよ/\新進作家としてはなやかに文壇にデビユーすると、その雜誌からもむろんれいあつうして原稿を依賴してきたので、それに似た作品をかいて、一枚きん圓也えんなりで賣つてやつた。無名作家と有名作家の對照たいせうはかくの如くに浮世の裏表うらおもてである。滿天下まんてんかの無名作家諸氏よ、原稿がぼつをくつたとて、ゆめいかたまふな。今は西洋紙の原稿用紙であるから諸君の鏤心るしんてうたく、、の名作品が、尻を拭く紙にされないだけでもまだしもである。

新詩社 詩歌の団体で、与謝野鉄幹が1899年11月に創立、翌年4月に機関誌『明星』を創刊。浪漫主義運動の一大勢力でした。
転換 別のものに変える。特に、傾向・方針などを違った方向に変える。
尽力 ある事をなすために、力をつくすこと。努力すること。ほねおり。
スバル 1909年から1913年まで発刊。創刊号の発行人は石川啄木。他に木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載。スバル派と呼ばれた。
牙城 城中で主将のいる所。本丸。組織や勢力の中心となる所。本拠。
明星 詩歌雑誌。与謝野鉄幹主宰の新詩社の機関誌。明治33年(1900)4月創刊、明治41年(1908)11月廃刊。
没書 新聞・雑誌などに送った原稿が採用されないでしまうこと。没。
太陽 月刊総合雑誌。博文館発行。1895年1月―1928年2月。臨時増刊号86冊を含め全531冊。日清戦争時の国威高揚に呼応し、刊行中の雑誌を統合して創刊。
けんもほろろ 「けん」と「ほろろ」はきじの鳴き声。人の頼み事や相談事などを無愛想に拒絶するさま。取りつくしまもないさま。
夜の目も寝ない よのめもねない。一晩じゅう眠らない。
号泣 大声をあげて泣き叫ぶこと。
発奮 気持ちをふるい起こすこと。
よすが 物事をするのに、たよりとなること。よりどころ。てがかり。
改良半紙 駿河半紙を漂白して作った半紙。明治以降、水酸化ナトリウムの煮熟、さらし粉の漂白で、すぐれた半紙がつくられるようになり、改良半紙とよんだ。
手刷り 木版などを1枚1枚手で刷ること。軽便な印刷機を手で動かして印刷すること。
 文字をそろえて書くために、紙上に一定の間隔で引いた線。罫線。
裏表 物の表面と裏面。表面と内情。
満天下 天下全体。国中。世界中。
鏤心彫たく るしんちょうたく。非常に苦心して詩文などを作り上げること。鏤はちりばめる。鏤めるとは、金銀・宝石などを一面に散らすようにはめこむ。比喩的に、文章のところどころに美しい言葉などを交える。彫心鏤骨とは、ちょうしんるこつ、心に彫りつけ骨に刻み込む。彫琢は、ちょうたく、宝石などを加工研磨すること。

