日本分県地図地名総覧」タグアーカイブ

神楽坂仲通り(写真)昭和28年頃 ID 9509

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9509は、昭和20年代後半、神楽坂附近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9509 神楽坂付近

 道路は左側に行くと少し下っています。歩道はなく、家との間にL字の縁石はありますが側溝はなさそうです。街灯も見当たりません。白いエプロンの女性は半袖で、右側の家は黒塀です。ヒントは昭和20年代に撮影した「川田」です。では「川田」はどこにあったのでしょう。
 この時代、人文社「日本分県地図地名総覧」(東京都、昭和35年)を使って(簡単ではないですが)家や店舗を探求できます。調べると、3丁目の「旅館 川田」しか浮かんできませんでした。「旅館 川田」の下の道路は神楽坂仲通りで、左の道路は芸者新路です。

人文社。日本分県地図地名総覧。東京都。昭和35年

 
 では都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和27年)はどう書かれているのでしょうか。残念なことに当時は空地でした。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 では「左側に行くと少し下がって」いる、これはどうでしょう? 復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)は……

復興土地住宅協会著『東京都市計画図』(内山地図、昭和41年)

 赤の四角は「旅館 川田」で、青の直線は「神楽坂仲通り」です。「川田」は神楽坂仲通りという小さな山の頂上にありました。
 また黒塀については、神楽坂は「粋」な店舗と関係していました。写真の 黒塀は昭和27年、喜泉という芸妓置屋が持っていたものです。
 最後に現在の写真です。路地の向こう側の石垣はすっかりなくなり、ビルになっています。

2022/2/15

「旅館 川田」は「美空ひばりの育ての親」としても知られるコメディアンの川田晴久(川田義雄)の経営でした。しかし写真には何のキャプションも残されていません。撮影者は「新宿時物語」(2007年)掲載の柳家金語楼の家(正しくはお妾さんの家)と同様に、こっそり有名人ゆかりの場所を狙ったのかも知れません。

神楽坂1丁目(写真)昭和37年頃 ID 55と56

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 55と56は、昭和37年頃、神楽坂1丁目を牛込橋方向から撮ったものです。牛込橋の車道にセンターラインがあります。鈴蘭灯はなくなり、昭和36年から街灯は円盤形の大型のものに代わりました。この街灯は白く光るので蛍光灯です。寒いのか、外套を着る人もいます。遠くにキャバレー ムーンライトが見えています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 55 飯田橋駅付近より坂上方向

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 56 飯田橋駅付近より坂上方向

 新宿区『新宿区15年のあゆみ』(新宿区役所内務部総務課、1962年)も上げてみました。本は昭和37年3年に出版していますので、この写真は主に昭和37年2月以前に撮影しているのでしょう。

新宿区15年のあゆみ。昭和37年3月発行

 左側に大きな桜の木があり、裸木なので、冬です。また、下の田口重久氏の写真は昭和42年で、この時は桜の木そのものがなくなっています。この写真についてもう一度、別の場所で取り上げます。

05-14-37-1

田口重久氏「歩いて見ました東京の街」05-14-37-1 牛込見附から神楽坂下を 1967-02-08(昭和42年)

 さて、ID 55と56にまた戻り、メトロ映画の屋上の看板は「  ロ映画」ですが、メトロ映画の廃業は、 昭和41年(1966)ごろなので、まだまだ映画は健在です。
 昭和37年に「キャバレー ムーンライト」は人文社「日本分県地図地名総覧」では出ています。しかし、昭和37年版や昭和38年版の住宅協会「全住宅案内図帳」にはなく、昭和40年版では出ていますが、ただし「コーヒー ムーンライト」です。おそらく昭和36年か昭和37年に正しくでているのではないかと思っています。

ムーンライト 1965年 住宅協会

「厚切 とんかつ 森川」はこの頃神楽坂下から南東方向の5軒目でした。さらに最右端の官庁は警視庁第2機動捜査隊です。

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 29とID 5081

文学と神楽坂

 昭和27年頃に撮った新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で2枚の写真です。1つは新宿歴史博物館 ID 29で、解像度は921 x 733ピクセルです。

新宿歴史博物館 ID 29 神楽坂途中、2丁目付近

 これは次のような説明があります。

神楽坂2丁目(写真)昭和27年頃 ID 29
 最左端は「生花や」で、田口屋生花店です。隣には鰻の「志満金」、尾崎屋(靴店)、田金果物店、八食品、大島糸店と続きます。のぼり旗は「歳末大売り出し」で、良く見るとID 28でも確認できます。

 次は新宿歴史博物館 ID 5081です。本体の解像度は3286 x 2480ピクセルでしたが、WordPressでは最大の解像度は2560ピクセルだけです。

新宿歴史博物館 ID 5081

 これも新宿歴史博物館に次の説明があります。

昭和(戦後) / 昭和27年(1952)頃 創業明治2年(1869)の老舗うなぎ屋志満金の前。

 さて同じ新宿歴史博物館で、どうして解像度がこれほど違うのか、おそらく…と考える前に…
 もう一度、ID 5081を説明しましょう。左端は「花 田口屋」です。夜に光るネオンがあり、ID 29でも分かりにくいけれど、よく見るとあります。
 次が「志満金」。左側には「北京料理」があります。看板は「銘酒 白鷹 料理 志満金」「蒲焼」の2つ。街灯のポールには「コーヒー 〇 フジヤ」と書いてあります。
 次は尾崎屋で、靴屋です。靴の絵と「ライ  ム」があります、「アポロ〇〇〇」もあります。ここにも長靴のネオンがあります。
 次は名前がない2店舗で、都市製図社の火災保険特殊地図(昭和27年)によれば田金器物、八食品で、人文社の「日本分県地図地名総覧」(昭和35年)では「果実 田金」「食品 丸八」です。旗は「歳末大売り出し」ではなく、「全店 大売出し」でした。
 次は大島糸店。看板は「毛糸ボタン 洋裁〇〇〇」。電柱看板の「質 買入 大久保」があります。
 続いて「神楽 菓子」と「〇遠家具」と「夏目写真館」が続き、口中清涼剤「仁丹」は「神楽坂薬局」があるためでしょう。
 さらに電柱看板の「三池旅館」、増田屋の「牛豚肉」、「太陽堂」「セトモノ」の瀬戸物屋。
 最も遠い「千代田銀行」は、三菱銀行です(⇒)。ウィキペディアでは1948年(昭和23年)から 1953年(昭和28年)まで、「株式会社千代田銀行」と改称したといいます。今もほぼ同じ場所に三菱UFJ銀行があります。
 解像度の違いについて、地元の方は「連続して撮影したものと見ていいと思います。
 なぜ、かくも解像度が違うのか。ID 29は保存したプリントからスキャンした。ID 5081はネガが残っていた。その差でしょう。両者に決定的な違いはないと思います」といい、これには大賛成です。でもID 29のネガも残っているのではと思います。

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年