長田幹彦の『文豪の素顔』|有島武郎②

有島武郎氏


「あの、僕は、あなたを知つてゐるんですよ。あなた與謝野さんの新詩社のメンバーでせう。『明星』にかいとられたですね。」
と、あんまり好意をもつてゐない、眼の輝きである。
 僕は相手が誰れだか一向に見当がつかないので、もじもじしてゐると、
「僕はね、ここの農大の教師をしてゐるんですが、毎月一回か二回、ここで文学の研究会をやつてゐるんですよ。かう雪が深くなると寂しいもんですからね。」
「さうですか。道理でホイットマンが……」といひかけると、先生は眼だけで笑つて、
「長田さんはどんな詩をお好きなんですか。」
 僕が新詩社のメンバーなら、大がい傾向は知れてゐるだらうに、わざと冷評かすやうにいふのが、かちんときた。今更ベルレーヌなどといふのを業腹なので、僕はいつもの臍曲りを発揮して、
「さあ、僕は口ングフェローがすきですね。」と、そつぽをむくと、先生はこいつといふやうな皮肉な笑ひかたをして、
「たとへば、ロングフェローのどんな詩ですか。」
 僕は言下に、
「僕はルーシー・グレイが一番好きです。アンデルセンの「リットル・マッチ・ガール」みたいに、深い雪のなかでルーシーが凍え死ぬところはいいですね。北海道へきてから、この雪をみて、一層感じが深いです。」
 先生は口鬚をふるはしながら、
「はゝゝゝッ、あなたは、さういふ観方で北海道をみとられるんですか。はゝゝ。」といかにも甘いなといふやうな露骨な軽蔑である。
 僕もその前々年に一度札幌へやつてきて親友の穂積貞三(穂積重遠氏の弟)と二人で、ひと夏農学校の農場で、あの輓馬つきのモウナークローバー刈りをやつた経験があるので、北海道の自然と生産の問題ぐらゐは些少なりと心得てゐた。僕は、しかし、そんなことはおくびにもだしたくなかつた。
 先生は本を包んだ風呂敷包みを小脇にかかへながら、せかせかして、
「長田さん、僕は、実はあなたのゐる家の先隣のT教授の家に仮寓してゐるんですがね。あなたがみえてから、Tの家ぢや非常によろこんでゐるんですよ。あなたが夜おそくまで電燈をつけてかいてをられるでせう。だから物騒でなくて、ほんとにいい。細君なんか安心して寝られるつていつてるんです。あなたは三条界隈じや有名ですよ、はゝゝゝ。」さういひながら先生は帽子をかぶつて、それなり外へ出ていつてしまつた。

明星 明治33(1900)年、新詩社は機関誌「明星」を創刊
冷評かす おそらく「ひやかす」でしょう。「冷やかす」。冷淡な態度で批評すること。
業腹 非常に腹が立つこと。しゃくにさわること
臍曲り へそまがり。ひねくれていて素直でないことや人。偏屈。
ロングフェロー ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー。Henry Wadsworth Longfellow。1807年―1882年。米国の詩人。ヨーロッパ文学をアメリカに紹介し、教授詩人として並々ならぬ名声を確立した。
ルーシー・グレイ Lucy Gray。全文はここに
アンデルセン デンマークの童話作家・小説家・詩人。Hans Christian Andersen。1805年―1875年。小説「即興詩人」「絵のない絵本」、童話「親指姫」「マッチ売りの少女」などで世界的に有名。
リットル・マッチ・ガール マッチ売りの少女。アンデルセンの童話。1848年発表。大みそかの夜、貧しいマッチ売りの少女が寒さに耐えかねてマッチを擦ると、さまざまな美しい幻が現れる。最後に亡き祖母が現れ、少女を天国へと導く。
穂積重遠 ほづみしげとお。民法学者。穂積陳重のぶしげの子供。東京大学教授、貴族院議員、最高裁判所判事を歴任。生年は明治16年4月11日。没年は昭和26年7月29日。享年は満68歳。
輓馬 ばんば。車やそりを引かせる馬。
モウナー mower。草刈り機、芝刈り機
クローバー シロツメクサの別名。右図を。
仮寓 一時的に住むこと。その家。かりずまい
それなり その状態のまま。そのまま。それきり。

 長田氏はむかむかしますが、宿に戻っています。

「ねえ、小林さん。この先隣りにTつて家ありますか。」と、たうとう口をきつた。主人には黙つてゐようと思つてゐたが、ついやつぱりさつきのことがむしやくしや胸につかへてたらしい。
「え、Tつて、大学の先生のお宅でせう。ありますとも。」
「そこから、僕のかりてゐるこの部屋の灯がめえますかね。」
「そりや夜になりやめえるでせう。尢もかう雪が深くなつちやむりですかな。どうしてですか。」
「いや、別に何んでもないんだが……そのTさんの家には、大学の先生たちが合宿でもしてるんですかね。」
「べつに合宿じやないですがね。ひとりやつぱり若い先生が同居してゐますよ。何んでも東京の大金持の息子さんとかで、長いことヨーロッパやアメリカへ留学してた方で、よく出来る先生なんださうですよ。あなたと同じやうにやつぱり文学をなさる方ださうです。」
「何んていふ名前ですか。」
有島武郎。武郎とかいて、タケオとよむんださうです。」
 僕はそんな名の作家や評論家は一人もしらなかつた。一躰どこの馬の骨なんだらう。じゃきつと奴さんも我々同様、やつぱり文学青年の三下奴なんだな、と、僕はすつかり気をよくしてしまつた。文学青年だけがもつあの一種の反撥である。
「その有島つてのは、大学で何を教へてゐるんですか。」
「私もよくは知りませんが、なんでも予科で英語と、倫理を教へてゐるらしいですね。英語がよく読めるんで、小説でも何んでもペラペラなんださうです。」
「さうですか、倫理でも教へさうな、変に思ひあがつた男ですね。実は、さつきカギヤで逢つたんですよ。あなた、ひよつとしたら、私のことをTさんの家の人にでも話したことありませんか。」
 気のいい、小林さんは頭をかいて、てれたやうに笑ひながら、
「あります。実は、こないだあなたの為替をとりに郵便局へいつたでせう。あの時局でT先生の奥さんに出ッくはしちやつたんですよ。さうしたらね、奥さんがね、お宅じやこの頃、夜半の二時までも、三時までも電燈をつけていらつしやいますねつておつしやるから、私もつい口が滑つちやつて、実は東京からこれこれで、文士の方がみえてるんです。夜どほしかきものをなさるんでつて、うつかりしやべつちやつたんですよ。実はこの為替も、原稿料らしいんで……」と、小林さんはむしろ得意さうな顔つきである。

小林 宿の主人です
三下奴 さんしたやっこ。博打打ちの仲間で、最も下位の者。三下。
夜どほし よどおし。夜通し。夜の間ずうっとすること。一晩中。

石川啄木|砂土原町

文学と神楽坂


石川啄木

 石川(たくぼく)は明治19年2月20日、岩手県に生まれました。東京には5回上京しています。
 最初の上京は明治32年(13歳)夏。上野駅勤務の義兄を頼っての上京です。上野の杜と品川の海を見て帰ります。
 2回目の上京は明治35年(16歳)。10月、「明星」に歌1首が載り、そこで10月31日、盛岡中学を中退し、上野行きの列車に乗りました。11月1日、東京に着き、2回目の上京で、1回目の長期の上京です。小石川区小日向台町に住み、新詩社に出ていますが、何せ金はなく、翌36年1月『下宿を着のみのままで逐出され』、神田錦町の見も知らぬ佐山という人の安下宿に入り、紋付きを質屋に入れたりして金を作り、一膳飯屋で1日に1度か2度食いつないでいました。年が明け、2月、病気になり、郷里から来た父と一緒に帰郷します。
 3回目の上京は明治37年10月31日(18歳)。2回目の長期の上京です。向ヶ岡弥生町三に止宿。元気はいっぱい、屈託はなく、勝ち気で、明るく、飄然として、木の妹光子の話によれば、ここでも「いつも大きな法螺を吹いて」いたようでした。
 11月8日、神田駿河台袋町八に転居、11月28日、牛込区砂土原(さどはら)町3丁目22、井田芳太郎方に転居。砂土原町3丁目22は現在「朝霞荘」になっています。

朝霞荘

 金田一京助全集の第13巻「石川啄木」(三省堂)では、

 12月の初めに(或は11月分の宿料が出ない為めに、屈託をしてではなかったとも思う)、『今度の日曜に、お逢いしたい、こんな所だから』と地図まで書いたハガキを貰ったようだった。それを片手に、小石川の砂土原町を尋ねて行った。坂を上った角が、埼玉学舎で、その隣の井田という家だった。
 玄関へ入った瞬間に、何か、私を待ちながら、その私の噂を、相宿の男へでもしていた様な石川君の声(と私は睨んだが)で、『文科大学生ですよ、ええ』というのが聞えて、すぐ沈黙した。女中に通されて、その室へ入ると、石川君は、床を敷いていて、その中から、立ち上って迎えてくれたのはよいが、袴をつけて紋付羽織を着たまま寝ていたもので、羽織は、くしゃくしゃ。それよりも驚いたのは、仙台平がもう、折目がすっかり無くなって、袋を穿()いているよう。恐らくは、寝ても起きても、どこへ行くにも、朝から晩まで、この袴をつけていたものでもあろうか、1ヶ月にしかならないのに、縞なりに、もう切れて、裾からは、ぼろが下がっていたのである。
 その云うことが、振っている。一々の言葉の端は覚えていないけれど、大体こういうことだった。
 感冒(かぜ)をひいて、寝てしまって、退屈でつまらないから、蟇口を出して、倒にして振って見たら、バラッと落ちたのは、全財産、大枚十銭五厘。女中を呼んで、これで、みんな葉書を買って来いと云いつけて、葉書を買ってもらって、みんなへ手紙を書いた。一枚余った葉書を、誰へ出そうと考えた。ムム大隈伯へ出して見ようと考えついて、
『あなたのような世界の大政治家と、私のような無名の(陋巷の?)一小詩人と、一堂に会してお話をして見たら、どんなに愉快でしょう』
と書いてやったという。
 私も、呀っとばかり、開いた口が塞らなかったが、この人にしては、有りそうなことだと、興味に釣られて、『そしたら?』と聞くと、『返事が来ましたよ』『え? 大隈さんから?』と私が驚くと、『大隈さんの字ではないんでしょう。自分で書かれないそうだから、やはり代筆でしょうけれど……』『何て云って来たの?』『面白い、兎に角逢おう、やって来い、と来ましたよ』『それでは行くの?』『だってもう、電車賃も無いんですもの』。
 先程からの話で、当然すぎる程、それは当然だった。『一文も無い、それァ困るなあ』と云いながら、私は蟇口を出して、畳の上へボロンボロンと揮って、月末の勘定の残りが3円なにがしがころころ転がったのを切半して帰って来た。
 前後、幾年、凡そ私が石川君に用立てた金は、どうやら此の様な行きさつで私の手から渡るもののようだった。

仙台平 せんだいひら。宮城県仙台市特産の絹の高級袴地「精好仙台平」の通称。
大隈伯 大隈重信。おおくま しげのぶ。政治家としては参議、大蔵卿、外務大臣、農商務大臣、内閣総理大臣、内務大臣、貴族院議員などを歴任し、早稲田大学の初代総長。

 この上京では長詩をたくさん作っています。詩人として名前は高くなりますが、生活は全くできない。3月10日、牛込区払方町25の大和館に転宿。5月10日、詩集『あこがれ』をだし、上田敏氏の序詩、与謝野氏の(ばつ)(後書き)。しかし、これが売れない。印税で家族を養うはずだったのに。金はなく、縁故もなく、スポンサーもパトロンもない。5月20日、帰郷の途に就きます。
 ここで牛込区砂土原町3丁目22と牛込区払方町25の場所を見ておきます。青で書いてある場所です。現在も変わっていません。牛込区払方町25についてはここに詳しく書いてあります。

啄木の場所

 なお、右の青の隣り、薄緑の場所は現在はマンション数棟ですが、以前は埼玉学生誘掖会埼玉寮でした。100人を超える寮生が生活していました。「誘掖」とは、導き助けるという意味だそうです。
 四回目の上京は明治39年6月。第2詩集を相談するため、また、父の問題で東京の宗務局に行きますが、宗務局の運動はだめ。よかったのは「俺だって書ける」と考えて帰ったこと。これが四回目の東京行きです。
 五回目は明治41年(22歳)。長期の上京としては三回目。北海道を離れ、4月28日、東京に到着。4月29日、金田一京助氏を訪ね、金田一氏の下宿に住んでいます。
 石川木と金田一京助の住所は文京区ですが、しかし(しん)()(しゃ)の友人、1歳上の北原白秋氏は北山伏町33番と神楽坂2丁目に住んでいました。木はここを訪れています。なお、新詩社とは明治32(1899)年、()()()鉄幹(てっかん)が設立した詩歌結社で、翌年、機関誌「明星」を創刊、多くの新人を育てましたが、41年に解体しています。

 明治41年7月27日 木の日記から。

 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍って、耳が-左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴ってゐた。
いろいろと話した。追放令一件も話した。小栗云々の事では、“それは考へ物でせう”と言ってゐた。成程考物だとも思つた。北原君は今、詩集の編輯中だが、矢張つまらぬといふ様な感じを抱いてるらしい。鮨なぞを御馳走になつて、少し涼しくなってから辞した。途中まで送って、神楽坂へ出るみちを教へてくれた。

 もうすこし駅に近い場所がよかったのでしょうか。北原白秋氏は物理学校のそばに転居します。

 明治41年10年29日 木の日記から。

 北原君の新居を訪ふ。吉井君が先に行ってゐた。二階の書斎の前に物理学校の白い建物。瓦斯がついて窓といふ窓が蒼白い。それはそれは気持のよい色だ。そして物理の講義の声が、琴の音や三味線と共に聞える。深井天川といふ人のことが主として話題に上った。吉井君がこの人から時計をかりて、まだ返さぬので怒ってるといふ。
 八時半辞して、平出君を訪ねたが、不在。帰ると几上に一葉のハガキ、粂井一雄君が今朝大学病院で死んだのを、並木君がその知らせのハガキを持って来てくれたのだ。
 一曰の談話につかれてゐてすぐ床についた。

 物理学校は現在の東京理科大学です。私立大学で本部は新宿区神楽坂1-3。北原氏は明治41年10月にここ神楽坂2丁目に転居し、一年後の明治42年10月、本郷動坂に転居します。北原氏はここで「物理学校裏」という詩をつくっています。

 また木は、相馬屋の原稿用紙を買っています。これから2か月半後の4月13日、死亡しました。

 明治45年1月30日。木27歳の日記から。

 夕飯が済んでから、私は非常な冒険を犯すやうな心で、俥にのって神楽坂の相馬屋まで原稿紙を買ひ出かけた。帰りがけに或本屋からクロポトキンの『ロシア文学』を二円五十銭で買つた。寒いには寒かつたが、別に何のこともなかった。
 本、紙、帳面、俥代すべてゞ恰度四円五十銭だけつかつた。いつも金のない日を送ってゐる者がタマに金を得て、なるべくそれを使ふまいとする心! それからまたそれに裏切る心! 私はかなしかつた。

ピョートル・アレクセイヴィチ・クロポトキン Пётр Алексе́евич Кропо́ткин (1842/12/9-1921/2/8)。ロシアの革命家、政治思想家、地理学者、社会学者、生物学者。近代アナキズムの発展に尽くした人物で、無政府共産主義を唱えた。

 これについては金田一京助氏は『啄木の美点』でこう書いています。

死ぬ直前、金も米もつきたところへ、朝日新聞社から編集長の好意の見舞金が届いた。何を買うかと思ったら、人力車に乗って神楽坂の本屋にいって本をあさり、結局、彼が人間性の可能の限界をきわめる最高の哲学だとするクロポトキンを買って帰った。この熱度、この真剣さ、妥協を拝する一本気と貧苦にめげない強気と、それに恩愛にすら束縛を感じ、童貞にも圧迫をおぼえる鋭い内省、ついに病の小康とともに天才主義から民衆主義へ、百八十度の転換を完成して、しばらくぶりに長詩ができた6月下旬、やはりしばらくぶりに、二人の間の久しい難問解決の喜びを分かちに来てくれたあの最後の訪問、恩讐(おんしゅう)をこえた、二人の交遊の総決算のような美しい訪問、啄木のこんな真実性に目をふさいで、伝記学者、地下の啄木にそれですむか。